ヨエル書の蝗害について終末での対型を告げる黙示録
いきなりに現れては植物を食い荒らし、あらゆる食物をその地域から奪ってしまうのが蝗害というものである。それをイスラエル民族は実際に経験していたに違いない。であるからこそ、その被害の酷さを例えとしてヨエルの預言が成り立っているのであろう。
しかし、ヨエルの蝗害では、その害を償う神の善意が語られており、ここでは記述に書かれた蝗害とその後の豊作が有ったという以上に、この預言には象徴的意味が含まれていることが明らかに読み取れる。
やはり、このヨエル書に預言されたイスラエルの大地からあらゆる緑を食い尽くす無数の虫の害とその償いについては、メシア帰天後の使徒ペテロがあのペンテコステの日に起った聖霊降下にこの預言の成就を指摘しているのであり、バプテストのヨハネが『聖霊のバプテスマ』を予告した事と共にその意義は実に大きい。
聖霊の注ぎは真の『アブラハムの裔』を歴史上初めて登場させたからである。 しかもそれまでおそらく七世紀にも亘ってこの「蝗害」の意味が謎のままであったことになる。旧約聖書の言葉はこのように新約聖書の説き明かしを必要としていたのであり、依然としてナザレのイエスをメシアとして認めず、当然ながら新約聖書を読まないユダヤ教主流派は、このヨエルのような預言から何を学ぶだろうか。まだ来ていない彼らのメシアによって説き明かされるのを待ち続けるつもりなのではあろう。
だが使徒時代での成就は預言の与え主である神の意志の悠久の歩みを物語り、さらに、ほかの預言共々に二重の成就を迎えることを思うなら、使徒時代から二千年になろうとする現在を更に超えた先にあるべき世の終末にも、なお考慮し実現されるべき第二の成就もあろう。その旧約預言を紐解き、意味を暗示するのがヨハネ黙示録の役割でもある。
さて、この作物を食い尽くす大量の虫の発生と霊の下賜について関連付けて語るヨエルの預言は、その全編が比較的に短いこともあって、この預言書がどの時代に書かれたか、ヨエルとは何者かについての情報は、書中に父親の名ペトエル以外に何も提供されていない。
但し、エホシャファト王の故事が予型として語られているからには、前800年代の前半以降であることは判断でき、また捕囚からの帰還が語られ、神YHWHが捕囚と帰還について予告して述べるイザヤなどの他の預言書と共通の観点も有しているので、それが無いヨナ書ほど古くはないと言える。
しかし、短いながら、その語るところは鮮烈な印象を与えるものであり、その内容は新約聖書の中で何度か引用され、その引用の多くが終末に関わる記述に見られる。ヨエルの語るところの、太陽は闇に、月は血に変わるという表象は福音書から黙示録にまで散らばっている。それに天の星辰も加えて光を失うというイザヤ書と共通する表現や、神の名を唱える者が救われるというヨエルの言葉が聖書の各所に見られることからすれば、ヨエルの預言には聖書的普遍性があると言える。
そして、何と言ってもヨエル書を特徴付けているのは「蝗害」である。
ヨエル書そのものは、蝗ばかりを述べてはおらず、毛虫や羽を持たない蝗とゴキブリまでを総動員して植物がすっかり失われる事態の到来を描いている。ヘブライ語の虫に関する単語はこれほどに多様性があり、この種の昆虫が多かったことが窺える。
しかし、預言にあるこの蝗害を通して悔いるなら、後にその害が償われるばかりか、以前に勝る豊かさを得ることが示されている。そこに神からの預言としての意義がある。
このようにヨエル書と言えば蝗害を連想させるのは、新約聖書での引用によるところが大きく、特に黙示録は終末での事象としてヨエルの預言の表象を再度取り上げて暗示しており、これは黙示の不明性の中に在っても強く関連を示唆しているので、単語や文法の正確性に拘るなら何も収穫を得ないながら、象徴的に捉えつつ読むなら、これは俗的な意味でなく霊的な意味に於いて、世界を覆うたいへんな事態の発生を予告するものと言えるのである。
だが、その終末の事象について考慮する前に、このヨエルの蝗害が象徴的に小規模ながら、かつてユダヤで一度成就していた使徒時代を観ておくべき理由がある。
なぜなら、悠久の歩みを続ける神にあってその預言は、一度の成就に留まらず、それを模式として人が知るべき二度目の成就を予め証しするのであり、今から二千年前に一度成就した事柄は、次なる終末の偉大な成就の先駆けとなり、人はそこで起こるべきことを予見し得るのであり、今なお重い意味を保ち続けているからである。
即ち、かつてイエス直後に起った小規模な第一義的成就は、我々の後の終末に起るべき、より大規模な蝗害の有り様を想定するよう促すものなのである。
即ち、かつてイエス直後に起った小規模な第一義的成就は、我々の後の終末に起るべき、より大規模な蝗害の有り様を想定するよう促すものなのである。
◆ユダヤ律法体制への糾弾
メシアの現れは当時のユダヤの体制を揺さぶることになったのだが、当のユダヤ人の大半はそれに気付くでもなく、「魔術を行って民を惑わす」ナザレのイエスという騙り者を除外することで、自分たち正しく行動したと思うのであった。しかし、それは後に彼らの心に刺すような痛みをもたらすことになる。
それでも、ユダヤ教のラビたちはマラキの預言にあるメシアの到来の予告ではユダヤ人にとってその現れが必ずしも目出度いものとはならないことが明かされ、事前に律法学者らが恐れていたことを安息日に関わるミシュナーの中での「メシアの災い」が明かしている。(マラキ3:2-3)
加えて、バプテストのヨハネの警告があった。だが、その言葉はユダヤ教指導層からは無視された、と云うよりは、ヨハネの方から『蝮の裔よ』と呼ばれてしまい、悔い改めの浸礼を受けようにも拒絶されていたのであった。(ルカ7:30)
