quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

バプテストのヨハネ

聖霊と火のバプテスマの異なり



聖霊と火とによるバプテスマとは何だろうか?


これら二種類はまるで正反対の結果をもたらしたが、この頁では「聖霊のバプテスマ」とその意義、そして、「火のバプテスマ」がそれぞれ何を意味するかを書き出してみよう。



さて、その言葉はマタイ3:11とルカ3:16にある。


では、バプテストのヨハネの述べた「わたしはあなた方(ユダヤ人)に水でバプテスマを施すが、わたしの後から来られる方はあなた方に聖霊と火でバプテスマを施すであろう」と言ったこの件の意味について記したい。

バプテストのヨハネが、モーセの律法契約にあったユダヤ体制の終わりを印付ける仕方で現れ、ヨルダン川の水を用いてユダヤ人のみに「悔い改めのバプテスマ」を施した意義について、およびキリストの水のバプテスマについては、以前の拙文「バプテスマの意義は・・」を参照されたい。


本稿ではヨハネによって予告された「聖霊と火とによるバプテスマ」の意味は何かを明らかにしたく思う。



-◆聖霊のバプテスマ--------


まず、「聖霊と火」の「聖霊のバプテスマ」の方の実体が何かということのはじまりを言えば、これはイエスが刑死を遂げて弟子らの見守る中、天に戻ってから十日後、ユダヤの祭礼である五旬節つまりペンテコステ(シャヴオート)の日の午前に起こった事柄を以って「聖霊」のバプテスマが開始されている。(初学の向きは使徒言行録2章を参照されたい)


そこで起こったことは百二十人ほどの弟子の頭の上に見える「火の舌のようなもの」がそれぞれに配られ、彼らは様々に異なった言語で「神の壮大な物事」を語り始めている。それは個人的な神秘体験という心理作用の範疇を超えて、誰の目にも明らかな奇跡であり、ナザレのイエスをメシアとして知らせる力強い布告の、世界に向けた開始であった。


即ち、モーセを仲介者としてイスラエル民族と結ばれた契約は、キリストを迎えて大きな転換点にあったのである。


そのとき、ペテロはその奇跡に見入るユダヤ教徒らに向かってこう言っている。

『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。』(使徒2:33)



だが、バプテストの語っていた『聖霊と火とのバプテスマ』の『火』を、このときの『火のような舌』の『火』と同じく見做して良いものであろうか?

これについては以下に見るように、「聖霊のバプテスマ」にせよ、「火のバプテスマ」にせよ、バプテスマを施す人として現れたヨハネの真意を探ってゆくと、そこにはっきりと見えるものがある。 


さて、シャヴオートの日に聖霊が降下するに際し、非常に強い「大風が吹き付けるような轟音」が響き渡ったので、祭りのために都に登っていた外地からのユダヤ人たちが、何事かとイエスの弟子らの居る場所に大勢集まってきた。(ヨハネ3:8)


既にユダヤ内地の者らは、メシア殺害を通してその大方の態度を表しており、そこで神の福音は外地(離散)のユダヤ教徒に向かい、その注意を促してゆく。(使徒2:5)

彼らはそこにいる百二十人ほどのガリラヤ人たちが、自分たちのそれぞれの居留地の外国語で、神の事柄を話しているのを聞いて大いに驚いた。


これはその後「異言」(グロソラリア)と呼ばれる超自然の能力で、「聖霊の語らせるまま」に外国語を話す「賜物」である。

パウロの言から分かることは、この『異言』という賜物は没我のトランス状態や熱狂に入るものではなく、当人の制御できるところのものである。(コリント第一14:14-)


使徒言行録のこの日の事は本当に起こったことではないと断ずるなら、以後のキリスト教はもはや真正な存立をみることができないほど重要な事象なのである。

多くの人々が、この五旬節の出来事を以ってキリスト教の出発点と看做すほどである。(フランスのジャン・ダニエルーをはじめ、歴史・教父学者はグロソラリアが実際にあったと想定している)


これがバプテストのヨハネによって語られていたキリストによる「聖霊と火」の「聖霊」によるバプテスマである。



-◆聖霊のバプテスマの意義----------


聖霊降下の意味するところは、モーセの律法によってユダヤ=イスラエル民族の中に取り込まれていたヘブライの崇拝が、新たな契約によって諸国に向けて広げられる予兆、また神の意図であろう。(ルカ13:29/使徒10:35)


復活後の主イエスはこう言われている。

『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』(使徒1:8)


聖霊降下の出来事は、本来アブラハムの子孫であるイスラエル民族のためのものであり、キリストの世代が終わるまで、エルサレム神殿でが存在し、神への崇拝が行われてはいたが、その間に、キリストの犠牲が一度限り捧げられ、律法墨守のユダヤ体制に聖霊が降ることは遂に無かったのである。(ダニエル9:27/ヘブル7:27)


だが、ヨエルの預言が語るように、イスラエルの子孫は霊を受けることにより、祭司や預言者でなくとも平民も女も若い者から奴隷であれ霊を受けて預言をするという奇跡が、あのシャヴオートの日から成就した。それはイザヤも預言していたところであった。(ヨエル2章/イザヤ44:3)


そこで、あの五旬節の日から、新たな崇拝の方式が興されている。

そのときには、まずユダヤ人のためにこの新しい崇拝へと門戸が開かれていたので、神殿での古い崇拝も並行して存在してはいたが、その旧来の律法体制に聖霊が注がれることはなく、むしろ霊が示すように、新たな崇拝はイエス派の中に始まっていた。(使徒4:27-31/ヨハネ4:21-23)


それがユダヤ、サマリア、世界へと次第に広がったエクレシアの場を通し、聖霊の奇跡が行なわれる、より高度な崇拝方式で始まりであった。 即ち動物の犠牲によるモーセの神殿祭祀が終わる時期となる一方で、一度限り捧げられたキリストの犠牲は、『霊と真理をもって崇拝』する時代を到来させたのであった。(使徒1:8/ヘブル8:7)


即ち、キリストがサマリア人の女に語られた『この山(ゲリツィム)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』との言葉の通りとなったのである。


 

さて、エクレシアで聖霊のバプテスマを受けた者たちには非常に多くの恩寵がもたらされた。

彼らには、この異言の賜物ばかりでなく、その異言を「翻訳」する賜物、「預言」といって神からの言葉を授かり、将来に起こることを予告したり、人の秘密を知ったりする能力もあった。更に使徒らには強力な癒しの能力が与えられ、ペテロやパウロは死人を生き返らせてもいるのである。即ち、予告されたようにキリストの業は使徒や直弟子らの中に継承されたのである。(コリント第一12:7/14:24/ヨハネ1:47-)


また、「知識」の賜物を通しては、新たな教義に関する情報を得たのであろう。

こうした様々な能力はもちろん本人に属するものではなく、文字通りに「賜物」であり、まったく上から与えられたものである。『真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』と主も予告されたようにである。(ヨハネ16:13)


この格別の『聖霊』の注ぎについては、以前から将来に起こる事としてヨエルやイザヤなど旧約の預言者らも「回復の預言」の中に指し示していたのであるが(ヨエル2章/イザヤ44章)、イエスは自らの弟子たちに与えられることになっていたこの『聖霊』を予告して、弟子たちの「助け手」(「パラクレートス」)と呼んでおり、これが彼らに師の業を続行させ、真理を教え、主の言われた言葉を思い出させるとも言っている。(ヨハネ14:16/26.14:26)


しかし、意義はさらに大きく、そのことをイエスはヨハネ福音書3章でこう言われる。

『水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることができない。肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である』(ヨハネ3:5)


この言葉は、コリント第一の手紙15:49に通じるものであり

このようにある『我々は塵で造られた者の様相であったように、天の者の様相を帯びるのである』


また、使徒のヨハネはその第一の手紙で『彼(イエス)が現されるときに、我々も彼の様になることを知っている』と言う。(3:2)


これに調和するように、ペテロの第一の手紙では『肉体における残された時を・・神の意志に従って生きる・・』ことを記している。(4:2)

聖霊を授かることはいずれ肉の体を後にし、霊者としての新たな命に入るというのであるから、これは徒ならぬことである。(コリント第一15:50-54/ペテロ第一1:23)


つまり、彼らは人間としては必ず「死」を経なければならない。・・このことを訝る方がおられるのは承知している。

言うまでも無く一般の常識では、人は必ず死ぬからである。


ではあるが、聖書では死を経験しないで済む人々が存在するのである。イエスは兄弟を亡くしたマリアにこう言った。『生きていてわたしに信仰を持つものはけっして死ぬことがない』(ヨハネ11:26)

これは終末の時に生きている人々のことを言うのであるが、人の世界では達し難い事ではあるけれども、人の常識がすべてなら神は無用であろう。(マルコ12:24)


一方で、聖霊を受けた弟子は霊の生命に移るに際し、肉体においてまさしく死を迎え、アダムからの命を必ず捨てなければならない。これをパウロは『キリストへの死のバプテスマ』と呼んだ。(ローマ6:3)

バプテスマにおいてキリストと共に『葬られた』のは、『水と霊から』キリストの復活された永遠の命によって『再び誕生』し『共に生きる』ためであり、この聖霊を受ける弟子たちが、将来に肉体から霊体へと移り変わる定めを受け入れたことの象徴表現と言える。(ローマ6:4) ⇒「無酵母パンから生じるエクレシア」


何ゆえ、このように人間であることを止めるべきかについては、神の「人類全体が、神の創造物(子)として立場の回復する」と定められた期間における、全人類の支配や贖罪の計画、即ちキリストの宣教の主題であった『神の王国』、それが聖霊のバプテスマを受け『新しい契約』に入る弟子らに関係しているのである。(ヨハネ1:12/エフェソス1:10/フィリピ2:10)⇒「キリスト教の目的」



-◆『天の王国』に召される聖なる者ら

 

