キリストの教えの究極の目的は何だろうか?

ここでは出来るだけ約めて、なお部外の方にも分かりやすく述べる試みをしてみよう。


まず一言でキリスト教の目的を述べれば
人間の倫理上の欠陥を除去し、神の創造の当初に企図された状態に人間を復帰させる
即ち、それは『愛』により、人が創造者との関係を修復し、人相互にも隣人を見出し、創造の業が完遂されることである。ここにキリスト教の優れた独自性を見出すことができる。

人というものは争わずにはいられない。世界は戦争や犯罪はおろか、隣人と問題を抱えずに生きてはゆけない。これは人類に普遍的に巣食う「倫理上の不完全さ」がもたらしている。人は愛に於いて完全ではなく、利己心に妨げられている。人類に降り掛かる不幸の原因の大半は、この倫理の問題にある。そこでキリストは『神と人を愛せよ』と教える。それが出来ていないからである。
その一方で、神は人を支配し、平伏させることを望んでおらず、崇拝そのものでさえ、エデンの園の記録に見いだすことはない。その必要が無かったからである。 創造の神が人に望むものは支配することではなく愛することであり、愛の絆で神とすべてが結ばれることにある。

倫理上の問題を抱えた人間の現状と、その問題が如何に諸悪の根源であるのかについては⇒ 「アダムからの罪


いまこの瞬間にも不公正や不義が蔓延り、人々の利己的な欲がせめぎ合う世界、それが「この世」という人間社会の実像である。

我々は倫理上に重大な欠陥を抱えているため、互いに争い奪い合うばかりか、聖書によれば、創造者の企図から離れて神からも疎外されてしまっている。また、神との隔絶のために宗教も必要としている。 我々の誰もが、自分から存在するようになったわけではない。それで、人生の目的を問うのだが、宗教家であっても誰もが納得できるような普遍的正解は誰も持ち合わせていない。ただ、様々に答えと思われる事柄、即ち多様な宗教を陳列するばかりとなっている。創造者との間に断絶があるからであり、その答えを得るには、創造者との意思の疎通を必須とするのである。

明らかに我々人間には倫理上に問題があるので、日毎にこの欠陥のために互いに傷つけ合い、重い苦難を多様に受けている現実がある。実際、人が受ける苦難の大半は、人間自身の悪に原因をもってはいないだろうか?

聖書が描写するように、人間は奪い続け、戦い続け、それでも充分には得るところがないので、なおも闘争を続けて来たが、既に地球環境も破壊してしまったようである。(ヤコブ4:1-3)


その人間の倫理欠陥を聖書では『罪』と呼ぶが、それは個人が犯す特定の悪行をほぼ意味しない。
人類社会の不道徳性や闘争性や利己性は全く隠しようもなく表れている。これが聖書中で『罪』と呼ばれるものである。

しかし、生まれたときからこの世界に住む我々には不道徳な人間の性質も当たり前のように見えるかもしれない。だが、この倫理上の欠陥こそが、まさしく人類に虚しい生涯と多大の苦しみをもたらし、神との関係をも破壊しているのである。(イザヤ59:2)
だが、人が全く悪ばかり行うわけではない、生まれながらに憑りついた『罪』の影響を免れず、善を行い通すことができないのである。それでも我々は『罪』の対極にある『愛』を表すこともできる。それゆえキリストは『愛せ』と命じられるのである。


『罪』を負った『この世』の在り様は、神の意図した創造当初の規格からは相当に逸脱した混乱した虚しい人生の舞台となっている。それは幾らかの世相を見るだけでさえ余りにも明らかである。

人に苦をもたらす不倫理性を、仏教では一般的に『業』(カルマ)という言葉で言い表すなら、キリスト教においては『罪』(ハマルティア)という言葉によって苦の原因を言う。

どちらも、人間の倫理的欠陥を宗教の中心的主題に置いているのだが、仏教がそれを『業』に応じた輪廻転生と最終的な「解脱」に答えを与えるのに対し、キリスト教では『罪への悔い』と『贖罪』(しょくざい)によって不倫理性が浄化されることを説くのである。すなわち『罪』なきキリストの犠牲の死による人の『罪』への代償の支払いである。

