人は間違った宗教にわざわざ帰依したいなどとは思わない。
正しいと思えなければ、それを心底信奉することもまずできない。

単に風習化した宗教でもなければ、自分たちを「正しい」として信者を得なければならない。それも、できれば「唯一の」と差別化するなら、信者の獲得競争で、より有利になることはまず間違いない。「唯一正統」の宗教がこうして乱立することになる。
これはまた、信仰しようとする人の当然の欲求をくすぐり、所属することの満足感も与える。

しかし、宗教はひとつではない。
今日、世界に存在するあらゆる宗教や宗派は多岐にわたり、それぞれに異なる信条を持っている。

一神教らしい捉え方でゆけば、唯一の神が異なる信条で崇拝されるのを、ある人々は容認することができず、どちらが正しいかの白黒を必ず付けねばどうにも収まらない。
自分が見出した崇拝こそが唯一正しいとされているのだから、それはもっともな事ではある。

そこで対抗する派の存在そのものが、殊にそれが似ていたり優れていたりする場合、それは自らが信じる派を脅かし、延いては自己の確信の内に安住させてきた「自分の救い」のような最高利益までが不安定になってしまい、その人が信仰することで封じてきた疑念や将来の不安が再び顔を出してしまうから、それは一大事である。

即ち利害問題、それもこの世の物差しで計れぬほどの大きく深刻な問題を心に起こさせるのである。

正しい「クリスチャン」の方々の言い分は『主はひとつ、信仰はひとつ』であるから、ふたつ以上の教えがあるなら、どれか一つが正しくて、それ以外はみな間違っている、ということになるようだ。こうして、その人々は、その「どれかひとつ」を見出してそれを守り通す必要に迫られる。(エフェソス4:5)

ある宗派は、唯一の正しい宗派を見出す方法というのを広報誌の記事にしており、山と積まれた藁の中から針の如きものを磁石を用いて探すことに例えている。

その磁石とは「聖書」であって、藁の如き無価値な数多の宗派があったとしても、正しい宗派は聖書に引き寄せられるというわけである。つまり、聖書という神の言葉と一致するものこそが、正しい宗派であると言いたいのであろう。

この例えを考え付いた人は、なかなか良く出来た類比だと思ったろうか。
だが、この例えの良く整った機知ある文面とは裏腹に、実は重大な欠陥が隠れている。

つまり、山と積まれた藁の如き雑多な宗派の集積の中に、本当に「正しい」あるいは「唯一の」宗派が必ずそこに存在しているのか否か、という仮定の是非は論じられていないのである。

別の言い方をするなら、「比較」というものは、幾ら行っても「絶対」のものを提供することをけっして保障はしないのである。

例えれば、許多の宗派を絶対を求めて消去法で選別してゆくとする。
聖書の内容に合致しないところのあると思われる宗派をバサバサと捨ててゆく、そうしてゆくと自分たちも含めて「何も残らない」ということも起こり得るのであり、その公算も小さくもない。何となれば、人間の不倫理性はどうにも拭えないからである。

もし、少しくらいの自分たちの欠点は例外だとするなら、あるいは神が自分たちをいずれは糺されるだろうと思うなら、その身勝手で他人事のような言い訳はどこの宗教でも言えることではないか。
そこには甘い身びいきと政治的配慮が無いとは言い切れまい。それが真実に正統なものを提出できる態度だろうか。
神殿で崇拝された至聖の神YHWHが、少しくらいの不正は見逃してくれるとユダヤ人が期待したろうか。彼らの悪行については、いずれは神に糺され清められると暢気に構えている場合ではなく、イスラエルは預言者を通してその悪を激しく糾弾されてはいなかったろうか。

しかし、今日に神からの預言も無いなら、人は「比較」によって「比較的良い」宗派を見出すのが精々となる。
もし、自分の宗派を選ぶのにおいて「比較法でも良い」というなら、諸宗派が五十歩百歩である現実を受け入れることを意味するのであり、「唯一正統」という看板はどうしても降ろさねばなるまいし、他の宗派をまったくの誤謬であるとか、まして自分たちは神のもので他は皆サタンのものであると主張することは誇大広告の欺きと中傷の責めを免れまい。

より聖書に適った教えを追及することはたいへん結構なのだが、比較消去法で宗派を選別しようとすることは、所謂「ネガティヴ・キャンペーン」に成り兼ねないものである。
これは相手の弱点を突き合う抗争であり、他人を批判して自分の株を上げるような人物を世間一般でさえ尊敬するだろうか?