この全人類の祝福となる人々は「アブラハムの子孫」と呼ばれる。

なぜなら、早くも創世記に於いて、神はアブラハムにこのように言われたからである。

『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:18)


即ち、アブラハムの子孫イスラエルが、他の諸国民の祝福する選民となるのであり、それこそが『諸国民よ!主の民と共に喜べ!』というよく知られた聖句の真意である。

彼らアブラハムの子孫は地上の神殿ではなく、キリストを隅石とする、聖霊を受けた『聖なる者ら』という石で構築される天界の新たな神殿となって、将来に人類全体の罪の赦しを備えるということである。(ペテロ第一2:4)


だが真実のイスラエルとは血統上のイスラエルを意味しないことはパウロが語るところであり、こう書いている。

『イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではない』(ローマ9:6)


このユダヤのメシア信仰の拒否が何をもたらすかについては、やはりキリスト自身も血統のイスラエルに警告していたことであった。
『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』(マタイ8:11-12)


その一方で、使徒パウロはまったくイスラエルでなかった異国の弟子らにこう書いている。

『あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である』(エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)


何が彼らのような非イスラエル人を、聖なる民としたのだろうか。パウロはこうも記す。

『あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対する信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。』(テサロニケ第二2:13)


つまり、聖霊を受けた彼らこそが真にイスラエル、全人類の祝福となるという「アブラハムの子孫」であり、律法によらず信仰によって神に選ばれた『神のイスラエル』という血統のユダヤとは異なる新しい神の選民、人類の中からの初穂として、人類より一足先に救いを得た、格別な役割を担う民となるというのである。(創世記22:18/ローマ4:12/ガラテア6:6:15-16)


神は、アダムが最初に享受していた創造者との自由な「子」の関係に全人類を復帰させるために、自らの創造の初めである「初子」を仲介者として立てた。この仲介者がまず人々の間に宿りキリストとしてユダヤに来られた。(ヨハネ1:12/コロサイ1:15-/テモテ第一2:5)


人類には神との間を隔てる「罪」(原罪)の壁がアダムの時から存在しているので、人は生きる限り無罪では済まず、神とは断絶状態にさえある。(ローマ6:7/イザヤ59:2)

そこで、キリストと共なる新しい選民『アブラハムの裔』が存在する意義がある。



-◆世の罪を除き去る祭司団 -----


モーセの律法が動物の犠牲を要求したのは、あらゆる人間には「罪」があり、犠牲を介さなければ神に近付き得ないことを教えるものではあったが、エルサレムの神殿の祭祀は人の罪を実際には浄めることはなかった。(ヘブル10:4)

だが、『罪』からの清め無くしては、世界の人々を祝福する『聖なる民』また「アブラハムの子孫」も現れないことになってしまう。


しかし、エルサレム神殿の崇拝方式が模型のように指し示していた真実な実体があり、それがキリストを大祭司とする天の祭司制度であって、即ち、実際に人の罪を浄め、『神の子』へと復帰させる『神の王国』という手段である。(ヘブル8:5)

そこで、聖霊を受けた聖徒らが『キリストを親石に』『神殿の石となる』といわれる理由が生じる。(ペテロ第一2:4-5)


これがまさしく、キリスト・イエスが『神と人との間の仲介者』と言われる所以である。(テモテ第一2:5)


神はキリストを任じ、千年続く『神の王国』を樹立して、これが生ける人々を罪から贖うための手段とされるのだが、この「王国」の、アダムからの人類の罪を赦すシステムは、モーセの律法の中、ユダヤの祭司制度の中に動物の犠牲を通して模型的に予告されていたのである。(黙示録20:6)


そして『新しい契約』に預かることで、『聖霊』のバプテスマを受け初めに清められた人々がいる。キリストの弟ヤコブは、彼らを『人類の初穂』であると記している。(ヤコブ1:18)

こうして彼らの天にゆく理由もはっきりと見えてこよう。即ち、彼らが天で大祭司キリストの下で祭司となって地上に残る全人類の贖罪に貢献するということである。使徒ペテロは、『聖霊に浄められた』弟子らを確かに『祭司』と呼んでいる。(ペテロ第一1:2・2:9)


キリストの地上での宣教も、ただ信者を募ったのではなく、これらの「祭司となるべき人々」を集めることにあったが、それこそは『地上のすべての支族が自らを祝福する』というアブラハムの末裔『神のイスラエル』『祭司の王国、聖なる国民』をまずキリストの宣教の業においてパレスチナのイスラエル民族から集め始めていたのであり、それは単に信者を集める宣教ではなかった。(使徒13:46-47)


しかし、血統上のユダヤはメシアと共にアブラハムの末裔を集めずに却って散らし、イエスを信じる充分な人数をユダヤ体制は出さなかったので、エルサレムは、このように主から指弾されている。

『めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』(ルカ13:34)


ユダヤ教の体制派が、どのように集めるキリストを妨害したか、といえば、それは聖霊による奇跡を悪霊の頭の業だと誹謗し、信仰を働かせるユダヤ人が現れることを邪魔したことによる。

そこで主イエスはこう言われたのである。

『わたしの味方でない者は、わたしに反対するのであり、わたしと共に集めない者は、散らすのである。』(マタイ12:30)


聖霊が使徒らや初代の弟子らにもたらす奇跡の業が、まさしくユダヤ体制派の嫉妬を買っていた様は使徒言行録に明らかであり、使徒らが宣教に赴いた外地のユダヤ教徒らからさえも反対を受けたことが同じく記されている。


そこでキリストの業を受け継いだ使徒らは、ユダヤ教徒を後にして諸外国への宣教に向かうことになる。その宣教も、ただ信者を募るものではなく『アブラハムの末裔』を集め出すという意義深い目的があった。


それであるから、パウロはバルナバと共に宣教を妨害する外地のユダヤ人にこう言い放ったのである。

『神の言葉は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから向きをかえて、異邦人たちの方に行くのだ!』(使徒13:46)


そして「イスラエル」という本来人類の祝福となる民の不足する人数を満たすために『接木』が行われる。

即ち、初期の弟子らの宣教の目的は、異邦諸国民から信仰ある人々を『神のイスラエル』に集め召し出し、『諸国民の光』となる『神の王国』を目指すことにあった。(ローマ11章)

この点で、使徒ペテロは主から授かった『鍵』を用いて、異邦人にも聖霊が降るよう取り計らっている姿が使徒言行録に見える。(使徒1:8/8:14-16/10:44-47)


こうして天界の大祭司キリストが従属の祭司となるべき人々に天から聖霊を注ぎ、その人々は聖霊の奇跡の賜物によって浄められ、「罪」を許され、人類に先立って『神の子』と認知されるに至った過程はレヴィ記16章の『贖罪の日』の取決めの中に予型されている。


即ち、律法で定められた『贖罪の日』の儀式では、まず大祭司自らの罪を牛の血によって除き、次いで従属する祭司たちの罪が贖罪され、そうして後、これら祭司団の働きによって民の全体が贖罪に預り、こうしてすべてが神の御前に「罪」を許されるという図式があった。


つまり、『新しい契約』は、大祭司キリストと従属の祭司団を天に召して、聖霊を受けた人々で天界の神殿が構成される将来に『神の王国』という、全人類の贖罪を行うアブラハムに予告された一大事業に乗り出すことになるのである。その人類の祝福は、創世記で繰り返し神がアブラハムに言われていた通りである。(創世記22:18/コリント第二5:19)


そこで新約の民、聖霊を受ける人々こそが『選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民』と使徒ペテロが言うのである。つまり、モーセの律法契約が目指した『聖なる民』の出現は、キリストの『新しい契約』によって遂に実現し始めたことを使徒たちが知らせているのである。


使徒ペテロは、当時の聖霊を注がれた弟子たちについて、『あなたがたはサラの子になった』とも言っている。それはつまり、真実のアブラハムの子孫となったと述べているのである。(ペテロ第一3:6)


しかし、これは誰でも信仰を抱けばそうなるというわけではけっしてなく、それが契約である以上『多くを委ねられた者には多くが求められる』のであり『入ろうと努めながら入れない者は多い』とも主は言われている。(ルカ12:48/マタイ22:14)


したがって、キリスト教徒が聖霊を受けることは人類全体の『贖罪』の始まりに過ぎず、聖霊を受けることがけっして最終目的の「救い」なのではない。彼らは天でキリストと供なる祭司団また王たちとなるために(黙示録20:6)、人類に先立ってアダムからの罪をまったく贖われる必要があったが、肉体のままではその「罪」が消えることはない。地上に肉体で残る人類のために、聖霊を受ける者らの天での奉仕が必要なのである。(ヤコブ5:16/ヨハネ第一1:8)



-◆聖徒の立場と義務 ------


そこで『新しい契約』が、聖霊の印ある者についてのみ、地上での「義」と「救い」の仮の承認を彼らにもたらしたのである。その代価が貴重なキリストの血であった。(エフェソス1:13-14)

それゆえ、使徒ヨハネが『まだイエスは栄光を受けておられなかったので、霊はまだ下っていはなかった』と述べた理由は、聖霊の注ぎがキリストの犠牲の死の栄光を要したからに他ならない。(ヨハネ7:39)

確かに『水と霊から生まれる』『聖なる民』が、人類からの『初穂』と呼ばれるに相応しい。彼らは『キリストに在って生き』、イエスを『とこしえの父』とした。(ローマ8:23/ヤコブ1:18)


それで、聖霊を賜った「聖なる者ら」に『有罪宣告はなく』(ローマ8:1.30)、その『救い』も聖霊を通して既に開かれている。しかし、それは『聖なる者』として相応しく生涯を終えるという条件付きのものであり、「契約」とは常に不確定な事柄について締結されるものである。


