ユダヤ教とキリスト教の違いを一言でいえば、ナザレのイエスをメシア=キリストとして認めるか否かということになるだろう。だが、その意味するところは非常に大きい。両者は宗教の原理が正反対なほどに異なるのである。
イスラエル民族の父祖アブラハムに示され、モーセが予告したメシアの到来をユダヤ教は現在までも認めず、キリスト教のような世界宗教の自由さに脱皮することも、宗教上の価値観を上昇させることも経験していない。
ユダヤ教は、田舎ナザレ村から来たイエスのような「ガリラヤの私生児で、魔術師」*のようではないところの自分たちにとって望ましい超絶的大王メシアの到来をいまだに待ち望んでいるが、ヨム・キプル(正月の贖罪の日)からヨム・キプルへと神殿喪失から二千年の歳を重ねつつ忍耐を続けている。 *(タルムード)
しかも、イエスの死後四十年を経ずに、つまりイエスを葬った世代の間にユダヤはローマ軍の攻撃を受け、以後ユダヤ人は流浪の民となり、崇拝の要であった神殿も失い、そのためモーセの律法の三分の一に当たる神殿祭祀は、以後履行不能となった。したがって、今日まで神殿を持たないゆえに、モーセを介して与えられた六百に及ぶ戒律である「律法」の完全な遵守はどうあっても不可能となっている。
そのうえ、神殿付属の書庫にあった系図も同時に失われ、神への祭祀を行う祭司たるべき者を文書で確認することもできなくなった。
加えて、ヨセフの長子イエスが、真にベツレヘム・エフラタに発するユダ族であることも今日からは分からない。ただ、マタイとルカの二系統の系図が新約聖書中に残されている。
それでもメシアには系図以上の価値ある証拠があった。
即ち、福音書の記述ではナザレ人イエスが奇跡を行う徒ならぬ人と描かれており、旧約の預言を数多く成就していることも後になって使徒らが気付いている。
では、あのナザレのイエスがメシアではなかったのだろうか?
かつて彼を刑死に追い込んでしまったユダヤ教にとって、これは今日も恐るべき禁断の問いである。
イエスは北部ガリラヤの片田舎ナザレ出身で、ラビ式の宗教教育を受けておらず、レヴィ族でもないので神殿祭祀に関わる立場でもない。
その素のままの廉直な姿はエルサレムの宗教指導層から見ればみすぼらしい人物である。(イザヤ53:2-)
だが、この田舎者が語る力強い言葉と行う奇蹟を否定するにはかなりの困難を覚えていた。
彼らの念頭にあるのは、自分たちが納得でき、受け容れられるメシアの現れであって、ユダヤ宗教家階層の常識が通用し、且つ自分たちの身分を保証してくれるような、垢抜けた仲間らしいエリートのようなメシアでなくてはならなかった。
そのような優等生の「約束のメシア」なら、自分たちの崇拝の方式や体制や組織を是認してくれるに違いないと思い込んでいたであろう。
その理由は神よりも、自分たちの宗教方式を信じていたからである。
当時のユダヤ体制派の人々がそのように独善的であった証拠は福音書やユダヤの伝承の随所に散らばっていて、それらのすべてを「無かったこと」に回収するのは、もはやできない相談である。
彼らには残念だが、メシアは宗教領袖らの仲間とはならなかったし、聖典を熟知したはずの彼らの常識の外に現れてしまった。
イエスは宗教家が「地の民」と軽蔑するユダヤの民衆と共にあり、彼らを教え、労わり、癒す。しかも宗教家の味方をするような発言をしてくれないのだ。いや、むしろイエスはユダヤの宗教体制を糾弾する人であった。
彼の存在が都合の悪いユダヤの宗教領袖たちは、イエスが直接にはメシアの出身地とされるベツレヘム・エフラタの出身ではないので、まず、ここにイエスを拒否する口実を得る。
次いで、モーセによって不労働が固く命じられた安息日にイエスが奇蹟を行う事も否定できる条件となったが、一方でイエスは安息日の精神を教えようとしたのであった。
宗教家らの蔑む民の方はといえば、イエスの行う驚くべき奇蹟の業と直截的で不思議に権威を帯びる見事な言葉とを喜んで受け入れた。両者の観点が異なったのである。聖なる書に通じる宗教家らの正確な知識はほとんど逆に作用した。
そこでユダヤの宗教家たちは、イエスの奇蹟は悪魔の力に由来すると唱え始めるのだった。第一、彼らにとって民衆は律法の細目に通じていない「呪われた」群集に過ぎないのだ。
こうして、ナザレのイエスを否認する「正義」はよろしく整ったのである。
しかし、イエスはユダヤ人の中で虐げられた「アブラハムの裔」を集め出してゆくが、その弟子らの集団は、イエスの帰天後に、肉の「血統」によらず「信仰」によって構成される『神のイスラエル』となってゆく。(ガラテア6:15-16)
そのため、イエスの活動はアブラハムの子孫であるユダヤ人の間で、ユダヤ教の信仰されている只中で行われたのであり、イエス自身も幼児期に割礼を受け、祭りのときには神YHWHの神殿に詣で、その務めを果たしたユダヤ人の中のユダヤ人、イエスは生涯を通してまったくユダヤ教徒であった。
では、イエスをメシアとして受け入れた人々の中で、歴史上のどこからがキリスト教となったのだろうか?
