果たしてイエス・キリストに弟などがいたろうか?


確かにマタイの福音書には書かれている。イエスがヨルダン川でキリストの任命を受けてから、ナザレ村に帰省した場面でその弟たちのことが次のように記されている。

『これは大工の息子ではないか。その母親はマリアと云い、そして兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 姉妹たちも皆、我々と一緒にいるではないか。』(マタイ13:55-)

イエスの兄弟たちとは、マリアがイエスをした後に夫ヨセフとの間に設けた子らである。
しかし、これらイエスの兄弟たちの存在はマリアを永遠の処女に崇めたい人々にとって、そのまま読むことのできない記述である。


そこで、カトリックなどは、ヨセフには前妻が居たということにして、これらの子供らはヨセフの連れ子である、という主張も普遍教会の中で始まった。

ではあるが、ここではマリアが処女神のように崇められるべきか否かに関わることなく、その息子のひとり、ヤコブに注目したい。


彼ヤコブは、他の兄弟に先んじて名を挙げられるところからすれば、イエスを除いた兄弟の筆頭であったようだ。世間向きには、イエスに次いでヨセフの次男の立場にあったろう。

しかし、おそらく二十歳代の彼は、兄イエスが家を出て宣教の生活に入ったことを理解しかね、気が狂ってしまったとすら思っていたようである。

聖書中では、そのおかしな兄を気遣って宣教の現場にまで母を伴い出向いた場面も語られているが、そこには、余りに類稀な人物を輩出した家族の苦労が見える。(マルコ3:21)

イエスは父ヨセフの家に在っては、自分のことをほとんど明らかにはしていなかったようである。
ヘブライ語ではエシュアと呼ばれた長男が、単なる息子のひとりでないことを知っていていたのは両親、殊に母親のマリアであったことは、カナの婚宴での奇跡が語る通りであるが、それも随分と抑制された観がある。その奇跡に何人が気付いたのだろう。

おそらくは親戚、つまりイエスの従兄弟にあたるであろうゼベダイの子ヨハネ(十二使徒)は、その福音書でこの奇跡を記しているが、これを晩年にエフェソスで著したときに、当地に共に来た主の母からかつて聞いた情報を含めたのであろう。それに加えてイエスの兄弟たちがイエスに信仰を持っていなかったと、はっきり書いている。(ヨハネ7:5)



-◆兄に帰依し、義人と呼ばれる--------------------------------

しかし、それも変化するときが来る。
パウロの言葉によれば、イエスは刑死を遂げて三日目に生き返らされると、弟のヤコブに現れたというのである。(コリント第一15:3)
どうやら、これがヤコブが信仰を持つ決定的なきっかけになったようである。
彼はその後、他の弟たちと共にあのシャヴオートつまりペンテコステの日に聖霊が灌がれたおよそ百二十人の中の一人に含まれていたのであろう。(使徒1:14)


しばらくすると、ゼベダイの息子でヨハネの兄弟でもある十二使徒の方のヤコブがヘロデ・アグリッパス王(Ⅰ世)によって処刑されると、次は使徒筆頭のペテロが狙われ、ペテロは投獄されてしまう。
しかし、天使の介入によって獄から開放されると、この使徒筆頭であり地方を回ることの多かったペテロは、以後更に遠くエルサレムを離れるようになってゆく。(使徒12章)


その後、どのようにエルサレムのエクレシアがイエスの弟ヤコブを自分たちの代表としたのかについて聖書は何も伝えていない。
あるいは、ペテロが依頼したのか、それともイエスが任じたのか、またはユダヤ的相続の習慣にしたがって次男として指導の任を受けたのだろうか。父ヨセフも母マリアの家系*も共にダヴィデ王家に連なることはふたつの福音者が記しており、使徒たちの間で知られたことであったことは明らかである。(ヘブライ7:14)


あるいはヤコブ自身に傑出性があったのかもしれない。というのも、ヤコブは後年「義人ヤコブ」と呼ばれ、イエス派への所属を問わずユダヤ人の多くから敬愛されていたというのである。その状況からすると、ヤコブは先鋭的にイエス派を推進していたというよりは、周囲のユダヤ人から尊敬を勝ち得るほど、ユダヤ教徒の務めをよく果たし、神とイスラエルを執り成し、兄とユダヤの間に立って「律法契約」から「新しい契約」への橋渡しに努めていた姿が浮かびあがる。(ヨハネ7:6-7)