そこで彼らは、『その召しに相応しく歩む』(エフェソス4:1)ことが求められており、一定の道徳規準を満たし、レヴィ族の祭司のように聖なる者であるべきで(コリント第一6:9-11)、『狭い戸口から入るように努める』べきである。(ルカ13:24)


その『新しい契約』は『聖なる者』らを天へと召すものであるから、当然に聖い状態で『染みも傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるよう』に生涯を終えるべきであり、彼らは死に至るまでのキリストへの忠節を全うし、全人類を贖い、治めるに相応しいことを実証することが要求されている。(ペテロ第一3:14/黙示録2:10)


つまり、彼ら『聖徒』の務めは人類の贖罪と、その間の管理(支配)ということができる。彼らは主と共に『神の王国』で『千年の間支配する』のである。(コリント第一4:8/エフェソス1:10/黙示録20:6)


それに対して、バプテスマを受ければ誰でも「聖霊」を受け、キリストが内住してくれて、自分を幸福へと導いてくれるという教えは、根本において正反対である。なぜなら、関心の対象が神の全人類への救いの大志から、身近な自分たち自身の幸福に置き換えられるほどに異なってしまっている。つまり、利己心か、利他心かというほどに『聖霊』の見方ひとつで、その信仰の精紳は根本から異なるのである。



さて、信徒の中でも『聖霊』に与る選ばれた者は、大祭司キリストと共になる祭司となる人々であるから、キリストと霊の体を共にする象徴として『主の晩餐』でパン種のないパンを分け合い、誰よりも早く最初に罪(原罪)を相殺される象徴として、また『新しい契約』の発効させるために必要な『犠牲の血』を表すところの葡萄酒を飲み合うのである。(ヨハネ6:53-58/ヤコブ1:18/出埃24:8/ローマ8:1)


その『新しい契約』は、彼らが地上でアダムの命を持つ「肉」の状態である間から「義」を信用貸しされるためのものである。(コリント第二5:10)それゆえにも彼らは『聖なる者』(ハギオス)と聖書中で呼ばれるのである。

つまり、天に戻ったキリストは、自らの犠牲を携えた大祭司としての最初の贖罪を、従属の祭司となるべき彼らに行ったので、聖霊の賜物を受けた聖徒らは人類に先立って『義』を得て『救われた』状態に入れられるのである。(マルコ14:22/ヨハネ6:56)


彼らは『召された人々』(ヘブル9:15)アブラハムの『相続財産を受け継ぐ者』(ローマ8:17)『聖なる者』(あるいは『聖徒』)(エフェソス1:1)『キリストに与えられた者たち』(ヨハネ17:24)であり、ペテロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と指摘したように、律法上のレヴィ族のような『神の特別な所有に帰する民』である。(申命記26:19/民数記3:12)

彼らの『神の子』としての身分の証しは注がれた『聖霊』であり、死後キリストと共になる事への事前の保証(手形)であると、パウロが異邦人に宛てたエフェソス書簡に明言されている。(エフェソス1:13-14)


終末に、キリストの「臨御」(パルーシア)が起こり、主が象徴的に地に帰還した後、聖徒として死んで眠っていた者らには天で霊の体に再生することを許される者があり、地上では聖霊を授かって生きている者らも(今は居ないようだ)、承認を受けた者は直接に肉の体を解いて天に行き、そこでイエスと共になるよう召されることになる。こうして集められる『アブラハムの裔』はキリストの許に集合し、いよいよ人類を贖罪する『神の王国』の千年支配の始まるを見るというのが、聖書全巻に亘る奥義となっている。(テサロニケ第一4:14-/ダニエル12:2)


キリスト教徒は終末になると、誰でも天に召されるということにはならないが、聖霊を受けなかったならとて、地に残されることを何も恐れる理由もない。やがて『神の国』の贖罪に与ることができるのである。しかし、聖霊があってなお地に残されることは「新しい契約」不履行の罪を恐れなければならない。(マタイ24:40-41)


天に召される聖霊ある人々は、肉体という『幕屋』を解いてキリストの御許に集められるが(コリント第二5:1-)、それは新たな誕生となり、霊の身体を得てキリストと共に生きる者となるという。(ローマ8:1-2/15-17) 


それゆえ彼らは『キリストの兄弟』であり『共同の相続人』であるとも言われる。(ヘブライ2:10-17)

だが、『神の子』 の立場は彼らだけでなく、神がアブラハムに告げられたように、最終的には『神の王国』の贖罪を通して全人類にも差し伸べられるものである。(ヨハネ1:12)


このように、「聖霊と火」の「聖霊」でバプテスマを受けるとは、「人類の贖罪」というキリスト教の根幹たる神の御旨に祭司として預かることを意味するのである。(ヘブル2:3-4)



-◆火のバプテスマ-----------


さて、聖霊に対する『火のバプテスマ』については、もう一度バプテスマのヨハネの言葉に戻り、その続き見てみよう。


『その方(イエス)の手には煽り分ける道具があり、ご自分の脱穀場をすっかり掃き清めると、小麦は蔵に納め、籾殻は消えない火で焼き払うであろう』(マタイ3:12)


これはユダヤ人に対する痛烈な警告である。

ヨハネはまたこうも言っている。

『 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。』

『斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9-10)


アブラハムの嫡流子孫であるユダヤ人にこそ、正統に千年王国のキリストに伴う「王なる祭司」の「聖なる国民」となる機会が開かれていたが、当時のユダヤ体制の『ねじけた世代』は却ってイエスを退けることによって、血統上のユダヤ民族全体としてはこの類まれなアブラハムの遺産を遂に放棄するのである。(創世記12:3)

その原因は、アブラハムの子孫には不似合いな『不信仰』であった。(ルカ22:67)


もちろん、これらメシアを拒絶した多くのユダヤ人の上に聖霊の降下は無かった。

あのペンテコステの日に、ペテロが『バプテスマを受ければ聖霊に与る』と語った相手は信仰を抱いたユダヤ人であり、すでに律法契約にあり『契約の子ら』であるとペテロもそこで言っている。彼らこそはイスラエルであり、イエスをメシアとして信仰を持つことで、そのままに『新しい契約』に移行でき、『救われる』状態にあった。(使徒2:38-39)


だが、大半のユダヤ人はこれほどに有利な立場をアブラハムから相続していたにも関わらず、イエスをメシアとして信仰せず、水のバプテスマを経て聖霊のバプテスマに至った人々は僅かで、むしろ、体制としてのユダヤのその不信仰な『世代』には、『アベルから祭司ゼカリヤ*まで』の殉教者らの血の清算が求められたのである。(*歴代第二24:22/ルカ11:51)



-◆ユダヤ体制という籾殻に臨んだ火のバプテスマ


その世代のうちに起こった恐るべきこと・・

それはイエスの刑死から『この世代』の内に、即ち四十年を経ない西暦七十年に到来した。(マタイ24:34)


ユダヤとガリラヤ、そしてエルサレムがローマ軍に徹底的に蹂躙され、美麗なる聖都であったエルサレムは更地のように破壊され、神YHWHの神殿は火炎に包まれて以後再建されていない。ユダヤ人は『剣の刃に討たれ、奴隷となって諸国に売られ』、以後は流浪の民となってしまった。(ルカ21:22-24)


それまで存続していたモーセの律法制度による神殿での動物の犠牲を中心とした祭儀は、神殿の破壊と共に終了を余儀なくされたが、その以前にキリストの犠牲が、既に神殿の祭儀の意義を失わせていた。(ヨハネ4:21/ダニエル9:27)


そして、「バプティゾー」が「浸す」を意味するように、ユダヤの律法による千年以上の永きにわたった体制も、『火』に浸されたことになる。つまり、全き滅びを被ったのであった。


モーセの崇拝体制は神殿のないままに今日まで二千年を経ても未だ再興されていない。既にキリストによる『霊と真理による崇拝』に置き換えられたからであれば、今後も地上の神殿と動物の犠牲も再開はしないであろう。例えもし、神殿が再建されるような事があったとしても、キリストの犠牲の後に、今更に動物を捧げるどんな意味が残っていよう。(ルカ19:41-/23:28-/マタイ24:2/ヘブル10:1-4)


メシア殺害があって後、律法の警告の預言は成就し、遂に『約束の地』はこの民族を『吐き出す』に至ったのであった。(レビ20:22) 


それはバプテストの言う『籾殻が焼き尽くされ』たかのようにである。

こうして「火のバプテスマ」の方が理解される。

 

ユダヤ祭司体制の終焉は、モーセが命じた『繰り返し捧げられる動物の犠牲』を終わらせ、一方で、神は大祭司キリストに基づく天の神殿での贖罪を開始させていた。即ち聖霊を降下させ従属の祭司らを集め始めたのであった。キリストが「集めた」者、また「父から与えられた者」とは、真の意味での『アブラハムの子孫』であった。(ルカ19:9)


爾来、「火のバプテスマ」によって聖域を失ったユダヤは、律法の完全な履行が明らかに不可能となってしまった。ユダヤ教徒たちはその後もメシア=キリストを待ち続けているが、二千年後の今日までメシアは現れてはいないし、神殿も失われたままである。例え再建されたとしても、既にキリストの完全な血の犠牲が捧げられた以上、今更、動物の血の犠牲は「退行」にしかならず、キリストによって更新された天界の祭司制度に無益に抗うものにしかなり得ない。もはや、神は何者の血も求めることはない。(ヘブル9:25-26)


だが、ナザレのイエスをキリストと認め信じるユダヤからの人々は、キリストの預言の『山に逃れよ』との言葉に従い地上のエルサレムを見切って「山地」デカポリス地方に避難した記録があり、この神殿と律法体制の処断の「火」を免れている。(マタイ24:16)

そうしてユダヤ体制への神の決定的断罪と絶縁から逃れ出、その以前に「小麦」として「蔵」に納められるべきものとされていたのであった。(マタイ3:12)

穀粒と籾殻の違いには、まことに大きな差があるもので、エレミヤ書で神は『夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうか』と言われる。(エレミヤ23:28)
真実と偽りの預言者ほどに異なると言われているのである。