そのような「比較正統者」は、その正統の立場を維持するのに比較対象を必要とするので、外に攻撃すべき敵を常に作っていなければ「正統」を立証できなくなる。まして、より正しそうな相手でも登場しようものなら、そこから何かを学ぶなどの進歩の余裕もない、只々自派の存亡に関わるばかりであるから、何としても自分たち以上のものを存在させまいと欠点捜しの攻撃をする。

そこで、あちらの宗派はああだ、こちらの宗派はこうだ、とやっていないと自派の正当性が危うくなり、信徒が疑念を持ちかねない。けっして、神こそが正しく、人は皆等しく真理がない、などと「悠長な事」を教導者は言えず、そんなことを認めようものなら信徒が四散し兼ねないと思うであろう。

たとえ、神こそ正しいと認めても、そこに至るには絶対に自分たちを通さねばならない、とでもしなくては信徒喪失の心配がどうにも収まらない。詰まる所、気にかけているのは神の義ではなく自分の正当性の方である。しかもその人々は「比較正統論」で絶対を主張し続けているのだから唖然とさせられる。
その誤謬の元は、現に存在もしない「唯一正統」という看板で不当に人集めをしてきたからである。

そのような美しくもない中傷闘争の勝利者が「唯一正統」の宗派であるのなら、その「正統」とはいったいどんなものなのだろう。
収税人とパリサイの祈りの例えのようなことになりはしないだろうか。


-◆懐古的憧憬-------------------------

それでも、いにしえのイスラエルのように、信ずる者は不完全であっても神の是認のもとにあった集団や組織が、今も同じように在ると食い下がるかも知れない。

では、そのような集団が存在するなら、人の宗教上の倫理性や救いは、その集団に占有されているのだろうか。つまり、神のみ前にその人々も不完全であるのにどこかが突出して素晴らしいのか?
ご本人はどうもそう思うらしい。パウロは『知識は高慢にならせる』と警告したが、教理というものは人を変えてしまうところが怖ろしい。

だが、古代のイスラエルの場合も、神の民として「諸国民の光」となるべき神の目的に差し招かれたのであって彼らの功績でもなく、しかも、その益は「地上のあらゆる家族」つまり人類の全てに及ぶべきものであった。つまり、最終的に、他の人々の祝福のために存在した選びの民である。

しかし、その選民のように数えられて、神に是認されることだけが信仰における成功だと言うなら、その選民のところで神の善意は終わってしまい、人類祝福の観点は消えてしまわないだろうか。
それは神の人類への愛の広さを人間が狭く限定しようとすることにならないだろうか。

そのうえ、選ばれたはずのイスラエルの歴史を見れば、彼らの相応しくない振る舞いは苦難という応報となってゆき、期待に反して、やがて神からまったく退けられてしまった。彼らは他の民と比べて優れるどころか、律法の『呪い』を背負い込んだのである。果たして、その集団に所属することがその人々を救ったろうか?神はむしろ性質の良い部外者である異邦人に手を差し伸べなかったろうか?

却って、彼らは神との契約関係にあったことを誇れず、むしろ、その失態から後の世代も諸国民も学んで行かねばならない。イスラエル民族に懐古的憧憬を懐く気持が強いと、彼らの行動の真相に目を瞑ってしまうのであり、学ぶところを間違える。彼らの失敗こそが教訓だからである。聖書に書かれた祝福よりも悪の戒めの方がどれほど多いことか。

しかも、イスラエルは諸国民全体を祝福する神の選民であったので、そこには人類全体を覆う神の善意があり、どこかひとつの集団に属する者だけに神の是認があると言うなら、やはりそこには大きな見当違いがあり、関心の向かう対象がまるで違うのである。

その善意の延長線にキリストによる「新しい契約」があり、それも「神の王国」という人類救済の手段を体現するものであった。したがって、各キリスト宗派が小異を争う事態は神の意志からは逸脱しているというほかなかろう。 それとも、神がその宗派と専属契約を結んだとでも言うのだろうか?

