神殿祭祀に関わるエレミヤの七十年
 <難易度 ☆☆☆☆ 中> 予備知識⇒「アリヤー・ツィオンの残りの者」/「指名されたメシア キュロス」



その夜、バビロン市は収穫の徹夜祭で乱痴気騒ぎと祝いの酒に酔いしれていた。
それは西暦前539年の秋のことであったという。
 
だがその騒ぎの間にも、メディア・ペルシアとそれに連合する諸国の軍の兵士らは、夜の帳の下りた後、粛々と市を貫流するユーフラテスの川床から夜の闇に紛れて市内に入り込んでくる。全軍を率いるのは、新興ペルシアのキュロスⅡ世であった。

その大河の川幅は2スタディオン(約360m)あり、水深は兵士がもうひとりを肩に担いで立たせても水面に顔を出せないほどであったとクセノフォンが伝えている。
この膨大量の水によっても守られたバビロン城市ではあったが、もし、この水が干上がりでもすれば、城壁で強固に守られた大都の中枢に攻め上るための侵入路ともなり兼ねない。それは難攻不落を誇る城壁のほうはまったく相手にしないというトロイの木馬の戦法に比すべき大逆転の発想である。

連合軍を率いるペルシアのキュロス王はその夜、大河の水を掘削しておいた別の水路に流し込み、それは沼沢地に吸収されていったという。そこでバビロンの流域の水嵩は兵士の腿の低さにまで減っていった。
兵士らは、川に面する開かれた城門から祭りの騒ぎに乗じて侵入し、王宮を目指して進む。だが、市内は祭りの最中にあって何が起こりつつあるのかをまだ知らない。豊穣を祝う徹夜の秋祭りに騒ぐ市民らの誰もが、川幅三百メートルを越える滔々たる大河の流れが、祭りの一夜の間に水溜まりの程度にまで減っているなど思いもしないことであったに違いない。糧食に困ることのないバビロンの住民にしてみれば、ペルシア軍などいずれは撤退を余儀なくされるとの予想に安堵しきっていたことであろう。

その夜、バビロニアの共同統治の王ベルシャッツァルは、油断しきって宴会を催していたのだが、宮殿の門の外の騒がしさの理由を何事かと近衛兵に調べさせると、何と開かれた門から敵兵がなだれ込んできた。

紀元前539年秋のティシュリ月16日*のその夜、バビロンはメディア・ペルシアにまさかの攻略を受け、あっけなく征服されるのであった。*(グレゴリオ暦10月5日・日曜の未明)

それから陰暦一か月の後、キュロスは緑の小枝の敷き詰められた道を進んでバビロンに入城を果たし、それまでのバビロニアの習慣として占領した諸国の偶像と共に捕え置かれた民を、神々共々すべて故地に戻す政策を実施し始める。(バビロニア年代誌/H. Crawford)

旧約聖書のダニエル書によれば、このときバビロンの支配者となったのはペルシアのキュロスではなく宗主国メディアのダレイオスであった。
だがこの王は、既に62歳であって、寿命をすぐに迎えたのか、二年後の前537年にはキュロス王の治世の第一年とされている。

ユダの捕囚民にして預言者ダニエルは、かつてネブカドネッツァルへの夢解きによって高い地位にあったのだが、その年には血統の異なるナボニドスの治世になって忘れられていた。しかし、メディア・ペルシアの支配へと情勢の変化するに及び、ダニエルはダレイオス王の下でメディアの祭司であるマゴイ族らを退け、再び重んじらる地位に登るのであった。
そのダニエルもメディア・ペルシアの勝利と征服に変化を悟ったのであろう。その年、イスラエルの民のために悔悟と回復を願って真摯な祈りを捧げるのであった。

また彼は、その同じ年になってから同朋の預言者エレミヤのかつて残した預言書を読み、エルサレムの荒廃の期間が七十年となることを知ったと言っている。

エレミヤはユダの民を糾弾し、こう予告していたのである。
『この地は尽く滅ぼされ、驚愕の荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕えるであろう。
YHWHは言われる、七十年が終わるとわたしはバビロンの王と、その民と、カルデア人の土地を、その罪の故に罰して永遠の荒野とする。』(エレミヤ25:11-12)