ここでは、この時系列を踏まえつつ、ふたつの宗教の内容的相違を俯瞰してみたい。
さて、西暦七十年の神殿の喪失は、確かにユダヤ教の祭司制度の崩壊であったが、しかし、いつからがキリスト教かという、この点は厳密に何年の何時からと言うのは難しいことであろう。それでも、信仰する者にとっては聖書の文言においてある程度はっきりとさせておく必要がある。
何故かといえば、ユダヤ教とキリスト教の教義は根本的原理がまるで異なるからである。⇒「愛の掟」
これを混ぜこぜにしてしまうと、理解の鍵は取り去られるに違いない。
「イエスがユダヤ教を改革した」との説明をよく目にするが、確かに彼がユダヤ教の真髄を語ることはあっても、ユダヤ教を改革ないし改善したというよりは、自らが死して後の時代に、残された弟子らを通して、ユダヤ教の彼岸、まったく新たな教えの次元の彼方に初代の弟子らを到達させたという方がよほどその意義に適うだろう。
つまり「キリストの死」が迎えられてはじめてキリスト教への道が拓かれたのであり、キリストの死後に「犠牲」が触媒として作用してはじめて新たなキリスト教教理の体系も創られる素地ができたのである。
特にユダヤ教とキリスト教の相違に重要な意味を帯びるのが、キリスト前後の時期である。というのも、キリストが到来し地上で活動している間も、「新しい契約」は発効しておらず、イエス自身モーセの「律法契約」に服するユダヤ教の立場を守り通したからである。
ゆえに、新約聖書に収められたキリスト・イエスの言葉には旧契約の中で律法に沿ってユダヤ人に語られたものがほとんどである。
例を挙げれば、「あなたがたの逃げるのが安息日にならぬよう」また「あなたがたの義が書士やパリサイらに勝らないなら」、また、癩病を癒した相手に「行って祭司に見せ、証しを立てよ」という発言などがある。
(したがって、福音書中で「あなた」と書かれているところを自分に向けて書かれたと思うのはまったく早計である)
しかし、彼が死に至るまで試され、その『血の犠牲』を携えた大祭司の権能を受ける、つまり刑死の51日後のペンテコステ(シャヴオート)において史上初めて「新しい契約」が効力を発し、旧い制度に対する新しい制度が現れて状況が一変する。これを以ってキリスト教の初めとされてもいる。しかし、当時はその教理のほとんどを依然ユダヤ教に負っていたことは変わらない。
そこで新たな教理へと導き助ける存在があった。それがキリスト最後の晩に約束された『聖霊』である。
その後もイエスは、弟子らに「助け手」である格別な『聖霊』を通して指導を続け、それらの新たな教えが所謂「キリスト教」へと道を開いたが、それは律法に囚われない新しい教えとなってゆく。 ⇒「キリストは去ってなお」
地上でのキリストの姿を見たことがなく、イエスを知らなかった「パリサイ人サウロ」は、、イエス派迫害の急先鋒であったにも関わらず、復活したキリストの臨在の現れを受けて使徒パウロとされ、「奥義の家令」としてそれまでにない革新的な教えを授けられ、非ユダヤ人に多くの時間を費やして宣教し、教義において最先端を走ってゆく。これは「パリサイ人サウロ」の180度の大転換である。
だが一方で、イエスをメシアとして受け入れた多くのユダヤのイエス派にとっては、このような概念の大変化はなかなか難しく、律法遵守する「熱心なユダヤ教徒」であることに満足してしまった。 ⇒ 「キリストの弟」
しかし、パウロの説くように『キリストは律法の終わり』であり、使徒筆頭のペテロも律法を『我々も父祖も守り得なかった頚木』と呼んでいる。こうして使徒時代は、律法の「業」からキリストの「信仰」、「人の義」から「神の義」へと転換する途上となった。
その転換というものは、『罪』という人間に巣食う倫理上の欠陥についての認識が180度も変わることを求めるものであった。(ローマ3:9)
ユダヤ教の基本は、モーセを介して与えられた『律法』の条項を守ることによって、神の前に『義』を得る、というところにある。
生活の中でその掟に従い、また神殿での祭儀を行うことで、彼らは神との契約を守ってみせることにより、ほかのあらゆる民族に祝福をもたらす『諸国民の光』、『聖なる国民』となるはずであったのだ。(出埃19:5-6)
