quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

キリスト教

キリスト教の究極の目的


キリストの教えの究極の目的は何だろうか?

ここでは出来るだけ約めて、なお部外の方にも分かりやすく述べる試みをしてみよう。


まず一言でキリスト教の目的を述べれば
人間の倫理上の欠陥を除去し、神の創造の当初に企図された状態に人間を復帰させる
即ち、創造者との関係を修復し、人相互にも隣人を見出し、創造の業が完遂されることである。
 そして、ここにキリスト教の優れた独自性を見出すことができるのである。神は人を支配し、平伏させることを望んでおらず、崇拝そのものでさえ、エデンの園の記録に見いだすことはない。創造の神が人に望むものは愛であり、その絆ですべてが結ばれることにある。

倫理上の問題を抱えた人間の現状と、その問題が如何に諸悪の根源であるのかについては⇒ 「アダムからの罪


いまこの瞬間にも不公正や不義が蔓延り、人々の利己的な欲がせめぎ合う世界、それが「この世」という人間社会の実像である。

我々は倫理上に重大な欠陥を抱えているため、互いに争い奪い合うばかりか、聖書によれば、創造者の企図から離れて神からも疎外されてしまっている。また、神との隔絶のために宗教も必要としている。 我々の誰もが、自分から存在するようになったわけではない。それで、人生の目的を問うのだが、宗教家であっても誰もが納得できるような普遍的正解は誰も持ち合わせていない。ただ、様々に答えと思われる事柄を陳列するばかりとなっている。創造者との間に断絶があるからであり、その答えを得るには、創造者との意思の疎通を必須とするのである。

明らかに我々人間には倫理上に問題があるので、日毎にこの欠陥のために重い苦難を多様に受けている現実がある。実際、人が受ける苦難の大半は、人間自身の悪に原因をもってはいないだろうか?

聖書が描写するように、人間は奪い続け、戦い続け、それでも充分には得るところがないので、なおも闘争を続けて来たが、既に地球環境も破壊してしまったようである。(ヤコブ4:1-3)


その人間の倫理欠陥を聖書では『罪』と呼ぶが、それは個人が犯す特定の悪行をほぼ意味しない。
人類社会の不道徳性や闘争性や利己性は全く隠しようもなく表れている。これが聖書中で『罪』と呼ばれるものである。

しかし、生まれたときからこの世界に住む我々には不道徳な人間の性質も当たり前のように見えるかもしれない。だが、この倫理上の欠陥こそが、まさしく人類に虚しい生涯と多大の苦しみをもたらし、神との関係をも破壊しているのである。(イザヤ59:2)


それゆえ『この世』の在り様は、神の意図した創造当初の規格からは相当に逸脱した混乱した虚しい人生の舞台となっている。

人に苦をもたらす不倫理性を、仏教では一般的に『業』(カルマ)という言葉で言い表すなら、キリスト教においては『罪』(ハマルティア)という言葉によって苦の原因を言う。

どちらも、人間の倫理的欠陥を宗教の中心的主題に置いているのだが、仏教がそれを『業』に応じた輪廻転生と最終的な「解脱」に答えを与えるのに対し、キリスト教では『罪への悔い』と『贖罪』(しょくざい)によって不倫理性が浄化されることを説くのである。すなわち『罪』なきキリストの犠牲の死による人の『罪』への代償である。

したがって、キリスト教での『罪』とは「原罪」といわれることもあるように、特定の悪行を指すわけではない。キリストは『罪を行う者は、罪の奴隷となっている』と言う。そこで悔いが求められるのは、人間の誰もが逃れられない倫理上の欠陥についてである。 
人は「この世」を生きるように創られてはいない。様々な不適応が多くの人に出るとしても何ら不思議はないのである。


この倫理上の欠陥にまとわれた事の発端はといえば、聖書の伝えるように、それが「禁断の木の実」をとって食したという最初の人間夫婦に由来する。そうであれば、これを免れる人は誰もいないことになる。そしてこの世の有様に見えるように、人は誰も実際に不倫理性を免れておらず、永く刻まれた歴史からも、人類が倫理上に問題を抱えていることを否応なく知らされていないだろうか。

さて、エデンにおけるその最初の悪行においての根本的問題の所在は、創造者への敬愛の無さであり、それが第一にされるべき創造神との関係性を損ない、倫理という社会関係性の基礎の基礎を破壊してしまったので、以後の人間には悪がつきまとう。

つまり我々は皆が「他者とどう生きるべきか」を弁えてはいないのである。それは不治の病のようであり、我々は誰も争いから免れ得ず、このままであれば永久に争い続けるか、何時の日にか自滅してしまうのであろう。

他方で、その『罪』の反対に位置するのが『愛』であり、キリスト教ではこの『愛』を「アガペー」と呼ぶ。 
新約聖書では『愛は人に悪を行わず、法を全うする』というのである。

人間に倫理的欠陥のない世界、つまり利己心、貪欲、争いなどのない人間社会を想像することができるだろうか。

しかも、創造の神との間にすら平和がある。人は老化や寿命に拘束されず、経験したことのない人間として創造された本来の輝かしい状態に入る。そこでは、今日の諸々の苦しみがその元から断たれるだろう。それが「アガペー」の支配する社会像といえるのである。

『罪』のない人は、人とどう生きるべきかを弁え知っており、神との間にも断ち難く深い絆が結ばれる。
その結果として、世界は創造の神の意図したままの輝かしいばかりの栄光に満ち、人々は存在したことのないほどの美を極め、これまで経験したことのないほどの繁栄を謳歌することであろう。

キリストの教えの根本はこの『愛』であって、最も必要でありながら、この世に欠けたものである。人は身近な家族や友人を愛するので、愛はこの世に無いとはいえないが、キリストはこのように言われるのである。

『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。』『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(マタイ5:46・44)
人々がこの通りに行えるなら、この世は今とは違っていることであろう。だがこれは実に難しい。
そして神は、この実践が人間には不可能であることを認めているので、イエス・キリストを『罪の贖い』のために任じたと聖書は教えているのである。


だが、そのような世界が却って面白みに欠け、争いや苦しみあっての人生だというように思われる向きは、以下をご覧頂いても意味を成さないと思われる。

あるいは意義を感じられる方々に、倫理的回復の手立てについて以下に書き出してみよう。


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◆人間の倫理問題の解決

創世記に語られる人間と神との断絶の話を信じようといまいと、人間が例外なく「そこそこの悪党」であることは、それぞれ個人のよくよく味わい知るところであろう。(詩篇14:2-)

この倫理上の欠陥は神と人をも隔てたが(イザヤ59:2)、創造者と人との和解の目的のために、神の意志によって仲介者が立てられた。聖書はこう云う。
『神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスである。』(テモテ第一2:5)

この神と人との和解が、アブラハムの宗教、ユダヤ教、キリスト教の目的であり、悠久の時を貫く不変のテーマとなってきた。(コリント第二5:19)