そして、その聖霊降下の始まった時期にはユダヤの体制の終わりが近付いていた。ユダヤはメシア拒絶により律法体制はその契約の辿り着くべき目標を見失ってしまった。それは聖霊の降るときに『日は暗く、月は血に変る』というヨエルの陰鬱な言葉に相当するであろう。(ヨエル2:30-31/使徒2:17-21)


しかし、その中からでもヨエルの言うように『シオンの山とエルサレムとに、逃れる者があるからである。その残った者のうちに、YHWH*のお召しになる者がある』。(ヨエル2:32)*発音不明の神の御名


この人々が前記の『聖霊と火』の「聖霊」でバプテスマを受けたユダヤの人々である。一方で『火のバプテスマ』を受けたユダヤの体制は、キリストが『三年世話をしても実を付けないイチジクの木』であり、イエスを通して示された「父の業」即ち聖霊による奇跡を三年半のキリストの公生涯のあいだに見ても、ユダヤ体制の全体がキリストに信仰を示して聖霊を受け『聖なる国民、祭司の王国』となることは遂になかった。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

もし、律法契約が『聖なる民』という目的に達していたなら、『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』とも『神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言された。年を経て古びたものは、間もなく消えうせる』ともヘブル書筆者は言わなかったに違いない。(ヘブライ8:7・13)


律法に固執し続けた血統のイスラエルは、イエスをメシアとして認めなかったために『諸国民の光』となって『地のすべての民のすべてに祝福』をもたらすというアブラハムの相続財産を、体制としてまったく逸したのである。(創世記18:18)


やはり、ルカ福音書はユダヤ体制の滅びの原因をメシア拒絶に特定しており、『敵がおまえの周囲に柵を作り、攻囲して四方を閉じ込んでしまう日がやがてくる』というイエスの言葉を記している。それがキリスト後に現実の惨禍となったことをまさしく目撃したヨセフスがユダヤ戦記に詳細に述べている。(ルカ19:43)


そのルカ書にもマタイと同様に、メシアは『手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』 とのバプテストの言葉を伝えているのであり、この「火のバプテスマ」が何を指すかは動かし難いことである。(マタイ3:12)


バプテストのヨハネの語った『その方は聖霊と火とによって、お前たちにバプテスマをお授けになる』というのが、本物の滅びの火ではなく聖霊が 火のように下ったことを表していると教えられる教会や宗派が多いのは承知している。

だが、バプテストの、聖霊か滅びかの予告と、あの五旬節の朝に『舌のようなものが、炎のように分れて現れた』という聖霊の降下の姿とを混同するなら、バプテストの語った当時の背景とユダヤへの意図を無視しなければならない。即ち、「そうではない」と言うなら、マタイやルカなどの新約聖書の筆者らの意図を無視しなければならなくなるではないか。

 

聖霊が火であったのは、あのペンテコステの日の百二十人以外には聖書に『炎ような』との記載はほかに無いのであり、『霊の火を絶やすな』というパウロは、『聖霊を嘆かせるころとのないように』とも訓戒しており、聖徒らに注がれた聖霊に相応しく行動することを促す言葉と捉えるのが自然といえよう。聖霊はむしろ『風』や『息』として描かれることがほとんどである。(テサロニケ第一5:19/エフェソス4:30/ヨハネ3:6-8/20:22)


マタイやルカにある「聖霊と火と」をペンテコステの『炎のような舌』と混同してしまえば、その「ただ、ありがたいばかりの教え」は、バプテストによるユダヤ人への重い警告という意義を欠くことになる。それは多くの「クリスチャン」方に在りがちな皮相的なご利益信仰というべきであろう。

(それでも「その方が良い」と思われる向きは、それが個人の倫理的決断であろう)


このバプテストの言葉によって、当時にユダヤ人らにはメシアの成し遂げる優れた祝福と、恐るべき裁きとをそのメシアを紹介するに当たり激しい言葉で強く警告されていたのであるが、大半のユダヤ人はイエスを退け、その後も体制としては真実なメシア信仰を欠いて、イエスの仲介する『新しい契約』への道に入ることなく、ユダヤは聖霊を受けた一民族『聖なる国民』『神のイスラエル』となるにも及ばなかったのである。(ガラテア3:24/6:16)


使徒ヨハネはこう書いている。

『神を信じない者は神を偽り者としているのだ。神が御子について証しされたのにそれを信じないからである。』(ヨハネ第一5:10)


つまり、メシアであるイエスに信仰を置かなかった当時のユダヤ体制は、モーセの律法順守による救いに固執し、旧約聖書を暗記してさえいながら、遂に救われなかったのであるが、その原因は、救いというものが、知識ではなく価値観を働かせ、現れたメシアに信仰を持つことであるとは理解しなかったからである。(ローマ9:32)


しかし、ヨエルの預言は、イスラエルの末孫に神の霊が注がれることだけではなく、『その日わたしは、わが霊を下僕ら下女らにも注ぐ。』とも付け加えていたが、それは、ユダヤの家の者ではない異邦人によく当てはまる。(ヨエル2:29)


そこで、キリストは地上に残った使徒らやパウロらを用いて、真実に選ばれた聖なる民、『神のイスラエル』の一員となる選びを、イスラエル民族だけでなく、聖霊降下を通してメシアへの信仰を働かせた異邦諸国民へと広げてゆくのであった。(ガラテア6:16)


主イエスはこれについて、ユダヤ人ではない『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』と言われる。(マタイ8:11)


また、復活の後の世界宣教を弟子らに命じるに当たっては『地の絶え果てるところまでが、わたしの証人となるであろう』とも言われたのである。(マタイ8:11-12 /使徒1:8)


そして、パウロはこの異邦人による流入を「接木」に例えている。(ローマ11章)

つまり、これらキリストの使徒らによる活動も、彼らの主の活動に同じく『神のイスラエル』である信仰深いアブラハムの内面の子孫を召し出すための諸国民への宣教であったのだ。(ガラテア6:16)


歴史に残された様々な資料は、奇跡の「聖霊の賜物」を持った諸国の人々が居たことを教えているが、アウグスティヌスの頃にはとうに過ぎ去った過去のことになっていた。その人々は「聖人」と呼ばれて今日に伝えられ、カトリックの伝承の中に、奇跡を行い殉教したという人々として痕跡を残している。


いや、この点で言えば、第三世紀のオリゲネスですら、聖霊を持つ人々を過去のものとして語っており、西暦第二世紀中頃までについて語る資料だけが、この格別の「賜物」を有する人々について告げるのである。




-◆聖霊を受ける者の現れを待つ-----------



そして今日、初期の人々のような姿で「聖霊のバプテスマ」を受けた人を筆者はやはり見ていない。

初期の奇跡を行う聖なる者らの痕跡であるカトリックの「聖人」、即ち、複数の奇跡を行い、その多くが殉教者であったこの人々が、自分の人生の導きや益を専らに求めるご利益信仰者であったと言えるだろうか?


そしてその奇跡の『賜物』はトランス状態に陥るものでなく理性的であり、自らの意識を保持し、霊の働きを制御できたことをコリント前書は描き出し、『神は無秩序ではない』ゆえに一人一人が順に話すよう訓戒している。(コリント第一14:26-33)

しかも、その聖霊の語らせる内容は、終末に於いて人類に重大論争が生じるようなものである以上、明確に理解されるべき音信が語られるに違いない。

即ち、その聖霊の発言は福音書が述べるように世の支配権に関わるもので、為政者との対立を生じさせるというのである。(マタイ10:17-)


だが、世界にそのように明白なものを未だ聞いていない。

聖霊を注がれる彼らはそこで聖霊によって語るのだが、宗教家ではなく政治家の前に立つからには、彼らの音信には『神の王国』の支配に関わる内容が込められるのであろう。(ルカ21:15)*(マルコ13:9-11/マタイ10:16-19などを参照、宗教的対立ではないようだ)



では、将来再び『聖霊か火か』のバプテスマを受ける人々が現れるだろうか?

つまり、キリスト教界が古代のユダヤの体制のように、「聖霊」か、あるいは「火」かの洗礼を浴びる日が来るのだろうか?そうかもしれない。いや、そのようになるのであろう。(マラキ4:1-/ヨハネ3:10/マタイ13:24-)


いずれにしても、聖書を読む限りはまず「聖霊」でバプテスマを受ける人々が現れなくてはならないが、そうして聖徒となることは神の選びであって人間の働きかけるところではない。それゆえ、初代からキリスト教徒の集まりが「エクレシア」(召しだされた者たち)と呼ばれたように、その集まる人々のほとんどが聖霊を有する『神の召しに与る人々』で構成されていたが、将来にもそのようになるのだろうか。(コリント第一14章)


聖書での呼称「エクレシア」(招し出されたもの)は、ローマ帝国の国教となった頃から「キュリアコン」(主のもの)を語源とする別名「教会」(キエザ、キルヒェ、チャーチ等)と呼ばれるようになっていったが、それは所謂「聖人」が過去のものとなり、もはや召された者たちのいない信徒だけの集団には相応しい名称であったと言えるかもしれない。(使徒2:38/ヨハネ第二1)


しかも、将来に起こる「それ」は、初めて「聖霊のバプテスマ」が弟子らに行われたあのペンテコステの日に、ユダヤ人たち対してその奇跡が『大風の轟音』によって広く明らかにされたように、個人のご利益信仰に属するような単なる個人の心理作用でないに違いない。


神はそれに加えて彼らの上に『火の舌』を一人ずつに置いて証しを立てたのであり、これは彼らの発言の内容と共に、『葡萄酒に酔っている』と反論する者らにも説明の付かない印となったに違いない。(使徒2:15-)

だからと言って今日の我々が、この火の印と火のバプテスマを取り違えるべきでないし、そうするなら聖書理解はほとんど諦めねばならない。これはキリスト教にとって基礎的な事ではないだろうか?