したがって、キリスト教での『罪』とは「原罪」といわれることもあるように、特定の悪行を指すわけではない。キリストは『罪を行う者は、罪の奴隷となっている』と言う。そこで悔いが求められるのは、人間の誰もが逃れられない倫理上の欠陥についてである。 それゆえキリストは『人の犯すあらゆる罪も冒涜も赦される』という。ただ、「頑なで悔いることのない罪」はその限りとならない。

人は「この世」を生きるように創られてはいない。『神の象りに創られた』とされる人間にとって「この世」は本来生きるべき場ではない。そこで様々な不適応が多くの人に出るとしても何ら不思議はないのである。人の一生を空しく感じるとしてもそれは自然な反応であり、それゆえにも人類は宗教を必要としてきたのであろう。


この倫理上の欠陥にまとわれた事の発端はといえば、聖書の伝えるように、それが「禁断の木の実」をとって食したという最初の人間夫婦に由来する。そうであれば、これを免れる人は誰もいないことになる。そしてこの世の有様に見えるように、人は誰も実際に不倫理性を免れておらず、永く刻まれた歴史からも、人類が倫理上に問題を抱えていることを否応なく知らされていないだろうか。

さて、エデンにおけるその最初の悪行においての根本的問題の所在は、創造者への敬愛の無さであり、それが第一にされるべき創造神との関係性を損ない、倫理という社会関係性の基礎の基礎を破壊してしまったので、以後の人間には悪がつきまとう。

つまり我々は皆が「他者とどう生きるべきか」を弁えてはいないのである。それは不治の病のようであり、我々は誰も争いから免れ得ず、自分の欲ために他者を押し退けるのだが、このままであれば永久に争い続けるか、何時の日にか自滅してしまうのであろう。

他方で、その『罪』の反対に位置するのが『愛』であり、キリスト教ではこの『愛』を「アガペー」と呼ぶ。 
新約聖書では『愛は人に悪を行わず、法を全うする』というのである。

人間に倫理的欠陥のない世界、つまり利己心、貪欲、争いなどのない人間社会を想像することができるだろうか。

しかも、創造の神との間にすら平和がある。人は老化や寿命に拘束されず、経験したことのない人間として創造された本来の輝かしい状態に入る。そこでは、今日の諸々の苦しみがその元から断たれるだろう。それが「アガペー」の支配する社会像といえるのである。

『罪』のない人は、人とどう生きるべきかを弁え知っており、神との間にも断ち難く深い絆が結ばれる。
その結果として、世界は創造の神の意図したままの輝かしいばかりの栄光に満ち、人々は存在したことのないほどの美を極め、これまで経験したことのないほどの繁栄を謳歌することであろう。

キリストの教えの根本はこの『愛』であって、最も必要でありながら、この世に欠けたものである。人は身近な家族や友人を愛するので、愛はこの世に無いとはいえないが、キリストはこのように言われるのである。

『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。』『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(マタイ5:46・44)
人々がこの通りに行えるなら、この世は今とは違っていることであろう。だがこれは実に難しい。
そして神は、この実践が人間には不可能であることを認めているので、イエス・キリストを『罪の贖い』のために任じたと聖書は教えているのである。


だが、そのような世界が却って面白みに欠け、争いや苦しみあっての人生だというように思われる向きは、以下をご覧頂いても意味を成さないと思われる。

あるいは意義を感じられる方々に、倫理的回復の手立てについて以下に書き出してみよう。


------------------------------------

◆人間の倫理問題の解決

創世記に語られる人間と神との断絶の話を信じようといまいと、人間が例外なく「そこそこの悪党」であることは、それぞれ個人のよくよく味わい知るところであろう。(詩篇14:2-)

この倫理上の欠陥は神と人をも隔てたが(イザヤ59:2)、創造者と人との和解の目的のために、神の意志によって仲介者が立てられた。聖書はこう云う。
『神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスである。』(テモテ第一2:5)