その和解の仲介者は、人間の先祖アダムが為した、禁令を破る行為によって失われた人の善性と命を請け戻すべく、自ら人間のひとりとなり、その命をアダムの失った命#の贖い代として差出すことで、その子孫を、老化して死に向かう不完全な命から開放する役割を喜んで担ったのである。(ローマ5:12-)

仲介の役が果たせる以上、彼は元々人間ではなかったが、神の創造の業をも委ねられていた存在で、神が自ら創造したのはこの者だけであったから、「神のひとり子」とも言われている。(コロサイ1:15-16/ヨハネ1:1-3)

キリストが処女懐胎によって誕生した道理はここにある。 

イエス・キリストがアダムの子孫なら、ただの『罪』ある人でしかない。


人類のはじまりであるアダムは、木の実の禁令を犯し、神の否認したことによって、自分ばかりか子孫すべてを神の創造物の輝かしさから遠ざけてしまい、神から遊離した根無し草のように不安定な存在としてしまった。
そうしてアダムは、老化して死に向かう虚しい運命に自分と子孫を諸共に一度限り売り渡してしまったのである。その動機を要約するとエヴァを選んで、その妻との関係を創造者より上に置いたところにあった。(創世記3:12・19)

そこに神の落ち度はなく、それはアダムの「神の象り」としての責任を伴う、二本の木の実に関わる意志の自由を守るための二択であった。もう一本の木は「永遠の命の木」であったのだ。
だが、アダムは創造神との関係を否認する選択をしたので、それは自分の存在の由来を否定したことで、あらゆる不義の第一歩となり、人の倫理を土台から破壊してしまった。(創世記1:26)


しかし、「仲介者」は神と人との断絶に心を痛めていたことであろう。彼は神と人間を大変愛しており、自らの死を捧げてまで神と人との和解のために働いたのである。(箴言8:31)


その和解のを受け入れるために、人は神を神としなければならないが、人間社会は大半において常に、創造の神には信仰していてすら無頓着であった。多くの人々は神を崇拝するにしても利己的に利益を求めて決め付けてきたからであり、神自身の意向を探ろうとはしてこなかったのである。

即ち「神は自分に何をしてくれるのか」を問うところの「ご利益崇拝」が宗教の専らとする姿であり、キリスト教の人々でさえキリストの自己犠牲に感化もされず、結果的にであれ、キリストの上にあぐらをかいて、自分が救われるために犠牲を捧げる下僕としてしまう。それでキリストを信奉していると言えたものだろうか。(コリント第二5:15)

さて、神を認めない最初の行いはエデンの園で為されたために、遺伝によりアダムのすべての子孫である人間は倫理において不完全となっているがこれを「原罪」ともいう。(創世記3:17-19)

即ち、第一原因者たる創造者を神として敢えて否認することは、創造物である人間にとって、あらゆる倫理の基礎を損なうものであったので、以後、アダムの子孫は皆が悪を行う者とされてしまったのである。(ローマ5:12)
 

それゆえ仲介者が、創造物としての相応しい「神の子」の立場に人類を復させるためには、人の命に宿ってしまっている『罪』を何とかしなければならない。
そこでアダム本来の命#の代替となる別の命#の「贖い」(あがない)を差し出される必要があった。そこで贖いの代価を備えるべくキリストは人となり地上に生まれた。(ローマ5:18-19)

それだけでなく、各個人が「神を神として認める」意思を見届ける必要があるが、これは「信仰」によって人々が選別されることであり「裁き」と呼ばれる。(ペテロ第二3:7)

その「裁き」で問われるのは『罪を悔いる』こと、また、キリストに託された「贖い」に『信仰を抱く』ことである。その貴重な代価の意味を知らされてすら、求めず感謝もしない者に、どうして赦しを与える必要があるだろう。それはアダムと同じ道を行くことではないか。



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◆倫理性を回復する過程(贖罪「しょくざい」)

キリストと称されるこの仲介者は、まず人間となるに当たって、罪以前のアダムと同様の無垢な命#を持つべく、アダムの血統によらない方法で人間社会に来た。そこで彼は地上で、キリスト(任じられた者)・イエスと呼ばれた。(マタイ1:20-21)

それから、不法や誘惑を退けつつ、自らの倫理的に欠けるところのない生命#を犠牲として捧げ、地上に人として到来した目的を果たした。(テモテ第一2:6)


この犠牲が捧げられ、既に「贖いの代価」は払われ、神の御前に満たされているので、それはすべての人が用いられる状態となっているが、その犠牲の価値を運用して人々に罪の赦しをもたらす「神の王国」と呼ばれる神からの手立てが待たれている。キリストを王とするこの王国は、「この世の終り」に際して存在するようになるという。(ローマ3:24/5:10)

そして、この仲介者が次に行うのは、「神を神とするか」というエデンの問いに対して「神の象りに創られた」人々が自由意志を行使して、どう答えるのかを見極める「裁き」であり、これも世の終末に行われるという。(ヨエル3:12/マタイ25:31)⇒「終末の裁きで何が問われるか」

あらゆる個々の人々によってこの選択が行われてこそ、創造の業が完遂し、世界が神の意図した通りの栄光を得るところとなるのであり、世界の人々は、世の終わりに再来するキリストの前に右と左に分けられるというのである。(マタイ25:31-)

『この世』というものは、アダムの血統を通してすべての人が出揃うのを待つ場であると同時に、『罪』のもたらす害悪の実情の証しをすべての世代が見ることにもなってきた。
それを各人がどう判断するか、キリストを頼り『罪』を悔いるか、あるいは神を否認して『罪』に留まるかは、それぞれの前に置かれた『エデンの木』のようになる。

人間を自らの象りとした神は、この問題に対してひとりひとりの自由な決定を行わせるであろう。
アダムのときのように神は人からの敬愛を強要しない。そうでなければ、真実の愛は存在しないからであり、アダムの道を行こうとする者が出ることは避けられない。⇒ 神の象り」に込められた神の愛


しかし、必ずや神を神とすることを望む者たちも居るに違いない。彼らを不敬虔な者らから選り分けて、仲介者自らが犠牲として差し出した生命#の代価を以って、彼らを『罪の奴隷』状態から買取り、彼らの倫理上の欠陥である「罪」を取り除く過程となる『神の王国』または『天の王国』の地上支配と贖罪の祭祀の下に入れるであろう。(黙示録20:6)これがキリスト教会で「天国」と誤解されてきたものである。

その過程は、黙示録において「千年続く王国」+と記されている。(黙示録20:4)
だが、この贖罪の機構である『神の王国』の助けを望まない人々は、この千年の始まる前に、神を認めぬ行動を通して動かぬ決意を示し、神と人との戦いを起こすにまで進み、その後果を刈り取ることになる。それが、創造者との戦いで人間に勝ち目なく、勝敗が顕著に分かれるという意味での、所謂「ハルマゲドン」の戦いである。(黙示録16:16/ゼパニヤ1:17-)

さて、これらはすべての生ける者に対する仲介者の処置(裁き)である。(マタイ25:31-)
一方、千年が終わると、一般の死者(聖徒*ではなく)たちの無数の復活が起こる。(使徒24:15)
この「死者の復活」こそが聖書教の特徴であり、まさしく創造者こそが為し得ることではないか。