いや、橋渡しというよりは防波堤であったというべきだろうか。ヤコブへのユダヤ人一般の尊敬は、彼がイエス派であるか、またその弟であるか否かよりも、如何に神への崇敬の念の厚いかに集められていたのであれば、そこでユダヤ人によるイエス派への迫害も彼の中立性のゆえに躊躇されたことであろう。

この「義人」(ツァデーク)というのは完徳者を意味するわけではないが、一種の称号であり、ユダヤの民のために取り成しの祈りを日々神殿で捧げ続けたというヤコブは、人々からの賞賛によってユダヤの宗教的良心を代表するような立場を民衆の間に得ていた。
ヤコブとしては、ユダヤの民の多くが、未だ兄をメシアとして認めようとしないその頑なさを去って、神との平和を得るよう願い続けたのであろう。(ルカ19:41-42)


この弟ヤコブは十二使徒でもなく、ヘレニストの世話役となった「七人」にも、イエスの宣教を委ねられた「七十人」にも加わっていないのは明らかであり、その点、イエス運動の表舞台に上がったことがないので、標的にされ難かったこともあろう。

あのシャヴオート以来、イエスの弟子らはユダヤ教の中で人数を増していたが、ヘロデ大王の建立した神YHWHの壮麗な神殿は依然そこにあり、モーセの律法は日毎の祭祀においても機能していて、ヤコブもその崇拝方式に従っていたのであり、ヤコブたちも依然として「ユダヤ教イエス派」であった。そのためか、次第に数を増しつつも律法の習慣を守るイエス派に対して、祭司たちも温和に振舞うようになってゆく。(使徒6:7)


当然ながら、ユダヤ人の宗教的良心は神殿祭祀や生活でのトーラーとミツヴァの遵守にあり、それはイエス派ユダヤ人においても変わるところは無かった。ヤコブはそのようなイエス派の良心を代表するようなところを見せたのであろう。このヤコブの姿勢によって引き続きユダヤ教徒がイエスに帰依する道が開かれていたと言える。彼の晩年にはユダヤに数万の『律法に熱心な』イエス派が居たことが記されている通りである。(使徒21:20)


しかし、ペテロは外遊しつつ神の王国の「鍵」を用いてサマレイア、そしてローマ人にすらその門戸を開いたことによって状況が変化してゆくことになる。(使徒8:14~/10章)



-◆ユダヤと異邦人のふたつの群れ--------------------------------

そして迫害の急先鋒であったシャウル、つまり後の使徒パウロまでがイエス派の戦列に加わり、聖霊に取り分けられてバルナバと共にセレウケイア港から地中海に乗り出すことで、その状況の変化はさらに大きなものとなっていった。(使徒13章)

エルサレムのエクレシアとしては、イエスの教えが世界に向けて次第に異邦人の中に拡大してゆくことが何かと気になっていたに違いない。
その証拠に、ペテロがカエサレアに行って、ローマ人コルネリウスの家に入り、その一族や友人と交友して汚れたと彼を譴責しているのである。

実に、これこそペテロの主イエスから賜った「鍵」の使用であったのだが、イエス派の誰もそのことに気づいた様子はない。(マタイ16:19)
ともあれ、「それでは神は(汚れた)異邦人にも聖霊をお与えになったのだ」と黙りこむよりほか無かったのである。(使徒11章)

一方、エルサレムから直線で600kmほど北上したシリアのアンティオケイア市は、ローマ帝国第三の人口を誇る闊達な都市である。
東方ユーフラテス河畔方面、あるいはアディアベネ、ペルシアにつながる要衝であり、様々な人種の行き交う自由な気風がその都市にはあった。
 

ユダヤ人はヘレニズム期に入ってこのかた、この都市で特権を得ており、割礼を受けた異邦人改宗者(プロセーリュトイ)やその他の無割礼ながら「神を恐れる異邦の人々」(フォボメノイ)もシュナゴーグに集まる会衆の中に比率は少なくは無かった。ユダヤ人も人種の違いを然程気にせず過ごすことができたであろうから、そこには様々な人種が共に神を同じくする爽快さがあったろう。(使徒6:5/11:19/13:1)

その点、間近で神殿祭祀が行われ、ユダヤ優越性の色彩濃く保守的なエルサレムとは様子が随分と異なっていたようだ。

パウロはこのシリアのアンティオケイアを基地にして三回の長途伝道旅行を行っている。パウロやバルナバたち「諸国民への選びの器」にとってこの自由な気風溢れる都市は精神的な母体に相応しいものであったに違いない。
そして、彼らが旅行から戻るたびに、この地のイエス派はより一層ユダヤ教の色彩を薄めていったことであろう。


