七つの時と八人目の王(ダニエル書と黙示録の理解について) 
 <難易度 ☆☆☆☆☆ 高>


エフェソス人への書簡の第一章には、『神の奥義(ミュステーリオン)の家令』としての使徒パウロの面目躍如たる教え、驚異的に高度な認識が示されている。

聖霊を受けた『聖なる者たち』には、どれほど価値の高いものを相続されるかについて知らされており、その『神の王国』というこの上ない相続財産を受け継ぐことの印(「約束手形」アッラボーン)が、その受けた聖霊であることを知らせているのである。

その相続物である『王国』とは即ち、『時の満ちるに及んで実現されるオイコノミアである。』それは、『天にあるものと地にあるものとを、尽くキリストにあって一つに帰せしめる』神の意志であるという。(エフェソス1:10)
ここで神の意志について、「家計」を含意する「オイコノミア」と記される相応しさが、キリストの許に天地のあらゆるものが集められるという概念に寄り添うものとなっている。

(口語訳はエペソ1:10としてオイコノミアを「ご計画」とし、こう訳している。『 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。』)

「オイコノミア」とは「エコノミー」の語源であり、この英語は「経済」の意味で広く知られている。
その語源となったこのギリシア語[oikonomia]には、「分配」や「務め」、また「計画」、「管理」あるいは「家計」の意味合いで訳されている。「家計」つまり、生計を一にする一家の遣り繰りを含むニュアンスである。 

古来、この語は神学的に云うと、神が摂理によって、世界の中の万物を配慮し、究極目的のために配置することを表してきたという。即ち、創造者による統一的な創造物の配置であり、創造界の秩序付けと言える。

そこに分裂はなく、ひとつの家族のように全ての知的被創造者の集合秩序が形成され、それまでもたらされなかった創造界全体の一致の実現が示唆されている。そのオイコノミアに拠って初めて、神の創造の企図の完遂がある。

確かに万物は存在するようになったが、未だ完全なる秩序を得るには至っていない。むしろ、世界は神を意に介さず利己心と貪欲が推動するばかりの不一致にある。
それが為に、

一家庭に対して世界は「他人」であって、ほとんどの人々は自分の家庭を維持するのが手一杯であり、親戚や余程に親しい友人でもなければ、他人の世話までは無償では出来たものではない。
そこには、物を創造するだけでは存在しない「あるもの」が足りず、それこそが「ヘセド」或いは「アガペー」という存在者同士の絆と言えよう。

そこで「オイコノミア」の要となる初子キリストの神への忠節な愛によって、その御父は高められ、創造者たる神こそがまさに神であることが立証され、全創造物に一致の礎が置かれることになるのである。神はこの御子に、ほかの誰にも優る名と立場を与え、新たな創造界の礎として据えられたともパウロは言う。 (フィリピ2:6-10)

即ち、御子イエスは、地上の歩みを死に至るまで父たる神に忠節を尽くして愛を体現され、こうして天使であれ人間であれ、キリストが神を如何に愛するべきかを身を以て示し、同時に創造物を一致させる計画(オイコノミア)の要となったのである。その忠節な死によって『無に帰せしめられた』のは、サタンとその道を行く者らであった。(ヘブライ2:14)

新約聖書では、この「オイコノミア」を9回用いているが、多くが「務め」または「管理」と訳されている。あるいは使徒パウロの仲間内での役割についてを意味し、あるいはルカ福音書で、例え話の中で、免職になることの決まった「家令の仕事」についてこの「オイコノミア」が主人の「家の会計」として用いられている。(ルカ16:2-)

だが、エフェソス人への手紙では様相を異にしているのである。
それは「神のオイコノミア(「計画」または「経綸」)」であって、そこでパウロは、主イエスから委ねられた自らの「家令の務め」をも遥かに超える「オイコノミア」に言及しているのである。

神は『時の満ちる』を待って、キリストをすべてのものの相続者とし、創造物の集められたすべてのものを「管理させるため」(エイス オイコノミアン)予め定めたのであった。それは即ち、キリストによる神のオイコノミアなのである。(エフェソス1:10/ヘブライ1:2)

これほどの『奥義』(ミュステーリオン)を伝えるエフェソス書簡を、真正なパウロの手に拠るものでない「偽書」であると唱える人々は、この類い稀な情報の源を何であると称するのであろう。また、これを『奥義の家令』たる使徒パウロ以外のどんな人物に由来するものと見做すのであろうか?
これについては、人々が自ら読んで自らの価値観を以って判断すればよろしかろう。 

しかし、エフェソス書は、この「目的」と訳されることの多い「オイコノミア」を通してキリストの相続の大きな意義を指し示したところは傑出しているというべきであろう。

このオイコノミアは、『神の王国』による千年支配を表すものであり、サタンの反抗と中傷によってかき乱された創造界の調和が回復されるという、創造者による天使や人間など『神の象り』を有する者らへの、その自己決定権を尊重した遠大な計画(経綸)であり、エフェソス人への書簡のはじまりの簡潔な文体の中に、これほど偉大な神の経綸が示されているのである。

アダムに対してエデンの二本の木が選択の機会を開いたように、すべての理知的で創造者との関係性を結べる存在には、創造者との適正で双方向の忠節な愛が必要とされ、また試されるのである。そのように試された不動の愛は、創造の段階では未だ存在していなかったが、それはキリストによってまったく示された。

この点で、サタンは創造物でありながら、創造者に抗う者と自ら変じ『サタン』(反抗者)と呼ばれるに至り、また、神な対抗する仲間を増やそうとの思惑から中傷する者「悪魔」(ディアボロス)と成り果てたのであった。