それまでひっそりと二階の部屋に隠棲していた弟子らは『聖霊によって力を受け』強力な宣教へと世界に足を踏み出したのであるから、聖霊は「神の威力」というべきものである。(使徒1:8)

まして、今日の「聖霊によるキリストの内住」などは、キリストが王権領受の旅に出立し、聖霊を通した「監臨」を終えた西暦第二世紀の半ば以降、聖霊の賜物が地上を去った為にキリスト教界が案出した実体の無い、「自分の人生イエスさまといっしょ」というような少女趣味的で大志なく脆弱な信徒に植え付けられた「ご利益信仰の思い込み」か「異教や悪霊の影響」であろう。

もっとも、今日までこのようなアニミズム的な聖霊信仰が「正統信仰」とされているのは嘆かわしいことではあるが、それも神不在の今は容認されるところであり、その教義についてだけは、今後も終末まで長らえるのであろう。(ヨハネ9:4/ルカ19:12)


だが、それは「自分に神は何をしてくれるのか」を求めるという利己心に基づく「信仰」であって、キリストや使徒、また初期の弟子らのような無私の精紳とは逆のものである。教会一般の教えるご利益は、個人の人生を幸福にしてくれて、自分が天国に召されることを夢見るというレベルの「キリスト教」である。(コリント第二5:15)


聖霊のバプテスマが自分にも行われたと思い込むのは自由だが、それが本来人に求めるものは、ご利益とは正反対の自己犠牲であり、聖霊を受けることは初期の弟子らのように、むしろ世の矢面に立つことであるからして、そのような迫害に至れば、「自分には聖霊などは無い」と本当のことを叫ぶようなことになるのであろうか。(ゼカリヤ13:3)


本稿の内容が、教会員に受け入れ難いことは承知している。

そこは筆者が教会生活を離れ去り、もともとキリスト教世界に属さない日本という自由な土壌でキリスト教の研究を進めたという背景あってはじめてこの観点に立ったものと思える。

あるいは、もし、閲覧の方からこのような「信者だけの救い」ではないキリスト教理解に賛意を頂戴できるなら幸いである。

やはり聖書中を見るなら、「聖霊の賜物」とは、神がその御力をもって御子イエスに証しを与え続けたように、公に対する明瞭な神の威力の堂々たる表明なのである。(ヨハネ5:36/ヨハネ第一5:10)


聖霊とは、それを見る他者の信仰をさえ惹起するもの、つまり自己欺瞞的で不鮮明なものでなく、反対者に対しては勿論、人類全体に対して神からのものであることが極めて明確な形で将来も示されなくてはならず、また、実際にそのようになるであろう。(マタイ10:17-20/マルコ13:9-10)

その将来、もし我々が「聖徒」(聖霊を受ける者)たちの現れと、彼らを通して「聖霊」の声を聞くときには、けっして心を頑なにするようなことをしてはなるまい。(ローマ2:5/ヘブル4:7)

ヘブル書が警告するように『語っている方を拒んではならない』。それは人による発言ではないとされている。そのとき、宗教界が聖霊の声に心を向けないなら、殊に宗教指導者が自分の正当さに固執すれば、神からの発言に色を失い、却って聖霊に逆らうことになるのではないか。(ヘブル3:14-15)⇒「聖徒 聖霊の指し示す者たち」


聖霊によるその発言は、為政者との対峙*によって「神か人かの」究極の論争に発展するであろう。これは共観福音書が揃ってイエスの言葉として預言するところであり、後の時代に弟子らは王や高官の前に引き出され、そのとき聖霊は彼らに『彼らが束になっても反駁できない言葉を語らせる』(ルカ21:15)。

それゆえ『何を話そうかと、気を揉む必要』(マルコ13:11)も『前もって練習しなくてよい』(ルカ21:14)と再三記している通りである。


これが『王の王、主の主』による「人類の裁き」に連なる「エデンの問い」に発展し、世界は聖霊の声に従うか否かの二択を迫られるであろう。(マタイ10:18)

キリストは『雲と共に来る』ので、人類はキリストを直接には見ず、聖霊の声を代弁する『聖なる者たち』の発言に信仰を働かせるか否かが、人類を分かつものとなる。『聖霊は裁きについて』『世に証拠を提出する』ことになることが知らされているように、イエス御自らが地上に姿を現すのが再臨であれば、「裁き」とは何と外面的で単純で幼稚なものであろう。(ヨハネ16:8)



それが聖徒たちという人間「土の器」を通すものであっても、聖霊が語らせる以上、それは論駁不能な神の義の顕現であり、その時までに、いかなる人間の義(宗派や党派)をも放棄すべきではなかろうか。『聖霊』が語るときに人間の作った宗派や党派などに何の意味があるのだろうか?(エゼキエル33:13/アモス3:8)


キリスト教徒のひとりであれば、自分が聖霊を受けた『聖徒』でなくとも何ら落胆する必要はない。むしろ、『聖徒ら』の天の祭司職による『贖罪』の益に与り、ついに『神の子』となって地上の千年王国で永生に至るべき『信徒』(ピストス)となり得るからである。


それこそは、神が 『あなたの子孫によって地のすべての国民は自らを祝福する』と、いにしえ創世記に繰り返し示された、あのアブラハムへの約束の成就を迎えることではないか。そこには神に倣う公共善と利他性の大志があり、まさしくキリスト教とはそのようなものであろう。(創世記12:3/18:18/22:18/26:4/コリント第二5:15)


必ずや神の悠久の歩みは、その目的を違えることなく、まったく成就することになるであろう。






 © 2011  林 義平

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 ⇒ 火のバプテスマに焼かれるユダヤ

 ⇒ 原始キリスト教と「キリスト教」の違い

 ⇒ キリスト教の救いとはご利益か    




バプテスマの意義は何か


バプテスマ、それは「洗礼」とも「浸礼」とも言われる。
その漢字の一字の違いは、額に水を注ぐのか、人を水に浸すのかに由来する。

バプテスマがギリシア語「バプティゾー」から来ているのなら、その「浸す」という意味からして浸礼が本来であると見なせるし、旧約時代の灌油による王などの役職への任命あるいは、聖霊が火の舌のようになって彼らの頭上に現れたという、あのシャブオート(ペンテコステ)の日の出来事をバプテスマというなら(使徒2章)、水のバプテスマも頭への降り注ぎなのかもしれない。

また、モーセの律法が規定していた「清めの水の洗い」がその前提であれば、やはり体を洗えるほどの水が要ることになる。(ヘブル10:22→レヴィ14:9)

初期キリスト教徒は十分な水の得られない環境では、「浸礼」は施せないとしても頭から水をかける「洗礼」でやむなしとしていたとのことである。
また、「点礼」という寝たきりの人のために数滴を施すものも初期からあったようである。

しかし、これらの事柄を論じても、いずれかの儀式のやりようを考えることであり、バプテスマの本質には然程近づけない論議になりそうである。

では、バプテスマの意義はどこにあるのだろうか?

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ほとんどの場合、バプテスマはこれまで入信儀礼と解されて来た。
近年、アメリカなどで、宗派に関わらないバプテスマが施されるようになってきているそうだが、ほとんどの場合、バプテスマはどこかの教派や組織に一員として加わることの意味合いが強い。

宗派によっては、信仰告白や回心をするもの、また周到な準備期間を設けて、教理や道徳の教育が十分になされているのかを試され、然るのちにバプテスマを初めて許すところもある。

あるいは、バプテスマの直前に宣誓を求め、しかもそれが神やキリストと共に組織への信仰を表すものであることや献身などを要求されるケースもある。
ほかにも、教祖への専心を誓うよう求められるところもあるのかも知れない。

また、バプテスマ前にそれまでに犯した罪の告白をし、それらを洗礼の水が洗い流してくれるという意味づけもあるらしい。

しかし、そのように納得してこられた方々には残念だが、この点はペテロも第一の書簡で述べるように、この水は肉の汚れすら洗い流しはしない。(3:21)そうなると、「洗礼」という言葉は誤解を招きやすい言葉になるようだ。

もし洗礼が罪を洗い流すなら、終末においてすべての者に臨む神の裁きが前倒しされることになってしまい、人がひとりひとり裁かれることに一体何の意味が残るのだろう。
そこでは、バプテスマを受けたか否かという単純な儀式の問題に畏怖すべき裁きからの救いが置き換えられてしまう。

つまり、バプテスマを罪からの浄めのように考えるなら、ただ儀式を済ませたか否かになって、神は人の内面は見ないと主張することにはならないだろうか?