だが、諸国の民と共に神々の偶像までをバビロンに捕え置いてきたバビロニア王朝は、ナボニドスとその皇太子ベルシャッツァルの統治により、城門の二重扉の奥に固く捕えて、一向に諸国民もその神々も解放する気配が無かった。
アッシリアやバビロニアでは、占領政策の一環として、被占領民の反乱や独立を妨げるために、居住地を変更させ、彼らの神々の偶像を囚われにして自分たちの元に置いていた。
これが解放されるには、コーカソイドの帝国、ペルシアの勃興を待たねばならなかったのである。

キュロスの連合軍がバビロン市を攻囲してもなお、この巨大城市には20年もの間は糧食に困らないと言われており、聳え立つ二重の城壁の上の通路は四頭立ての馬車が方向転換できるほどに広いと言われる分厚い守りに囲まれていた。しかも、市域の長さは20kmも越えていたとさえ言われる巨大さであったから、周囲を一度囲んでみたキュロス軍も蟻の行列のように薄い包囲網となってしまい、それはバビロニア兵の嘲笑するところでしかなかった。

しかし、いまやその鉄壁の守りも無意味なものとされて、ベルシャッツァルはペルシア兵の剣に倒れ、父王ナボニドスも囚われの身となった。
そして、その後キュロスの占領政策は、アッシリアやバビロニアのセム系帝国の施策とは正反対に、諸国の民を抑留地から解放し、それぞれの偶像の神々も在るべき神殿に戻して手厚く崇敬するところにあった。

ユダの神YHWHは偶像の神ではなかったが、エルサレム神殿の金の装飾は剥ぎ取られ、金銀銅で作られた聖なる器具や什器類がバビロンに留め置かれたままとなっていた。律法が規定した聖所での祭祀は中断したままであったが、祭祀に用いるための五千四百に上るほどの器具が保存されていたことは却って幸いな結果を呼ぶことになる。それらを運ぶ『街道』は預言されていたように神により守られ、貴金属の器具類は無事の帰還を果たすことになる。

そして、キュロスの征服によってバビロニアの王朝が過ぎ去ったその年に、ダニエルは自国民が示してきたYHWHへの多くの反抗と咎を言い表して祈り、その赦しを、加えてエルサレムの回復を願い求めたのであった。それは即ちメディア人ダレイオスの第一年のことで、ダニエルが捕囚としてバビロンに捕え移されたエホヤキン王の第三年(前605)から66年、エルサレムの神殿が破壊されてから47年が経過し、彼も齢八十には達していたことであろう。(ダニエル1:1/9:1)



◆エレミヤの七十年

ダニエルが青年期からバビロニアで祭司の長官を務めた時代、依然エルサレムには神殿が健在であったが、その喪失の危機は逼迫していた。その頃、エレミヤやエゼキエルらの預言者たちが、その危険が迫っていることを語り出していたのであるが、もはやその流れは変わらなかった。
その頃、旧約聖書中でも著名な預言者エレミヤは、即ち第一神殿の末期に、ユダ王国のただ中で不実な民の律法契約に対する不履行を生涯をかけて糾弾し続けていた。

このベニヤミン族の土地に属する城市アナトテの祭司エレミヤは、若いときから神YHWHに預言者として召され、その預言書を記したが、エルサレムとユダの荒廃する『七十年』については二か所で語っている。
まず最初は上にも記した第25章であり、そこではユダと近隣の国々が七十年バビロンの王に仕えること、また、七十年の後にバビロンの王と民を罰して、カルデアを永遠の荒野にするという。
もう一か所は、第29章であり、こちらでは『七十年が経るとき、あなたに我が心を向け、あなたへの良い言葉を実行し、あなたはこの地に戻ってくることになる』との神YHWHの言葉を知らせている。(29:10)

エレミヤ亡きあと、これらを読んだであろうバビロンにて老境に達していたダニエルはエルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、エレミヤの文書によって悟ったと記している。(9:2)

預言を総合すると、エレミヤの語った『七十年』の意味は、ユダの民がバビロンの圧制から解かれ、ユダとエルサレムに再び住むようになるときに、その荒廃の期間が終わることを述べていたことにはなる。

だが、エレミヤに語られたその『七十年』の真意はどうやらそれだけのことではなさそうなのである。

というのも、以下に書き出すように、当時のユダヤ人の語るところ記すところはそれぞれではあっても、彼らはある一つの共通認識を有しており、単に約束の地への帰還と定住の始まりによって『七十年』が終わったとは見做していないことを繰り返し示しているのである。