しかし、これはイスラエル=ユダヤ中心主義からすれば何か釈然としないものがあったとしても仕方が無い。
ユダヤ人の宗教的良心は、国教であるユダヤ教から簡単に離れることができないし、パウロの著作が未整備なうえ、パウロを迫害者、次いで異端者として避けていたユダヤのイエス派にとって、イエスの教えがモーセとどう異なるのかさえ不明瞭で、キリスト教の真髄を知るには至っていなかったというべきなのであろう。


現に十二使徒ら、またヤコブら中心的「柱」の人々はエルサレムの神殿でユダヤ教の崇拝を捧げることで、さらに多くのユダヤ人イエス派信徒を獲得していたのである。

だが、彼らの意識の外ではイスラエル民族は宗教上の大きな転換点に差し掛かっていたのであり、異邦人イエス派(クリスティアノイ)と、イエスをメシアと認めて「ユダヤ教の完成」を標榜するヘブライスト・イエス派との間には、意識のズレが生じうる事態が進行していたのであった。



-◆そして、起こるべくして事件は起こった--------------------

それが起こったのは西暦49年頃とされている。

エルサレムのエクレシアからアンティオケイアに向かった一群の人々が「メシアの弟子であっても異邦人なら割礼を受けなければ救われぬ」と主張しだしたのである。確かにユダヤ教の古い観点からメシア信仰を考えるなら、割礼を受けて改宗者になる必要があるというのは、常識的で穏当な判断であったと言えよう。(創世記17:12)
だが、キリスト後の神意は旧約的な判断を超えていた。

「割礼を受ける」とは、キリスト教徒もイスラエル=ユダヤの血統の優越を認め、イエス派にも祭日や服装や食事などのユダヤ的生活習慣を行う必要が生じ、延長線上には神殿祭祀やモーセの遵守がある。従って一つ「割礼」の問題は、イエスの弟子ら、特に諸国民からの信仰者らの信仰生活やユダヤ人との間の立場を左右する重大な問題となっていた。

では、イエスの教えは「より優れたモーセの弟子(ユダヤ教徒)」とさせるべきものだったのか?それとも、メシアの到来はより革新的なものをもたらしたのか?
この点で、ユダヤ人の弟子らには、律法を遵守する旧来の信仰生活を守るべきであるという、生まれながらの習慣と、それに伴う良心がある。イエスも祭礼に参加していたエルサレム神殿は依然として機能しており、無割礼の異邦人は聖域に入れなかった。

しかも「割礼」は、律法以前もアブラハムの家と異邦人の下僕にまで命じられたアブラハム契約以来のもので、それはアブラハムの『後裔が受けるべき契約の印』であり、その契約は『代々にわたる・・契約』とされていた。(創世記17:9-14)
それであるから、ユダヤの弟子らが「モーセの教えの延長線上にキリストを加える」というスタイルでいたことは、永きのわたり存続してきた律法体制の側から見るなら、それが正統的に見えていたことは無理もない。

しかし、無割礼の異邦人らが次々に信仰を表して参入していた外地のエクレシアでは、コルネリウスのように無割礼でありながら聖霊を注がれる例が増えてゆくとなると、そこで起っている事象は、聖典に書かれたところを信仰する旧来の観念を超える神の意図を感じさせるものである。
そこで使徒言行録は、アンティオケイアで「少なからぬ争論が起こった」としている。(使徒15章)

確かに神殿の犠牲はキリストの犠牲によって完うされたと唱えるパウロたちがそこにいれば、これは確かに大きな問題にならないわけがない。
 しかし、現代の我々の知るようなパウロの先端的理解を記した書簡群も未だ存在していない時期である。
さて、弟子らはこの事態にどう向き合うだろうか。

そこでアンティオケイアのエクレシアとしては、この問題に決着をつけずにはいられないと結論し、いまだ神殿を擁して中央と目されていたエルサレムのエクレシアと話し合うことにする。
この問題に適任なのは、何といってもパウロとバルナバであろう。
ペテロもエルサレムにおり、こうして、エルサレム会議の舞台は整った。


エルサレム会議は「使徒会議」とも「第一エルサレム会議」とも呼ばれるが、ある人々が「第一」と呼ぶ背景には、後代の1672年のものをも最初のものの延長線上に置こうという企図がある。
だが、初代キリスト教徒による最初の会議に比肩しうるものが他にあるだろうか?