我々の罪を洗い流すのは水ではなく、キリストの血(の中の魂)、つまり贖罪の貴重な代価の方であって、どこにでもあるような水にその力はない。
実に、あの使徒パウロですらバプテスマを受けた後に、自分に罪が宿っていることを認めているのである。(ローマ8:18-)

だが、この罪の浄めという考えのために、四世紀にはバプテスマを死の間際まで延ばす習慣さえあったという。つまり、一度バプテスマによって罪から清められたなら、再び罪を犯すことで自らバプテスマを無効としないためである。

また、生まれたばかりの嬰児が命の危機にあった場合、産婆が慌ててバプテスマを施すという風習が、近世までヨーロッパにあったが、これはバプテスマの儀式によって死の直前にキリスト教徒とすることで、地獄に墜ちることを食い止めると信じ込まれたためである。

今日では、キリスト教への新たな帰依者も少なく、「あなたは信仰を持ちましたね、ではバプテスマを受けましょう」。と信者の自動的乱造があちこちの教会で行われている。だが、当然ながら、それは根の浅く、いつまで続くとも知れない信仰者を作っては失うばかりではないか。

このように、まるで様々に解釈されているようにみえるバプテスマではあるが、キリスト教に帰依する場面で行われるということにおいては何とか共通しているといってよいだろう。

しかし、以下のようにバプテスマの意義を探ってゆくと、罪を消しはしないものの、受ける者の内に宿る「罪」をどう見做すかが関係していることが見えてくる。


では、まずイエスに先立って活動した、バプテストのヨハネから見てみよう。


-◆先駆者バプテストのヨハネ---------------------

さて、聖書中にこの儀礼が重要な意味をもって登場してくるのは、やはりバプテストのヨハネである。
先の記事で既に書いたように、このレヴィ族の祭司の息子に与えられた使命はけっして小さなものではない。

もちろん、それはイエスの彼について述べた「女から生まれた者で彼より偉大な者はいない」の言葉からも知れるが、モーセ以来のユダヤ教1500年間の総決算のような預言者としてエリヤの姿をして律法契約不履行の罪と呪いの内にあるユダヤ民族にメシアの先触れとなって現れた意義は非常に大きなものがあった。

さてここで、ヨハネのバプテスマを理解するべく、少々ユダヤ教の流れについて記すことをお許し願いたい。それはヨハネのバプテスマの「悔い改め」という側面の理解を確認しておくためである。


ソロモン王の建立した第一神殿の破壊されユダヤ国民がバビロン捕囚に陥る以前から、イスラエル民族による律法不履行のために、神の側には律法契約を続行する意志は既に無く、御璽のような律法契約の証しであった「契約の箱」も第一神殿の破壊までには行方が知れなくなっていたようである。

それから、ネブカドネザルの大軍がユダヤとエルサレムを蹂躙し、神の刑執行者の役割を演じて、ユダヤ人を自国への捕囚に処したのであった。

後に、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人らが、第二神殿を以って神聖な祭儀を再開させたものの、「契約の箱」は戻らなかった。(エレミヤ3:16) ⇒ 契約の箱 アーロン ハ ヴェリート

これが物語ることは、神が一度限り律法契約を断念したとき以来、イスラエル=ユダヤ民族は神との関係に大きな問題を抱えていたのである。

第二神殿や祭祀の復活では律法に従う形式を保ったものの、すでに正式な律法契約によるものとはならず、アブラハムへの約束に基づく神の善意ということでしかない。

ただ、時経た後に、神はメシアを介してイスラエルの家と新たな契約を結ぶことを預言者を通して予告していたのであった。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)


ヘブル書はこう記している。
『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』(ヘブル8:7)

そして、律法契約を仲介したモーセも、新たな契約の仲介者キリストを予告して
『あなたの神、YHWHはあなたのうち、あなたの同胞の中から、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』と、既に律法が記されるときから述べていた。(申命記18:15)



-◆ユダヤ人への「悔い改め」のバプテスマ--------------

さて、そこでバプテストのヨハネの登場となる。(ルカ1:77)

ユダヤへの「新しい契約」の近づく時期に現れたゼカリヤの子ヨハネは言う。
だが、それは激しい言葉を含んでいた。
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「自分たちの父祖はアブラハムだ、などと思ってもみるな!神は石からでさえアブラハムの子孫を起こすことができるのだ」。
「斧はすでに木の根元に置かれている。ゆえに良い実をならせない木はみな切り倒されて火に投げ入れられる」。
「わたしは悔い改めのために水でバプテスマを施すが、わたしの後に来る方は、聖霊と火でバプテスマを授けるであろう」。
「その方は手に煽り分ける道具を持ち、脱穀場の隅から隅まで掃いてしまい、麦は蔵へ集め、籾殻の方は消えない火によって焼き捨てるのだ」。
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これらのマタイ3章の言葉は、旧約聖書に予告されたメシアの前を先立って行くエリヤ、また、主の道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声である。その目的は神の前に「整えられた民を準備」するためであった。(ルカ1:17)

それは恰も、「さあ、こちらに来るように。我々の間の事を正そう」「そなたの罪が緋色の布のように赤くとも、それは羊毛のように白くされよう」。といっているかのようである。(イザヤ1:18)

この経綸によって、神はアブラハムの子孫の契約違反の罪と呪いから請戻し、そうしてアブラハムへの「あなたの子孫によって、諸国民は自らを祝福する」という約束を、後裔イスラエル民族に回復することを企図したのである。(創世記12:3)


さて、ここでヨハネのバプテスマという儀式の役割を総括するなら

イスラエル民族はバビロニア帝国によって神の恵みを失う以前から、神との間に道義的に問題を抱え不安定な状態にあった。即ち、律法契約を守らなかった咎を負ったまま過ごし、いまや約束のメシアが近付きつつあった。

その咎は、良心の鋭敏なユダヤ人をして、第二神殿での祭祀の再開をもってしても解消されることはない、と感じさせていたことであろう。その抱くものは「打砕かれた霊」であった。
では、どうすればよいのか?

幸いにしてエレミヤは「新しい契約」を告げていたし、最後の預言者マラキは「契約の使者」とそれに先立つ「使者」エリヤの到来を知らせていた。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)
したがって、メシアはイスラエルにとって律法の罪からの「救い主」であった。(コロサイ2:14)

バプテストのヨハネが現れるときには、民はすでにメシアやエリヤを待っていたので、マラキ以来の神の四百年に亘る沈黙の終了をエリヤのいでたちをしたヨハネに見たであろう。それは預言者の封印と呼ばれたマラキ書の最後の一節をもたらす貴重な人物となった。(マラキ4:5-)
 

さて、自分たちの国民が律法契約を守り行うことが出来なかったことを正直に認める人々にとって、荒野からの人ヨハネの施すバプテスマは、それを受ける者本人が律法契約の不履行の罪を認めて「悔い改め」、新たな神の道、救いの道を受け入れることを表明することを意識させたであろう。(使徒13:39)

それゆえ、彼の施すものは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、これはユダヤ人に限るものである。
このバプテスマは、それまでのユダヤの歩みを悔いて、来るべき救い主「メシア」にユダヤ人の心を整えるものであった。

この当時の平民の多くはヨハネからバプテスマを受けたが、宗教家たちは、このヨハネのバプテスマを受けなかった(あるいはヨハネが受けさせなかった)と記されている。(ルカ7:30)

したがって、ヨハネのバプテスマは、それを受けるユダヤ人の意識を律法体制の以外の事に、つまり、それまでバビロン捕囚の中断があったとはいえ、永く続いた動物の犠牲と法律を守ることによる宗教生活の外に向けさせる作用があったに違いなく、またイスラエルにとって『荒野』とは、モーセ以来の信仰の原点を思い起こさせる場所であったに違いない。

だが、ユダヤの宗教家は旧態依然たる宗教体制にこだわり続けることになった。
聖書にも歴史書にも、当時の宗教体制の人々は、既に破綻していた律法の遵守に腐心し、いまだに自分の行状によって義が得られるかのように誇っていた様が伝えられている。(ガラテア2:16)

つまり彼らは、自分たちの行いによる義を求めた思い上がりのために、ナザレのイエスに対して少しも整えられておらず、「新しい契約」に向かうべきその道は、主の前にまっすぐではなかったのであった。(ガラテア3:10)

そうした状況にあって、ヨハネのバプテスマを通じ約束のメシア=キリストが現れる。
神のみ子であるイエスの場合に悔い改めの必要はないが、自らを整えるかのようにユダヤ人としてこれを受け、そうして聖霊を灌がれた最初の人となりった。つまり、そのときに聖霊によって象徴的に「灌油」されメシアの任命を受けたのである。


さて、こうしてヨハネによるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」をみると、神からの救いの手段を無条件で受け入れてキリストにすべてを委ね、その前に自己の義を放棄するよう促していたことが見えてくる。(ガラテア3:10)
つまりは、罪ゆえの神へのまったき降伏、一切の放棄である。そこに必要であったものがイエスをメシアとして受け入れる「信仰」であった。(ローマ3:20)

それは、既に破綻していた神殿の贖罪の祭祀を含むユダヤ律法体制ではないところ、自分たちの宗教習慣を離れ、未知の領域に新たな崇拝、「メシアへの信仰」を見出すよう促すものであった。そこでは柔軟な心が求められる。(ガラテア3:21-22)

一方で、ヨハネのバプテスマを受けず、イエスに強硬な者ら、とくにパリサイ派はイエスが安息日を守っていないからと、自己の義で頑なに判断を下してしまい、せっかく遣わされたユダヤにとってこのうえなく貴重なメシアと神の救いの道を退けたのである。(ヨハネ9:16)

その先にあるのは、あの西暦70年の恐ろしいユダヤ体制の滅びであった。イエスを退けた世代は、その火に呑まれることになる。(マタイ23:35-36)

その一方で、ナザレ人イエスを約束のメシアとして受け入れたユダヤ人は、まずヨハネのバプテスマによって意識を整えられており、イエスを信仰しその水のバプテスマを受けることで、さらに聖霊を受け、罪あるイスラエルから救われる準備を整えたと言える。(使徒2:38)
その聖霊を受け「新しい契約」に入る他に彼らに「救い」は無かったからであり、これを今日の一般的キリスト教徒と同列に見るべき理由はない。(ローマ4:13-15)

さて、ここまでが「律法契約」に関わるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」である。



 -◆イエスの「聖霊と火」のバプテスマ-------------------

そして、イエスの施した聖霊によるバプテスマについても一瞥しておく必要がある。
ヨハネはイエスが「聖霊と火でバプテスマを施す」と語っていたわけだが、それは何であろうか?