この神と人との和解が、アブラハムの宗教、ユダヤ教、キリスト教の目的であり、悠久の時を貫く不変のテーマとなってきた。(コリント第二5:19)

その和解の仲介者は、人間の先祖アダムが為した、禁令を破る行為によって失われた人の善性と命を請け戻すべく、自ら人間のひとりとなり、その命をアダムの失った命#の贖い代として差出すことで、その子孫を老化して死に向かう不完全な命から開放する役割を喜んで担ったのである。(ローマ5:12-)

仲介の役が果たせる以上、彼は元々人間ではなかったが、神の創造の業をも委ねられていた存在で、神が自ら創造したのはこの者だけであったから、「神のひとり子」とも言われている。(コロサイ1:15-16/ヨハネ1:1-3)

キリストが処女懐胎によって誕生した道理はここにある。 

イエス・キリストがアダムの子孫なら、ただの『罪』ある人でしかない。


人類のはじまりであるアダムは、木の実の禁令を犯し、神の否認したことによって、自分ばかりか子孫すべてを神の創造物の輝かしさから遠ざけてしまい、神から遊離した根無し草のように不安定な存在としてしまった。
そうしてアダムは、老化して死に向かう虚しい運命に自分と子孫を諸共に一度限り売り渡してしまったのである。その動機を要約するとエヴァを選んで、その妻との関係を創造者より上に置いたところにあった。(創世記3:12・19)

そこに神の落ち度はなく、それはアダムの「神の象り」としての責任を伴う、二本の木の実に関わる意志の自由を守るための二択であった。もう一本の木は「永遠の命の木」であったのだ。
だが、アダムは創造神との関係を否認する選択をしたので、それは自分の存在の由来を否定したことで、あらゆる不義の第一歩となり、人の倫理を土台から破壊してしまった。(創世記1:26)


しかし、「仲介者」は神と人との断絶に心を痛めていたことであろう。彼は神と人間を大変愛しており、自らの死を捧げてまで神と人との和解のために働いたのである。(箴言8:31)


その和解のを受け入れるために、人は神を神としなければならないが、人間社会は大半において常に、創造の神には信仰していてすら無頓着であった。多くの人々は神を崇拝するにしても利己的に利益を求めて決め付けてきたからであり、神自身の意向を探ろうとはしてこなかったのである。

即ち「神は自分に何をしてくれるのか」を問うところの「ご利益崇拝」が宗教の専らとする姿であり、キリスト教の人々でさえキリストの自己犠牲に感化もされず、結果的にであれ、キリストの上にあぐらをかいて、自分が救われるために犠牲を捧げる下僕としてしまう。それでキリストを信奉していると言えたものだろうか。(コリント第二5:15)

さて、神を認めない最初の行いはエデンの園で為されたために、遺伝によりアダムのすべての子孫である人間は倫理において不完全となっているがこれを「原罪」ともいう。(創世記3:17-19)

即ち、第一原因者たる創造者を神として敢えて否認することは、創造物である人間にとって、あらゆる倫理の基礎を損なうものであったので、以後、アダムの子孫は皆が悪を行う者とされてしまったのである。(ローマ5:12)
 

それゆえ仲介者が、創造物としての相応しい「神の子」の立場に人類を復させるためには、人の命に宿ってしまっている『罪』を何とかしなければならない。
そこでアダム本来の命#の代替となる別の命#の「贖い」(あがない)を差し出される必要があった。そこで贖いの代価を備えるべくキリストは人となり地上に生まれた。(ローマ5:18-19)

それだけでなく、各個人が「神を神として認める」意思を見届ける必要があるが、これは「信仰」によって人々が選別されることであり「裁き」と呼ばれる。(ペテロ第二3:7)

その「裁き」で問われるのは『罪を悔いる』こと、また、キリストに託された「贖い」に『信仰を抱く』ことである。その貴重な代価の意味を知らされてすら、求めず感謝もしない者に、どうして赦しを与える必要があるだろう。それはアダムと同じ道を行くことではないか。



------------------------------------

◆倫理性を回復する過程(贖罪「しょくざい」)