そのヨハネは『斧はすでに木の根元に置かれている』とも『わたしの後に来られる方は、あなたがたに聖霊と火とでバプテスマを施すだろう』また『小麦は蔵へ、籾殻は消すことのできない火で焼き払う』と、それまで永く営まれてきたモーセの律法体制が二つに裁かれることの警告の言葉を重ねていたのであった。既にここに蝗害を被るであろう者らと、悔いによりその償いを受ける人々が見えている。(マタイ3:7-12)
そしてメシアは彼らにとってやはり『躓きの石となり』、『その石の上に落ちるものは微塵に砕かれる』というその言葉通りにメシアに対して振る舞ったのであった。
その原因と云えば、律法に従いながらその意味するところを悟らず、神の奇跡を見ながらも不信仰であり、なお利己心に固執したからであった。(ルカ17:18)
彼らは、ナザレ人イエスを通して自分たちとその体制が審判されていることを悟らず、却ってメシアを処刑に追い込むことによって『思いのままにあしらった』のである。(使徒2:23)
しかし、神はメシアを復活させ、行われていた奇跡の業はその弟子たちに聖霊を介して移譲されるのであった。イエスの去った後のペンテコステの朝に、聖霊によって異言を口々にする弟子たちの異例な姿について、使徒ペテロは集まったディアスポラの民を主にする群衆に向かって、ヨエルの預言を引用し、これがその成就であると宣言する。(使徒2:1-20)
『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る』ペテロの指摘した霊の注ぎが、このように予告されていたことであり、メシアの死と復活をきっかけにそれが成就したのであった。(ヨエル2:28)
『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る』ペテロの指摘した霊の注ぎが、このように予告されていたことであり、メシアの死と復活をきっかけにそれが成就したのであった。(ヨエル2:28)
それであるから、使徒ペテロの影にさえ触れた病人までが癒され、ユダヤ体制派は十二使徒を中心にしたメシアの業を継続する弟子たちと対峙しなければならなくなってゆく。それはイエス自身が『わたしに信仰をおく者はわたしの業を行うことになる。しかも、より大きな業を行う』と予め語られていた通りであった。(ヨハネ14:12)
それに加えて「ナザレ派」と呼ばれるようになったイエスの弟子たちは、神との契約にあるはずのユダヤ人がメシアを殺害してしまったと言い広め、それは広くユダヤ人たちの心に刺すような痛みを与えずには済まなかった。(使徒2:37)
弟子らには、聖霊による奇跡の業が伴い、癒された病人たちが共に居ることに体制派を構成する宗教家らは自分たちを正当化することに困難を覚える。また、宗教の専門家でもない使徒たちの堂々たる発言には実力行使する以外に対処もできず、使徒らを鞭打ち、或いは牢に拘束するのだが、何の効果もなく使徒らを止めることは出来なかった。むしろ、聖霊注がれるナザレ派は人数を日に日に増して行く。それは恰も蝗の来襲のようであり、壁を乗り越え導かれたかのように家々の上にまで整然と進んでいったというヨエルの描写さながらであろう。(使徒4:29-30/ヨエル2:6-9)
むしろ使徒たちは彼らを責め立て『わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手とし、また救い主としてご自身の右に上げられた。』とその罪を暴き、『わたしたちはこれらの事の証人であり、神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまたそうなのだ』と、その動かし難い事実につき、神の霊の後ろ盾を得て証しまで加えている。
使徒らがこうも大胆に真相を語るので『これを聞いた者たちは激しく怒り立ち、使徒たちも殺してしまいたいと思った』と使徒言行録は記録している。(使徒5:30-33)
このように心を刺された彼らの苛立ちは、後にステファノスへの石打によって暴発することになる。だが、それこそはメシア殺害の上塗りであり、彼らの立場は神の御前に絶望的になるばかりであった。
そのうえ、エルサレムの民や下位の祭司らも、神殿祭祀に熱心なナザレ派に好感を懐き始め、あの奇跡を行う人イエスこそがメシアであったのではないかという意識が広まってゆく中で、イエスを退けることで主導的に振る舞った祭司長派、律法学者とパリサイ派などは、神の前の立場が急激に悪化したことを内心で感じ取ったに違いないが、その内心の責めへの慄きをナザレ派への怒りと敵意に置き換えるよりほかになかったのであろう。
この情況を念頭に、ヨエルの蝗害を読むならそこに隠されていた光景が見えて来る。
鍵となる言葉は『聖霊の注ぎ』であり、メシアの死と復活を通して聖霊が注がれ、そこに新たな民が忽然と現れ出たきっかけをその霊の注ぎがつくっていたのである。
ヨエルはこの民を『上って来る強力な民で数知れず、ライオンの歯と顎骨を持つ』と描写する。その口から出る言葉が強烈であることを指すのであろう。
ライオンの咬む力が五百キロにもなるというからには、その顎と歯を持つ蝗の害はどれほどのものであろう。その民は『木々を切り株』としてしまい、恐るべき損害をイスラエルにもたらすという。(ヨエル1:6-12)
ライオンの咬む力が五百キロにもなるというからには、その顎と歯を持つ蝗の害はどれほどのものであろう。その民は『木々を切り株』としてしまい、恐るべき損害をイスラエルにもたらすという。(ヨエル1:6-12)