以後、ニカイア会議に続く普遍教会による公会議と、このエルサレム会議には大きな違いがあったのである。

初代のエルサレム会議がキリストの使徒らの参加があったことを除いても、その意味するところは大きく異なっている。

例えれば、テオドシウスⅠ世がコンスタンティノポリスで主催した第一の会議では、キリストと神が「相似なのか同質なのか」を巡って争論がされ、結果として、僅かに見えるこの認識の差を以って、あるいは正統とされ勝ち誇り、あるいは「異端」と裁かれアナテマ(呪詛)が宣告され排斥されている。しかも、この会議は反対派を排除した政治的なものであったのだ。
 

しかし、使徒らの会議は決してそのようではない。
それはずっと大きな教理の違いの容認なのである


会議ではやはり、ユダヤ人の中には律法遵守、すなわち、イエス派であってもまず割礼を受けユダヤ教への帰依を示すことを条件とする人々がいた。
これは、ユダヤから出ず、ユダヤ教のもとに順当に育った人なら至極当然と思えるところだったに違いない。(出埃12:44)
 

しかし、自らイエスから授かった『鍵』を使用して異邦人に向かって「神の国」を開け広げたペテロは違っていた。
多くの議論が出た後のペテロの発言が転換点となったようである。
彼はコルネリウス以降の無割礼の異邦人にも「約束の聖霊」が降下した事実を説いてこう言った。

『神は異邦人にも聖霊を与えたのですから、この上、我々も父祖も守れなかった頚木をどうして彼らにかけられましょう』。
これはユダヤ教からみれば、恐ろしく革新的な考え方である。律法は「守れないものだ」と言っているのである。

しかし、こうして「聖霊」の業績が列席者の争論を決定的に収める働きを成してゆく。ここにキリストの聖霊による指導の方法が見える。各地の現場で働くキリストの霊が、弟子らに意向を示してもいたのである。

これに加えて、パウロたちが異邦人に臨んだ神の業の実例の数々を話して聞かせるのであった。

そうしてから、論議を聴いていたイエスの弟ヤコブが総括をする。
「私の決定は、即ち神に立ち返ろうとする異邦人を悩ますべきではない。
但し、偶像に捧げられた物(食物)と淫行と絞め殺されたものと血*を避けるようにとだけは、彼らに書き送るのがよい。」
 

これは、ユダヤ人の決定とは思えないほどの驚くべき転換であろう。
自分たちが心底信じるユダヤ教崇拝に関して、異邦人を律法の規定外に置きながらも仲間として認めたのである。こうして諸国民に中に出て行ったペテロやパウロのような人々を介して、イエス派の中央は聖霊の巻き起こす新たな流れを受け入れたのであった。

しかし、ユダヤ人側からすれば、異邦人信徒は中心から遠ざかった一ランク下の格付けに看做す誘惑はあったろう。
律法を知らない異邦人を汚れた者と看做す千年以上続いた習慣は、そう易々と意識から排除できるものではないに違いないし、偶像に捧げられた物と淫行と絞め殺されたものと血を避けよという指示も、律法の部分的延長という説明は無く、もし、そんな主張をすればパウロが黙ってはいなかったであろうし、ヤコブ書も律法が切り売りできないことを記している。即ち、『律法のひとつでも踏み外す者は、律法の全体への違反者なのである』(ヤコブ2:10)


これらを踏まえてみると、それらの指示は、むしろユダヤ・イエス派を躓かせないための最低範囲の線引きであり、キリスト教の宗派が聖書への忠実を貫こうとしてこの裁定に拘るとすれば、その硬直的な姿勢はヤコブの表した精神に逆行するものとなってしまう。

議決を述べた後に続くヤコブの言葉はそれを裏付けている。

『 モーセの律法は、古来どの町にも告げ知らせる人がいて、安息日毎に会堂で朗読されているのだから』

この一言に示されていることからすれば、キリスト教徒にも血に関する律法規定が延長されたということに捉えることはできない。また、ここでヤコブ自身がキリスト教の規則を新たに制定をしているわけでもない。

むしろ、無割礼の異邦人であってもユダヤ教のシュナゴーグの集いに「神を畏れる諸国の人々」(フォボメノイ)として受け容れることを許すには『偶像に捧げられた物(食物)と淫行と絞め殺されたものと血*を避ける』というのが以前からの最低条件であった。そこでヤコブも、まったく無割礼の異邦人を信仰の仲間と認めるための条件として、ユダヤ教の会堂への参入の条件であったものをイエス派でも用ることで、律法に熱心なユダヤ人イエス派信徒と異邦人信徒の融和を図っているのである。(レヴィ17:12.15)