「聖霊のバプテスマ」はあのシャブオート(五旬節)の日に最初の成就をみた。
その場にいた百二十人ほどの男女に天から聖霊が降下し、様々な言語で「神の壮大な事柄」を話し始めたのである。彼らの頭にはそれぞれ「火の舌」(「舌」は言語の象徴でもある)が配られたようにあった。(だが聖霊と火の「火」の部分はこれに相当していない)⇒聖霊と火のバプテスマ

こうして初めて、聖霊を受けた彼らに「新しい契約」が発効し「聖徒」(神のイスラエル)の一員となる見込みを得て、象徴的に「水と霊から」新しく生まれたといえるのである(ヨハネ3:5)

このように聖霊のバプテスマを受けた人々はその後も増えていったが、直弟子たちだけでなく、ステファノ、テモテ、のようなユダヤ系の外地の人々も与ることになる。(使徒2:38)

しかし、ユダヤ人の中から悔い改めに至る人々の数は多くはならなかったので「神のイスラエル」の国民の数を満たすべく、やがては信仰深い非ユダヤ民族のサマリア人や、ローマ人のようなまったくの異邦人もこのバプテスマに与ることになるのであった。(使徒1:8)

聖霊のバプテスマを受けた人々は、聖霊の賜物を授けられた超自然の(憑依状態ではない)能力を示す限定された人々であって、「聖徒」と呼ばれ、集まりの中心的役割を果たすが、奇跡をもたらす「聖霊の賜物」を持たない人々は当時であっても「聖霊のバプテスマ」を受けたとは見做されてはいない。(ローマ8:9/コリント第一14:16)

一方の「火のバプテスマ」は、キリストを葬ったユダヤの「ねじけた世代」に、ユダヤとエルサレムの滅びとなって臨んだ。⇒ 記事「聖霊と火のバプテスマ




-◆イエスの名による水のバプテスマ------------------

さて、前記の二種類のバプテスマを考慮してのち、本稿の本旨である「水のバプテスマ」に入ることができる。

このイエスの名による水のバプテスマの意義を物語る挿話が使徒言行録19章にある。

エフェソスで使徒パウロはユダヤ人の群れを見出した。彼らはイエスの教えは伝え聞いていながらも、ヨハネの「悔い改めのバプテスマ」を受けただけであった。

彼らは聖霊も賜物も知らず、イエスの名による水のバプテスマも受けていなかったので、パウロがこれを施して按手すると、彼らも聖霊を受けて異言や預言を始めたのであった。(使徒19:1-7)

これらは、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を受けていたユダヤ人が、「イエスの水のバプテスマ」を受けて後のことである。つまりユダヤ人はまず第一に律法契約の違反について悔いる必要があり、次いでイエスをメシアとして受け入れ信じたことをその名による水のバプテスマで示したであろう。
(ヨハネの死後はユダヤ人にこの過程は省略されたであろう)

イエスが地上で活動しているときにも、弟子たちがイエスのバプテスマを民に施していたが、その水のバプテスマを通し「新しい契約」の効力が発揮されて聖霊が灌がれるようになったのは、あのシャヴオートの日からであった。

こうして、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を経た後、イエスをキリストとして認めて「イエスの水のバプテスマ」によって備えられたユダヤ人らは、「新しい契約」に預かり、「聖霊のバプテスマ」を受けるのであった


このヨハネとイエスのふたつの水のバプテスマは、恰も、ユダヤ人を旧契約から新契約へとつないだ掛け橋のようである。ヨハネは終点でありイエスは新たな起点であったと言える。その二つの契約の間に水のバプテスマが存在している。
ひとつは「悔い」のため契約を終わらせ、もうひとつは新たな契約に預からせる「選び」の前に行われていた。

即ち、ユダヤ人はバプテスマを受けることで二度の意識の転換を行っているといえよう。一度目は律法体制による宗教生活に疑問符を打つことであり、第二のものは「新しい契約」に彼らを導くものとなったのである。

こうして彼らユダヤ人は、聖霊を受けることで「罪」ある肉体であるにも関わらず、キリストの血の犠牲の早い(仮の)適用によって「義と宣せられた」。それゆえ、彼らは自分たちを『聖なる者』また『被造物の初穂』と呼んでいる。彼らは罪を許された『神の子』の身分を史上初めて得た人々となった。それを可能としたのがキリストの血の犠牲であった。(ローマ8:1/コリント第一1:2/ヤコブ1:18)

ユダヤの民衆もヨハネのバプテスマによって整えられ、その柔らかくされた心によって、進んでナザレのイエスをメシアとして受け入れようとした。その意識、また決定をキリストのバプテスマによって示したと言える。(ヘブル4:7-8)
彼らは宗教家のように、古来の伝統や律法の「義」に固執しなかったので、イエスがガリラヤ出身であろうと、安息日に癒しを行おうと、彼らにはつまづく理由にはならなかったのである。(ガラテア2:16)

この民衆は、ヨハネのバプテスマからさらに進んでイエスのバプテスマを受け、一層整えられたユダヤ人たちは聖霊のバプテスマを授かり、予告された「新しい契約」に与って、イスラエルへの律法不履行の呪いから「救われた」ばかりか「アダムからの罪」も含めてすべての罪を赦されたのである。(ローマ8:33)
ここにユダヤ人が聖霊を受けなければ「救われない」事情があったガラテア3:13)


一方で、異邦人でこの契約に与った人々には「ヨハネのバプテスマ」の必要はなかった。悔い改めるべき不履行の契約に参与していなかったからである。彼らは、イエスの水のバプテスマによって一足飛びに「聖徒」(神のイスラエル)へ参加するよう心の準備を得ることができた。(カラテア6:15-16)

異邦人には律法を終わらせるために宗教生活から意識を方向転換させる必要はなく、そのままイエスをキリストとして受け入れたことに想いを傾け、その水のバプテスマにより内心の決定を自他に示すことができたであろう。
(コルネリウスの例を考えると、彼らにとってイエスのバプテスマは必ずしも聖霊を受けるまったく絶対の前提条件でもないようではあるが)

こうして見ると、水のバプテスマには、容易には変わることのない人の宗教信条の意識を変化させる効果があったことが窺える。それは天からの召命ではなく、自発的なものである理由もそこにあるのであろう。
ヨハネが荒野で『「主の道筋を直くせよ」と叫ぶ声』となったとき、ユダヤ人には意識の変革が求められたのであり、ヨハネの水のバプテスマを受ける人々は、その変革を意識した。

同じように、イエスの水のバプテスマは、以前の宗教がどうあれ、神の遣わしたキリストに神の救いの道を求め、そこに自らの意識を合わせることへの決意表明と見ることができる。


ではあるが、第二世紀以降、聖霊が人に注がれることは中断しており、今日までかつてのように正しく「聖霊の賜物」という世に対して明瞭な聖霊の注ぎを受けている人を見出すことはできないで来た。(ヨハネ9:4-5)

「使徒後教父」時代の資料は、聖霊の賜物を持つ人々がイエス後の百年ほどの間に現われては減少し、やがて絶えたことを教えている。
⇒ 「モンタヌス運動、最初の「時」の予告者

キリスト自ら「旅に出る」かのように一時期、地を去ることを述べていたが、それ以来、今日まで「聖霊のバプテスマ」はまさに中断している。⇒「今日のキリストの不在

それでも、今日「水のバプテスマ」が施されることは妨げられるべきものではないであろう。(マタイ28:19)
自らの中に、人間に共通する倫理上の欠陥である「罪」を正直に認めることのできる者は、イエスをキリストとして受け入れ、自己の正義をその前に捨て、「罪を悔いる」ことの表明することができる。これこそが「信仰」であり、それゆえのバプテスマは人々をキリストの再来に備えさせるものとなるだろう。(*ガラテア2:15)

従って水のバプテスマを受ける意義は、それが聖霊のものでない以上、自分が救われた状態に入ることではないにせよ、神の意志に対して『整えられた』者となり、神の声に『心を柔らかく』する用意のあることを示すことであろう。

今日の水のバプテスマと聖霊のバプテスマの決定的な違いは、その施す主体者にある。つまり、水のバプテスマを施すのが人間であるのに対し、聖霊は常に上からのものであり、神の許から「選び」また「召し」と共に注がれるものである。(ローマ11:29/テサロニケ第二2:13)

したがって、水のバプテスマは「召し」を証しするものではなく、聖霊を注がれることによって、その人に「召し」が差し伸べられていることを証しするのであって、これは人間の及ぶところではない。
 


-◆今日の水のバプテスマの意義--------------


さて、以上の論議をもってイエスの水のバプテスマの意義を確認すると、ヨハネのバプテスマが「新しい契約へと民を整えた」というところ、また「イエスの到来に備えさせた」というところは今日、依然意義をもっているであろう。

それは将来なお成就を待つことだからである。それは聖霊のバプテスマとは異なり、人が自発的に受けるもので、その観点からすれば「秘跡」と言うには的外れに見える。
今日的に水のバプテスマは、変化の難しい宗教信条の転換を自ら意識する効果に意義があるからである。

実に、人間の陥っている問題の全体は、創造者から離れ、当て所もない放浪者であることに原因しており、神の方からキリストという手が差し伸べられたのであるので、まずキリストを受け入れるよう心を整える必要がある。

更には、「ヨハネのバプテスマ」がユダヤ人の倫理的状況を自覚させる助けであったことから推して「イエスの水のバプテスマ」は、「新しい契約」の当事者に含まれない(聖徒でなく信徒である)我々のような『異邦人』であっても、自らの「罪」(原罪)ある状態を正直に認め、自分の義に固執することを止め、すべてをキリストに委ねるということが浮かび上がってこないだろうか?これこそが、キリストへの信仰であろう。


誰であれ、「人の正義」に固執している限りは、「神の義」にも服せず、キリストに真に従うことはできないであろう。(ヘブル3:7)

人類全体に「倫理的欠陥」という「罪」は残っており、それがこの世に満ちて人類を苦しめているのは明らかなことである。
まさに、すべての人には普遍的な「罪」を悔いる必要が残されており、虚心坦懐に自問すれば、我々の世界は不義から逃れることができないことがはっきりと見えているはずである。

では、我々は罪を認め「自分の義」を立てることを断念し「打砕かれた霊」をもってメシアを迎えるだろうか?