自ら選んで、この創造界の乱れに入った者らは、当然ながら神のオイコノミアの埒外にあり、『神の王国』というオイコノミアの範疇に入るのは、神を愛し、その創造の業の輝かしい達成を願う利他的な者らである。そこには、これまでサタンに始まる利己心に曇らされ見られなかったような一致が天にも地にも訪れることであろう。

その一方で、それぞれが我欲にまみれる『この世』には平和などはない。
イザヤ書は邪悪な者らの状態を『邪悪な者共は、波の荒い海のようだ。静まることができず、その水はついに泥と汚物とを打ち上げる。』と描写しているが、まさしく世界とはそのようなところとなっている。(イザヤ57:20)

また、イエスの弟ヤコブもこう言う。
『妬みや闘争心のあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。』(ヤコブ3:16)

『この世』は貪欲を動力とし、利己主義を指針として歩み続けてきたが、この21世紀に至っては、無法な人間の歩みは地球環境までをも壊して巻き込み、事の結論が誰の目にも見え始めるようなところにまで差し掛かっているのである。おそらくは、もはや人間自身でこの利己主義の結論を負いきることもできないのであろう。


◆七つの頭を持つ龍

利己心と不一致を以って創造界を乱し始めたサタンを、黙示録は『七つの頭を持つ龍』として描き出している。
サタンである龍の頭が七つに分割されたのは、サタンはキリストと異なり、けっして支配の統一をもたらせない事を表していよう。 
その頭が分かれているからには、意志も目的もそれぞれに一致しないことであろう。それは利己主義の当然の報いとも言える。

このように、頭が分割されているのはサタンとされる『龍』ばかりではなく、黙示録には、同じように七つに頭が分かれた『獣』も登場しているが、この異様な獣についての黙示の意味には極めて重いものがあると言えよう。

さて、黙示録と同じく黙示を扱う旧約のダニエル書によれば、『獣』は政治権力の象徴として再三登場している。
黙示録のように頭が複数あるものは、四つの国々に分かれたアレクサンドロス大王以降のギリシアを表しているであろう。

そこで、黙示録に現れる七つ頭の野獣に、多くの権力の連合を見ることは不自然ではあるまい。
その七つという頭の数がサタンを表す『龍』と同じであることは、利己的不一致という両者の性質上の類似性を示しているように思われる。

黙示録は、七つの権力について『七人の王がいる、五人は既に倒れ、一人は今おり、後一人は未だ到来していないが、来たならしばらくの間留まらねばならない。そして、かつては居たが、今は居ない野獣は、それ自身が八番目の王でもあるが、七つから出て滅び去ってゆく』と記して、この野獣を歴史上の権力の存在と関連付けている。(黙示録17:10-11)

従って、黙示録に現れる、『七つ頭の野獣』は、それ一つの頭が一つの権力の象徴であり、『42ヶ月』と短命ではあるが、『聖なる者らを滅ぼすことを許された』サタンの『神の王国』に対抗するための特別誂えの武器である。

それは、聖霊の再降下によって終末に現れる『聖徒たち』に向けて形作られる、新たな集合権力機構であり、『七つから出る』ということは、そのときに存在する第七の権力の内から派生して現れるところにおいて、『王』として姿は他の七人とは相当に異なった特殊なものであり、且つ、七つの頭に象徴されるように、そこに十分な一致は無いのであろう。
つまりは『聖徒』の現れに即応した、臨時に糾合された諸政府の権力の集合体なのであろう。

その頭の分割を人間社会に見ると、大洪水後の神の言語分離に発し、ニムロデの人類統一支配を阻止して以来のことである。 爾来、人類は一度も統一されたことがない。
確かに、神のもたらした言語の相違というものは、民族や政体を分かち、その文法構造や文字は思考方法や民族の特性にまで影響を与えるものとなっている。 

七つ頭の野獣が『そこ知れぬ深みから現れる』とは、シュメール初期の都市革命という太古にだけ存在した、人類全支配の野望の再来を示唆していると観ることができよう。神による言語分離の多大の影響は、本来なら一つの頭を持ち、人類を統一できたであろうニムロデというサタンの代理支配を打ち砕いたことに於いて、その第一の頭は屠られたかのようにされていたであろう。 (黙示録13:3)

だが、聖徒らの出現と、神の王国という、真に人類を統一して支配し得る政体の登場が真近に迫る中、サタンは、不恰好に七つに分割された頭を持ったままの野獣とはいえ、その歴史上に存在した七つの覇権を合わせ持った、あるいは、言語や文化や国民性などで、様々に分かたれた人類支配を仮に一本化したような、諸政府の権力の糾合を成し遂げ、地上に具現化するのであろう。
 
それゆえ、諸政府の持つ権力の集合体を目にする大衆は『誰がこれと戦い得るか』と瞠目するのであれば、歴史上に存在してきた権力欲に貪婪であった覇権国家をすべて合わせたようなこの獣の醜さは、飽くなき貪りと争奪においての野蛮さが際立つに違いない。
 
そこに於いて、ニムロデの時代に神の一撃によって屠られたかのように潰えた人類支配の野望は、息を吹き返し奈落の果てから蘇ることで、『かつては居たが、今はおらず、やがて底知れぬ深みから登って来る』という黙示録の言葉は、俄かに現実味を帯びるのである。 この強烈で飽くことを知らない人間の支配欲の野望こそが、神に任命された偉大なる王キリストに立ち向かい得るかのように看做される。
 