即ち、律法の朗読が各地のユダヤ人社会を通じて行われ、その価値観は依然として神の規準として知らされていたのであるから、割礼を求めないにせよ、異邦人でメシアを信じて転向してくる者たちも一定のユダヤ的道徳観に基づいて振る舞い、ユダヤ人からの拒絶に遭わないようにするためである。
現にコルネリウスのようなフォボメノイが、この規準によって無割礼でありながらユダヤ人と共にシュナゴーグに出入りを許されていたからであろう。

 

まさしくこのヤコブの裁定は、ユダヤ教の会堂であっても、異邦人中心の集まりであっても、『双方の民』が躓きを覚えずに交流することを促進する賢い選択であった。(エフェソス2:11-18)


もちろん、崇拝に慎重なヤコブが大胆にもキリスト教の掟を新設して命じたわけでもないし、道徳的であることは望ましいながら、今日のキリスト教の信徒にこの古いユダヤ教の慣行を課する謂われはもはやない。モーセを引きずったユダヤ教イエス派は第二世紀を過ぎた早い時期に消滅したからである。今や自由に属するキリスト教信徒には「愛の掟」があるばかりではないか。(ガラテア4:24-31/ローマ13:8)


ともあれ、こうして、この会議はその議決を書簡に記し、彼らに「聖霊と使徒らの決定」を知らせ、さらに複数の証人を付けてパウロたちと共に送り返すことにした。
その書簡はシリアとキリキア(トルコ半島の付け根)のイエス派信徒に宛てたもので、受け取った人々は大いに喜び励まされ、さらに数を増していったとルカは記している。


だが、この議決を以ってユダヤ教イエス派と、パウロがイエスの霊に従って推し進めていた異邦人イエス派との間に何の問題も起こらなくなったわけではなかったし、その後もユダヤ優等主義はエクレシアから消えはしなかった。

実に、キリストの異邦人の弟子らから割礼を必須のものとしないという裁定によって、生殖重視の観点が失われ、その後の『アブラハムの裔』が血統に依拠しないという大転換が込められていたのだが、この点については誰にも気付きがなかったかのようである。だが、それは使徒パウロの言行によって次第に明白にされてゆくことになる途上にあった。
そのため、使徒パウロはエクレシア内外のユダヤ主義と生涯戦ってゆくことになる。(ガラテア5:12/フィリピ3:2/ローマ2:25)


やはり、人の信念というものは、易々と変えられるものではないし、宗教信条では特にそうであろう。
その発言が議決へと導くことになった使徒ペテロであってさえ、この会議の後のアンティオケイアで、エルサレムからの仲間が到着すると、異邦人と交友するのを避けたことをパウロから激しく咎められている。(ガラテア2:11-14)

これについては、その逆の事態も起こっており、パウロは宣教に訪れた各地のユダヤ教徒らからの強烈な反対を受けねばならなかった。一度はユダヤ人に石打で死刑にまで処せられたのを何とか生き延びてさえいるのである。宗教心とはこうまでも正義感からの暴力を引き起こし兼ねないものである。
ユダヤ人と異邦人の間では、エルサレム神殿が機能している間のイエス派が、純然たるキリスト教となって、ユダヤ教から脱皮を遂げるまではバランスをとることの難しさが新約聖書のあちこちに見える。

更に後年になって、ヤコブは異邦人派の先頭に立つパウロの評判がユダヤ教の中心であるエルサレムでは頗る悪いことを慮り、彼に神殿での浄めの儀式の世話をするよう求めているが、そこでこう云っている。

『そうすれば、あなたについて言われていることが根も葉もないことで、あなたは律法を守り正しい生活をしていることが、人々にも分かるであろう。

 異邦人で信者になった人たちには既に手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてあるのだから」。』(使徒 21:24-25)

そこには、偶像、飲血、不品行の当時異邦人に付き物の慣行を止めるよう求めた動機が記されている。即ち、両派の衝突を避け会堂でメシア信仰者が一緒に集ることにある。やはりヤコブはここでも「執り成しをする義人」の姿を見せている。

また、血を避けるという律法に基づくユダヤの常識を異邦人が受け入れることにより、キリストの血の犠牲の価値の大きさを認識する助けが異邦人にも与えられたことになる。
なぜなら、血の禁忌をもたない民族であれば、主の晩餐において葡萄酒の表象を飲むときに、飲血の禁令を超えてゆく意義を悟れないからである。 

だが、ヤコブの配慮もむなしく、無割礼の異邦人であっても仲間を『兄弟』と呼ぶパウロは、彼をアジア州のエフェソスで知るユダヤ人に見咎められ、神殿域で捕縛されてしまうことになってしまうが、これはパウロをローマという大舞台に立たせることになる。