それが起こる時、一度死んだ者は「死」という「罪の報い」を既に受けており、神の業は完全であるゆえに、生き返る彼らのすべては仲介者キリストの生命#の贖い(代替)によって、原初のアダムのような罪無き命#をもって復活するであろう。(ローマ6:23/マタイ12:41)
彼らにも、エデンの『二本の木』の選択が問われなくてはならない。


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◆倫理性を回復した人間への要求

千年の神の王国の終わった後に復活するこの無数の群衆には既に仲介の必要はなく、この人々を裁くのはもはや仲介者の仕事ではなくなる。(コリント第一15:24-28)
そして、千年間の贖罪を受け死を一度も経なかった人々も倫理的状態は同様に完全となっている。

ここで、「エデンの問い」は最終的なものとなろう。

仲介者キリストはすでにこの件に関する働きを果たし終えているのであるから、あとは個々の人がまったく自由な選択者として、直接神にどう答えるかが裁かれるであろう。(黙示録20:11)

神はこの人々にも、敬愛を強要しない。そこで再び現れる蛇の誘惑に陥る人々は少なくないが、これらの人々は、遂に「老いたる蛇」であるサタン(反抗者の意)共々、永久の滅びに裁かれるに至り、こうして、神の創造の業は完遂され、その意志は尽く世界に行き渡ることになる。(黙示録20:7-)


彼らは神の子としての関係に復すことを願うのか、或いは、神を認めず敬わずに「神のように」(対等に)なろうとして「蛇」の道を行こうとするのか?(創世記3:5)
この「蛇」で表されるのは、被造物の中で一番に神からの独立を宣して「罪」の道に入った天使でありサタン(反抗者)と呼ばれる。(黙示録12:9)

堕天使である「蛇」は、自らの自由意志から神を愛さず、創造界に利己心と無秩序を持ち込んだが、それは人間界にもよくよく観察される。我々は隣人を愛し、助け合う能力が無いわけでもないが、どうしても他者を愛するよりは欲に従い、隣人との争いを止めることができない。

もし、それが当然だと思うなら、その人は神の人間に対する倫理回復の手立てにそう関心も持てないであろう。これこそは、その自由な意思の選択であり、それは「エデンの問い」に連なるものとなろう。その人は『永遠の命の木』から食すことはあるまい。なぜなら、他者とどう関わって生きてゆくかという「倫理」を弁えない以上、永遠に生きるどんな理由があろう。

この問いについては、今はあれやこれやと想像できても、それはあまりに深遠な問題である。それでも、ひとつのことは明らかであるように思われる。

それは、「エデンの問い」は神への愛が問われるであろうことである。その反対に位置するのは自己への愛であるように思われる。

神に象られた創造物は、自己を存在させた創造者との関係性(愛)を以って初めて存在理由を得るからである。
その点、「仲介者」の示した神への愛、そして人への愛は深い教訓に満ちたものであろう。

愛を抱く者は死から生に移るという使徒ヨハネの言葉は、生き続ける理由が愛による以外ないことを見事に一言で表していないだろうか。(ヨハネ第一3:14)
「倫理」、即ち、「隣人とどう生きてゆくか」をわきまえない者が永遠に生きるとすれば、それは大きな矛盾であって、創造界から無秩序はなくならず、神の創造の意図は永久に成し遂げられないことになる。

それゆえ『罪』をキリストの犠牲によって赦され、『神の子』となって生きるということは、神が永遠であるように共に生き続けることを意味しよう。(詩篇90:2/ハバクク1:12)

以上が人間に関するキリスト教の目的である。


したがって、我々の眼前にある「この世」は人類を創造した神の是認を受けるようなものではあり得ない。
そこに神の摂理もなく、キリストの信仰者を特別に贔屓もしない。「この世」とは、ただ法則によって自動化された世界なのである。
しかし、神は「この世」をその汚された状態から、創造の当初の輝かしい状態に戻し、自らの栄光を反映する人間へと「救う」ことを意図された。

そこで、聖書はこう云うのである。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)

これは、「この世」をできるだけ住みよい場所に改善してゆく、というようなことではないし、個人の人生をより良いものにするということでもけっしてなく、道徳的な生き方を求めているのでもない。神の意図はそのように凡庸ではない。

むしろ、人間が創造者を意に介さずに成立させている「この世の有様」をひっくりかえして一変させてしまうものである。そこで聖書には終末、即ち「この世の終り」が避けられない。

だが、神はすべて人々に選択の機会を必ずもたらすという。即ち、救いを選ぶか否かというエデンの問いは思想信条に関わり無くすべての人に問われるのが終末である。

キリストが再び来る不定の将来に、その終末が訪れることになることを聖書は告げている。



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しかし、この仲介者キリストには神に関しても成し遂げる目的がある


それは、この仲介者が神の最初の創造物であり、第二の立場にあるゆえにこそ可能なことである。(コロサイ1:15)


創造界で神から離反していたのは人間だけでない。「蛇」を初めとする堕天使らである。(黙示録12:9)

ここでは仲介者としてだけではなく、彼は全創造物の「初子」として大きな働きをした。

つまり、この初子が創造の父を「神たるもの」とするとき、この第二位以下のすべての被造物は神を崇めるべき理由が生じることになる。


そのため、初子は地上に来て「蛇」である堕天使サタンの誘惑を度々受けたが、初子はこれを退けて遂に刑死に至るまで一途に神への忠節を尽くした。

初子の忠節な死を以って、神は神たるものとされるべきことが確定し、論議は既に終了している。それは堕天使らにも霊に復活した初子から伝えられたが、この件に関する蛇らの反論はまったく不可能となった。(ヘブライ2:14/ペテロ第一3:19/ヨハネ16:11)


最後の試みにおけるすべての人々の裁きに続き、堕天使らにも終わりが訪れる。これらの者らの滅びが(象徴的に)いつまでも破滅の火の中から煙を上げ続けることで、神の神性の証しも永遠に亘るものとなる。(黙示録21:8)

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◆被造物の裁き

こうして倫理の基礎が確立され、神が神であるということが全創造界に自由意志によりながらも秩序をもたらすことになり、すべての権威や権力を必要としない平和な関係がもたらされるのである。

神の初子は他の知的創造物すべての調和と神との絆の要となるが、殊に人間の父祖アダムに代わって『とこしえの父』となるので、人類はアダムの命によらず、初子キリストの命にあって永生を賜る機会が拓かれる。

こうして、初子は父である神を愛し、その神性を擁護する礎となり、その証しは神の最大の栄光となった。そこには創造者と被造物の強い絆が象徴され、且つこのうえなく具現する。
初子はさらに進んで、すべての被造物を神に帰せしめ、己を神とする者を永遠に絶やすことになる。(コリント第一15:24-)


こうして、政治的権力という一切の強制の必要の無い、また神も権威を翳す必要の無い、あたかも家族のような姿が神と被造物の間に見られるようになるであろう。(黙示録21:3)

人は神に語りかけ、神はイエスにそうしたように実際に答える。(イザヤ65:24)
そこでは所謂「宗教」の必要も無くなってしまい、「罪」のもたらす神と人の断絶は過去のものとなる。

倫理上の欠陥から開放された人類には、政治と宗教の必要が無くなってしまうが、これもキリスト教の究極の目的といえる。
人間の政治と宗教はふたつながらに、人間の罪への対症療法に過ぎず、神による根本治療がなされた後には何らの意味も持たないからである。


⇒ 人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか?