キリストと称されるこの仲介者は、まず人間となるに当たって、罪以前のアダムと同様の無垢な命#を持つべく、アダムの血統によらない方法で人間社会に来た。そこで彼は地上で、キリスト(任じられた者)・イエスと呼ばれた。(マタイ1:20-21)

それから、不法や誘惑を退けつつ、自らの倫理的に欠けるところのない生命#を犠牲として捧げ、地上に人として到来した目的を果たした。(テモテ第一2:6)


この犠牲が捧げられ、既に「贖いの代価」は払われ、神の御前に満たされているので、それはすべての人が用いられる状態となっているが、その犠牲の価値を運用して人々に罪の赦しをもたらす「神の王国」と呼ばれる神からの手立てが待たれている。キリストを王とするこの王国は、「この世の終り」に際して存在するようになるという。(ローマ3:24/5:10)

そして、この仲介者が次に行うのは、「神を神とするか」というエデンの問いに対して「神の象りに創られた」人々が自由意志を行使して、どう答えるのかを見極める「裁き」であり、これも世の終末に行われるという。(ヨエル3:12/マタイ25:31)⇒「終末の裁きで何が問われるか」

あらゆる個々の人々によってこの選択が行われてこそ、創造の業が完遂し、世界が神の意図した通りの栄光を得るところとなるのであり、世界の人々は、世の終わりに再来するキリストの前に右と左に分けられるというのである。(マタイ25:31-)

『この世』というものは、アダムの血統を通してすべての人が出揃うのを待つ場であると同時に、『罪』のもたらす害悪の実情の証しをすべての世代が見ることにもなってきた。
それを各人がどう判断するか、キリストを頼り『罪』を悔いるか、あるいは神を否認して『罪』に留まるかは、それぞれの前に置かれた『エデンの木』のようになる。

人間を自らの象りとした神は、この問題に対してひとりひとりの自由な決定を行わせるであろう。
アダムのときのように神は人からの敬愛を強要しない。そうでなければ、真実の愛は存在しないからであり、アダムの道を行こうとする者が出ることは避けられない。⇒ 神の象り」に込められた神の愛


しかし、必ずや神を神とすることを望む者たちも居るに違いない。彼らを不敬虔な者らから選り分けて、仲介者自らが犠牲として差し出した生命#の代価を以って、彼らを『罪の奴隷』状態から買取り、彼らの倫理上の欠陥である「罪」を取り除く過程となる『神の王国』または『天の王国』の地上支配と贖罪の祭祀の下に入れるであろう。(黙示録20:6)これがキリスト教会で「天国」と誤解されてきたものである。

その過程は、黙示録において「千年続く王国」+と記されている。(黙示録20:4)
だが、この贖罪の機構である『神の王国』の助けを望まない人々は、この千年の始まる前に、神を認めぬ行動を通して動かぬ決意を示し、神と人との戦いを起こすにまで進み、その後果を刈り取ることになる。それが、創造者との戦いで人間に勝ち目なく、勝敗が顕著に分かれるという意味での、所謂「ハルマゲドン」の戦いである。(黙示録16:16/ゼパニヤ1:17-)

さて、これらはすべての生ける者に対する仲介者の処置(裁き)である。(マタイ25:31-)
一方、千年が終わると、一般の死者(聖徒*ではなく)たちの無数の復活が起こる。(使徒24:15)
この「死者の復活」こそが聖書教の特徴であり、まさしく創造者こそが為し得ることではないか。

それが起こる時、一度死んだ者は「死」という「罪の報い」を既に受けており、神の業は完全であるゆえに、生き返る彼らのすべては仲介者キリストの生命#の贖い(代替)によって、原初のアダムのような罪無き命#をもって復活するであろう。(ローマ6:23/マタイ12:41)
彼らにも、エデンの『二本の木』の選択が問われなくてはならない。


------------------------------------

◆倫理性を回復した人間への要求

千年の神の王国の終わった後に復活するこの無数の群衆には既に仲介の必要はなく、この人々を裁くのはもはや仲介者の仕事ではなくなる。(コリント第一15:24-28)
そして、千年間の贖罪を受け死を一度も経なかった人々も倫理的状態は同様に完全となっている。