広く人類の救いの達成を計画してきた神は、結んだ契約のそれぞれに自らの証しをはっきりと置いてきたのである。つまり神と人々との専属契約の認証印といえるものである。いや、実印というべきか。

モーセの律法契約にあっては「証しの箱」であり、その上には雲と火が存在し、それは民を導くもので誰もが見ることができたし、至聖所の箱の蓋の上にも奇蹟の臨御光もあったという。その箱そのものも「契約の証し」となっており、ひとたび契約を結んだゆえにイスラエル人が人類共通の罪ある者であっても、神が特別にこれに同行し、肩入れすることを奇跡の力を以って異邦人にも公示したのであった。

そして後の「新しい契約」には「聖霊の賜物」という証しがあり、その超自然の能力は神の是認がイエス派に移ったことを示し、同時にそれを得た者たちの義なる身分を証したのである。(エフェソス1:13-14)

これらは見紛うことのない神の後ろ盾であって、もしこれが藁の山の一角に存在していると言うなら、その藁山は神の圧倒的な証しのために燃え上がってしまうであろう。(ゼカリヤ10:3)


それでも、「聖霊の賜物は廃されたのだ」とパウロを引用して、抗弁するだろうか。

その箇所はパウロが愛アガペーを強調している文脈であるが、殊更に賜物の廃される時がいつかを説明してはいないだろう。(コリント第一13:8)
むしろ、福音書は一致して終わりの日に聖霊を受ける者らが、その奇蹟の発言を為政者と全世界に向けて宣告することを再三述べてはいないだろうか。(マタイ10:17-20)

しかし、そのような奇跡など起こって欲しくないというのが、聖霊を持たない現代宗教家の正直な本音ではないだろうか。
将来このようなキリスト教指導者が、実際に聖霊の降下するときに自分の義にこだわって、聖霊の言葉に逆い、神に敵対するものとはならないことを願いたい。

それとも「真のクリスチャンは愛によって見分けられる」とでも言うだろうか。それが『よい木の実』であると。
しかし、キリストは『愛によって人々はわたしの弟子であることを知る』とは語ったが「弟子の真偽を見分ける」とは言っていない。もし、見分けられるようなら、皆が罪あることでは同じ程度の諸宗派がこぞって愛の業を競うだろうが、その暑苦しい争いに初めから愛などはない。

また、福音書で「優れた木の実」を生み出せないのは腐った『偽預言者』とされているのであって、本来キリスト教徒同士が真偽を争い互いに断罪し、皆が皆『食い合う』ための比喩ではないだろう。そんなことをすれば、キリスト教は優越感と蔑視の屈折した教えを説いていると外から見做されないだろうか。(ヨハネ13:35/マタイ7:15-20/ガラテア5:15)

あるいは、兵役の拒否などの実績を誇って、「真のクリスチャン」の証しとするなら、それは業を誇って自己を高める以外の何であろうか。敢えて、自分たちの教えが正しいからこれをなし遂げられた、などとするなら、他の人々が同じようにするときにはとても喜べたものではない、却って「正義の危機」であるから更に一層の「善行」を必要とし、それはつまらぬ「正義を造る」競争に人を駆り立てるであろう。
キリスト教で学ぶところは、誰かが善良に見えても『人は業によって義とはされない』ということであったはずである。(ガラテア2:16)

さて、キリスト教徒とはそのように業を誇って争う人たちであったろうか。むしろ、それではパリサイ派ではないのか?(ガラテア5:26)