           新十四日派  © 林 義平

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#この「命」or「生命」は、正しくは「魂」(ネフェシュ)であるが、初学者の誤解を避けた。
*「聖徒」:キリストと共になって、人間から倫理的欠陥を千年の間に除去し、その間の統治を行うために信徒から選ばれた者で、千年の前に復活あるいは召しを受け「神の王国」+を構成する。「聖なる者たち」ie「神のイスラエル」。
+「千年王国」ie「神の王国」:始祖アブラハムの真の「子孫」ie「裔」=「神のイスラエル」で構成される人類救出のための手段となる『王なる祭司』とされる格別な人々。

関連項目⇒「エデンの園の二本の木の意味

以上の観点に基づいたキリスト教解説書 ⇒ 「神YHWHの経綸」

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また、上記のほかにもうひとつ、創造の業の完遂に於いて、神自身が直接に成し遂げる恐るべき至上命題がある。
だが、それを説明するとどうしても長い文章になろう。
また、初心者向けの内容ではないと思えるので、ここでは割愛し別の頁にまとめたい。

⇒ 神名浄化の至上命題「シェム ハ メホラーシュ」

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◆このブログの
記事一覧











「聖徒」 聖霊が指し示す者たち



◆「諸国民の光」となる「聖なる民」

聖書中に度々現れる「聖徒」(「聖なる者」)とは何だろうか? それは「信徒」を表すもうひとつの名に過ぎないのではないか?

では、「信じる者」(ピストス)と「聖なる者」(ハギオス)を書き分ける理由が何かあったろうか? 旧約では、イスラエル=ユダヤの民はその神に倣い「聖なる者」であるよう求められた。律法の条項を守ることにより、彼らは「聖なる者」とされるはずであった。(出埃19:1-)

イスラエル民族は、アブラハムに約束された格別な民である。 聖書では早くも創世記からこれが示されており、神はアブラハムに『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』と語られていたのである。(創世記22:18)

また、後にはモーセによって示された『祭司の王国、聖なる国民』、更にイザヤの預言した『諸国民の光』となるべき選民であった。(出埃19:5-6/イザヤ42:6)

しかし、イスラエル民族は神の前に、その律法を踏み外すばかりでなく、捕囚を解かれてなお、遂にはメシア=キリストを刑死にまで追い込んだのである。 では、『聖なる民』出現の希望は一度は選ばれたはずの民族の不行跡によって全く潰えてしまったのだろうか?(エレミヤ11:10/マタイ21:43)

もしそうなら、神の全能性、その「成し遂げる」という宣言もアブラハムへの約束も空しいものとなったであろう。 だが、聖書が旧約から新約へと進むに従い、神の全能性は『聖なる民』を出現させるに於いて、イスラエルの無能さをも補って余りあるものとなった。

というのも、律法不履行の罪あるイスラエルに対し、神はバプテストを遣わしてこの民に『悔い改め』を宣布させ、次いで遣わされたメシア、ナザレのイエスの死は、その尊い犠牲のゆえにこそ、地上に残った弟子らを仮贖罪し、遂に『約束の聖霊』を以って遂に『アブラハムの裔』、キリストの『兄弟』たる『神の子』を出現せしめたのである。(ヘブライ2:11/コロサイ1:12/ローマ8:14)

この件については、ローマ人書簡の第八章が、彼ら『聖なる者ら』の立場が如何に高いかを知らしめるものとなっている。またペテロ第一書簡も、モーセの律法契約が成し遂げるに至らなかった目的がキリストによって達成されたことを証しするものとなっている。

しかし、メシアの到来にあってさえもイスラエルの体制は、奇跡を行う人ナザレのイエスを退けるまでの不信仰を露わにしたため、結果的に『聖なる民』はユダヤ人以外から補充され、アブラハムの血統に属さなくても、アブラハムらしい特質であるその信仰に倣う者らが、そのメシア信仰のゆえにこそ選民とされ、その子孫に連なった。パウロはこれを『接木』に例えてもいる。(ペテロ第一2:10/ローマ11章)

だが、神の承認のないままに異邦人の誰でもが、自分の意のままにアブラハムの子孫たる『諸国民の光』、『聖なる者』に成ることが出来ただろうか? 多くのキリスト教徒は信仰ある自分たちが皆『世の光』であると考え、聖霊を受けてキリストが自分の中に住まうと考えている。

もし、キリスト教徒がそのようなものなら、『聖なる者』には客観的印無く、人目に曖昧なものとなり、「聖徒」であれ「信徒」であれ、どちらでもよいようにされるに違いなく、実際、現状のキリスト教界ではそのようである。

しかし、使徒言行録以降の新約の内容は『聖なる者』が何を意味し、どう選ばれたかが繰り返し記されている。 また、最後の晩餐の夜のキリストの使徒らへの言葉には、自身の去った後の聖霊の働きと彼らの関わりが説かれている。それらの言葉はヨハネ福音書の第13章以降の五つの章にわたって記されるところであり、聖霊が如何に多くの役割を担っているかが明かされている。 この「聖なる者」についての理解は、キリストの言葉と相まって、「アブラハムへの約束」という旧約からの流れの中で知ることのできるものであり、神の長い時代に亘る計画(経綸)に深く関わるものである。

結論から言えば、「聖なる者」らこそが創世記でアブラハムの子孫にもたらされると約束された格別な役割、即ち「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる者たちなのである。(創世記18:18/22:18) 神は特別な民を『子羊の血』で買い取り、その所有に帰する特別な民を用いて人類の全体を祝福に入らせようと意図された。それをエデンの園以来、悠久の時に亘り、その実現に向けて歩みを進めて来られたのであり、実に聖書はその神の足跡の記録証拠となっている。

そして、キリストの犠牲により『アブラハムの裔』は、あのペンテコステの日に史上初めて生み出され始めたのであった。(ペテロ第一3:6/エフェソス1:13-14) それは単に、キリストが自分の中に住まい、信者に幸福をもたらすというような「ご利益信仰」、どこにでもあるような凡庸な宗教とはこの点に於いてはっきりと異なっている。それはキリスト的利他心と、御利益を望む利己心程にかけ離れたものではないか。(コリント第二5:15)

即ち、エデンで失われた人類への創造者からの祝福を、生者にも死者にも回復させるための神の用いる真実のアブラハムの子孫である民『神のイスラエル』とは、水と霊によって生み出される者らでなくてはならない。即ちペテロが指摘するように「正妻サラの子ら」である。(ヨハネ3:5/ガラテア4:21-/ペテロ第一3:6)