-◆ユダヤ人らしからぬ寛容さ -----------------------

さて、この議決で注目すべきは、その大いなる寛容さである。
ユダヤのイエス派信徒は従来の律法遵守を続け、一方で異邦人は律法から解かれているのである。これは二重の基準、ダブルスタンダードに他ならない。


それは、崇拝方式ばかりか生活の様々な面、食事や衛生、祭日まで異にするという意味であり、モーセの下にひとつにまとめられていた宗教が諸国の多様性を受け入れるのというのである。
こうしてユダヤ教イエス派と、異邦人のクリスティアノイとの難しい共存が図られた。

果たしてそこに偏狭さがあるだろうか?
むしろ、僅かな言葉の認識の違いで呪詛されたり、排斥されたりはしていない点で後代の公会議とは大いに異なるものである。


そして、イエスの弟ヤコブの会議における振る舞いに、ヒエラルキアの頂点に立つ者が往々にして陥りやすい専横な独断や強欲さや教理の無理強いは見られないし、人を威嚇するようなところも仄めかされてもいない。まして、エルサレムのやり方に「合わせろ」などと見解の一本化を諮ることさえしてはいない。

むしろ、多様な議論の出るのを見守ってから、自らの周囲で起こる様々な事柄に注意を払って人々の間に働いている聖霊の示す方向を窺い、全体の意見を集約して結論に至っている。
そこでは、聖霊を内に得ていてもなお、自己を制して兄イエスの意志を探るようなところを見せているのである。


ヤコブの名を冠した聖書にある書簡には『人は聞くに早く、語るに遅くあるべきである」とあり、「人の憤りは神の義を行うことにはならない』とも述べているが、それはまさにエルサレム会議を仕切ったキリストの弟ヤコブの姿を彷彿とさせる。


この「ヤコブの手紙」は後代のルターらによって、信仰よりも律法の業を強調するユダヤ的なものであると、価値を低く見積もられ「わらの福音」とまで貶されたが、しかし、内容を見る限り「業」の強調はともかくモーセの律法の条項のひとつをすらを挙げて遵守するように求めていない。

その中に『王たる律法』『自由の民の律法』の記述があるとしても、それはキリスト教の「愛の掟」に通ずるものであって、この著者を律法主義者と断ずることは出来そうに無い。

確かに彼は『人は業によって義と宣せられるのであり、単に信仰によるわけではない』と書いている。(ヤコブ2:24)
だからと言って、ヤコブが律法主義者と断じることはできない。
文脈を見れば『業の無い信仰は死んだもの』と言っているのであり、『業のない信仰を見せるように、そうすれば、わたしは業によって信仰を見せよう』というのであるから、ここで問題にしているのは、『信仰』がどのようなものかというところに焦点が合わされているのであって、『業』それも律法を行うことを論題にはしていないのである。

ヤコブの手紙にあるのは、律法の業の続行ではなく、信仰の業を求めているのであり、実際、「自分は信仰を持っている」と言いながら、何をするでもなかった不信仰の事例は旧約聖書にもみられる通りであり、それを彼は『死んだもの』というのであろう。(列王第一18:21-)
当時の同僚パウロの業、その苛烈とも言うべき宣教の労苦を思えば、決してパウロの教えと衝突はしないであろう。(ヤコブ2:26/コリント第二11:23)

むしろ、『割礼を受けるなら律法をすべて守る務めがある』というパウロの如く『律法のひとつでも踏み外す者は、律法の全体への違反者なのである』とさえ言うのである。これは、律法主義者であるパリサイ人の平衡的律法の適用方法の枠に留まるものではなく、キリストの『完全な自由に属する律法』を指し示すものである。(ヤコブ2:9.10/ガラテア5:3/ヤコブ1:25)
更に、この手紙の驚くほど優れた点は、双方の民のいずれが読んでも益を得られる事にある。

ここにキリスト教徒にとって学ぶべきことはないだろうか?
キリスト教の各派が正統を巡って争い、ヤコブのような寛容を表せないのは何故であろうか?なぜに聖書の言葉一つや文法を巡って正義を立てようとするのであろうか? それではキリスト教を信じようとする人々は、宗派という互いに敵視し排除しあう鉄条網の枠に強制収容されているかのようではないか。

ヤコブが示したように、けっして神はそのようにはしていなかった、むしろ当時のユダヤ人にその宗教的良心の働き方をすぐに変更させることは無理を強いることであるので、聖霊の印と一定の判断期間をユダヤ人に与えたのである。
一方で、今日までキリスト教を称える様々な宗派の示してきた他者排撃による義の確立、その偏狭さは、こうした神の精神とはまるで別のものを感じさせるものであろう。つまり敵意を醸造するディアボロス(中傷者)の精神である。