そこで今日の我々も、彼らと共通の認識からエレミヤの『七十年』を読まねば、その意味を悟ることはできないというべきことになる。

では、それら往時の記述を追って彼らが理解した『七十年』の意味を探ってみよう。


まず、ダニエルが深い悔恨を言い表し、神に謙って民の赦しと回復を願ってから二年後のキュロスの第一年に、イスラエルの民への帰還が許されたわけだが、その勅令の趣旨はイスラエルの帰還そのものではなく、ユダの神の崇拝の復興であった。

その年の内にユダの民の有志たちと随行する者ら五万人ほどが、第七の月の一日(ヨム テルア)にはエルサレムに到着し、スッコートの祭りを行っているし、仮のものながら早速に祭壇を組んで、焼燔の犠牲を再開したのではあるが、以下に見るように、それらを以って彼らはキュロス王の勅令を行ったとは見做していないのである。

そればかりか、翌年に神殿の基礎は据えたものの、その後は周辺の諸民族からの神殿再建の妨害に遭い、来る年々、建てる業は行われなくなってゆく。
しかし、キュロスの子カンビュセス二世王がシリアで崩御し、祭司系のマゴス族で王位簒奪者であったというガウマタ*を倒して、ひとりのサトラップの息子であったダレイオスが即位すると、この新王は大王キュロスの方針を採り、諸民族の崇拝再興を促進させてゆく。
*(実際には、正統な王位継承者のスメルディスであった可能性があるとも)



◆エズラの記録

エレミヤの『七十年』については、ダニエルより更に後の世代、それが成し遂げられた時代の証人として、聖典警護のソフェリームの中でも最も著名な人物、エズラの記録を聖書中に読むことができる。

『そこで主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め寄せさせたので、彼はその聖所の家で剣をもって民の若い者らを殺し、若者も、処女も、老人も、老いさらばえた者をも憐れみはしなかった。主は彼らを尽く彼の手に渡された。
 彼は神の家のもろもろの大小の器物、YHWHの家の貨財、王とその高官らの貨財など、すべてこれをバビロンに奪って行き、神の家を燃やし、エルサレムの城壁を崩し、宮殿を尽く火で焼き払い、そのうちにあった貴重な設備のすべてを破壊した。
 彼はまた、剣を逃れた者らをバビロンに捕え移し、彼とその子らの奴隷となし、ペルシアの王国の興るまでそうしておいた。
 これはエレミヤの口によって伝えられたYHWHの言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息を得た。即ち、その荒廃の間安息して、ついに七十年が満ちたのである。』(歴代誌第二36:17-21/レヴィ26:34)
 
 以上の記述では、民の不在によって国土が荒れたが、それも七十年の間であったと読むことができる。
 だが、そのあとに続けて、エズラはキュロスの勅令についてこう書くのである。
 
『ペルシアの王キュロスの第一年のことである。かつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、YHWHはペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神YHWHは、地上の国を尽くわたしに賜った。この方がユダのエルサレムにご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたがたの中で主の民に属する者は誰であれ上って行くがよい。神YHWHがその者と共に在られるように。」』(歴代誌第二36:22-23)

また、この二世紀も以前に、イザヤの預言もキュロス大王の役割について神YHWHの言葉をこう記録していた。
『キュロスについて、「彼は我が牧者、我が喜びとするところを尽く為すであろう。」またエルサレムについては「彼女は再建される」、神殿については「彼はその礎を据えるであろう。」』(イザヤ44:28)

キュロスの意図は、彼に世界覇権をもたらした神々を奉り尊崇することであり、ユダについては明らかにエルサレムに神殿を再建することにあった。従って、キュロスの勅令はイスラエルにパレスチナへの帰還を許すというものであったとするのは勅令の目的を無視していることになる。
イザヤによってキュロス大王がメシアとされるのも、神殿祭祀の再興の命を下してのことに違いなく、それは無効化できないペルシアの勅令そのものに拭い難く刻まれている通りである。



◆帰還民の観点

キュロスの後代に、ガウマタが倒され王の系統が替わると、ユダの民には神殿再建もますます遠ざかったかに見えたであろう。
しかし、この時節にイスラエルの神YHWHは、預言者ハガイとゼカリヤのふたりを総督ゼルバベルと大祭司エシュアと帰還民に遣わして神殿再建の業に取り掛かるよう促すのであった。
では、この情況下でエレミヤの『七十年』が終わっていたと彼らは見做していたろうか?