それはユダヤ体制の服喪のようである。
メシアを退けたことによって最終審判を下されたユダヤ律法体制を糾弾する民の現れであり、イスラエルが営々と積み重ねてきた宗教文化遺産が尽く神の是認を失い、彼らが守ったはずのモーセの律法そのものからさえも裁きを言い渡される事態の発生であった。
メシアを退けたことによって最終審判を下されたユダヤ律法体制を糾弾する民の現れであり、イスラエルが営々と積み重ねてきた宗教文化遺産が尽く神の是認を失い、彼らが守ったはずのモーセの律法そのものからさえも裁きを言い渡される事態の発生であった。
ヨエルはこの事態を一切の収穫物のない光景、牧草地も損なわれ家畜も野生の獣も空腹の苦しみに喘ぐというイスラエルの土地全体に及ぶ災厄として語り、『このような事がかつて有ったか』と問う。
その昔、確かにモーセが語って「後に現れる偉大な預言者」に聴き従わない者には『言い開きを求めることになる』と明言していたのであり、その約束のメシアを殺害することにより、その当時のユダヤ体制派はまったくその警告の言葉をその通りに踏んでしまった。(申命記18:18)
ナザレ人イエスが去った後、あのペンテコステの日から聖霊を注がれた者らの現れは、メシアを除き去ったユダヤ体制派を糾弾する民の出現でもあった。それはモーセの日以来、いや歴史上存在したことのない者らの登場であった。
なぜなら、彼らはメシア=キリストがその死に至るまで示した完全な義を、『新しい契約』によって分与された『有罪告知の無い』者たちであり、このような『義なる者』はアダムの子孫からそれまで一度も現れたことがない。(ローマ8:1)
それまでユダヤに有った神との契約による是認、神殿祭祀や会堂で培ってきた多くの宗教文化、多様な習慣や口頭伝承の数々、これらはメシア殺害によってすべてが色褪せ、今や無意味となってしまった。それをヨエルの預言は、緑なす大地をまったく荒廃させてしまう蝗害の突然の襲来に準えていたことが、ここに神の意向として見える。
バプテストが警告していたように、今やユダヤ体制は『籾殻』となり『消すことのできない火で焼かれる』のを待つばかりとなっていた。それが即ち、37年後の西暦70年に到来することになるユダヤ体制とエルサレムのローマ軍による徹底的な滅びである。
しかし、その一方でメシア信仰を得て、聖霊を注がれ『小麦』とされたイエスの弟子たちは、キリストを仲介者とする『新しい契約』が取り結ばれ、『神の子』となって神の是認の『倉』に納められることになった。それはイエスの反対者であったパウロのような者であっても変わらない。
これをヨエルは、断食や涙を以って悔いる者には、蝗害によって受けた損害の償いをし、さらに豊かな雨が降り、『脱穀場は穀物で満たされ、搾り桶は新しい葡萄酒と油で溢れる』と述べ、彼らを『シオンの子ら』と呼びかけ『定めない時まで恥を被ることはない』とも言われたのであった。(ヨエル2:23-27)
◆終末の蝗害
そしてヨエルは『YHWHの日』の到来を警告する角笛の吹奏について語り、一層の注意を終末の蝗害に喚起する。そうして次なる実現を観る終末、『太陽は闇に月は血になる』という神YHWHの日に於ける成就にも読み手の注意を向けるのである。
『あなたがたはシオンで角笛を吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。この国の民はみな恐れ慄け。YHWHの日が来るからだ。それは近い。それは闇と陰鬱の日、雲と濃い漆黒の日である』。(ヨエル2:2-3)
そして、やはり存在したことの無い民について記述を続けている。
『強大で数多い民がいる。それが広がる曙の光のように山々を覆う。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の時代にも再び起こらない。彼らの前では火が燃え上がり、彼らの後ろには炎が焼き尽くす。彼らの来る前にはエデンの園のようであったこの国も、彼らの去った後には滅びの荒れ野が残る。何者もこれを逃れられない』。(ヨエル2:2-3)
この民の進むところは一気に荒廃してしまうのだが、その速度は歩くようなものではなく疾駆する戦車のようであるという。
『その姿は馬のようで、軍馬のように駆ける。 山の頂を駆け巡る轟音は戦車のような響きがあり、藁を焼く炎のような音をたてる。これは戦いの備えをした強大な民の姿だ』。(ヨエル2:4-5)
そして『その前に諸国の民は悶え、どの顔も色を失う』とある以上、この民が糾弾するものはもはやユダヤ一国のことにはならない。
では、世界の人々が受けるような糾弾が何かあるのだろうか。
このヨエルの蝗害に光を当てるのが新約聖書巻末のヨハネ黙示録の蝗害である。
その第九章には、やはり異様な蝗害が描かれており、ヨエルの言葉に補足を加えることにより双方の蝗害が何を意味するのかについて明らかにするものとなっている。
黙示録には次のようにある。
『蝗の姿は出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。
また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。
胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。』(黙示録9:7-9)
これは明らかにヨエルの蝗との共通性を保っており、その実体への理解を誘っているのである。