ここで、「エデンの問い」は最終的なものとなろう。

仲介者キリストはすでにこの件に関する働きを果たし終えているのであるから、あとは個々の人がまったく自由な選択者として、直接神にどう答えるかが裁かれるであろう。(黙示録20:11)

神はこの人々にも、敬愛を強要しない。そこで再び現れる蛇の誘惑に陥る人々は少なくないが、これらの人々は、遂に「老いたる蛇」であるサタン(反抗者の意)共々、永久の滅びに裁かれるに至り、こうして、神の創造の業は完遂され、その意志は尽く世界に行き渡ることになる。(黙示録20:7-)


彼らは神の子としての関係に復すことを願うのか、或いは、神を認めず敬わずに「神のように」(対等に)なろうとして「蛇」の道を行こうとするのか?(創世記3:5)
この「蛇」で表されるのは、被造物の中で一番に神からの独立を宣して「罪」の道に入った天使でありサタン(反抗者)と呼ばれる。(黙示録12:9)

堕天使である「蛇」は、自らの自由意志から神を愛さず、創造界に利己心と無秩序を持ち込んだが、それは人間界にもよくよく観察される。我々は隣人を愛し、助け合う能力が無いわけでもないが、どうしても他者を愛するよりは欲に従い、隣人との争いを止めることができない。

もし、それが当然だと思うなら、その人は神の人間に対する倫理回復の手立てにそう関心も持てないであろう。これこそは、その自由な意思の選択であり、それは「エデンの問い」に連なるものとなろう。その人は『永遠の命の木』から食すことはあるまい。なぜなら、他者とどう関わって生きてゆくかという「倫理」を弁えない以上、永遠に生きるどんな理由があろう。

この問いについては、今はあれやこれやと想像できても、それはあまりに深遠な問題である。それでも、ひとつのことは明らかであるように思われる。

それは、「エデンの問い」は神への愛が問われるであろうことである。その反対に位置するのは自己への愛であるように思われる。

神に象られた創造物は、自己を存在させた創造者との関係性(愛)を以って初めて存在理由を得るからである。
その点、「仲介者」の示した神への愛、そして人への愛は深い教訓に満ちたものであろう。

愛を抱く者は死から生に移るという使徒ヨハネの言葉は、生き続ける理由が愛による以外ないことを見事に一言で表していないだろうか。(ヨハネ第一3:14)
「倫理」、即ち、「隣人とどう生きてゆくか」をわきまえない者が永遠に生きるとすれば、それは大きな矛盾であって、創造界から無秩序はなくならず、神の創造の意図は永久に成し遂げられないことになる。

それゆえ『罪』をキリストの犠牲によって赦され、『神の子』となって生きるということは、神が永遠であるように共に生き続けることを意味しよう。(詩篇90:2/ハバクク1:12)

以上が人間に関するキリスト教の目的である。


したがって、我々の眼前にある「この世」は人類を創造した神の是認を受けるようなものではあり得ない。
そこに神の摂理もなく、キリストの信仰者を特別に贔屓もしない。「この世」とは、ただ法則によって自動化された世界なのである。
しかし、神は「この世」をその汚された状態から、創造の当初の輝かしい状態に戻し、自らの栄光を反映する人間へと「救う」ことを意図された。

そこで、聖書はこう云うのである。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)

これは、「この世」をできるだけ住みよい場所に改善してゆく、というようなことではないし、個人の人生をより良いものにするということでもけっしてなく、道徳的な生き方を求めているのでもない。神の意図はそのように凡庸ではない。

むしろ、人間が創造者を意に介さずに成立させている「この世の有様」をひっくりかえして一変させてしまうものである。そこで聖書には終末、即ち「この世の終り」が避けられない。

だが、神はすべて人々に選択の機会を必ずもたらすという。即ち、救いを選ぶか否かというエデンの問いは思想信条に関わり無くすべての人に問われるのが終末である。

キリストが再び来る不定の将来に、その終末が訪れることになることを聖書は告げている。



---------------------------------------------

しかし、この仲介者キリストには神に関しても成し遂げる目的がある


それは、この仲介者が神の最初の創造物であり、第二の立場にあるゆえにこそ可能なことである。(コロサイ1:15)