そこでユダヤ教は、いまだに律法の遵守による『義』を目指しているのだが、それはキリスト後に神殿を失っており、もはや律法全体の履行が不可能となっているにも関わらずのことである。(ローマ9:30-31)
他方でキリスト教での『義』とは、キリストを唯一の義人として認め、その犠牲の死によって人々の『罪』が相殺されたことで『義』が可能となったと理解する。(ローマ3:21-22)
それゆえ『キリストは律法の終り』であり、『律法』の役割は、人類全体には拭い難い『罪』があることを知らせ、罪の無いキリストを指し示すところにあったのである。(ローマ10:4/ガラテア3:19)
イエスがキリストであることを認め、個人として信仰を持つ者が『義』を得るのであり、ユダヤ教のように民族として神の契約に入る時代は終りを告げたと解釈するのがキリスト教である。(ガラテア3:10-14)
だが、この新たな教えに到達するには使徒たちの時代を待たねばならず、彼らに注がれた聖霊による理解は、第二世紀までに新約聖書にまとめられるのだが、それまでにユダヤ教からイエス派に転向した人々については、それまでの律法の生活様式や教理に従うことが専らであって、使徒らの告げる新たな教えについてゆく困難さがあった。
その結果、律法に従い続けたユダヤ人イエス派は異邦人のイエス派に遅れをとり、『最初の者は最後になる』と言われた事柄は成就してしまったのである。⇒「賃金の例え話」
その後、ユダヤ教的イエスの信徒は西暦七十年の神殿を含むユダヤ宗教体制の壊滅と共に、その拠って立つものを失い、以降は『神の計らいによってクリスティアノイ』と呼ばれていた異邦人的イエス派が、ユダヤ教と袂を分かち「キリスト教」を先導してゆくことになる。
使徒言行録全体から見れば、この『神の計らい』とは、「クリスチャン」と呼ばれるのが神意だというのではなく、過去にしがみ付くユダヤ教と袂を分かち、新たな宗教「キリスト教」として出発することを指している。
ユダヤ教イエス派をキリスト教という新しい宗教に分かれさせたのは、イエスをメシアとして受け入れないユダヤ教側が律法主義や愛国主義に凝り固まって、イエス派を迫害し排除したところにあった。つまり、ユダヤ教は自らキリストとその弟子らを外に追い出し、新たなキリスト教を構成させる素地を自ら与えたのである。
それで、我々がキリスト教*と呼んでいるこの宗教が確立されたのは西暦第一世紀の後わりから第二世紀にかけてと言い得るだろう。
教理の完成については、エルサレムの破壊を逃れた使徒ヨハネが晩年を過ごした小アジア地方で結実したと言い得る理由がある。それは即ち、『聖霊』を通したキリストの監臨の最後の時であったろう。 ⇒ 小アジアのキリスト教
(*ここで言うのはヘブライ的(ユダヤというよりは)キリスト教であって、現代のほとんどのキリスト教が含まれる新興のグレコローマン型キリスト教を指していない。そちらの始まりはこの二百年以上後のニケーア会議からである)
さて、このようなわけで福音書中のイエスの言葉にはモーセの律法体制に従う教えがほとんどで、一方でイエスの去って後の使徒らの発言には、律法から解かれたものが多い。特にパウロは、自られっきとしたユダヤ人で律法墨守のパリサイ派であったが、キリストに召されて後は『自分は律法の下に居ない』と断言し、その先にある教えを指し示す。(コリント第一9:20-21)
そこで、新約聖書中の陳述の真意を知ろうとするなら、それがどちらに属するものかの判断を加えなければ双方が混濁してしまい、それは理解を助けるものとはならない。
つまり、語られた対象がユダヤ人なのか異邦人なのかの判断がそこに求められるのである。
この点で重要な事は、そのような判別を行う条件として、
ユダヤ教とキリスト教がどのように違うかを知っておくことである。
この両者を比較して大きく異なる事項を挙げてみると
◆律法契約下のユダヤ教-------------------------
◆まず、ユダヤ教は国家宗教であり、国民皆信徒制であったことが挙げられる。
ユダヤ人として生まれたならば、アブラハム契約によって誕生八日目に男子は全員が割礼を受けねばならず、律法契約では生まれながらに契約当事者であって、モーセを遵守することが義務付けられた、生まれながらのユダヤ教徒である。