黙示録に描かれるこれらの蝗は戦う準備ができており、それはイエスの死の後にユダヤ人を恐れてエルサレムの片隅に隠遁していた百二十人のガリラヤの弟子らのようではなく、あのペンテコステの日に聖霊を注がれて世界宣教に足を踏み出した恐れることの無い聖なる民を指している。
彼らには復活した主が天界に有り、そのため夫に従う妻のように長い髪をしてはいるが、『神の王国』をイエスと共同相続する『王なる祭司』とも成る以上、頭上の金冠はまことに相応しく、それでも彼らは地から選ばれる人間である。
彼らには復活した主が天界に有り、そのため夫に従う妻のように長い髪をしてはいるが、『神の王国』をイエスと共同相続する『王なる祭司』とも成る以上、頭上の金冠はまことに相応しく、それでも彼らは地から選ばれる人間である。
彼らの『聖なる者』としての身分は『罪』を既に地上から赦されたものであるので、その義で出来た良心を守る胸当ては強固な鉄で出来ている。彼らの語る言葉は鋭くライオンの歯のようである。
その『義』のゆえにこそ、彼らには未だ『地の草やすべての青草、またすべての木を損なってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと言い渡された』。
即ち、聖霊注がれた聖徒は、終末に『地の四方の風から集められる額に印のある者ら』であり、それ以外のすべての者には、誰であろうともアダム由来の『罪』があることが免れない事実である。
終末の聖なる者らは、イエス後の第一世紀のユダヤの体制を糾弾したように、すべての人々に『罪』があることを指摘しないではおかないのであり、彼らは『額に神の印がない人』にそれを痛感させることに於いて『蠍に刺される時のような苦痛』を与え、誰もそれから逃れることができない。
確かに、我々人類のすべてが死に渡されており、神から隔絶したこの世という場に否応なく生まれて辛苦を味わっているのだが、そこから自力では出ることは叶わない。誰が宗教を始めて教えを説こうと、何者が聖人を気取り「神の代理」や「経路」などと権威をひけらかそうと、結局は皆が同じ罪人でしかないことが真実に聖なる者らの奇跡の言葉によって暴露されてしまう。
そうなれば自分たちは正しいのだと言い張ってきたすべての者は、政治家であろうと宗教家であろうと尽く聖徒の発言によって恥をかかざるを得ない。(黙示録7:3)
確かに、我々人類のすべてが死に渡されており、神から隔絶したこの世という場に否応なく生まれて辛苦を味わっているのだが、そこから自力では出ることは叶わない。誰が宗教を始めて教えを説こうと、何者が聖人を気取り「神の代理」や「経路」などと権威をひけらかそうと、結局は皆が同じ罪人でしかないことが真実に聖なる者らの奇跡の言葉によって暴露されてしまう。
そうなれば自分たちは正しいのだと言い張ってきたすべての者は、政治家であろうと宗教家であろうと尽く聖徒の発言によって恥をかかざるを得ない。(黙示録7:3)
ゆえにヨエルの預言には『民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼び出し、花嫁をその部屋から呼び出せ』とある。(ヨエル2:16)
即ち、蝗害によってもたらされた問題を避けられる者はいないのであり、これは真剣な対処を求められることになる。
ヨエルを通して神はこう言われる。
『今からでもあなたがたは心を尽くし、断食と嘆きと悲しみとをもってわたしに帰れ。
あなたがたの衣服ではなくその心を裂け。あなたがたの神YHWHに帰れ。主は恵みあり、憐れみあり、怒ることが遅く、慈しみ深く、加えた災いを思い返してくださるからだ。』(ヨエル2:12-13)
そのように神に帰った人物として、使徒パウロが居る。
イエスの弟子らにはまったく強硬な迫害者であった彼は、キリストから直に回心を求められたが、それについて『自分を最たる例としてキリスト・イエスが限りない寛容を示し、そうして彼を信じて永遠の命を受ける者の見本となるためであった』また『自分が信じていないとき、知らずに行ったことについて憐れみを受けた』とも述懐している。(テモテ第一1:15・13)
そして使徒パウロとなってからは、彼ほどその発言によってユダヤ体制を切り刻んだ者もいない。
そのように神に帰った人物として、使徒パウロが居る。
イエスの弟子らにはまったく強硬な迫害者であった彼は、キリストから直に回心を求められたが、それについて『自分を最たる例としてキリスト・イエスが限りない寛容を示し、そうして彼を信じて永遠の命を受ける者の見本となるためであった』また『自分が信じていないとき、知らずに行ったことについて憐れみを受けた』とも述懐している。(テモテ第一1:15・13)
そして使徒パウロとなってからは、彼ほどその発言によってユダヤ体制を切り刻んだ者もいない。
◆蝗の主人
一方で、終末の蝗害のきっかけをもたらすものについて黙示録ではこう述べられている。
『第五の御使がラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に下って来るのを見た。この星には底知れぬ深みを開く鍵が与えられた。そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。』こうして竃の煙のように空を埋め尽くす黒々とした蝗の群れが解き放たれている。(黙示録9:1-2)
『底知れぬ深み』(アビュッソース)という語については、黙示録中で『かつて居たが今は居ない、しかし底知れぬ深みから這い上がろうとする野獣』についても用いられている。即ち、遥かな時の経過を越えて出現することに於いての使用例がある。(17:8)