当時の帰還民らの心情が如実に表れているのがゼカリヤ7章2節の民の問いかけである。
そこではベニヤミンの北のベテルの民衆*が上って来て、神殿で仕えるべき祭司らや預言者にこう尋ねた。
『「わたしは今まで、多年おこなってきたように、五月に泣き悲しみ、かつ断食すべきでしょうか」。』*(地域からすれば、彼らが北王国への帰還者であった可能性がある)

だが、その心の迷いそのものに、ゼルバベルらのような神の家に対する熱心は見られない。
彼らにはダニエルのように神に対する真摯で篤い気概も無かったというべきであろう。ただ、時はもう満ちたかと訊いているばかりである。捕囚を解かれてから既に20年になろうとしており、もう出来ることなら面倒な断食も終わりにしたかったようにも聞こえる言葉である。

そこで即座にゼカリヤにYHWHの言葉が臨み、こう言われる。
『あなたがたが七十年の間、五月と七月とに断食し、かつ泣き悲しんだ時、それは本当に、わたしのために断食したのか』

つまり、五月の断食とは、ユダヤ人にとって極めて悲しむべきアブの9日の神殿の破壊を記念して、今日までも続くティシャ ヴェ アヴの習慣であり、ここに書かれた七月のものは、それに続くエルサレムの荒廃に関わるものと推定されているという。

そこで民は、祭祀の一部が再開はしていても、いまだ神殿の落成を見ない状況で断食をどうするべきかを崇拝に関わる人々に問い尋ねてきたのである。
断食はそれぞれ七十回かその近くの数字に及んでいたことは、このことを記した預言書が神の霊感の言葉にある以上、動かしようもない。この民は『七十年』についておそらく聞き及んでおり、それが終わったと観てよいものかどうかを、祭司や預言者らのところに尋ねてきたのであろう。即ち、断食を終えるべき『七十年』が過ぎ去ったにしては、神殿の工事が中途にあることに戸惑いがあったというべきか。

そこで、神の更なる答えはこうである。
『「わたしはシオンに帰り、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町と称えられ、万軍のYHWHの山は聖なる山と称えられる」』
それだけではない
『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。皆よい年寄で、おのおの杖を手に持つ。またその町には、男児、女児が満ち、街路に遊び戯れる』(8:3-4)

つまり、荒廃は終わってはいないという以外にこれは読みようが無い。これはダレイオスの第四年、即ち紀元前518年の9月キスリュウの事とされている。
そのうえ、この二年前のダレイオスの第二年11月シェバトにも、『万軍のYHWHよ、あなたは、いつまでエルサレムとユダの町々とを、あわれんで下さらないのですか。あなたはお怒りになって、すでに七十年になります』と天使が語っているのである。(1:12)

このように、ユダヤ人らの『七十年』には、帰還後の単なる時間経過だけでは解決することのない何事かが込められてはいないだろうか。

神殿はイスラエルの聖なる神が『その名を置く場所』であり、イザヤが語ったように寡婦であるシオンに夫たる神が戻られると云われ、『その時』にはシオンの子らも帰還していると預言されているのである。(イザヤ62:4/49:21)

だが、神殿再建以前の時代、ユダヤは街々に人が戻ってきたと言えるほどではなく、非常に閑散としていたことはさらに60年後のネヘミヤ記からさえ窺えるのである。

ダヴィドによる詩篇53番の最後にある『神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう。』の預言を含んだ句は、当時の帰還民の様子を描写するには大袈裟というべきであろう。

では、何を以ってエルサレムの荒廃が終わり、真の意味でエレミヤの『七十年』が満ちるのだろうか?



◆キュロスを右手を掴むYHWHからの観方

預言者イザヤは、その人物の起こる二世紀も前から「キュロス」と名指しでイスラエルの解放者としての働きを予告していた。つまり、キュロス大王はイスラエルの神YHWHの「メシア」、即ち「任命を受けた者」であった。
YHWHはキュロスの生まれる遥か以前にこう予告した。

『彼の右手を掴み、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする・・わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしはYHWHである。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。』(イザヤ45:1-5)

イスラエルの神YHWHは、その民イスラエルを約束の地に戻す強い意志を表明されている。それはイザヤだけを通して予告されたことではない。エレミヤは荒廃と回復についてこう記している。
 
『まことにイスラエルの神YHWHは、塁と剣で引き倒されるこの町の家々と、ユダの王たちの家々について、こう仰せられる。
彼らはカルデア人と戦おうとして出て行くが、彼らはわたしの怒りと憤りによって打ち殺された屍をその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のために、わたしがこの町から顔を隠したからだ。