ヤコブの手紙は『ねたみや闘争心のあるところにはあらゆる無秩序がある』と警告する。(3:13~)
僅かな見解の相違を争ったり、自分たち以外をサタンの側に断じたり、神の真実性を脇に押しやり自分の正しさの立証に血道を上げるようなことはヤコブが努めて避けたことではないだろうか?当時の弟子たちには聖霊があり、それこそが神の真実を教えるものであったから、人間の教理の正当化などは思いも付かないことであったろう。

そして、彼の寛容さは様々な実を結び、パウロの活動の支えともなった。
ヤコブ及び「柱」と思えるエルサレムの主要メンバーにパウロが持論を開陳したとき、ヤコブらはパウロに黙って手を差し伸べ、自分たちは割礼を受けた者の方に、そしてパウロたちが異邦人に向かうことを認めたのである。そこではパウロに働く聖霊への敬意があったに相違ない。(ガラテア2章)

そして、自ら律法の下にいないと再三主張してきたパウロではあったが、後年エルサレムにあっては、ユダヤ人としての習慣に従うようにというヤコブの勧告を唯々諾々と受け入れているのである。しかもそれは『ナジル人の誓約』に関わることであり、極めて律法主義の色濃いユダヤ的行為を世話することへの勧告であった。しかし、これを肯んじることはけっしてパウロの敗北などではなかったことであろう。むしろ、ヤコブの示すパウロへの気遣いと寛容への丁重な返礼のようにさえ見えないだろうか。(コリント第一9:20/ローマ6:15/使徒21:20~/レヴィ6:13~)


歴史上、キリスト教において論争や敵意が普遍的に見られてきたのだが、その多くは言葉を巡る教義上の争いが多かろう。しかし、パウロは後になって、信徒同士が『言葉の事で争うことのないよう、「厳粛に」([ディアマルチュロマイ]あるいは「厳格に」)申渡すよう』助手のテモテに命じてもいるのである。(テモテ第二2:14)

この厳正さは、まさしく偏狭への戒めであって、言葉の小異を巡る厳格さではない。これは自らに厳しくも、同時に謙虚で協調性豊かなヤコブと共に働いた経験を持つ使徒ならではの戒めとは言えないだろうか。


こうして、寛容さを以ってヤコブは初期の問題を乗り越えた。
それは彼に働くイエスの霊の特質でもあり、ヤコブは兄イエスの意を汲むことにおいてまことに見事であった。
これが後代の「キリスト教」諸派の教師らのような自己義認者であったなら、自分の方式に固執して、敵意と闘争の坩堝に人々を投げ込むようなことになっていたであろう。

しかし、ヤコブは聖霊の特質を発揮し、ユダヤ人と異邦人という分裂しかねない『ふたつの群れ』をそれぞれに平和に保つ役割を果たしたのである。(ヨハネ10:16)⇒「羊の囲いの例え

現状のキリスト教徒の独善の実態に鑑みるに、これは誰にでもできるようなことではない。

しかし、その一方で偏狭で独りよがりなユダヤの崇拝が終わりを迎える日、つまりユダヤとエルサレムの荒廃が刻々と近づいていた。それは神殿喪失による祭祀の不能と、律法遵守の内向きな正義の意味を失う時代の到来である。(ルカ23:28)⇒似て非なるサマリアへのキリストの想い

つまり、時代の過ぎ去った後から見ると、異邦人を許したはずの「優秀な」ユダヤ・イエス派も、実に自分たちの後進性の存続を許していたのである。
こうして『最初のものは最後になった』。(マタイ20:16)



-◆殉教の死 --------------------------------

会議の後十三年、民に尊敬されたヤコブは、より多くのユダヤ人をイエスに導いていったが、他方でユダヤ体制はますます愛国的になってゆき、やがてその愛国心が崇拝心を超えてしまう事態が発生しようとしていた。⇒ 「キリストの語った終末預言

西暦60年代に入ると物事は急速に動き始め、パウロは獄からローマに護送され、エルサレムではローマ総督の交代の留守を衝いて権威欲の深い大祭司アンナスⅡ世が暗躍し、遂にイエスの弟ヤコブに死をもたらす。
ヤコブは祭りの日に神殿の胸壁に立たされて、民にイエスはメシアではないと説得するよう要求されたところ、逆のことを行ったために祭司長派に突き落とされ、最期は撲殺されて息絶えたと伝えられている。