イスラエルの血統にある者は常に一定の特権を享受し、アブラハムの相続者と見做され、「友」「同胞」「兄弟」といえば同族のイスラエル人崇拝者を意味した。同朋には金利をとって貸すことは許されていなかったが、異邦人に対しては金利を取って貸すことが許されるので、ユダヤ人は大いにこれを活用し、後代には世界各地で金融力を付けた。同様に、安息日の規定に縛られるので、安息日には自分らができない作業を非ユダヤ人には負わせ、食すことの禁じられた「汚れた」と見做される食物をも与えたのであった。
そこにはユダヤ優等主義が内にあり、それはトーラーにも認められた特権であったが、この点では、たとえユダヤ教徒であっても、イスラエルの血統にない異邦人改宗者には一定の制限があった。
ユダヤ人の受ける「割礼」は、アブラハムに約束された子孫繁栄に益するものであり、当然家族が大切にされ、子がいることは祝福であるから、独身者などは一人前とはみなされない。子らが多いことはその父の威力であった。
この点、結婚相手も原則的に国民内、同族内に規定され、兄弟が子孫を残さなかった場合には、未亡人を兄弟が娶り(レビレート婚)その家系を絶やさぬようと取り計らわれた。
しかし、不妊の妻は立場が悪く、主人が女奴隷から子を得たり、離婚される危険があった。
◆そのように、個人よりは集団が重視され、国家教として神と契約を結びこれを崇拝していたので、国家の体裁を保つために軍事力を持ち且つ行使する必要が生じるが、律法には軍法も含まれている。
コミュミティを保つことが重視されるので、子らは幼いうちから鞭で矯正され、不良少年は親の判断で処刑された。子らに宗教上に選択の自由はなく、ユダヤ教を離れることも、その神を呪うことも共に死を意味した。かつて処刑は官吏ではなく一般住民によって集団的になされていた。
国家であるからには法規を持ち秩序を維持しなければならないし、違反者を裁判にかけ、実際に処罰するシステムを持たねばならない。また国家である以上、他国の侵略に対抗しなければならないので、軍事力も保持する。
つまり、通常の国家として政治力を維持するための内外への権力(暴力)を必要としたのである。
この神権国家は、その権力を用いることを神から命ぜられ、エジプトからの入植時期には、城市を次々に攻略して異教の崇拝もろとも先住民を殲滅しているし、領域を守るため、また奪略に対処するために、イスラエルは何度も剣を振るっている。
◆加えてユダヤ教は祭儀の宗教であり、動物の犠牲による祭儀を行う場所を有し、常々浄めの儀式や犠牲を必要とし、生活上の仔細に踏み込むものであった。国民にはトーラーで年三回(ハヌッカーなど他の祭りもあるが)の祭りが定められ、エルサレムという宗教的地上の中央を与えられ、そこに集うべきであった。
殊に、エルサレムの神殿で行われる典礼は規模が大きく壮麗であり、大合唱と管弦楽による詩篇歌や、祭司の古着を灯心にした巨大なメノラー(燭台)の輝きはモリヤ山上から遠くまで届いたという。ヘロデ大王の建立した最後の神殿域はアテナイのアクロポリス神域の倍近い広さを持ち、金で覆われた聖所の姿と共に美麗なる聖都エルサレムはローマ帝国民にとっても誇らしい名所であった。
ユダヤ人の習慣では、安息日や新月などの節会を律法に応じて守ることで、労働や移動に制限があり、加えて、食物の規定があって律法で「汚れた」とされる生き物を採ることが許されなかった。これらはイスラエルを他の民族への同化吸収の消滅から決定的に守るものとなっていた。これらの規定はユダヤ人を彼らの居住区ゲットーへの集約を特に推進する。
服装や髪型にも幾らかの規定があり、それは外見においても「モーセの弟子」であることを明らかにしていた。彼らはそれを見る度に律法の遵守を思い起こしたという。
そこで、イエスの当時からパリサイ派は敬虔さを競って、タリットの房べりをこれ見よがしに長くし、揉み上げ*を伸ばしてきた。(今日のユダヤ教の大勢はヒレル系パリサイ派の延長線上にある)
これを基に敬虔さを外見で表すことが習慣となったので、宗教指導者は敢えて公共の場所で祈りなどの宗教的な行いをしたという。(荷車が来ても退かず、毒蛇に咬まれても祈りを止めない。「義」は律法の履行によって得られる)