この野獣は七つの頭を持つことでは、やはり分裂していることに変わりはないのだが、何らかの協定や同盟により、俄か仕立ての合体が成されるのであろう。 つまりは神の王国に対決するための野合である。
 
しかし、その不恰好な統一の無さはやはり弱点であり、それは、この野獣が過ぎ去り、野獣の像に置き換えられた後の最終的な事態の進展、ハルマゲドンの戦いに於いて、決定的な崩壊の原因を成す。即ち、権力相互の同士討ちであり、『エホシャファトの谷』の再現となる。七つの頭はそれぞれにせめぎ合い、それが自ら消滅の原因をもたらすのであろう。 (黙示録16:16/ヨエル3:12)

また、ダニエル書のネブカドネッツァルの夢解きに現れる、巨木が倒されて経る『七つ時』もこの黙示録の視座から観てゆくと理解の視界は更に良好となる。
エフェソスでパウロが語ったオイコノミア実現の以前に『終了する定められた期間』が『七つの時』であるなら、それはニムロデ以来の歴史上に続いた一連の覇権を表していると見做すことができる。 
 
しかし、神は人類統一の権威をメシアにのみ許されるのであり、それはニムロデのときと何ら変わらない。だからとて、メシアが神にその権威を帰すとき、『すべての権威と権力とを打ち滅ぼして』というのは、神が人類を支配するようになるというわけではなく、『罪』が贖われた人々に支配の必要はなくなるのであり、それは神がアダムを支配しなかったところに表れている。(コリント第一15:24)
『燃えて回転する剣』という最初の支配権が現れたのも、人間が倫理上に欠陥を抱えたゆえのことであって、そこに人を強制する最初の「権力」が現れている。
以後、人は支配されなくては秩序を保てない存在となったのである。



◆巨木が倒されて経る『七つ時』

さて、ネブカドネッツァルの見た夢が実際にその身の上に起こり、王として執務できないばかりか、野の獣のように草を食らってしばらくの期間を過ごしたのであれば、王権を巡る継承権争いや簒奪者による熾烈な争いや暗殺などが当然の事として予想される巨大な権力の渦中にあって、それでも偉大な王座に戻ることが出来たのなら、それは真に異例中の異例というべきであろう。

元首制でなかったローマ共和政時代でさえ、ユリウス・カエサルが「唯一、悪を行って良いのは、王に成るときだ」という言葉を好んだというが、彼のように帝位を窺っていた者はどんな王朝でも側近や貴族に珍しくもない。

ネブカドネッツァルという大王の卓越性を以ってしても、彼が陥った理性ない状態からして、王権は奪い取られて当然とみるべきで、『七つの時を経ても』なお保持されたというところで、ネブカドネッツァルも王権を自在に与える『天の神』に大いに驚き、これを称賛するに至ったに違いない。
この大王が学んだのは『至高者が人間の国を治めて、意のままにこれを人に与えられることを知るに至る』 ことであった。(ダニエル4:25)

したがって、この夢の成就についての意義は、ニムロデから七つ続いた世界覇権の数々ではあったが、世界の歴史を埋め尽くすその間には、人類支配の権利は、覇権国家ローマに処刑されるほど身分の低いキリストの手中にも、聖徒らのものともなるようにも到底見えなかった。その点を、ネブカドネッツァル自身が身をもって経験したのであり、それでも支配権をどれほど身を窶した人物にであろうと、例え迫害に消えていった身であろうと、その王権を神は切株に箍をはめるかのようにして守り、自在に誰にでも与えることができることを例証して見せたのである。

ニムロデの支配欲は、まことにサタンのものと合致しているようである。
その支配欲は病的ものでさえあり、際限なくより多くを望むという人間の宿痾である「貪欲」を究極的に体現するほどのものであったろう。
今日でも、覇権を求めるなら、そこには際限がない。覇権主義の行く付く先は必ず世界支配であり、それは、人というものの飽くなき貪欲が、既に証しを立てている。
その以前にも、国家主権というものでさえ、この世に於ける最大の権威であり、それぞれが権益の拡大を望んでいる。つまりは人が懐く貪欲の拡大形であり、人間の貪欲に限りが無いように、それぞれの国家主権もその拡張の機会を窺うことにおいて最終的に世界を手に入れることを目指すのであろう。
 
それはまさしくサタンの妥協ない欲であり悪であり、すべてを手中に納めなければ終わらない。それがもたらすものは、優越感と悲壮感の入り混じる不一致と混沌であろう。国家主権とは現存する最大で最強のわがままと言えよう。それは害を為す究極の貪欲である。

その中でとりわけ世界覇権とは、そのように次から次へと果てしなく続く各国家の自己愛を押し進めて拡大させ、もう少しで世界支配へと到達しようとしたものなのであろう。そこで聖書中の七つの覇権の頭を揃えたこの野獣の表す精神は、それらの貪欲を更に結集させた究極の我欲をも連想させるものである。そこに融和も一致も程遠く、その目指す目標はどれも世界支配に向いたが、そのひとつも達成するに至らなかった。

しかし、「七つの時」を経て神に教え諭されたネブカドネッツァルは、次のような布告を公用語のアラム語で出したことをダニエル書は記している。
『わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方を誉め讃えた。その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。』
『わたしネブカドネッツァルは天の王を誉め讃え、崇め、賛美する。その御業は真実、その道は正しく、驕る者を倒される。』(ダニエル4:34.37)