世界は、キリストの現れから二千年を経ようとしているが、それはアブラハムからキリストまでの時の経過にほぼ匹敵し、その間にキリスト教は主に欧州キリスト教会によって伝承されていている。だが、真に聖霊が注がれ奇跡を行い世からの迫害に殉教した『聖なる者ら』の存在は初期の二世紀中に見られるばかりで、第四世紀になるとキリスト教は権力に介入を受け、すっかりこの世の一部と化してしまった。
当然ながら、聖霊を注がれたような者は、その後現れていない。
しかし、ダニエル書が明かすように、メシアには最後の『一週の間、契約を固く保つ』とされ、『その週の半ばで犠牲と供え物とを廃する』即ち、三年半の公生涯での宣教と受難により、律法を成就し神殿祭祀を完了させた。だが、なおその最後の『一週』の半分の三年半が未だ残っており、それが何時になるのかをダニエル書は語らないままに記述を終えている。(ダニエル9:27)
そこで、二千年以前という遥かな過去を意味する『底知れぬ深みを開く鍵が与えられた』『天から下った星』が何者を意味するかについては他ならぬ再来のメシアを別にして聖書は何者をも指し示していない。
加えて黙示録は蝗の主人についてこうも言う。
『彼らは、底知れぬ深みの使いを王に戴くが、その名はヘブライ語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポリュオンと言う』(黙示録9:11)
この『底知れる深みの使い』とは彼らを地下から解き放ったメシアであり、彼らに聖霊のバプテスマを施す権限をかつて行使して、ユダヤ体制派に刺すような痛みを与えたように、終末に於いてもアダムの罪を世界に問うことになろう。この世は間違いなく神の聖性と相容れない程に俗な『罪』に塗れ、まずは聖徒を退けて悔いない者らが多いに違いないからである。
そして新約聖書にヘブライ人書簡は、このギリシア語『アポリュオン』を同じ意味の『滅ぼす者』として、出エジプトの故事に関して用いている。(ヘブライ11:28)
それは、モーセとアロンによるファラオへの第十番目の決定的な災いを引き起こした、エジプト全土を一夜にして通り抜けた災いの天使を指して『滅ぼす者』(アポリュオン)と呼んでおり、子羊の血の贖いの印の無いすべての家の長男に死をもたらしたそのものである。
この『滅ぼす者』の起こした第十の災いにより、結果として神はイスラエル十二部族の中からレヴィ族を買い取って祭司の部族と成した。即ち、子羊の犠牲により死の災厄から贖われた「長子の民」である。(民数記3:12-13)
そこでヨセフの部族がエフライムとマナセの二部族に分かれることで、神に取られたレヴィ一部族の不足を埋め合わせ十二の部族数は再び満たされている。
即ち、『底知れる深みの使い』が『滅ぼす者』であればこそ、地上から祭司となる部族、人類の長子、『聖なる者ら』が神の側に買い取られたのであり、その代価を血で支払った出エジプトの小羊に相当するメシアの犠牲により、聖霊の注ぎ出しが起こり、その聖徒らがユダヤ体制に痛撃を与える蝗となった。
使徒時代の聖徒らは終末の予型であり、キリストの犠牲は『新しい契約』を発効させ、『祭司の王国、聖なる国民』を登場させるきっかけを作った。これらの民こそが真実のレヴィ族、キリストの血によって『地から買い取られた民』である。 しかるに、終末に起る蝗害もまた、『地に舞い降りる星』であるキリストの再臨により祭司の部族である対型的レヴィ族を出現させる意味を持つに違いない。
使徒時代の聖徒らは終末の予型であり、キリストの犠牲は『新しい契約』を発効させ、『祭司の王国、聖なる国民』を登場させるきっかけを作った。これらの民こそが真実のレヴィ族、キリストの血によって『地から買い取られた民』である。 しかるに、終末に起る蝗害もまた、『地に舞い降りる星』であるキリストの再臨により祭司の部族である対型的レヴィ族を出現させる意味を持つに違いない。
こうして、黙示録は終末の蝗が何者であるのかを読む者に教えていることになる。
それはキリストが再びこの世に対して介入を行われる臨御の時に到来する、聖霊を再び注がれる『聖なる者ら』の民、奇跡を行い、論駁不能な言葉を発する『ライオンの口』を有する強力な民である。彼らは王や高官の前に、また会議場に引き出され、そこで一歩も引き下がることなく驚嘆すべき告発を行うことは、彼らの主によって繰り返し予告されていたことである。(マタイ10:18/マルコ13:10/ルカ21:12-15/ヨハネ16:8)
これらの蝗には、異例にも草木を損なうことは許されていないが、草木への害は彼らの活動が終わって後の『四方の風』が吹くという最終的段階まで延期されている。その時までに彼らは天界に召され、その数も満たされていることになる。(黙示録7:1-3)
その後、彼らはキリストと共に全地の支配権を確立するために、地上のあらゆる権力を捩じ伏せるべく、この世に『神殿への復讐』を為すことになる。世はキリストに行ったように、地上に居る間の権力なく弱い聖徒らをも除き去るに違いないからである。(テサロニケ第一3:13/ゼカリヤ14:5/エレミヤ51:11/ヨハネ15:20)
◆大いなるバビロンという大娼婦
従って、蝗に相当する彼らが五カ月というその昆虫としての寿命を終えるや皆が揃って去って行く定めにあることにも整合性があり、確かに聖徒の民はダニエルによって語られた暴虐な『王』また黙示録の『七つの頭を持つ野獣』によって亡き者とされ、この世はそれを大いに喜ぶのである。世はその蝗害によって蠍に刺されるような糾弾の言葉に悩まされ『責め苦に遭わされ』ていたからである。(ダニエル8:23-24/黙示録13:7/11:10)