*(古代のカナンには揉み上げを刈り込む部族があったようで、イスラエルがその風習に染まらないための規定が律法にあったが、後代の敬虔主義はこれを拡大解釈し、揉み上げをともかく切らないことでこの律法条項を完うしようとした結果、カールした異様に長い揉み上げを見ることになった)
-◆新契約下のキリスト教-----------------------
だが、こうした事柄はキリストの教えで変化し始める。
◆まずバプテスマは生まれながらのものではなかった。それはイエスをキリストととして受け入れる意志を持つ者が授かるものである。
もし、割礼のようにバプテスマが生まれながらのものであれば、そこにコミュニティの(皆信徒制)宗教が出来上がり、ひいてはキリストが地上に制度教、つまり本人の意志選択によらない「俗権」と融合した宗教を持つことになるが、これは国家・民族宗教たるユダヤ教への出戻りとなろう。
ユダヤでは子を設けることや家族の繁栄を祝福と看做したが、これはキリストにおいて独身の奨め、そして家族が必ずしも祝福とはならないような発言によってユダヤ人はその個人重視に驚愕したであろう。本来のキリスト教に於いては子に帰依が強要されるものではない。
従って、ユダヤ教はコミュニティの宗教であり、律法を営々と守り受け継いでゆくことで、周囲諸民族から隔たり、独特の文化を確立し維持してゆくことを目的としている。つまりイスラエル民族を周囲への同化吸収から保護し、ひとつの宗教を護持して行く制度がユダヤ教であった。
それに対し、キリスト教は個人の宗教であって、コミュニティの中に混じり込み目立たないものとなった。それは迫害からの保護でもあったのである。
もちろん、十字架など首から下げはしない。それでは逮捕してくださいというに等しい愚行でしかないし、十字架信仰そのものが第四世紀まで存在していなかった。
◆軍事力についてはどうだろうか?ペテロに発した有名な「剣を納めよ」、またピラトゥスの前で「わたしの王国は(戦い合う)世のものではない」とイエスは述べたが、それ以上の説明を要しまい。
この条件を満たそうとすれば、キリスト教ははっきりと政教を分離し、政治に関わらないことを意味する。政治に関われば、必ず何らかの争いに関わらずには済まない。 ⇒ 「人はなぜ政治と宗教を・・」
ローマ国教化以後、キリスト教も政治権力と結んだときに、ユダヤ教のように武器を持ち、力で異端や異教徒を迫害や攻撃することのできる「世俗的な」宗教となったが、それはキリスト教のものではなく、初期のキリスト教徒は迫害されこそすれ、する側には立たなかった。後代、キリスト教徒同士であってさえ迫害しあうのは第五世紀のアウグスティヌスの関わったドナトゥス派迫害からである。
◆法秩序では、ユダヤ教において「律法」の存在は非常に大きく、モーセの時代から3500年近い時の流れを経て、既に現代生活と合わないところが目だってきたが、なおこれら律法中の規則を墨守することは、人間に巣食う「罪」(原罪)を認めていないことを示している。
つまり「律法」が人間に「罪」あることを知らせ、『キリストに導く教師』となったことを依然認めず、いまだに「律法」を守ろうとすることで、神の前に自らの「義」を示そうとしており、そこから先に進まないことを意味しているのである。(ガラテア3:24)
他方キリスト教では、神の規準である「律法」の規則が人間には守れないものであることを認め、人間の自己救済が不可能であることを謙虚に受入れ、神の遣わしたキリストの犠牲によって、人が初めて救われることを信じるのである。
人間の自力更生不能の原因が、アダムの子孫の誰の血にも流れる悪の傾向である「罪」にあることを理解するので、律法遵守の業では「義」を得られず、アダムの血統にないイエス・キリストの身代わりの死の犠牲無くして「義」を得られないことを一重に信仰する。これが即ち「キリスト教」である。
そこで求められるものは、自らの悪に傾く傾向(倫理上の欠陥)を認める謙虚さである。
つまり、キリスト教徒の求めるべきものは、実質も無く到達できるはずもない自らの言動による「人の義」ではなく、救世主キリストへの信仰による「神の義」である。
したがって、このことが両者の生活規準に違いをもたらす。