彼ら「聖なる者」こそが、そのアブラハムへの約束に預かって、世界にキリストと共に人類支配と贖罪をもたらし、今日まで見られる世の「罪」と苦難を終わらせるための「王また祭司たち」である。つまり、「王」は支配を、「祭司」は人類の罪を除き去る贖罪の奉仕を意味しており、それを成し遂げるのが『神の王国』、真実の選民イスラエルである。(黙示録20:6)

今日まで、人類はこの「神の選民イスラエル」から益を受ける前段階にあり、特に誰かが優れて神の是認を受けているわけではない。つまり『イスラエル』の民は未だ天に集められず、『神の王国』も地に到来していないからに他ならない。その召集も到来も、なお不定の将来であることをキリストは語られている。(マタイ24:36/使徒1:7)

その民を構成する『聖なる者』、すなわち『聖徒』とは全人類を益するための器として用いられる人々を表すのであって、主に倣う聖徒には、その高い立場のゆえ、また神との『新しい契約』を守るための、生涯に亘る忠節の実証と、殉教をも辞さないキリストに続く自己犠牲の覚悟が求められるのである。(マタイ10:17-18.32-42) では、すべてのキリストの弟子がそのようにされたのだろうか。


◆天でキリストと共になる民

まず、いくつかの聖書の言葉をみてみよう。 『聖なる者』とは古代にモーセに啓示され、それを使徒ペテロがキリストの信徒の中の人々に適用し、誰であるかを指し示した特定のキリスト教徒たちのことである。 モーセを介して、神はイスラエルに差し伸べられた希望をこう伝える。 『あなたがたが本当に契約を守るなら、あなたがたはわたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる』(出埃19:6)

即ち、『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが律法契約の行き着く先であった。 しかし、血統上のイスラエルがメシアを退け、まったく神の契約から外されたことは、西暦七十年の滅びと再建されることの無い神殿の有様に象徴される通りである。

それでも、ペテロは当時のキリスト教徒に向かってこう云っている。 『あなたがたは「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の特別な所有に帰する民』・・(ペテロ第一2:9) ここにモーセの律法契約の目標である『諸国民の光』となる民が、血統によらない人々、『新しい契約』に属するキリスト後の弟子らの中に現れたことを知ることができる。

更に、彼らが神の所有となるために、最終的に天に召されることを以下の句が明かしている。

「彼(キリスト)が現されるときに、わたしたちも彼のようになり、彼をあるがままに見ることになるのを知っている」(ヨハネ第一3:2)

「わたしたちは彼(キリスト)の復活と似た様で彼と結ばれる」(ローマ6:5)

「わたしたちは塵で作られた様であったように、天のものである様になる」(コリント第一15:49)

「神はあらかじめ、最初に是認した者らをみ子の象りのものとするように定めておられた」(ローマ8:29)

「聖なる兄弟たち、天の召しに預かる人たちよ」(ヘブライ3:1)

「あなた方は近付いた、シオンの山、生ける神の都市なる天のエルサレム、幾万もの天使たち、・・天に登録された初子たちの集まり・・に」(ヘブライ12:22-)

「ダヴィデの家はYHWH*の前の天使のようになる」*<発音不明の神名>(ゼカリヤ12:8)

これらの聖句は、その人々が肉体を離れキリストと同じ様、つまり霊の体をまとってキリストと共になることを述べている。 キリスト教徒が、これを信者のすべてについてこのように霊者となる所謂「天国」を思い描いたとしても無理はなかったのかもしれない。

だが、すべての信徒に関してこれらが適用されて、信仰を抱いた人は皆、安楽な天に集めるのが神の企図なのだろうか。

もし、そうなら、何故に創造の神は地上に人を置いて『甚だ佳かりき』と言い得たのか。 しかも、そのキリスト教の天国への「救い」たるや、信者だけを益する閉鎖的で狭量なものとしてしまい、キリストの教えは信じる者に利己心を培わせるご利益信仰にしかならない。

信者だけの救いは、キリスト教とは神がアブラハムを通して人類全体に与えようとする祝福を独占しようとする貪欲でもあろうし、神を狭量だと宣していることにもなってしまう。そのうえ、キリスト・イエスの示した見事な自己犠牲の精神は「クリスチャン」方のために限定されてしまい、利他心は利己心に捻じ曲げられている。そこにどのようにキリストが感化を与えているのだろうか?


◆アブラハムの子孫である民

もちろん、このように天でキリストと共にされる人々にはそれなりの目的があり務めがあり、それはキリスト教徒の間で信じられている所謂、死後の「天国の至福」という終着段階ではない。
神がキリストの犠牲を以って特定の人々を地上から買い取ったからには、やはり特定の目的あってのことである。(使徒20:28)
即ち、キリストや使徒らの宣教活動は、単に信者を集めていたのではなく、『アブラハムの裔』をキリストの許へと一つに集め出していたのである。彼らこそが『神の王国』を構成し、全人類の祝福をもたらすためであったのだ。

天に行く者たちは、そこでキリストと共にどんな人にも出来ることのない壮大な業に取り掛かるのであり、それは結論から言えば地上に残る人類の罪を除く、即ち「贖罪」であり、また、その間の地上の支配という神と人への壮大な奉仕である。そこに個人の救いや安楽がどうのというのは、まるで場違いである。(ローマ6:3-5)

それゆえ、天に行く者たちは「贖罪」を行う「祭司」の職を、また支配を行う「王」の身分を受けることになる。まさしくモーセと後代のパウロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と契約に入る者らに語ったことは、この神の人類救済を成し遂げる器が『聖なる者ら』であることを示しているのである。 すべての者が祭司や王でないように、その職を授かるのは特定の「聖霊」を地上で注がれ『新しい契約』に入った者らだけとなる。

黙示録20章6節はこう言っている。 『第一の復活に預かる者は幸いな者であり、聖なる者である。・・彼らは神とキリストの祭司となり千年の間キリストと共に王となって支配する』。

この辺りが理解されないと、キリスト教の目的がはっきりとせず、「聖なる者」についてばかりでなく、キリストが多くの例えを用いて語った「神の王国」や「聖霊」に関することも曖昧になってしまう。

今日多くのキリスト教宗派においては、信じれば「聖霊」を受け、自分の中にキリストが宿るようになると教えられている。それがその人を導くというだけのことであれば、創造の神が被造物のすべてをひとつに集め、創造された通りの輝かしい様に回復されるという、聖書に流れる偉大な意志には無頓着になるであろう。つまり、自分と身近な者が救われることを願うからである。(エフェソス1:10)

こうした「ご利益信仰」がキリスト教の「正統」を名乗っている現実は真に嘆かわしいことである。 例えれば、使徒2章38節の『バプテスマを受ければ無償で聖霊を受ける』などの言葉を前後事情も考慮無く、そのまま字面を教えられるようなこともあるのだろう。

しかし、そこでは何故、聖霊を受けたのかの理解が聖書全体を貫流する重要な問題と幾らも関連されない。 ペテロがペンテコステの日に、神との契約にあるユダヤ人に述べた言葉が、どうして自分に向けて語られているなどと捉えてよいだろうか?
彼はこれを語った人々について『 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である』と言っているのである。