創造界で神から離反していたのは人間だけでない。「蛇」を初めとする堕天使らである。(黙示録12:9)

ここでは仲介者としてだけではなく、彼は全創造物の「初子」として大きな働きをした。

つまり、この初子が創造の父を「神たるもの」とするとき、この第二位以下のすべての被造物は神を崇めるべき理由が生じることになる。


そのため、初子は地上に来て「蛇」である堕天使サタンの誘惑を度々受けたが、初子はこれを退けて遂に刑死に至るまで一途に神への忠節を尽くした。

初子の忠節な死を以って、神は神たるものとされるべきことが確定し、論議は既に終了している。それは堕天使らにも霊に復活した初子から伝えられたが、この件に関する蛇らの反論はまったく不可能となった。(ヘブライ2:14/ペテロ第一3:19/ヨハネ16:11)


最後の試みにおけるすべての人々の裁きに続き、堕天使らにも終わりが訪れる。これらの者らの滅びが(象徴的に)いつまでも破滅の火の中から煙を上げ続けることで、神の神性の証しも永遠に亘るものとなる。(黙示録21:8)

---------------------------------------------

◆被造物の裁き

こうして倫理の基礎が確立され、神が神であるということが全創造界に自由意志によりながらも秩序をもたらすことになり、すべての権威や権力を必要としない平和な関係がもたらされるのである。

神の初子は他の知的創造物すべての調和と神との絆の要となるが、殊に人間の父祖アダムに代わって『とこしえの父』となるので、人類はアダムの命によらず、初子キリストの命にあって永生を賜る機会が拓かれる。

こうして、初子は父である神を愛し、その神性を擁護する礎となり、その証しは神の最大の栄光となった。そこには創造者と被造物の強い絆が象徴され、且つこのうえなく具現する。
初子はさらに進んで、すべての被造物を神に帰せしめ、己を神とする者を永遠に絶やすことになる。(コリント第一15:24-)


こうして、政治的権力という一切の強制の必要の無い、また神も権威を翳す必要の無い、あたかも家族のような姿が神と被造物の間に見られるようになるであろう。(黙示録21:3)

人は神に語りかけ、神はイエスにそうしたように実際に答える。(イザヤ65:24)
そこでは所謂「宗教」の必要も無くなってしまい、「罪」のもたらす神と人の断絶は過去のものとなる。

倫理上の欠陥から開放された人類には、政治と宗教の必要が無くなってしまうが、これもキリスト教の究極の目的といえる。
人間の政治と宗教はふたつながらに、人間の罪への対症療法に過ぎず、神による根本治療がなされた後には何らの意味も持たないからである。


⇒ 人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか?




           新十四日派  © 林 義平


-----------------------------------------------
#この「命」or「生命」は、正しくは「魂」(ネフェシュ)であるが、初学者の誤解を避けた。
*「聖徒」:キリストと共になって、人間から倫理的欠陥を千年の間に除去し、その間の統治を行うために信徒から選ばれた者で、千年の前に復活あるいは召しを受け「神の王国」+を構成する。「聖なる者たち」ie「神のイスラエル」。
+「千年王国」ie「神の王国」:始祖アブラハムの真の「子孫」ie「裔」=「神のイスラエル」で構成される人類救出のための手段となる『王なる祭司』とされる格別な人々。

関連項目⇒「エデンの園の二本の木の意味

以上の観点に基づいたキリスト教解説書 ⇒ 「神YHWHの経綸」

-----------------------------------------------
また、上記のほかにもうひとつ、創造の業の完遂に於いて、神自身が直接に成し遂げる恐るべき至上命題がある。
だが、それを説明するとどうしても長い文章になろう。
また、初心者向けの内容ではないと思えるので、ここでは割愛し別の頁にまとめたい。

⇒ 神名浄化の至上命題「シェム ハ メホラーシュ」

-----------------------------------------------

◆このブログの
記事一覧