だが、これら一連の害も実はメシア=キリストの地への介入の結果であり、永く保たれた神の沈黙が終わったことを知らせるものでもある。しかし、聖徒の現れは世にとって余りにも意外なことであるに違いなく、特に宗教界、別けてもキリスト教界の動揺の激しさは今からでも想像に難くない。教会関係者、また信者で熱心であるほどに、聖徒らの発言は容認し難いものとなることであろう。その発言が無視できないほどに正しいからに違いない。
神からの音信によって既存の宗教の存在意義が根底から覆され、人々の間には疑念が広がらざるを得ない。神YHWHからの聖霊の言葉を拘りなく聴く人々にとっては、今までの宗教とはいったい何だったのか、それは引き返せないほどの問いとならざるを得ず、多くの人々の心は諸宗教を去る以外にない。
諸宗教の教えの数々がつまるところ何であったかといえば、人の考案か悪霊の教唆に過ぎなかったのである。その人々のすべてが聖徒支持に回ることにはならないとしても、既存の宗教団体の狭い教義に留まる魅力も理由も、突如現れた蝗の民によって食い尽くされたかのように見る影もなく奪われることであろう。
神からの音信によって既存の宗教の存在意義が根底から覆され、人々の間には疑念が広がらざるを得ない。神YHWHからの聖霊の言葉を拘りなく聴く人々にとっては、今までの宗教とはいったい何だったのか、それは引き返せないほどの問いとならざるを得ず、多くの人々の心は諸宗教を去る以外にない。
諸宗教の教えの数々がつまるところ何であったかといえば、人の考案か悪霊の教唆に過ぎなかったのである。その人々のすべてが聖徒支持に回ることにはならないとしても、既存の宗教団体の狭い教義に留まる魅力も理由も、突如現れた蝗の民によって食い尽くされたかのように見る影もなく奪われることであろう。
では、宗教界はその無視し難い蝗害にどう対処することになるだろうか。
そこで黙示録には『聖なる者たちの血と、キリストの証人たちの血に酔っている』『大娼婦』が描き出されるのである。
この女には『バビロン』の名が付され、まさにエレミヤが『神殿の復讐』が為されるべき対象としたイスラエルを荒廃させた都市また国家バビロニアが追想される。イエスと聖徒らとはやはり神殿を構成するからである。(エレミヤ50:28)
終末に現れ、聖霊で語る聖徒を攻撃する姿は、かつて初臨のキリストを「魔術を行い、民を惑わす者」として殺害し、その弟子たちを迫害したユダヤ宗教体制に重なるものである。
また、古代バビロンがイスラエルの神YHWHの崇拝を絶えさせたように、終末にも神との契約に在る聖徒らの地上の崇拝、即ち『常供の犠牲』を絶えさせるようこの娼婦バビロンが世の勢力を使嗾することは、この大娼婦があの『七つの頭と十本の角を持つ赤い野獣の上に座っている』姿に表されている。(黙示録17:3-6)
その異形の野獣も『底知れぬ深みから上ることになり、また去って滅びに至る』とされる短命な存在であり、七つの頭と十本の角は権力の集合体であることを示している。(黙示録17:7-13)
ゆえに、聖徒らの蝗害に辟易とし、激しく憎んだ世の宗教界が、聖霊の言葉諸共に聖徒を除き去るよう、権力の世界的集合体に働きかけることができるのであれば、迷いもないことであろう。そうしてその野獣にはダニエルが指摘するように『大層な事を語る口があり』また黙示録が描くように『冒涜を語る口が与えられ』『聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許される』という事態に至ることになる。(ダニエル7:11/8:24/黙示録13:6-7)
だが、聖徒を除き去る事は一つの災いを回避することにはなるのだが、それこそはメシアを除き去ったユダヤ体制に比すべき悪行であり、使徒らをはじめとする弟子たちの敢然たる糾弾にユダヤの宗教家らが曝され、その邪悪さを暴露されたように、やはりその罪が明らかにされ、その卑怯な行いを責める者らが現れることになる。即ち、黙示録が語るところの『第二の災い』の始まりである。
◆二億の騎兵隊
聖徒らが去っていったとはいえ、聖霊の発言は無駄にはならない。
際立った仕方で語られた言葉に真実を汲み取り、それに賛同する人々がそこに現れるのである。
黙示録では蝗害の去った後の場面で、第六のラッパの吹奏があり、ユーフラテスの岸を離れる四人の使いが現れたかと思うばかりに、唐突に二億もの騎兵の現れを描き出している。(黙示録9:13-16)
これら四人の使いは大河の畔に囚われていたとあるが、このユーフラテスがバビロンを暗示することは、黙示録に繰り返されるところから既に明らかである。即ち既存の宗教的勢力からの解き放ちであり、「蝗害」である聖徒らの活動の後に続けて現れるところは、彼らの聖霊による活動がバビロンで象徴される世の宗教領域に変化をもたらしていることを指すのであろう。
神からの音信を告げる神の民についてイザヤはこう語っていたのである。
『国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に初めからのことを告げて聞かせる者がいるか。彼らに証人を出させて証言させ、それを聞く者に「それは真実だ」と言わせてみよ』
まさしく、聖霊の言葉を聴くことになる世界の人々は、諸宗教からは聞いたことも教えられたこともない真実を知ることになろう。それは人間の置かれた真実の状況についての稀なる知識である。
それゆえ聖徒たちについてこそ神はこう言われるのである。
『あなたがたは我が証人、わたしが選んだわが僕である。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしがYHWHであることを悟ることになる』。(イザヤ43:9-10)