彼らイスラエルの民に約束されたメシアは今や現れていたのであり、この契約の民に属する者らが悔い改めて「新しい契約」へと転向することを、水のバプテスマで示すことにより、『主のみ前から慰め(回復)の時がきて、あなたがたのために予め定められたキリスト・イエスを、神が(聖霊を通して)遣わして下さる』とペテロは云うのである。

 この使徒筆頭が率先して語った宣告は、そこに集まってきたユダヤ人という神の契約に預かる立場の人々に言い広めたのであり、それはイエスという方こそが待望のメシアであったことを告げ知らせ、この方を退けてしまったユダヤ人一般の罪を悔い、そこから転向してイエスの水のバプテスマを受けることによって、聖霊によってメシアが彼らに遣わされることを指して言っていたのである。

であるから、弟子らだけに授けられ、『世が受けることができず、真理の全体を教える』と約束された聖霊が、単に個人の中でキリストを住み込みのコンパニオンのようにする為にあると云うのであれば、それは何と神らしくない少女趣味、また矮小さであろう。
いや、むしろ単なるキリストの内在を遥かに超える意味が「約束の聖霊」にあることは見過ごされるべきではないに違いない。(使徒2:32/ヨハネ14:26)

古来イスラエルにおいて、実際に香油を注がれる事が役職への「任命を受ける」を意味したように、後のキリスト以降の時代では、聖霊を以って油注がれる事、つまりより高次の「聖霊の注ぎ」はキリストと共になる王また祭司の一員としての「任命」を受けることを意味した。(レヴィ16:32/コリント第二5:5)

イスラエルの民にあっても、そのすべてが祭司ではなかったのであり、民のほとんどは、常に祭司たちから贖罪の儀式を受ける必要があったのである。 後のキリスト教徒たちの中にあっても、「聖なる者」あるいは「聖徒」(ハギオス)と呼ばれる者たちは、キリストと同じ体(霊体)をまとうことを象徴するパンを食して永生に入ることを表し、また人類に先立って「罪」(原罪)を許される象徴として聖餐のぶどう酒を飲み、キリストに近い者となって「新しい契約」に参与する限られた人数の人々である。(民数記3:12.13/ローマ8:23)

ゆえに、キリストの肉と血に預かることが、どれほどアブラハムへの約束を相続することになるかが如何にも明らかである。  これを諸教会では、誰にでも与えようとするところで、ぶどう酒が当然アルコールを含むので、幼児やアルコール中毒の信者に供することが憚られ、ぶどうジュースに入れ替えたり、果てはぶどう酒を省略する「一種陪餐」という不条理の横行をキリスト教界は赦してきたのであり、それが正統を唱える教会の実態となってきた。

しかし、この「聖霊の賜物」が、それ以前に働いたあらゆる聖霊よりも高い次元にあることは、キリストが犠牲の死を遂げる前には、『まだ、霊はなく、それはキリストが栄光を受ける前だったからである』とヨハネ福音書に語られているように、それまでには存在していなかったような格別な「霊」の在り方であったのだ。(ヨハネ7:39)

「聖霊の賜物」はそれを有する者に、恰もキリストのような業の一端に預からせ、同時にそれが彼らの身分を証しするものとなった。(エフェソス1:13-14) それはまた、キリストの犠牲によって初めて彼らが神の前に贖われ、罪の無い状態にあると「看做されて」下賜されたものであって、イエス自身も云われた『世が受けることのできないもの』という言葉にもその異例さが表されている。(ヨハネ7:39/ローマ8:1/ヨハネ14:16-17)


◆選びの実証

もちろん、超自然の賜物の下賜は人間のエントリーできるところではない。それゆえにも、聖徒への招命は間違いのない明確な印を伴い、他人に分からないような心理作用でもなく、公に明示されるものであって、けっして個人の内密に属する事柄ではなかったのである。パウロは聖霊の賜物の現れを『霊の顕現(ファネローシス)』と呼んでいる。それは即ち、誰にでも分かる明瞭なものであった。(コリント第一12:7)

もし、この賜物の有無が曖昧なものであれば、その貴重さも価値も危ういものとなるばかりか、偽者の横行を妨ぎ得ない。 それゆえ、人からではなく、神から任命された証拠を持つ人々こそが、アブラハムの子孫、真のイスラエルであり、モーセの契約の先に示された「王なる祭司」の「聖なる国民」であった。(出エジプト19:6)

パウロが時折「我々は王として治める」と述べる背景はこれである。それは、けっして信者の中の種類というような単純な違いではない。彼らの立場は格別な高次のもの、つまりキリストと共になる『兄弟』また『花嫁』である。 それゆえ、彼らも主と共に神を父として『アッバ』と呼びかけることができるのである。(コリント第一4:8/テモテ第二2:12・ローマ8:15-16)

本来は血統上のイスラエル民族に、メシア=キリストと共に諸国を治める「王なる祭司」の一員となる機会が開かれていたが、それは遠く古代のアブラハムに神が約束した民族の特権であったから「アブラハムの相続財産」とも呼ばれた。(ここに選民思想の根拠があった) 実にキリストの宣教の目的は、この「アブラハムの裔」を召し出すことであり、それは使徒をはじめとする初期キリスト教徒の宣教もまたその目的を有していたのである。(ヨハネ11:52/ヘブライ2:16)

しかし、イスラエル=ユダヤは民族全体としては現れたイエスを退け、ユダヤ人の中でイエスをキリストと見做したのは幾らかの「残りの」人々だけであった。(ローマ9:27)
そこで、神は血統上のイスラエルだけではなく、イエスをキリストとして受け入れた信仰のゆえに真の意味で「イスラエル」と呼ぶに相応しい諸国の人々を選んで、キリストを迎えた血統上のイスラエル人に加えたのであった。(ローマ9:24-・11:17-/エフェソス3:6)

イエスはこの事を予告して、こう語っていた。 『多くの人が東から西から来ると、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天の王国で宴席に就くが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』 (マタイ8:11-12)
こうして、血統に関わらずキリストと天で共になる真の意味でのイスラエル、即ち「神のイスラエル」に任命を受けた人々が、アブラハムの正式な子孫の民に迎えられたので、その中では、血統上のイスラエルからの者らと異邦人から選ばれた人々によって構成されるようになったのである。パウロはそれを指して『ふたつの民』と呼んでいる。(ガラテア6:15-16/エフェソス2:14-15)⇒「去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え」

彼らの働きは、王また祭司としてキリストと共に人類を治め贖罪を行うことにあるが、血統上のイスラエル人の目的が「諸国民の光」となることであるとされてきたように、彼らこそが世界にキリストの支配をもたらして、今日まで見られる世の苦難を終わらせる「王また祭司」となる。 キリストがユダヤ人に向かって『あなたがたは世の光』と言ったのには、この背景あってのことであり、「クリスチャン」が皆「世の光」だと言えば、それは大きな間違いである。(黙示録20:4/マタイ5:14)