この「処刑」の名目として、表向きは「律法の不履行」の罪状が挙げられたが、キリスト教徒ではない当時の著述家ヨセフスですらヤコブの死刑が不正なものであったと糾弾する。それについてはアグリッパスⅡ世も、また、しばらくして着任した新総督アルビノスもアンナスⅡ世の大柄さに激怒したので、総督の留守に闇討ちのようにして民に尊敬されていた「義人」を亡き者にしたアンアスⅡ世は、僅か三ヶ月の在任で職を解かれたのであった。

こうして無慈悲な暴力によってヤコブは世を去った。
彼を除き去ったのは(ユダヤの)宗教上の偏狭さであり嫉妬であり対抗心であり、よほどに注意していても誰もが陥りやすい「人間の正義感」であった。
それは彼の兄を葬った精神でもある。義人ヤコブの精紳は大祭司アンナスⅡ世ら体制派が示したものとは正反対であった。さて、キリスト教界の相克の歴史は、ヤコブとアンナスのどちらであったろうか。


ヤコブはイスラエルの民のために神殿で祈りを捧げ続けたので、その膝はらくだの皮膚のようになっていたという。彼は兄に次ぐものとしての立場に於いて、実に堂々と平和を訴え続けてその責を全うする人生を歩み通した。平和を保つためのそのバランス感覚の良さは、クリスティアノイにもヘブライスタイにもまさしく宝のような特質であったに違いない。

このような人物のゆえに彼は尊敬も集めていたのだが、彼の兄に対するメシア信仰はやはり体制派ユダヤ教とは根本的に異なるものである。それが遂に表出するときが来たというべきか。
彼の祈る言葉はユダヤ人の頑なさに阻まれ、ヨセフスも述べたように、この「義人」の殺害に至って、遂にユダヤの命運は決したかの観がある。その後十年も経たない先にあるのは神殿を中心としたユダヤ体制の瓦解であった。

こうしてヤコブの働きを概観すると、ユダヤ体制への神の最後の善意を保つ役割を負っていたように見える。彼のイスラエルへの執り成しの祈りは、「善意の年」を活用し「救われてゆく」ユダヤ人を「神の国」に受入れることを可能にしていたと言えよう。

だが、イエスに敵対し、その弟にまでも牙をむいたユダヤ優越主義は、ユダヤとエルサレムの壊滅に向かって、ますます引き返すことの出来ない岐途に分け入ってしまったのだが、その「清算の世代」にあってヤコブの率いたユダヤ・イエス派の人々はユダヤ破滅の危機を乗り越えることができただろうか?

体制崩壊の序曲となる西暦66年のユダヤ反乱まで、あと僅かに数年を残すのみ。

居丈高なユダヤ優越主義も、エルサレム神殿の消滅と共に大いなる失望を迎える時が刻々と迫っており、イエスを退けヤコブのに死もたらしたからユダヤには、時を経ずいよいよ神の審判が下ろうとしていたのであった。




                 新十四日派   ©林 義平

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*(マリアとエリザベツが親戚関係にあり、マリアの家系はレヴィ系であるが、ソロモンの世代にダヴィデ王家からレヴィ系祭司に移った系統が記録されており(サム二8:18)、ルカの系図はそれを追ったものであるように思われる(ルカ3:31/歴代一14:4)それゆえマリアの姉妹とされるゼベダイの妻サロメを通し使徒ヤコブとヨハネもレヴィに近いと言える)


*「血」を避けるとは、「ヤコブの手紙」の言葉に基けば(ヤコブ2:10)律法の同種の規定(レヴィ17章など)がキリスト教においても延長されたとみるべき理由はない。⇒「山上の垂訓における律法の成就」

むしろ、この項目をも用いて相互の民が良心的につまずかないための最低ラインを引いたように見える。

あるいは、「虹の契約」の延長とも看做せなくもないが、ヤコブらはその由来を明言してはいない。むしろ、ユダヤ教シュナゴーグの習慣を敷衍したとみるべきであろう。
いずれにせよ、絞め殺された動物には血液が滞留しているので、続けて記述されたこの「血」の禁忌は血を食することを意味するのであろう。この禁令は「魂」(ネフェシュ)の在り方に深く関わっている。⇒「ネフェシュ」とは何か

但し、このときの双方の民の存続を保つべき状況で、この会議の決定が必要であったとしても、これを金科玉条のように現在のキリスト教徒に戒律としてあてはめようとすれば、ヤコブの示した寛容さに逆行することになり、エルサレム会議の精神を理解するのではなく、却って律法主義的とはならないだろうか?⇒「血の禁令を超える主の晩餐

たとえ、誰かがその規定を守るとしても、それは決して他者に強制されるべきでないと思えてならない。


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