バプテスマそのものは儀式であって、それが罪を洗い流しはしない。救いを確約するものでもけっしてない。
むしろ人は皆が裁きを受けることになるのであるから、バプテスマを神の是認に入った証しと観るのは安直というほかない。
むしろ、それは自らに在る「罪」を認め(ローマ7:15-17)、イエスを罪を取り去るキリストとして受け入れ一途に従う姿勢を表すことである。

つまりバプテスマとは、自分の義を立てることを止め、まったく神とキリストに服する決意の表明であろう。そうして神に対して整えられた人となるのである。

だが、将来の水のバプテスマについては、もうひとつ加えるべき要素があることをキリストが語られている。


-◆神と子と聖霊の名によるバプテスマ----------------

マタイの福音の終わりに一度、地上を去るイエス自身の言葉として記されているのが、この『神と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ』という使徒らへの下命である。(マタイ28:19)

この神、子、聖霊の三者の名が連ねられている理由が所謂「三位一体」の証しというのは、余りに事を単純化して思考停止に人を陥らせるものであろう。

この三者に対して人に求められることがある。
それが即ち「信仰」である。

ユダヤ教徒は、当然に神YHWHへの信仰を求められ、加えて出エジプトからモーセにも信仰を持つようになっている。(出埃14:31)
即ち、聖書中での「信仰」とは、神だけでなく、『神が遣わした者を信仰する(ピステウオー)』ことも含んでいるのである。(ヨハネ6:29)

確かにこのイエスの言葉そのものがキリストにも信仰を持つべきを示しているが、キリスト後に神はそれまでにない『援助者』(パラクレートス)としての『聖霊』を使徒や初期の弟子らに注ぎ出し、それは彼らに奇跡の業を委ね、神に関わる知識をもたらした。

一方で、ユダヤ人の大半は遣わされたキリストを信じず、その弟子らが行う『聖霊の業』も無視して彼らを迫害したのであるから、彼らがそのバプテスマに相応しいわけもない。

そこで、弟子らによる水のバプテスマが、ディアスポラの民やサマリア人、そして異邦人に向かって開かれてゆく様が使徒言行録に見えるのである。 その水のバプテスマは聖霊のバプテスマを呼び込んだ。
聖霊のバプテスマは人間の側から行うことは出来ないが、水のバプテスマは人間の側からのアプローチであり、各人の意志によるものであった。

彼らが決意して水のバプテスマに臨み、聖霊のバプテスマに対して整えられたが、その決意の動機はメシア信仰であり、そうでなくてはならなかった。 


そして、地上を去るイエスはこの『神、子、聖霊の名によってバプテスマを施せ』と云われたのである。
これにはそれまでキリストが地上で施していた『イエスの名による水のバプテスマ』を超えるニュアンスがある。

その信仰の対象が、第一にイスラエルの聖なる神であり、その御子にして遣わされたキリスト・イエスであり、イエス後のあのペンテコステ以降は、そこに新たに遣わされた『聖霊』を含むべきであったのである。

従って、今日地上のどこにも『聖霊』が見られないからといって、この三者への信仰無くして水のバプテスマを受ける理由は無い。 『聖霊』だけでなくキリスト自身も地上を去って、今日まで『人は誰も見ない』高められた状態に入っているのである。(テモテ第一6:16/1:17)


そこで今日も、水のバプテスマを受けようとする者にこの三者への信仰が求められることは変わらない。むしろ、神は新たな預言を伝えず、キリストも去っており、聖霊の働きをも見ない今日ほど信仰の求められることもないであろう。

だが、そうであればこそ、その信仰は神とキリストの御前にも貴重と見做されることであろう。
イエスは終末の臨在についてこう言われている。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか』(ルカ18:8)


そして将来に、キリストがこの世に『臨御』(パルーシア)するときに、再び地上に『聖霊』が臨み、ある弟子らを通して『この世』は糾弾を受けることになろう。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)

その「終末」において大いなる活躍を果たすのは『聖霊』であり、それが示す『神の証し』を信じるか否かを通して世は裁かれるのである。(ヨハネ16:8)
 

従って、今日バプテスマを受ける者には、そのように『神が語られるときに、心を頑なにしない』理由があり、水のバプテスマが救いを確約しないとしても、心を整えるか否かに於いて、裁きの行方を左右するものとなり得るに違いない。(ヘブル4:7-10)




-◆バプテスマは人間や組織への従属ではない----------------

したがって、キリストの水によるバプテスマが、地上の何れかの宗派に従うことの決意表明となるなら、まったく的外れな意味になってしまう

それは、一向に神の義に対して心を柔らかにせず、却って人間の義に凝り固まろうとすることであろう。
特に宗派がそれぞれに他の宗派を敵にして正義感を抱くなら、その証拠は如実ではないか?

人は正しい宗派を捜し、そこに所属することで自らの「正統・正当」を得ようとするものなのだが、いったい人間のもので神の前に「真正さ」を主張できるものなど存在するのだろうか? ⇒「ヨブ記の結論」

律法契約下のイスラエル民族は、「契約関係」のゆえに、確かにある時期に正しく「神の民」であった。
しかし、そこには「契約の証しの箱」が存在し、奇跡のシェキーナー(臨御)の光が宿ったのである。

ならば今日、これに相当する「新しい契約」の証したる「聖霊の賜物」を初代キリストの聖徒と同じように有する人々がそこにいるのだろうか?(エフェ1:14)

歴史は、「聖霊の賜物」がキリスト教徒初代の後に途絶え、イエスは王権を得る旅に出立したことを示していないだろうか。⇒今日のキリストの不在

「正統」を巡るキリスト教の宗派の争いや敵意は、そこに「聖霊」も「賜物」もない証拠であろう。

もし、自分がキリストのバプテスマを受けても教派的敵意や反目からの「休み」を得ず、却って誰かの信仰の隷属に入ってその教条などを擁護してしまっていれば、それは神に対し心を平坦にし、道をまっすぐに整えるという、バプテスマの精神の方を向いてはおらず、却って反対の方向を向いているのではないか?*(ヘブル3:7)

もちろん、自分にとってより正しいと見做せる事柄は誰にでもあるに違いない。
しかし、人間の教えや組織を絶対視し固執していると、神の義が現われるときにもそれに気付かず、神に対してさえ優越感と自己満足を抱きかねないのではないか?

それこそメシアに対してユダヤ人体制派が行ったものであり、パリサイはイエスがベツレヘムから来ていないことや、安息日に奇跡を行ったからという表面的で簡単な理由をもってキリストを退けたが、それは自分の義を放棄するというバプテスマの精神からすればまったく正反対である。

イエスは自ら行った奇跡を「父の業」と呼び、人々はそこに神に任命されたメシアを見るべきだったのだ。
そして信じたならば、「自分の義」を去ってバプテスマを受けるべきであった。

ゆえに、真に優れた案内者は自分も罪あることを認め、信仰する者の人格を無視して「自分の正義」を押し付けたりはせず、むしろバプテスマを通して「神の義」へとその人の心を平坦にするよう導くべきではないか。

バプテスマは信仰の自立であって、神と自分の間に世話役を入れることではない。

むしろ(宦官を導いた宣明者フィリッポスのように)案内者の仕事が終了したなら、バプテスマを受けた者からある意味で「離れ」、真のキリスト教が地上の誰の元にもなく、ただ天のキリストのもとに保たれていることを知らせるべきではないか。(使徒8:39/マタイ23:8-10)

それゆえ、人が何であれ神の企図を受け入れる心構えがあるなら、それをどんな人間でも組織でもなく、真の正義をもつ神にこそ捧げるべきであろう。

さて、マタイ福音書の最後で、キリストは『神と子と聖霊の名による』バプテスマを使徒らに命じた。
そこでは信仰の対象となる三者が宣言されるかのようである。どの名に対する信仰も欠くことはできないし、『神から遣わされた』のではない何者かを介在させるべきでもない。


バプテスマは、ペテロの言うように「清い良心を神に対して願い求めることで」あって、天の意図に対して「心を柔らかにする」よう心を定めることである。(ローマ2:5/ペテロ第一3:21)

水のバプテスマを受ける際に求められる事は、人間の業や義を頼ることから離れることであろう。
紅海を渡ったイスラエル民族は、海水を分かつ神の力にまったく頼っているべきであったが、これがバプテスマに相当するとパウロは言った。(コリント第一10:1-)

そして、バプテスマを受けた人は我を張ることがなくなり、敢えて悪行を為すことからは離れるので、下劣の道からは救われるのである、とはペテロの言うところであるが、バプテスマを受けて後、教祖や教団の言うなりになって、言わば我を張り、醜聞となるような悪行を為すなら、そのバプテスマとは誰の名に対するであったのだろう。(ペテロ第一3章)

つまりは、「罪」を認めて自らを全能の神に自らを委ねる過程で、他の人間、つまり「罪」があり間違いを犯す者に横取りされているのである。


そして、教えられる側も「先生や教団の言う通り」というような姿勢でいるなら、人間に対する従順は見せても、個人としての神に対する無頓着さは覆い隠しようが無い。その人の受けた水のバプテスマには何の意味も残らない。

そのバプテスマが神に誠実な関心を抱くことか?あるいは自分が「救われる」ならそれで充分か?

もし水のバプテスマを受けるのなら、人や教団に自分を献身したり差し出したりすることでなく、信仰するはその本人であるゆえ、直にキリストと向き合うつもりで、人としての尊厳を保っていただきたく思える。

水のバプテスマが、様々な人間の義を捨て、神と結びつこうとする意志の表明であれば、何者であろうと人の奴隷となっては逆の意志表明となってしまうではないか。

水のバプテスマには、かつてヨルダン川でバプテストのヨハネの指し示した精神が今以て共通しているであろう。
即ち『主の御前に、その道筋を直くする』という各個人に問われる精神である。




              林 義平   jst

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 『使者』と『契約の使者』による水のバプテスマ


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