蝗に相当する聖徒らが去った後、神からの言葉に信をおく人々が黙っているだろうか。
いや、黙示録はそこに二億もの騎兵隊の出現を描き出すのである。それは聖徒らが迫害に遭って去ってゆき、それを以って忠節を全うして天に召され、キリストと共になるのを待って現れるものであるから、それは『天の王国』の権威の実現するその時に従うかのようであり、黙示録は騎兵隊の現れのきっかけをつくる『四人の使い』が『その時、その日、その月、その年に備えておかれた』と語っている。それは奥義の終わり、また『新しい契約』の満了を意味するのであろう。(黙示録9:15)
そして騎兵隊の現れの目的は、四人の使い同様に『人々の三分の一を殺すため』とされている。
これは、黙示録中で三分割される世の要素である、政治、商業、宗教の最後のものを指すのであろう。(黙示録18:3)
即ち大娼婦そのものであり、この時点で『聖徒らの血に酔う』世の宗教には聖徒殺害の重大な罪が明らかとなっている。なぜなら現状でさえ、自派の正義に凝り固まる諸教派はユダヤ体制派に同じく、聖霊の発言に謙虚さを示すには余りに頑迷固陋であることを存分に見せているからである。「或いは自分たちは間違っているかも知れない」などと言う宗教家が僅かでも居るとすれば却って正しく、神の御前に謙虚で天晴なことである。
だが、ほとんどの宗教は信者を失うまいと自説に拘り、その姿勢により宗教団体は却って終末に多くの支持者を失うことになろう。その決定打となるのが、この騎兵隊の存在とその攻撃となる。
というのも、この世の『三分の一』は聖徒の聖霊の言葉から既に多くを暴露されており、それは黙示録この部分に先立つ第八章の第一から第四のラッパの吹奏の度に痛々しいまでに打ちのめされている。
その『三分の一』については世の全体に先立ってあらゆる緑が既に焼き尽くされてしまい、その命運は先に尽きている。
火のように燃える山、シナイの暗示は、三分の一が契約をも違犯してきたことを糾弾し、その海の三分の一は象徴的な死に至っており、そこを生業にする船は難破している。
天からの星が水の源に落ちることで、人々を潤すはずの宗教の教えの水のすべてが苦くされ、多くの人が象徴的に死ぬ。
地上の人類を照らすはずの宗教的光明は、太陽、月、星の三分の一が衝撃を受けて光を失ってしまう。
黙示録によれば、これらの災厄は『聖なる者らの祈り』に答えたものであり、いよいよ聖霊による言葉がこの世に開示されるに従い、まず害を免れないのが『三分の一』たる世の宗教勢力であることはまず間違いがない。
だが、聖霊の言葉の開示はこの世の全体にとっても災いをもたらす以外にない。なぜなら人類にはおしなべてアダムの罪の汚れがあり、神の御前に容認されるべき者でないからであり、それゆえ三分の一への災いの後に、中天を飛ぶ一羽の鷲はこう宣告するのである。
『ああ、災いだ、災いだ、地に住む人々は災いだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている』(黙示録8:13)
その宣告に違わず、黙示録中の第五、第六のラッパの吹奏は、『三分の一』を越えてこの世の全体へと災いを広げてゆくことになる。
その中から、聖徒らの言葉に信をおき、「アダムの罪」を悔い、彼らキリストの兄弟らを支持するようになるこの世の一半の人々は、その三分の一に対する糾弾の手を緩めないであろう。
黙示録のそれぞれの騎馬は、聖徒らを象徴した奇妙な蝗の姿が投影されており、同じようにライオンの頭を持っているが、その歯で噛み砕くのではなく、口から出る炎と煙と硫黄の災厄によって人を殺すとある。
その赤と紫と黄色で象徴される災厄は、まさに公共ゴミ捨て場であったヒンノムの谷を表しており、これはキリストがユダヤ体制派に警告した『ゲヘナの裁き』即ち、復活の望まれない処置を示唆している。(マタイ23:36)
これらの騎馬には乗り手がいるが、その胸当ての色もこれら三つの災厄の色を持つからには、復讐を心に懐く聖徒らが彼ら騎馬を操るとの解釈もできるかも知れない。それが付ける胸当てが防具であるからには、その乗り手は『ゲヘナの裁き』から守られることを意味していよう。だが、この時点では聖徒は天界での神殿落成を待つ段階にあり、これらの『騎手』は聖徒とは言えないことになる。おそらくは、この乗り手そのものが信徒らであり、その『馬』は聖徒らから得た聖霊の音信なのであろう。そのため、害を為す火炎も尾の蛇もこの乗り手そのものからのものではない。
ともあれ、これらの騎馬の権能がその口と尾に有るという事も、これらの災いについて示唆的である。騎馬の発言によって悔いることがないなら、その三分の一に属する人は彼らの通り過ぎるに際し、口の炎に糾弾され、その尾の毒蛇に咬まれ死に至ることになるのであろう。(黙示録9:19)
従って、終末の聖徒の聖霊の言葉に信仰を奮い起こし、聖なる民を退けて殺害させた元凶である諸宗教への攻撃を行う騎兵隊となる人々には、数に於いて聖なる民に勝る活動の場が終末に備えられているのである。それは聖徒らを屠らせた咎の暴露と罪の追求である。
その騎兵隊には明らかに戦闘の権限が与えられ闘う備えも出来ている、神の後ろ盾を得て糾弾に勇敢であり、ご利益信仰の軟弱な「クリスチャン」などとは異なり、その勇気によって聖徒らと共に明らかに神の側に立っている。聖霊への信仰と聖徒らに対する熱烈な支持が、神の是認をもたらしているのであれば、彼らはゲヘナの滅びを越えて『神の王国』の支配する地上を受継ぐ者らであるに違いない。
◆大娼婦への裁き