-◆キリストの不在-------------------------

多くの「唯一正統」のキリスト教を望む信者であっても特に肯じることが難しいのが、今日の「キリストの不在」という概念であろう。自らの救いを求めてやまない彼らは、現状でキリストの間違いの無い指導に下に何としても居たいからである。(ヨハネ16:7/ルカ19:12)

しかし、世に居ない者を居ることにはできない。
世にキリストが居ると主張するにしても、いったいどんな証拠を提出するのだろうか?根拠の薄弱で少女趣味的な「内在」か、あるいは自己満足的思い込みの見せる心理作用か。

「聖霊」とは、紛うことの無い神の威力であり、主が帰還するときには、聖霊を受ける弟子らが存在し、先に述べたような為政者との聖霊の発言を巡る命がけの対峙があると述べているのである。それは明瞭で客観的証拠となる『真理の霊』である。(ヨハネ14:14)

それが政治家たちと諸国民への広範な「証し」になると主は云われる。
この神ご自身による世界宣教の時ともなれば、キリストが不在であろうはずもない。そこには聖霊の奇蹟の力がはっきりと神の経路として立ち現れている。そこには人類全体に及ぶ偉大な公共善の大志がある。

それにも関わらず個人やグループの「狭い救い」を願っていてよいのか。それは所謂「ご利益信仰」ではないのか?
「いや、それゆえ世界に向けた伝道に邁進している」と言うかも知れない。
では、神が聖霊を通して偉大な宣教の業を為そうとされる意志も予告も聖書記述から知ってなお、「直接には人間の世界伝道でそれを成し遂げてゆく必要がある」とするとしたら、それは聖霊を侮ってはいないか、「神の手は短い」というようなことにはならないものか。

神は、やがて『天地を激動させる・・するとあらゆる望ましい者たちが(神殿に)入って来る』と予告している。(ハガイ2:7-9)
まさか、聖霊もない人間の伝道活動で『天地が激動する』とは、さすがに言えないとは思うが、このように偉大な神の行動を前に、人間の造った宗派の業や唯一の正統を称え、些細な教理の根拠をあれやこれやと掲げて、正義の占有を主張するとなれば、まことに滑稽なことではないか。

それは、イエスが安息日を守らないからと自分たちの細かな義の基準に近視眼的に固執して、メシアの価値を見誤って退けたパリサイ派に似てもいるだろう。(ヨハネ9:16)

唯一正統を唱える宗派の現時点にあっては、主人が不在であるのを良いことに、その意志を汲まずに自分が正しいから従えと命じる『仲間をたたく奴隷』に彼らは似てはいないだろうか。(マタイ24:48-51)

もし、神の聖霊の発言を前にしてさえ、なおも彼らが、「神もキリストも自分たちの側に立っており、正しい自分たちを通してでなければ誰も救いに至らない」と言い続けるのであれば、これは神と人間という価値の倒錯であり、何と恐ろしく危険なことであろう。

使徒パウロは、『たとえ、人間がことごとく偽りであっても、神こそが真実であるように!』と、真理の在り処をはっきりと示した。(ローマ3:4/詩篇51:4)
山上の垂訓でキリストが『王国と神の義を第一に求めよ』と命じたように、キリスト教徒の求めるべき正義は『神の義』であることは明白であり、それを前にして「人間の義」のどんな意味があるだろうか。(マタイ6:33)

人が信仰を持つに当たり、一心に神の意志を探るのではなく、自分の救いや願いを優先させていながら果たして『神の義』を見出すことができるものだろうか?
そのような願いのなかには。「自分の宗派だけは正しくあって欲しい」という人の意志も含まれるだろう。そこで神意は無視されるのである。


-◆優越感という罠----------------------------

キリスト教徒は、人類は皆が神の前にキリストの犠牲の贖いを必要とする「罪人」であるということを認める必要があるだろう。

他方、聖霊を注がれた聖徒については、その聖霊の下賜そのものがキリストの贖いなくしては与えられないものであるゆえに、神はまず、彼ら聖徒たちだけを地上に居る状態から贖ったので、彼らには『有罪宣告はない』とパウロは言うのである。(ローマ8:1)