こうして、当時の世界覇権者にも、更なる天の統治者が在り、その方が『七つの時』を経てなお、自在に支配権を渡されることを認めるに至ったのであった。「七つの時」とは世界覇権を争った七つの強国を表し、ネブカドネッツァルが極めて低められて過ごした期間が「七つの時」と呼ばれたのは、それぞれの覇権帝国が支配権を奪い合うにも関わらず、大木から新芽が芽吹くように、低められた者が返り咲くことが出来たのであれば、神はやはり(イエスのように)低められた人物をも自在に神の王座に就ける力を持っているのである。
 
これは、実際に歴史上でネブカドネッツァルの統治の空白期間があるともされているとのことで、まったく作り話と退ける理由はなさそうである。

だが、王が野獣と変じたこの『七つの時』の期間のそのものについて、現代からは窺い知ることもできないその具体的数字に何か神の知恵が隠されていると信じ込み、その長さに意味があるかのように計算を始めるとすれば、それは恰もフリーメーソンの密議のような魔術的関心のように思われてならない。それは聖書そのものが持つ味わいからの逸脱を感じさせるものではないだろうか。
 
この出来事の要点が、特定の時間を予言して将来の信者に世の終わりが近づいたことを知らせるためのものであるとするなら、「七つ」の意味が異なってしまい。イエスの繰り返し語った『あなたがたはその時を知らない』という言葉の弱めなくてはならないことになってしまう。まして、『一日に一年を』という別の預言の言葉をこの出来事にわざわざ結び付ける根拠さえ論理性をほとんど見い出すことはできない。

 この場面で倒される巨木がネブカドネッツァル自身であることをダニエルは語ったのであって、ダヴィデ王家がその末期に於いてバビロニアに比肩されるほどの巨木であったと言えるだろうか。

その新バビロニア帝国であっても過ぎ去る『七人の王』の中のひとりであり、『七つの時』の『七つ』には黙示録に示された『七人の王』への関連を追う方がよほど自然なことであろう。ほかのどんな書にもないほど、黙示録とダニエル書との関連が非常に緊密であることは誰の目にも明らかなことである。
そこで『七つの時』は、『七人の王』の世界覇権が放任され推移するニムロデ以来の長い年月を指し、その終わりはメシア支配の到来によって終わると見ることができる。

この観点から見るなら、『七つの時』は七つの覇権の推移する期間であるなら、ネブカドネッツァルのバビロニアに次いでペルシア、ギリシア、そして黙示録が書かれた当時のローマが世界覇権の継承として現れることになる。
つまり、これで『七人の王』の内の四人が同定される。では、ほかの三人はどうなるのか?

そこで新バビロニア帝国の以前を探ると、そこには史上初のオリエントからエジプトの地に至る大帝国であったアッシリアを見出すことになろう。
ネブカドネッツァルの父王ナボポラッサルは、このアッシリアのカルデア地方を掌握してバビロン王を名乗って独立したのであった。

そして、このアッシリア帝国が範としたのが、シュメールの国家文明であった。
楔形文字などの文明を継承しており、権力と宗教を運用して民を支配する官僚制度においても、エジプトやヒッタイトやミタンニなど以上にアッシリアは多くを隣接したシュメール文明から得ていたのであろう。
シュメールはその以前の文明からの継承をもたない文明の奇跡的な始祖であり、ニムロデの帝国のはじまりでもある。 

しかし、エジプトは良くも悪くも「ナイルの賜物」であったというべきか。
肥沃な三日月地帯までも掌握するには至らなかったのであり、砂漠に囲まれ、また守られ、ナイルの潤いに恵まれた地から国境を広げて世界覇権の主人となるには及ばず、大国ではあるものの、歴史の上では常に副次的な存在となってきた。

こうして、ニムロデからはじまるシュメール、アッシリア、バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマという一連の世界覇権の交代を挙げることは、そう不適切ではないであろう。これは、ニムロデの権力の継承列としての流れということになる。
そして七人目は最後の覇権国となるのであろうが、それは既に目にしている通りなのであろう。

それはダニエル書でネブカドネッツァルが見たもうひとつの夢に現れた『像』に見られ、そこにはネブカドネツァル自身が属する『金の頭部』で表されたバビロニア、『銀の胸』であるペルシア、『銅』で出来た腹と腿であるギリシア、そして脚部と足は『鉄』で作られており、それは非常に強いが、足は粘土の部分もあって脆さがあるという。(ダニエル2:31-45)

この最後の『鉄』で表される覇権国家がローマであることには多くの同意を得られることであろう。
しかし、ローマは六人目の王であって、もうひとりが居なくてはならない。


◆西欧諸国の特異性

ローマという帝国、特に都市ローマを含む西側のラテン帝国は、その終わりにおいてどこかの覇権に打倒されてはいないし、別の文明に入れ替わったわけでもない。
西ローマ帝国は、蛮族の侵入と慢性的な資金不足に陥り、自ら歴史の舞台を去っていったかのようである。

しかし、ローマの築いた文明や、権力機構は蛮族の中に浸透してゆき、殊にカトリック教化されるに従い、今日の西欧諸国はそれを見事に受け継いでいる。
そして後世、西欧諸国が植民地獲得に乗り出したことで、ローマの文明や支配は世界に広められることとなった。

今日の世界は、ローマ字の使用、日曜日の休業、法制度の相似、商習慣、生活上の様々な習慣、果てはクリスマスや誕生日の祝いなど、広い地域で西欧を介してローマ文明を継承しているとさえ言えるのである。 実際、西欧が主導してきた現代文明は、ラテン圏のローマ文明の延長線上にある。