こうしてヨエルの語られた蝗害の顛末が、ユダヤ体制にもたらした災厄によって終末への予型を成していたことが歴然とする。
やはりヨエルはこう語っていた。
『その後、わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは僕にも下女にも、わたしの霊を注ぐ。』(ヨエル1:28-29)
これはメシアの犠牲を通して初めて可能となった聖霊の注ぎと、それを受ける真にアブラハムの子孫であるユダヤ人、そしてそれに『接木されて』後から加わった諸国民からの補充者らのことであると理解できる。ペンテコステの朝の使徒ペテロの宣言は、『下僕、下女にも霊を注ぐ』と述べたのは、キリストの犠牲が諸国民にも及び、その成就をもたらすことを知らせるものであった。(イザヤ14:2/ローマ11:24)
この聖霊によって語る人々の現れはキリスト以後の二世紀に限られるものではなく、いよいよ終末の『半週』『三年半』が残されており、ヨエルに始まる象徴的蝗害が過去のものとなったわけはない。
その言葉は、ハガイが預言したように天地を激動させ、神にとって望ましいものが新たな神殿に参集する契機となるに違いない。(ハガイ2:6-7)
まさしくイエスはこう祈っていた。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての者が一つとなるためです。』(ヨハネ17:20-21)
終末の聖なる者らの聖霊の言葉に信仰を働かせる多くの人々にも、ヨエルの蝗害からの償いがなされ、神からの豊かな祝福に与ることができることも記されている。
『見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはこれを食べて飽きるであろう』(ヨエル2:19)
当然ながら、既存のキリスト教に聖書中の象徴的蝗害の意味を尋ねるのは徒労にしかならない。それは『大いなるバビロン』に含まれる傾向を持つ宗教に期待できないからであり、ヨエル書にせよ黙示録にせよ、それは彼らには最後まで伏せられた事柄に終わるべき理由がある。
だが、実際に『聖なる者ら』が聖霊によって語るとき、この世界は『目も見ず、耳も聞かず、人の心にも浮かばなかった事柄』である神の秘儀を知らされることになろう。『神はそれをご自身の霊によって啓示される』のであり、それは人の能力を超えたことである。(コリント第一2:9-10)
当然ながら、既存のキリスト教に聖書中の象徴的蝗害の意味を尋ねるのは徒労にしかならない。それは『大いなるバビロン』に含まれる傾向を持つ宗教に期待できないからであり、ヨエル書にせよ黙示録にせよ、それは彼らには最後まで伏せられた事柄に終わるべき理由がある。
だが、実際に『聖なる者ら』が聖霊によって語るとき、この世界は『目も見ず、耳も聞かず、人の心にも浮かばなかった事柄』である神の秘儀を知らされることになろう。『神はそれをご自身の霊によって啓示される』のであり、それは人の能力を超えたことである。(コリント第一2:9-10)
神は霊によってメシアである証をナザレ人イエスに立てたのであり、それを無視することは神を無視したのであった。(ヨハネ第一5:10)
ユダヤの体制派のように神の証を無視し続け、イエスを磔刑に処し、ステファノスにも耳を塞いで殺到し、石打にするような仕打ちを聖徒らに繰り返すような宗教人が終末にも避けられないなら、それは自分の教えや面子に拘る、どうしようもなく頑迷固陋なごく少数の輩で充分であって欲しいものである。
そして蝗に続いて騎兵隊の騎手となる人々は、遂に『大いなるバビロン』の滅びを目の当たりにし、大いなる歓声を上げる天の大群衆の声に賛同し唱和するに違いない。
そして蝗に続いて騎兵隊の騎手となる人々は、遂に『大いなるバビロン』の滅びを目の当たりにし、大いなる歓声を上げる天の大群衆の声に賛同し唱和するに違いない。
『ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、その裁きは真実で正しい。神は姦淫で地を汚した大娼婦を裁き、神の僕たちの血の報復をなさったからである』(黙示録19:1-2)
林 義平 ©2020
追記;蝗害の後に『北からのものをあなたがたの上から遠ざけ・・』とあるので、蝗の集団をバビロニア軍であるとするのは、ネヴィイームの中でこの言葉を捉えていないことからくる浅い解釈から生じる誤解と思われる。この『北からのもの』は蝗を直接に指しておらず、蝗害に悔いた人々が終末の象徴的アッシリアを指す『北の王』の恫喝から守られ、その勢いがシェフェラの台地で終息してしまうことを指すのであろう。それは列王第二第39章及びダニエル書第11章との照合によって類推できる。
終末に於ける蝗害を悔いる人々は聖徒ではなく信徒となろう。なぜなら、聖徒は蝗そのものだからである。⇒「突如瓦解する北の王」
追記;蝗害の後に『北からのものをあなたがたの上から遠ざけ・・』とあるので、蝗の集団をバビロニア軍であるとするのは、ネヴィイームの中でこの言葉を捉えていないことからくる浅い解釈から生じる誤解と思われる。この『北からのもの』は蝗を直接に指しておらず、蝗害に悔いた人々が終末の象徴的アッシリアを指す『北の王』の恫喝から守られ、その勢いがシェフェラの台地で終息してしまうことを指すのであろう。それは列王第二第39章及びダニエル書第11章との照合によって類推できる。
終末に於ける蝗害を悔いる人々は聖徒ではなく信徒となろう。なぜなら、聖徒は蝗そのものだからである。⇒「突如瓦解する北の王」
新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)