「信仰」に基づくキリスト教は個人的なものであり、元々地域社会向きのものではないので、何らかのコミュニティに対して一定の道徳性を要求する権力を持たないし、ユダヤ教のように集団に法規を定めて道徳的行動を要求するものではない。
キリスト教での道徳については、ただ「愛の掟」があるのみである。⇒ 「愛の掟」
「裁かれないために汝も裁くな」の言葉にみられるように、不行跡を指弾するのではなく、むしろ後悔するものを許すのがキリスト教に相応しい。悔いぬ者だけを個人的に極力避けるのみである。キリスト教徒の中では警察力の必要はなく、その恩恵を受けるにせよ、本来それは世俗という外のものである。(マタイ18章)
法規制についてキリスト教徒は良心の指示に逆らうものでない限り、世俗の権威や権力に従いその法を守るが、法秩序はやはり外部のものである。したがって、キリスト教徒は政権から独立して別の法を施行する必要がない。世俗の法規を二次的なものとして、ある程度取り込んでしまえるのである。(ローマ13章)
だが、律法を遵守しようとする国家宗教のユダヤ教ではこうはゆかず、自前の法律である「モーセの律法」が、彼らに自治や権力を求めさせ、他国の法律と衝突するところで、しばしば周辺民族や他国政府との軋轢をもたらしてきているのは今日もユダヤ教徒の有様に見る通りである。(イスラームの政教一致制度の「タウヒード」が同様)
◆崇拝では、キリスト教は本来は儀式宗教ではない*。ユダヤの定期的な牛や羊などの動物の犠牲はキリストの犠牲を模式的に示すものでしかなく、キリストの血の犠牲のように真に人の罪を贖うことはなかった。
*(ローマ国教化以後、キリスト教も儀式宗教に戻っていった)
キリスト教の儀式は聖餐とバプテスマのふたつのみとなり、必要なエレメントは、面倒な種々の動物や様々な収穫物から替えられて、少量の無酵母パンとぶどう酒、それにバプテスマの水という簡単に入手できるものに置き換えられたので、中東に留まらず世界に向けて広がりやすく整えられた。
また、キリストは天にあって初代の弟子らを聖霊で導く中央であり「天のエルサレム」であったから、神殿やサンヘドリンのような地上の中央は必要がなく、却ってあるべきではなかったといえよう。(現在は「聖霊」が存在しないので、天の中央はない)
キリストの犠牲によって、かつてエルサレムの壮麗な神殿で行われたような厳粛な典礼はキリスト教の本質ではなくなった。
したがって、キリストの教えは大仰な「礼拝」ではなく、本質的には牧歌的な講話を主体とした「集会」の宗教といえよう。教会での聖体拝領や聖餐の儀式の度に、再びキリストの血が流されるという解釈は、無理なこじ付けであり、ユダヤ崇拝への後退でしかない。
そこに荘厳なバシリカなどの建造物は不似合いであり、それはむしろユダヤ教にこそ相応しい。
◆習慣については
ユダヤの祭りや節会、また聖書を見る限り、本来的に安息日もキリスト教徒を縛るものとはなっていない。(集まりのために日曜の不労働を決定したのは後代のローマである)(唯一の節会は「主の晩餐」)
ユダヤ教徒は外見や定式化された行動からすぐに判別されたが、キリスト教徒は浮世に対して付き合いが悪いほかは一般人と同じ服装をし、異教の神殿内は別にしても*同じように食事する生活様式であり、イエスは弟子らが外見ではなく「愛」によって知られると述べている。(*ギリシア社会では神殿の奉献物を崇拝の一部として食事する習慣が広く行き渡っていた)
初代キリスト教徒の中での指導的立場にある人々は、その立場ゆえの特別な服装をすることはなかっただろうが、これは護教家にして殉教者ユスティヌスが哲学者の黒い服装(パリウム)を着たままキリスト教徒となってから三世紀あたりにかけて、その黒服が僧服に連なることに定着していったようである。
しかし、こうした差別化が僧職者と平信徒の身分へと進む以前には、「父」や「師」と呼ばれることさえキリスト教徒の良心は許さなかったであろう。(マタイ23:8-12)
ローマ帝国が迫害するためにキリスト教徒を知る方法は、服装や習慣という外見に頼れないので、多くの場合「告白」やユダヤ教徒からの執拗な「密告」また「告発」によってであった。記録に残るように、ユダヤ人がキリスト教徒の火刑の薪を率先してせっせと運んだからには、無抵抗なキリスト教徒が火炎に絶命するのを宗教的正義感に浸って眺めたであろう。(ヨハネ16:2)