それは恰も、ダニエル2章の巨大な像の脚部から粘土の混じる足にかけて繋がっているかのようであり、近代以降、西欧で始まった普通選挙により、「大衆」が政治に参加を果たしてきた。この民主主義は、今日世界の政治制度の模範、またスタンダードとされ、アジアやアフリカの独裁国家でさえ西欧由来の「民主主義」の看板を掲げるものとなっている。
これは王権を主体としてきた古来の権力の姿とは異質なものであり、ダニエル書の『粘土』は『人の子ら』であると述べている。

主権は君主から啓発された市民へと移される事を民主主義は想定した。しかし、実際には理知的な「市民」ではなくリテラシーの薄い「大衆」が政治に参加してきたのであった。彼らは非常に主観的であり、また主情的でもあって、流動性極まりない存在である。
そこで、代議員候補者はこの「大衆」を如何に票に取り込むかを図る内に、人気取りに堕しかねない危険があり、それは権力を強くするとは思えない。むしろ、避けがたい欠陥であり数を頼んだ衆愚のスパイラルに陥る危険と隣り合わせとなったが、識者はそれでも民主主義は独裁に比べ『割の良い賭けだ』*と言っている。*(ダール「民主主義とは何か」)

ともあれ、こうして世界覇権の流れを俯瞰すると、鉄のようであったローマの覇権とその後継である西欧諸国、分けてもそこから派生した現在の最強の国家である米国に「鉄とは混じることのない粘土」が含まれるダニエルの巨像の足先を見るかのようである。(ダニエル2:40-44)
そこで、現在の世情を観るところ、米国に『七人目の王』を観るとしても不適切ともなるまい。

この国は新大陸にありながら、ローマ帝国の流れをはっきりと汲んでおり、現在もその担い手として、その文明や支配方式や商習慣を世界でリードし続けている。
もちろん、反対勢力が無い訳ではなく、欧米式の方法を嫌う国家もあちこちにあるのだが、かつてのオリエントの覇権国家が、諸国民を支配してきたように、今日の欧米も世界の趨勢を握ってきたのである。しかも、その規模も範囲もITの上でも全球的で古代覇権の比ではない。

だが、ダニエル書では、その足を目がけて『人手によらずに切り出された石』が飛んで来て、その像全体を倒壊させてしまうというのである。つまり、『神の王国』によってニムロデ以来の世界覇権の終わる時が来るのである。
このダニエル2章の巨像は、黙示録にある七人の王に関連しており、共に人間への支配権、特に覇権と神の支配との関わりを述べている。(ダニエル2:31-35)

ネブカドネッツァルが経験した王位への返り咲きは、天の神が自在に支配権を与えることを教えており、巨像が倒壊することも、その覇権の像を打倒す『石』が像に代って全地に満ちる山と成るというところに、人間の立てた覇権の終わりと新たな世界の始まりが示されている。

こうして、ネブカドネッツァルに神が教示したことからすると、それらの覇権に関する予告は、今、この時代にほぼ整っていることが見えるのである。



◆八人目の王

さて、黙示録に記された『それ自身が八人目である』この王は、他の七人と比べて特殊な存在である。
この七つの時と直接には関わらない第八の王が現れるときには、人々が恐れ入り敬服してしまうという、衆目にも画期的な存在と印象付けられる。これは、後述するように未だに実現してはいない、なお将来の終末の事態の進展を表しているであろう。
 
この『八人目の』王の特殊性のひとつは『その(七人の)中から(エク)の者』であるという。即ち、それまでの覇権とは異なり、独立した覇権を持つ訳では無いらしいのである。
 
これに対応するダニエルの記述を捜すと11章31節が内容としては関連を持っている。
『彼から軍勢(腕)が起って、神殿と城壁を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる。』やはり、黙示録で、聖徒を攻撃するのが、七つの頭を持つ野獣だからである。

この常供の犠牲を廃させる者として、ダニエルの他の章句で相当するのが、『小さな角』である。
それはダニエル7章の四番目の、著しく強い獣から派生する十本の角の内の三本を引き抜いて現れるところの『後からの角』であるが、やがて他の角よりも大きくなり、「目と大それたことを言う口」を持っている。

これを、ダニエル2章の巨像と平行関係を成していると見做せば、『鉄』の王国であるローマとその後継者に相当するように読める。
そうであるなら、7章の四番目の獣から生える十本の角とは欧州諸国を表すのであろうか。しかし、そうであるとしても、この『後からの角』が英米であると仮定すると、その極めて強い四番目の獣が終わりのあたりで不在となり、巨大な像の足の部分が無くなってしまう。

もし、この理解上の不都合を避けようとすると、その四番目の獣の実体を英米が継承したとして、欧州諸国の内の幾らかを貶めるようにして台頭する何らかの権力を想定する必要が出てこよう。それはEUであろうか?いや、EUは扶助し合う機構として存在しており、米国にしても価値観を共有し、NATOにおいての結束も持っている。やはり、四番目の獣から生える十本の角とは単にヨーロッパ諸国を意味するとは言えないようである。

そこでこの『角』の由来となるダニエル書の言うところの『北の王』という実体を知る*必要が出てこよう。
ダニエル書を総合すると、この『北の王』は『聖徒』や『聖なる契約』に敵対する様が描かれており、この王から立ち上がる『腕』、即ち権力が『聖なる者らに戦いを仕掛けて勝つ』とされている。(7:21)
そこで、この『北の王』そのものが『後からの角』ではなく、それを擁立する権力であり、南北の権力の対立の一方の当事者であることがダニエル書に示されている。
*(その実体は、聖徒が為政者と対峙した後に明らかになるが、我々はそれを既に目にしているのであろう)