おおよそ聖書というものは、アブラハムの子孫について書かれ、彼らに向けて語られたものであって、そこに『あなたがた』とあるのを自分だと思うなら、それは傲慢というほかない。 我々は、神と選民である「アブラハムの子孫」との交渉の記録から、神の悠久の御意志の如何を学ぶのであり、聖書は人生の指南書でもなく、個人の救いを求めるべきものでもない。 むしろ『生きる者が、もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』というのが、その精神、即ち利他的に生きるべきことを教えるのが聖書であって、ご利益信仰の余地はそこにない。(コリント第二5:15)

さて、キリスト刑死の後に聖霊の油注ぎを受け(使徒2章)、任命された聖徒らではあるが、それは確定されたものではない、彼らが集め出されるのはいまなお将来のことであり、その認証がなされるのは世の終わりに際してである。(黙示録7:3) このように、任命を受けてもしばらくは試されることはイエスの「狭い戸口を通って」(ルカ13:24)や弟子らの「終わりまでしっかりと堅く保って」(ヘブ3:6)「守り通して」(黙示2:26)という言葉に言い表されているし、古代アロンと息子らが油灌ぎを受けてから七日を「見張る」ために待たされたことにも象徴されている。(レヴィ8:33)

彼らはアブラハムに示された彼の「真の子孫」であり、地上のすべての諸部族が自らを祝福することの要となる人々である。モーセによれば、彼らは神の特別な所有に帰する、神に買取られた非常に希少な民であるゆえに、特にキリストのような自己犠牲の精神が求められるのである。(ペテロ第一2:21)

では、この「聖徒」はかつてどのように出現したのかを見てゆこう。


◆聖霊は聖徒を内定する

イエスの刑死、生き返り、それから昇天して復活の後、十日を経たシャヴオート(ペンテコステ「五旬節」)の日、以前からキリストが弟子たちに語っていた助け手(パラクレートス)である聖霊がエルサレムに留まっていた弟子ら約120名に灌ぎだされた。(使徒2:1-)

こうして、バプテストのヨハネが「その方は聖霊であなたがたにバプテスマを施すであろう。」と語っていたことが最初に実現することになった。(マタイ3:11) この人々は奇跡的に外国語で神の壮大さを話し始めたが、これ以降は聖霊を授かる人々が急速に増えてゆく。その範囲はやがてユダヤ=イスラエルの血統を越えてゆくことになる。その鍵を開けたのがペテロであった。

使徒ペテロはユダヤ人に、次いでサマリア人に対して「聖なる国民、イスラエル」に加わりイスラエルを補充する道を開いた。そしてローマ人コルネリオにも聖霊を受けるよう「鍵」を解いて、その補填はまったくの異邦人にまで広げられた。また、別の時にはこの「鍵」で閉じても見せた。(マタイ16:19/使徒10:45/使徒8:21)

確かにパウロは異邦人が聖霊に与り聖徒に加えられることについて、「イスラエルの不足を補うため」であると言っている。(ローマ11:7-11) そうして、不信仰を示したイスラエルの不足を補充するために召しだされた人々は、その血統に「接木され」、その一定数を満たすためにイスラエルの父祖アブラハムの財産を受け継ぐ相続人の一員と内定したのである。(ガラテア3:29) なぜ、決定ではなく内定かといえば、彼らは試され、地上で練り浄められ、その身分を生涯の最後まで保って初めてキリストと共なる者、聖なる者(聖徒)のひとりとしての立場を得ることになるからである。(エフェソス1:14)(ルカ13:24-)

霊の灌ぎは、その人の原罪をも仮赦免するものであるが、その理由は彼らが天に召され神の前に出るために必要不可欠であり、地上にあっても主イエスのように聖霊を受けるには、神は御前に「罪」ある肉なる者を容認されない。

そこで、イエスは自らの犠牲の益を最初に弟子たちの適用し、彼らと神との「新しい契約」を仲介することで、神の御前に於ける『義』を信用貸しされた状態に招き入れたのである。 だが、地上に居る『召された者ら』にはアダムの肉体にある以上、実際には『罪』の影響を免れてはおらず、依然として倫理上完全なる『義』には到達していない。(ガラテア5:5)

彼らには契約を保つことが期待される。つまり、主なるキリストに倣い、聖霊の証しを行い、それに命をかけることであろう。(ペテロ第一5:10/黙示録12:11)  

カトリックや正教の歴史には、初期の聖なる者の痕跡が残されており、「聖人」や「聖証者」と呼ばれ、これに列せられるには、複数回の奇跡を行ったことが条件であり、その多くは殉教者であった。

現代の学者J.ダニエルーも、こうした異言などの現象が実際に起こったものと看做している。(キリスト教史1p.26) 初代の彼らの集まり「エックレシア」(召し出された人々)は、こうした聖霊の賜物を持つ特別な人々が中心となって組織され、聖霊が集会の学ぶべき内容が備えられていた。(コリント第一14:26-33)
初代エックレシア内は、ほとんどが聖徒で構成されていたが、初心者や「普通の人」など「新しい契約」に参与しない人々が居たことを幾つかの聖句が伝えている。⇒ 「エクレシア内での信徒と聖徒」

聖霊を持たない人々は、聖徒たちの聖霊の賜物の発現による預言や知識や奇蹟などの益に預かることができたが、彼らはキリストと共に霊体に復活することにはならないので、キリストの体を受け継ぐことを表象するパンと、その契約に参与することを表象するぶどう酒を取り入れることはない。(マタイ26:26-、コリント第一11:21-)

すなわち、聖霊によって灌油された証拠の明瞭でない者は信徒ではあっても聖徒とはなり得ない。それは自他共に判然としたことであった。この賜物は古代の「先見者」のような霊の憑依状態に陥らず、自らの意識をはっきりと保持し、賜物そのものを本人が制御できるものであったことをパウロははっきりと語っている。(コリント第一14:14-15.30)

あるとき、賜物である預言が出来ると偽った者が、本物の聖徒に混じると一致したことが言えずに恥をかくこともあったと「ヘルメスの牧者」などの資料が伝えられている。 こうした、偽の「聖霊」は最後の使徒ヨハネの頃にはあちこちで出回るようになっていたようだ。「霊感の表現はみな試されねばならぬ」と言って、晩年にひとり世に残された十二使徒のヨハネは偽の霊に警戒するように強く促さねばならなかったのである。(ヨハネ第一4:1)


◆聖霊が去るとき

しかし、こうした賜物も何時かは消え去ることをパウロは示唆していた。(コリント第一13:8-)そして古代の資料はこれが二世紀半ばまで存続していたことを指し示している。 ローマのクレメンスは福音書を記した人々のことを「これらの聖徒で、真に聖なる霊を受けた者たち、すなわちキリストの使徒たちは、完全に潔い生活をし、・・(中略)彼らは自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇蹟を行う力だけを使って、神の王国の知識を全世界に述べ伝えた。」*と述べている。