当然、これは双方の宗教の強烈な不和の原因となった。
やがて、キリスト教徒は度々ユダヤ教徒を惨く迫害したが、これは自分たちの「師」や古代の「聖人たち」の借りの意趣返しだったろうか。
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このようにキリスト教はユダヤ教からまったく別のものに脱皮を遂げていたのである。それ以前の「アブラハム契約」と「律法契約」はキリスト教に於いては「アブラハムへの約束」へと収斂した。
実際のアブラハムの血統がそのままに、それらの契約の成就を受けることは遂に無かったが、それらの契約はイエスの仲介した「新しい契約」に置き換えられることでその目的が保存され、アブラハムの遺産も「神の王国」へと継承され、神の企図はキリスト教へと移った。その移行を証ししたのが、あの五旬節での聖霊降下とイエスの奇跡の業の弟子らへの移譲であった。(ヨハネ14:12/15:26-27)
しかも、モーセの六百もある「条文遵守」が外面的であるのに反し、「愛の掟」の一カ条は人の内面が問われるものである。「義」は個人の行状では得られず、メシア=キリストはイエスであるとの信仰によって得る。
こうして、人の心に働きかける中心的原理も百八十度変えられている。
これは次元上昇と呼んでもよい程の昇華であった。
そうして「愛の掟」をもつキリスト教はかつて存在したことのない価値の高みに揚げられたのである。 ⇒ 「愛の掟」
これはアブラハムの宗教、そして律法契約から新しい契約へと段階を進む、数千年に亘る神の歩みである。
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それで、イエスの犠牲の死が触媒のようになって、ユダヤ教からキリスト教への変化を司ったのであり、且つキリストの時代は転換途上にあったことを我々は理解する必要がある。
キリスト教が成立するためには、キリストの犠牲を受けてのち、数十年の時の経過を以って「聖霊」の指導を得て時の経過を待つ必要があったが、そうして「キリスト教」は使徒たち初代の弟子のうちに出来上がっていったのである。
この「聖霊」とは、キリストが去る以前に弟子らに与えると予告していた特有のものであり、当時の弟子らにも奇跡を行わせ、律法契約には無かった新たな段階の教えを知らせる神からの使いのような働きを行った超自然のものであった。この奇跡の「聖霊」なくしては、キリスト教は歴史に登場しなかったと言って過言ではない。
新約聖書には、キリストの直弟子ら、また初期の人々の必要を満たし、ユダヤ教からキリスト教を脱皮させる言葉の数々が記されているのである。聖霊を受けた初期の弟子の目的は人類全体の救いとなることであった。
したがって、これらの状況に基づき新約聖書中のキリストの言葉を判断することが求められているのである。
つまり、どのような状況で誰に対して述べられた言葉であるのかというような背景を考えに入れて読まれなくてはならない。
そのためには、聖書歴史のあらましを注意深く読んでおく必要がある。⇒推奨書籍
それに加えて、実のところキリスト教の記述部分にあっても、それが選ばれた聖霊の持ち主たる「聖徒」(聖なる者)に述べられた言葉か「信徒」に述べられたものかの区別も必要になってくる。(ルカ12:41)
聖書の大半の記述は人類の救いに関わるものであっても、直接にはその手立てとなる「聖徒」というキリスト教徒の中でも格別な人々に向けて大半が語られ、書かれているという事はどうしても見過ごすことができない。
つまり、キリスト教とは人類救済の準備段階の宗教なのであり、けっして信者を天国に召して終わるものなどでは断じてない。
そこで聖書という書物は、世の人類全体を救うための神の手立てとなる人々について書かれたものであり、けっして個人のための「人生のガイドブック」のようなものでも、「道徳の教科書」のようでも無いのである。⇒ 「聖霊と聖徒」
「旧約聖書」というものは、古代メソポタミアのシュメール文明期の人、アブラハムに向けて語られた彼の子孫が人類の救いとなるという予告に始まり、モーセを通して神との律法契約と、それに預かったアブラハムの血統上の子孫「イスラエル民族」(ユダヤ人)について記述を続けたものである。