こうして黙示録の言う『今は居ないが、やがて底知れぬ深みから上ってくる野獣』の意味が理解されてくる。
それは、『北の王』に設立され、『七人から出る』とあるように、独自の覇権を持たない権力の集合体のようなもので、際限ない支配欲を漲らせる恐怖の大王ニムロデの再来であり、シュメール時代という超古代の奈落から現代の舞台に這い上がってくる不気味な悪の権化である。或いは、『その(七人の)中から(エク)』というのは、「第一の王であるシュメールから」を含意しているのかも知れない。いずれにせよ、それもいつか明らかになるのであろう。

支配を巡って争うその目的は、人類の王となるべきキリストの臨在によって門口にまで近付いた『神の王国』を何としても阻止することにあり、その大使である聖霊を受けた『聖なる者』を攻撃目標として、汚すか、亡き者とするかの二択ばかりである。(黙示録17:8) 

他方で、黙示録では『二人の証人』で表された聖なる者たちに『戦って勝ち、彼らを殺してしまう』のは『七つの頭を持つ野獣』とされている。(黙示録11:7)
この双方の類似が示すところは、その『角』と『野獣』の二つが同じものを指しており、ダニエル書での『北の王』に擁立される何らかの権力機構が登場すること、またそれは主要諸国の幾らかを辱めるほどに成長を遂げ、終末の聖徒に反対して攻撃に成功することを教えているのである。

更にダニエル書から言えば、『北の王』に立てられる『角』は『神殿と城壁を汚し、常供の犠牲を取り除き、荒す憎むべきものを立てる。』のである。これは黙示録の『七つの頭の野獣』が聖徒を攻撃して勝利することと関連するものであろうか。おそらくそうであろう。
 
そこで黙示録の述べるところから見ると、『七つの頭を持つ野獣』の存続期間と聖徒らが『粗布をまとって預言する』期間とが同じく1260日=42ヶ月となっている。それは極めて短い。例えるなら、ナチス政権のドイツ第三帝国とあまり変わらない存続期間というべきか。

それであるから、同じ期間に亘って『聖なる都市と神殿の中庭が諸国民によって踏みにじられる』という黙示録の言葉の意味は、神殿となるべき聖なる人々が、いま至聖所である天に去らず、地上にある間にはずっと迫害され、それゆえにも『粗布を着て預言する』姿が予告されてもいるのであろう。
 
即ち、この『七つの頭を持つ野獣』は、聖徒攻撃に成功しても、ほぼ同じ時期に終わりを迎えてしまうのである。従って、この獣は、全く聖徒への対抗存在に終始すると言える。
この獣が『大いなるバビロン』の滅びにどれほど関与するのか、その時間さえ残されているのかは分からない。
ただ、大いなるバビロンへの復讐は遠からず、この獣の十本の角(野獣への参加勢力)の部分によって遂げられるとされている。(黙示録17:16) 

あるいは、この野獣は大いなるバビロンを倒して後、最初の『シオン』攻撃の脅しにまで進んで、ミカエルの介入に受け『北の王』と共に消滅してしまうか、『北の王』の権力の崩壊によって後ろ盾を失い、存在を失ってしまうかであろう。⇒ 「二度救われるシオンという女」

黙示録で、この八人目の王が『滅びに去りゆく』とあるのも、この急速な消滅を指し示しているのであろう。『七つ頭を持つ野獣』の像が造られる必要が生じるのも、その野獣の存続期間の短さが関わっていると見ることで、黙示録の見通しは広がる。


◆野獣の像、荒す憎むべきもの

だが、野獣には後継者が現れる、それが『野獣の像』であって、これを推進するのは『北の王』ではなく、より世界に影響力を持つ国家であろう。黙示録では、その後援者は『二本の角を持つ羊のような獣』であるというが、それは、著しいキリスト教強国を指しているのではないだろうか。ならば今日米国をおいて他に考えようもない。

現在の国際連合は、ほとんど制裁力を持たず、実力行使にかなりの制限があるのだが、この『野獣の像』については、どうやらその限りではないらしい。なぜなら、黙示録19章の終わりに、この『野獣の像』への崇拝が突き進む果てにハルマゲドンがあると読めるからである。

即ち、黙示録13章の後半に現れた『野獣の像』の崇拝に関わる言葉が19章の末尾に再登場しており、そこでは王冠を重ね、血の降りかかった外衣をまとう『神の言葉』という方とその軍勢との決戦に人々が臨み、遂に野獣と、その像の崇拝を慫慂していた偽預言者も捕えられ、『火の湖』に投げ込まれ、『野獣の像』の印を受けた者らも、『王の王』の口から出ている剣で殺されている。

この世界強国の支援を得た 『野獣の像』は、終末において、いよいよその時を短くして、強烈な『背教』へと世界を挙げて突き進むのであろう。

では、ダニエルのいう『荒す憎むべきもの』とは何を意味しているのだろうか?
『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、神の神殿に座し、自分は神だと宣言する。』とパウロが警告し、あの『不法の人』ユダ・イスカリオテの予表した『滅びの子』の顕現であろう。

彼は聖霊を受けた聖徒のひとりとなるが、『北の王』の慫慂によって『聖なる契約を離れ』、聖徒の試練を受け付けず、却って奇跡を行う力がサタンの魔力に入れ替わっているにも関わらず、自分の『不思議を行う力』が依然として神からのものと吹聴して『アンティ・クリスト』となり、遂には己を神に似せて、サタンの欲のままに自らを偶像とするに及ぶという様が浮かび上がる。