しかし、彼らの立場は不確定であるゆえに「契約」が求められ、キリストを仲介に『新しい契約』が取り結ばれたのであり、それは彼らがいまだ罪ある肉体でいる内から、仮の義認を貸し出された状態にあることを示している。

契約によって先に贖われた彼ら聖徒は、人類の『初穂』であり、その立場が格別なものであることを「聖霊の賜物」が証ししたのであり、パウロは「聖霊の賜物」が、天でキリストと共になることへの『事前の約束手形』であるとも書いている。(ヤコブ1:18/ローマ8:19/エフェソス1:14)

彼ら聖徒は、肉体にある生涯でキリストへの忠誠を全うし、汚れない処女のようにキリストの帰還に際して自らを捧げられなければならない。それが彼らの試練となり、裁きをもたらすものともなるのである。(コリント第二11:2)

こうした聖書の言葉を、闇雲に自分に語られたと思い込み、「聖霊の賜物」がないのに自分が信仰によって義認されており、救いは確実などと思うだろうか。偉大なる主の自己犠牲を前にした利己心とは滑稽の窮みである。

そのような「信仰」なら、そう信じる人々に幸福感を与えるかも知れないが、同時に他の人々に対して優越感をもたらすことは避けられない。

自分にあると思う救いや是認が、それの無いと思える人々に対しては憐憫を感じさせ、再び自分の立場に感謝を懐くのである。これでは、イエスの例えにある「パリサイ人の祈り」そのものではないだろうか。(ルカ18:11-14)
この点、「唯一正統」を唱えるなら、この優越感から逃れる術はまず無い。

その優越感の淵源はどこにあるかと問えば、パリサイ派と同じく「自分たちが正しい」という「人間の義」以外のどこにあるだろう。

このような人々が世に向かって伝道を行うとしても、その宣教を受ける側の人々は、その「クリスチャン」方の優越感と「憐れみを垂れる」姿勢を非常に敏感に捕えられ嫌悪されており、それが分からぬ伝道者に成功はまず無い。いや、同じ「優越感」に魅力を感じる「仲間」だけは幾らか得られるだろうか。

一方で、「神の義」は人間を不公平に扱うことはなく、同じように「罪」ある誰をも優越感に浸らせるものとはなり得ない。「神の義」は人ではなく、神の真実性を証しするからである。

ただ、聖霊が注がれる聖徒にあってのみ、真正な教えが与えられるにせよ、聖徒らには人類の救いのための命がけの行動が求められ、けっして自分の救いに安閑となどしていられようわけもない。そこにはキリストのような神と人類全体への熱意と製錬の過程が求められるが、一宗派が正しいか否かなど、まるで無関係ではないか。(マタイ10:38-39)

それでも、凝り固まって自分たちの宗派の正義感や道徳基準の良好さから、神の是認や救いが自分たちにあると断じてしまうだろうか。

まだそう主張するのなら、ヨブ記が教えてくれるだろう。


-◆ヨブ記最大の教訓------

ヨブ記の冒頭では、神とサタンによってヨブの善良さを巡る論争が起こされる。
サタンは二度、ヨブの幸福な境遇を激変させて彼を試みるが、ヨブは災いの理由を知らされなくとも、けっして神を呪うようなことをしなかった。彼の善良さは真実のものであった。

また、ヨブの三人の友が、神は義なる者を悪くは扱わないに違いないから、ヨブには知られていない悪があるに違いないと彼を検閲するのであったが、それは彼の苦悩を増すことにしかならず、却ってヨブは彼らの審問にも打ち勝ってしまう。

ここで話が終わるなら、サタンは神に忠節な道徳者を試みるから、それに負けてはならないという結論も可能ではあろう。まさに、ヨブこそは偉大な模範者であり、彼に倣えとばかりに、信ずる者らはその後塵を拝するだろうか。

だが、サタンの試みも、友人らの検閲もヨブ記全体からすれば前座に過ぎず、実は、本論に入るための舞台装置でしかない。

これらふたつの試みは、共にヨブという人物を際立たせる役回りを負っている。サタンと神の論争では『彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない』とヨブが描写され、三人の長老らの延々と続く審理でも、最終的に「ヨブの義」は友らをまったく沈黙させる。