二世紀初頭には護教家のクワドラトゥスが、まだイエスに癒された人々が生存していると述べており、彼自身も預言の霊を持っていた。 150年ころに書かれたと思われる「イザヤの昇天」はシリア方面から預言者が見られなくなったことを嘆いており、ヘゲシッポスは「聖なる使徒たちの合唱隊がそれぞれ絶え、神的なソフィアを自分の耳で聞くことの許された世代が過ぎ去」*った後のキリスト教の混乱を書いている。*(エウセビオス「教会史」 秦 剛平訳)

それまでは、背教に曝されながらもキリスト教界はひとつの形を保つことができ、大規模な離反は起きなかったともいわれている。 パウロは聖霊が各地のエックレシアに教理を教え統一を与えていたことを述べ『神聖な奥義は、かつての世代には今のように聖なる使徒や預言者に霊によって啓示されている程には、人の子らに知らされてはおらず』ゆえに『今や、エックレシアを通して、天界の諸々の支配や権威すらもが神の多様な知恵を得るに至った』。とも言っている。(エフェソス3:5.10)

ペテロも、かつての預言者たちの語った事柄は、当時生きる聖徒のためのものであり『天から遣わされた聖霊を受けてあなたがた(弟子ら)に福音を伝えた人々を通して、今やあなたがたにも知らされている。それを天使らまでもが窺い見たいと願ってさえいる』。とも述べていた。(ペテロ第一1:12)

最後の使徒ヨハネもエフェソスにあって弟子たちを教え、地上に中心地を持たなくても、聖霊は各地の教理に均整をもたらしていた。つまり、キリストは聖霊を通して弟子たちを指導し続け、彼らの中央は天のキリストの許にあったのである。

聖徒の集まりはエックレシアと呼ばれたが、それは「召し出されたもの」を意味しており、実際、集まりのほとんどを構成していたのは聖霊を注がれた聖なる者らであった。 それは黙示録の七つのエックレシアイの間をキリストが歩み、その使いがキリスト自身の右手に把握されていることに象徴されている。当然に、そこでは弟子らを統括するためのエルサレムやヴァチカンのような地上の一点も、代理機関をも必要とはしなかったのである。(黙示録1:20/ヨハネ4:21)

しかし、この聖霊によるキリストの指導体制も終わる時がきた。やがて、聖霊は地上から徐々に引き上げられ、エックレシア内の聖徒の比率は下がってゆき、やがて聖徒は今日に至るまで絶えたのである。 そして、聖霊の降下が終了したことの明瞭な標識となるのが第二世紀後半の聖書疑典の噴出や、異なる預言の霊によるモンタニズムの台頭であったといえる理由がある。

ゆえに、聖霊はキリスト教が揺籃期を脱するまでそれを助けた、と云うことはできない。逆に聖霊降下の終了を第二世紀中葉とみれば、その現実は明らかな混乱と背教の始まりであった。 聖徒たちを失った後のエックレシアは、当然に信徒だけとなり、キリストは「王権を得る為に」旅立って不在となり、キリスト教界への監督は中断されている。

その後のキリスト教はユダヤからまったく離れ、ギリシア人やローマ人などの異邦人によって操られ迷走を始めたとしても不思議はない。聖霊が引き上げられ、ひとたび去ったからである。 ラテン語まで用いられてきた「エックレシア」の名に価しなくなった信徒ばかりの集まりは、やがて中世の間に「主のもの」を意味する「キュリアコン」に由来する「教会」(古英語[cirice])という言葉に置き換えられてゆく。⇒「なぜ教会と呼ばれるか」

その後は信徒も聖徒も曖昧となり、聖書が専ら聖徒に向けて書かれていることもあって、その事情を解さない後代の「クリスチャン」の思いのなかでは、聖書は万人に向けて書かれたことになってしまい、「あなた」と呼びかけられているところは自分にむけた言葉と誰もが思い込み、皆が天にゆくと誤解され始め、或いは、人々に聖霊は今も宿っていると教え始められたのである。

キリスト教徒は、聖書中でわずか三回だけ言及され、しかも外部からの呼称である「クリスチャン」(クリスティアノイ)で自分たちを専ら称するようになると、本来聖書中で多用されている「聖なる者」や「信じる者」の名称を用いなくなってゆく。つまり、「聖徒」が去ったので、その区別の必要が実質的に無くなってしまったのであろう。

そうして皆が只の「クリスチャン」となってしまった。 だからと言って、その「クリスチャン」に「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる気概などあるだろうか?ほとんどは、自分の救いに関心を持つだけのご利益信仰者と成り果ててはいないだろうか。


◆聖徒の再来

しかし、キリストの戻られるときこそ再び聖霊が注がれ、「聖なる者」が現れるとき、「聖徒」は非常に大きな意義を持つに違いない。 それは、聖徒たちが為政者と対峙してキリストの代弁者となるときである。 その論争にあって、「新しい契約」は当事者である聖徒らに、もう一方の契約当事者である神の名をはっきりと知らせるであろう。(詩篇22:22/102:21)⇒「シェム ハ メフォラーシュ」

それこそは人類に忘れられた神の名の再出現となり、聖徒たちはその御名の真実の証人、『御名のための民』となるであろう。彼らは対峙することになる為政者らばかりでなく、全世界の民に広く主イエスの帰還を告知し、神の御名を前面に高く掲げなくてはならない。それこそが終末における世界宣教となり、それは『霊と力の論証』によるものとなり『誰も反駁できないもの』となるという。(マタイ10:16-18/コリント第一2:4/ルカ21:15)

神の至聖の御名は人類の救いに不可欠となることを聖書は再三述べるが、これを終末に知らせる者は聖霊を受ける聖徒、即ちキリストの兄弟ら以外にいったい誰がいると言うのだろうか。(ヨエル2:32/使徒2:21/ヘブル2:12)

今日、神の御名が地上から絶えて忘れられ存在しない理由は、まさしく「新しい契約」に預かる者、真に聖霊を注がれた者がひとりも居ないことの証拠なのである。

このように終末に於いて際立った活躍を行い、また、それが為に迫害を受ける聖なる者らに信仰を示す人々も現れることは、マタイ25章の中の羊と山羊の例えの中で語られている。

即ち、キリストの『兄弟たち』とはキリストと共に『神の子』と認知され聖霊を注がれる『聖なる者たち』に他ならず、迫害される彼らに親切を示し、その立場を支持する者らは『羊』として主の右に分けられ、祝福に入るのである。
イエスはこうも予告している。 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)

また、このようにゲッセマネで祈られた。 『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。・・彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この点は、遠くアブラハムにも語られていた通りである。 『あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のあらゆる氏族はあなたによって祝福を得るであろう。』(創世記12:3)

創世記の古代にアブラハムの裔として予告され、モーセの律法契約の辿り着くべき目標『世の光』となり、ついにキリストの犠牲によって初めて地上に現れた罪を清められた『聖なる者』について、聖書中を貫通する主題であるのがこれほど明らかであっても、ほとんどのキリスト教徒が気付かない現状はどうしたことであろう。これは異様なことではないだろうか。




 新十四日派  ©2011  林 義平
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聖書中にある「聖徒」が格別である根拠
 エクレシア内の信徒と聖徒


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