だが、それこそは主イエスが終わりの日の預言の中で警告していたことであり、この背教の誘惑を退けなければ聖徒としての身分を失い、『ひとりは連れて行かれ』ても、その者は地上に残され、『鷲の居るところ』に身を晒すことになるのであろう。(マタイ24:23-28)

この世の多くの人々は、『不法の人』の崇拝を受け入れてしまうのだろうか?
既に、『大いなるバビロン』 も過ぎ去っており、人々は新たで合理的に見えるであろうこの背教の教えに魅力を感じるのであろうし、聖徒の教えの他には信仰心を満たせるようなものは何も存在していまい。今日のキリスト教大国である米国が、キリスト教の背教に堕した宗教の擁護者になる蓋然性にも確かに頷けるものがある。その下で『野獣の像』も、過ぎ去った野獣のように口を開いて再び冒涜を語りはじめるのであろう。
 
黙示録は『野獣の印を受けない者には売り買いできないようにさせる』ともある。
その主張するところは『神の王国』の必要性を無視し、人間の力を誇大視させる人間主義となるのであろうか。
病気や死までも、人の力で克服できるとなれば、倫理を問う神など無くて良いと思い兼ねないのが『この世』の趨勢ではないだろうか。

『不法の人』が『荒す憎むべきもの』と看做し得る理由には二重の意味がありそうに見える。
第一は、西暦70年にはユダヤの盗賊や愛国主義者が神殿を占拠して、その滅びを呼び込んだように、アンティクリスト崇拝は名ばかりで、神殿を占拠しながらもけっして神のものでなく、もはやサタン崇拝と化して滅びに定められてものとなっていること。その崇拝は聖徒による『常供の捧げ物』を停止させてしまい、古代と同じく聖なる所を血と乱脈で全く荒らしてしまうのであろう。
そして第二に、「憎むべきもの」というヘブライ語に含意される「偶像」が、最後にしてそれ以上ない究極の偶像崇拝をそこに存在するであろうことである。

この崇拝は、おそらく聖徒たちを除き去る段階から七つ頭の野獣も関わっており、聖徒攻撃後すぐに『大いなるバビロン』をも葬り去るが、それから『荒す憎むべきもの』の滅びにまでそう長い時間は残ってはいない。なぜなら『不法の人』もキリストの『臨御の顕現によって滅びうせる』のである。
ダニエル書では『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。』と記されている通りにである。(ダニエル12:7)
したがって、『終わりの日』とは決して「世代」に亘るように長いものではなく、やはり数年という短さで駆け抜けるのであろう。聖霊が再降下して始まってしまえば、『終わりの日』もあっという間に過ぎ去ってしまう。 『主は、御言を厳しくも速やかに、地上に成し遂げられる』とパウロが引用したのはこの事ではないだろうか。(ローマ9:28)

そこで『荒す憎むべきもの』を崇拝する『この世』は、聖徒を除いた後、いそいそと最後の攻撃の準備に取り掛かる。
それが即ち『ハルマゲドン』の戦いであり、サタン、脱落聖徒である『偽預言者』、獣の像の崇拝を推進する国家から出る、汚れた霊感のどれもが、聖霊の声を信じた人々の集団である『シオン』をも滅ぼすようにと揃って声高に唱えることであろう。

もちろん、その結末は『滅び』となるのだが、人々は自らの悪い内面をさらけ出し滅びに値する者であることを神の前に示してしまうのだろうか。(マタイ7:14)


◆それらの日々の後に

その期間が満了したときの管理(オイコノミア)が七つに分割されることの無いメシアの下の一致であれば、それは「天にある諸権威」(エフェソス3:10)までをも一つにまとめるものとなる。つまり、天界においてもサタンの存在のために不一致があり、彼はキリストの兄弟らを日夜訴えているのであろう。

彼らはキリスト権威の実現によって地に落とされるが、それによって創造界の一致の実現は地の問題に集約される事になる。最後に出現する神の王国によってこれまで続いた「七つの時」、つまり分割され遂に世界統一を成し遂げることを許され無かったサタンを頂点とする支配が終るとき、全てを治める機構が現れることになる。それを聖霊の霊感は「支配」とはせず「家政」(オイコノミア)と呼んでいる。天と地の全てが、これによって一致をみるからであろう。そこでは「支配」のように権力の強制を特色とはしないのであろう。アガペーの原理が推動する世界だろうから。 ⇒ 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるか」

オイコノミアは、「キリストの下にすべてを集める」事を目的としている以上、これは千年王国を表しており、その後に「キリストがすべてを神に帰す」のであり、それは創造物の筆頭、「独り子」としての格別な立場、また、神への忠節(ハーシッド)を通して神の神たる事を立証したその神の座の要としての働きの功からして、全く相応しく、また、疑いの余地なく論理の整合を見せるものである。 

『この世』では、家族については同一家計に属すが、ほかはすべて報酬を要求し合う「他人」である。 そうしなければ、人はこの世で生きてゆくことも覚束ないのであり、それがこの世の非情な掟となっている。 基本的に、人はこの世において他人関係と金銭とによって生き、また動かされているのである。

その愛と一致を押し広げることを阻んでいるのが、人類共通の『罪』であり、その最たる悪魔はけっして一致の絆とはならないに違いない。

しかし、『神の王国』では被造物の全体が、創造者を父とする兄弟関係に入るのであり、誰も他人となることはない。
そこでは相互報酬を司る金銭も、市場も存在の余地が無くなってしまい。人を動かすものは「欲」から「愛」へと変化する。

したがって、もし、キリスト教の指導者がテモテ第一6:10などを根拠に、「富む事も金銭も、それ自体は悪いものでも罪なのでもなく、金銭への愛が悪なのだ」と声高に主張するとすれば、その人はキリスト教の本質的な世との異なりを十分に理解しているのだろうか?