こうしてヨブという人物が余すところ無く描かれ尽くし、本論に進む準備は整った。
ヨブのような者は、地上には他に居ないと神が豪語するほどの義なる者であり、そして実際、見事にサタンの試練に打ち勝って見せた。そのうえ友らの執拗な審査にも堪える道徳的模範者である。こうして「ヨブの義」は確立され、もはやゆるぎないように見えた。

しかし、ヨブ記の真骨頂が発揮されるのはここからである。
この書の分水嶺まで来ると、新手の登場者エリフがそれまでにないことを滔々とヨブに語り始めるのである。

『神が答えないからといって、あなたはどうして神と争ったのか』。(33:13)
『神がそのみ顔を隠されるときに、いったい誰がそれを見られるだろう』(34:29)
『あなたは言った、「わたしの義は神に勝る」と』(35:2)

エリフは、ヨブが三人の友の審問に弁明するうちに、自分を正しいとする余りに神の義を押しのけてしまったと言うのである。(32:2)
つまり、神不在の中、ヨブが苦難や中傷と戦う間に自分の正しさを強調し続け、神からの視点を失い、自分はこれほど正しいのに神は不公正に扱ったと、自分の義に固執していたのである。それは正しさの仮面をかぶっていながらも、神の前には少しも正しくはない。

エリフは言う。
『あなたが罪を犯したとしても、神に対していったい何ができよう。
 あなたが叛きの罪を多くしても、あなたは神に害をなし得ようか。
 
また、あなたが正しくても、あなたは神にいったい何を与え得よう。
 神は、あなたの手から何か善を受けられるだろうか。

 あなたの悪は、ただ、あなたのような人間へのもの。
 あなたの正しさは、ただ、人の子らに関わりを持つだけのものに過ぎないではないか。』
 (ヨブ35:6-8)

やがて、神ご自身もこの論争の場に大風に乗って臨御なさり、ヨブを諭すことになる。
『あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。
 自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。』(40:8)

これには、さしもの最高道徳者も返す言葉が無い。
『私は自分の言葉を撤回し、塵と灰の中で悔い改めます。』(42:6)

この悔いの言葉が限りなく重いのは、かのヨブの発言であるからに他ならない。


さて、「唯一正統」の宗派を自認なさる方々は、その道徳性においてヨブに勝れるものだろうか?

「我々が正しいので、必ず神は我々の願うようにしてくださる」などと言えたものだろうか?
ならば、その派の義は神を縛るほど強いことになり、ヨブから何も学んでいない。

むしろ、自分たちが「正しい」と主張することにおいて、ヨブ以上に神を差し置いて、関心を専ら自分に向けて舞台の主役となってはいないだろうか?

この点、エリフの指弾は自論に固執したヨブの友らにも及ぶ、『それにしても、誰も語らなかった「わたしの偉大な創造者はどこにおわすか」とは』(35:10)『「わたしが語りたい」などと神に向かって言われるべきか』(37:20)


では、試みの窮みの後にヨブの得た教訓から何を学ぶべきだろうか?

実にそれは『あなたは、ひたすら神を待つべきである』というエリフの言葉に要約されているだろう。(35:14)
この諭しはきわめてシンプルかつ強烈である。
即ち、罪ある人は誰も(ヨブでさえ)真理も正義を持ち得ない、それゆえ神を待つべきである、と言っている。

人は神の裁きに法則性を見出そうとするものである。例えれば、神の道徳規準を定めて、その是認を受ける生き方を唱えることがあり、年代計算をして神の行動を予知しようとする。
その動機は、自分が安心したいのかもしれない。だが、どんな人も裁きを前にした『罪人』であることに変わりはない。

ヨブ記の中で、他ならぬ神ご自身がこう言われる。
『だれが先にわたしに与えたので、わたしはこれに報いるべきか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。』(41:11)
奥義の家令たる使徒パウロがこれを引用して『ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。』というのである。どうして人が神の裁きの定めをどうこう言えようか?(ローマ11:33)