そして、遂に予告されていたキリストの到来によって、「血統」ではなくアブラハムのような「信仰」を示した人々と結ばれたキリストによる「新しい契約」による、人類救済の手立てとなる人々、つまり「聖なる者たち」の現れと、新たな教えの確立を語り継いできたものなのである。それゆえにも、聖書の新しい部分は「新約聖書」と呼ばれるにふさわしい。
それで、今日聖書を手にする人々が、聖書中で「あなた」と呼びかけられたからそれが自分だと思い込む前に、立ち止まってその言葉の背景を見回すべきである。そうしないなら、その意味を取り違える危険が常にある。それは途轍もなく大きな間違いを招くに違いない。(使徒時代にはエクレシア(集まり)の大半は聖霊を受けた聖徒であったが、以後減少し第二世紀中頃に消滅している)
もし一般の人が、その精神を敷衍されて教えられるならともかくも、何であれ聖書のそこにある言葉をそのまま自分に語られたものであると解すとしたら、それは何と云うべきであろう。
聖書は、人類救済の手立てとなる特別の人々に対して語り掛けているのがほとんどなのであり、個人の生活上の幸福をもたらすために書かれたものではなく、「この世」という、混乱し争い満ちる人類全体を覆う「罪」と呼ばれる悪の傾向から、あらゆる人々を救うというほどにダイナミックな内容が聖書に込められているのである。
だが、かくも優れた進歩をみせたキリスト教も、聖霊を通したイエスの指導(監臨)が終わり聖霊が去ると、やがてその本質をまったく理解しない為政者によって、元いたユダヤ教のスタイルに押し戻されてしまう事態が訪れる。
それが、今日の主要なキリスト教の伝統を作り上げたローマ国教化であり、これを通してキリスト教はコミュニティの宗教となり、帝国全体に国民の宗教として強力に押し広められていった。
このときにローマ皇帝の介入によって、不仲であったユダヤ教とキリスト教は、国法によってさらに分断され、ユダヤ教は約束されたメシアが未到来となって今日まで三千数百年に及び、律法の遵守による義に固執して「罪」を認めず、新約を読まないので、旧約の対型的意味を探らず、古代の掟をタルムードなどで修正しながら現代までしのいできた。
キリスト教の方は、帝国の法令によって新約で求められてもいない安息日を、ユダヤと異なる日曜に移したばかりか、他方ではヘブライの知識を嫌ってヘレニズム化を許し、ギリシア=ローマ型の教えを別に作り上げて、異教の天国や地獄の教えを混入し、三位一体や聖人崇拝によって多神教化させた。
イエスでさえエルサレム神殿での崇拝の対象としていた唯一神YHWHまでをも捨て去り、『父のほかに良い者はない』と神を尊ぶイエス自身を、その死に至るまで見事な忠誠を示して父の神性を立証したキリスト(「任じられた者」)を、却って三位一体の曖昧の中でいつの間にやら勝手に神に担ぎ挙げてしまい、ユダヤ人を「主殺しの民」と呼びつつ、ユダヤ教徒らとはその神YHWH*を同じくしたくなかったところを、今日に至るまでキリスト教徒は古代の反感と対立の故事を忘れて無頓着にそのまま歩んでいるのである。 *(今や発音が忘れ去られた至聖なる神の御名[יהוה]⇒「シェムハメフォラーシュ」)
こうして、ユダヤ教とキリスト教の古代からの不和は、聖書全巻に流れる一貫した新旧の教えを双方ともに失わせるものとなり、現在に及んでいる。
ユダヤ教とキリスト教のどちらも古代と中世のかび臭く暗い蒙昧の中でいまだに足踏みをしているというべきか。
それであるのに、何とも御目出度いことに、それぞれの信徒の多くはそれぞれの教えで満足しているようである。
おそらくそれは、悠久の神の意志ではなく、自分の「救い」という利害に関心が向いているからであろう。
だが将来、神はキリストに再臨を許し、聖霊が神の声を知らせることになるという。(マタイ10:18-20)
再び、聖霊を注がれる「聖なる者」を通し、世界はこれを聴くのであろう。(ヘブライ12:25-27)
そのときこそ、キリスト教は再興し、すべての人に真の信仰の求められる時となるのだろう。
新十四日派 ©2011 林 義平
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