実に、「金銭」とはこの世の「他人関係」の証であり、交換による相互報酬制度という「貪欲」の相互牽制のための、まさに人間の「罪」に対する応急処置のための器ではないか。

そこで富んだとしても、その人にどんな公平性や正当性があるだろうか?
市場そのものが富の偏在と不公正、人間の差別の温床となっているのである。

それはオイコノミアをまさしく「家計」として家庭の中に押し込めてしまい、この世を殺伐たる他人への無関心と無慈悲を誘発している原因ではないか。

それを、「金銭や富が悪いのではなく、その用い方によっては、悪を行うことになる」などと言うキリスト教指導者は、信者からの寄付が手元に入ってくるさまに、目を細めてはいないのだろうか。
そのようなキリスト教の教師は、決してこの世を根本的に糾弾できないであろう。(ヨハネ16:8) 金銭そのものに、我々人間の『罪』が刻印されているに等しいからである。

金銭は人の遂げられる欲望の範囲を本人に知らしめるものであり、そのように教えられながらも、必ずしも『顔に汗して働いた』者が多くを得るわけではなく、人は互いへの報酬を減らそうと努め、その結果として、金銭への隷属がもたらされているのである。

『金は身の守り』と言ったソロモンでさえ、その不公正のもたらす非情さを意識していたに違いない。金銭とは様々な奪い合いによって偏在するものであり、生きるのにそれを必要とする弱い人々からは遠ざかり、同情心の薄い人々のところに堆く積まれるものであることを歴史は再三証明してきたのである。

確かに、キリストの一行は寄付を入れる金箱を携え、貧しい者への施しを行っていた。そこで、キリスト教は富の再配分を励行させるものではあるが、それがキリスト教のすべてであれば、富者の優越感を増すところまでで終わってしまう。単に施しがキリストの教えの終着点であるならば、それは慈善団体以上のものにならない。

そして、世相の通りに、贅沢にも飽きた富者にとっての「最大の贅沢」は「施し」をひけらかすことになってしまうのである。その貧者を必要とする施しのエクスタシーは、富者ばかりでなく、多くの慈善活動家をも捕える事もあり、動機の密かな変質により、真の解決から的を外す見方をさせ兼ねない。それが神のオイコノミアと言えるだろうか?

施しについては、確かに聖書の例えにあるように、『この世の子らは、光の子らよりも賢く振る舞う』(ルカ16:8)のであるが、この例えは、この世の富を用いて聖徒の必要に応えるという、『一杯の水を差しだす』(マタイ10:42)信徒らの親切を描き出しているのであろう。しかし、これは本来的に慈善をキリスト教が勧めているという訳では無い。

しかし、神のオイコノミアはそのようなものとはまったく異なっているのである。
それは、慈善の仮面も剥がし、互酬制度さえも終わらせることで、根底からこの世と決別するのである。(ヨハネ12:31)
なぜなら、人々は『罪』を去り、互いに貪欲の牽制をする必要の無い状態に入ることで、金銭そのものを無効化してしまうからである。それこそが『神の王国』の成し遂げる『贖罪』の栄光であろう。

神のオイコノミアである王国では、サタンの中傷によって混乱し、苦難に満ちるようになってしまった創造界に神の企図を回復させる前段階としての人間の贖罪を成し遂げ、その為の祭司制度を成立させるべく、聖なる民を選んで王なる祭司とする。これがエデン以来の隠されてきた奥義「ミュステーリオン」であったのであり、この一端をパウロが解き明かしていたのである。 (コロサイ1:26)

この素晴らしい『奥義』を、「この世」が『目も見ず耳も聞かない』(コリント第一2:9)のは、人類社会の全体が創造者として神を認めず、意に介さないからである。そこにあるのは利己心であり、サタンの頭が分割されているように、そこに一致などはあり得ない。
聖書の唱える「愛」は、世俗的で目先の欲得にさもしい直情的な人々には「儲かる」こともなく、ほとんど価値のないものとなるからである。 (コリント第一2:9/2:14)

そのような人々にとって、輝かしいオイコノミアも永久にミュステーリオンのままに終わってしまうであろうか。
実にイエスの語ったことは『隠されたこと』であったのだ。
『だから、彼らには譬えで語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。』(マタイ13:13)

七つの頭のある野獣が姿を現すときに、この世の人々はそれに驚いて迎え入れてしまうという。
だが、その人々の名は『世の基が置かれて以来、命の書には書かれていない』(黙示録17:8)

最後に残る究極的偶像崇拝は、今日にみるところの人物崇拝や、組織崇拝と性質を同じくするものながら、それらが煮詰められた姿なのであろう。
それゆえ、今からその傾向のある教えから離れて立つことが強く求められよう。(マタイ24:26)

だが、今日のキリスト教界に以上の理解を求めても拒絶されるばかりとなろう。宗派の正しさ、つまりは「人間の義」に拘るだろうからであり、その延長線上に『不法の人』の背教も登場するであろう。(マタイ15:9/24:15)

我々が直ちに、これらの「人間の義」を離れ『神の義』を求めるべきは、人類の益を図って『神の王国』という一致あるオイコノミアをキリストに委ねた神に対する支持と忠節な愛から離されないためである。(エフェソス4:14)





                 © 林 義平
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 「誤解されてきたバベルの塔」 





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