神の沈黙をよいことに、神を待たずして自己の義を立てるなら、神が到来するときに悔い改めねばならず、大いに恥をかくであろう。それでも、まだ悔いるなら道も開けよう。振り上げた拳を下ろすだけの潔さがあるならば、神は『死すべき人間にご自分の義を取り戻してくださる』。(33:26)
しかし、聖霊の発言による「神の義」を前にしてまで、人の義を立て続けるときには、それは恐ろしいことになるだろう。


こうして見えてくる結論は何か?
即ち、キリスト教徒の行うべきは、「唯一の正しい宗派」を探すことでも、他の人々に優越感を懐くことでもない。

ひたすら『神の義を第一に』求め続けることであり、人間が持つわけもない「真理」に安住せず、それを『求め続け、敲き続ける』ことにある。
もし「唯一正統の宗派」への所属に安心を見出しているなら、それはこの点、まったく危うい状態にあるだろう。

その人の関心は結局のところ自分に向かっているのであって、神を求めその意志を探ろうとする気概に欠けるからである。
やはり、絶対的宗派を求める動機には利己心があり、ひたすら神を待つよりは、自分の救いを先に何とか確定したいということではないのか。

対して、キリスト・イエスは『自分は何事も自分からはできない』と宣い、この「大能の神」で在られるみ子であっても『すべて父から聴く通りに行う』とも言われる。
我らの師の求めることは、命を賭しても『父を尊ぶこと』であったのだ。
この違いは何と言うべきか。

もちろん、人にはそれぞれにより信じられる事があり、今はそれを信じるより外ないが、それも人間の観点からのことであり、それを神の真理にも正義にも仕立て上げるなど、罪ある人間の限界を超えたことで、けっして出来ようはずもない。「唯一正統」の看板は是非とも降ろされなくては、ヨブに遠く及ばぬ亜流と成り果てるであろう。

そこで人に必要な事は、常に「神の義」に対して心を開き、自分に固執しないニュートラルな謙虚さである。
自分が「唯一正統」のような立場に立ったと信じ込むという、そのことが、既にヨブの踏み込んだ岐途に立っており、それが無益な歩みになってしまうことを、ヨブを最たる例として、我々はモーセ以前の古代から教えられていたのである。何とも畏れ入るばかりではないか。是非とも神の前に頭を低くしようではないか。


ヨブの教訓に従い、心の閂を引き抜いて『求め続け、敲き続け』ているところに『聖霊が渡される』のであろう。(ルカ11:9-13)
聖霊を持つ者こそに真理は知らされ、聖徒として贖われた彼らこそ神の義の代弁者となる。
そうで無いのなら、皆が人の正義で五十歩百歩の無益な言い争いの中に居るだけでしかない。

キリスト教徒にとって重要なことは、如何なる宗派に属し、如何なる教理を信奉しているか、という処にはなく、その人の心が神と己のいずれの方を向いているのか、ということにあるだろう。

人ではなく神を求める姿勢があるなら、神の語るときに心柔らかに一心に聴くので、それまでにどんな宗派に属し、どんな教理を信奉していたかは幾らも問題とはならないであろう。

この精神態度は、どんな教派に属していようとも、今この瞬間からでも培い得るものに違いあるまい。
人間の持てる正しさの上限は、神にこそ正しさがあるというキリストに倣った認識の中にある。(ローマ3:4)

宗派の枠にとらわれずに、この認識を持てる人々がいることを願ってやまない。
誰もが、「正統」を詐称する死すべき教師の奴隷となっている必要などはない。

たとえ今現在、「唯一正統」を唱える組織に居るとしても、その人の見方をこのような謙虚なものに変化させることを留めることは誰にもできない。
『真理が自由にする』とはこのようなことではないのか?(ヨハネ8:32/コリント第二11:20)



    新十四日派   林 義平   jst
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 ヨブ記の主要論点

 善きサマリア人の譬え

    教理控制

 アンブロジウス 俗世との岐路に立った男







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