見よ。わたしはこの街の傷を癒して治し、彼らを回復させて彼らに平安と真実を豊かに示す。
わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを建て直す。
わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らを浄め、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。』(エレミヤ33:1-8)

バビロン捕囚後にイスラエルが帰国し繁栄するというこれらの預言は「回復」また「慰め」の預言と呼ばれる。
それらの内容を観ると、そこには単にイスラエル諸部族が約束の地に帰還して住まうという以上の内容が込められているのである。

それはキュロスの出した勅令の内容からもそう言える。
 
『「ペルシアの王キュロスはこのように言う、天の神、YHWHは地上の国々を尽くわたしに賜り、ご自分の家をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。
あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、YHWHの家を復興せよ。この方はエルサレムにいます神であらせられる。
すべて生き残って、どこに宿っている者でも、その地の者は皆、金、銀、貨財、家畜をもって助け、そのほかにもエルサレムにある神の家のために真心より供え物を捧げるように」』(エズラ1:2-4)

イザヤにあるように、キュロス大王がYHWHのメシアであるなら、その働きに込められた神の意図はその勅令に反映されているに違いない。ましてエズラは『エレミヤにより告げられたYHWHの言葉を実現するために、YHWHはペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせたので、王は支配地域全体に勅令を出し、詔書にしてこう述べた。』としているのである。(エズラ1:1)

そうなると、ますますエレミヤの『七十年』の意味は単なる帰還を意味しないのである。

これについては、エレミヤの七十年をその書で知ったというダニエル自身もその認識を祈りの中で表しているが、次にそれを確認しよう。



◆ダニエルの観点

前述のように、ダニエルはメディア王統の方のクセルクセスの子であったというダレイオスのバビロン支配の第一年に、エレミヤの預言からエルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを知ったという。(ダニエル9:1)
キュロスによるバビロン征服がなされたことで、ユダ捕囚民にも状況も大きく変わり得るように見えたことであろう。
だが、この時にはパレスチナへの帰還を許す勅令はキュロスの第一年を待たねばならなかった。

高齢のダニエルは荒布をまとい、断食をして、頭には灰をかぶって魂を苦しめつつ、イスラエルの神YHWHに悔恨と赦しを乞う祈りをエルサレムに向かって申し述べる。
イスラエルが永きに亘り、律法を守らず、遣わされた預言者らを迫害し、神の勧告にも耳を傾けず、遂にモーセの警告した通りの酬いを刈り取ることになり、民はユダもイスラエルも他国に囚われとなり、その神殿は破壊され聖都エルサレムは人の住まない荒れ廃れたところとなり果て、人々のそしりともなったことについて、彼は神の処置の正しさを述べる。

しかし、そのエルサレムとその民との上には神の御名が称えられるので、ダニエルは神自らの名のゆえに再び御顔の光が照らすようにと願い出た。
そのとき彼は『あなたの御名のために遅らせないでください』とまで願い出ているのである。(ダニエル9:19)

これらの内容からすると、神自ら宣告された七十年が反故になってしまうことのないよう、ダニエルはバビロンからの解放が予告通りの時に起こり、捕囚民の帰還が実現するよう嘆願しているかに読めるかもしれない。

だが、ダニエルが念頭に置いていたのは、この祈りの言葉に示されているように、やはり民の帰還以上のもので、それは民を益することに勝る神の益であった。

彼は同じ祈りの中でこう願うのである。
『あなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください』『あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。』(ダニエル9:16-17)

ここに言い表されているのは、聖なる山シオンと聖なる処である神殿への熱烈な願いというほかない。やはり、七十年が経過さえすれば民が赦されて帰還し、民らが平和にパレスチナでの生活をするというようなものとは言い難い。新バビロニア帝国が終わったと喜び、解放が近い、などという希望もダニエルはまったく語ってはいない。

これに加えて、勅令の後にもバビロンに留まっていたダニエルは、キュロスの第三年までの間に自著ダニエル書をバビロン側で記しているのだが、書き終えるまでにエレミヤの『七十年』がどうなったかを一言さえ語っていない。
彼にエルサレムで仮の祭壇での祭祀が始まり、その翌年に神殿の礎石が置かれたという知らせが届いていないとはまず考えられない。もし、キュロスの第一年に民が帰還したことで、あれほど切実に祈ったことが叶えられたのであれば、大いに神を賛美しなかったろうか。

この点で傍証を与えているのが使徒時代の歴史家ヨセフスであり、その「アピオーンへの反駁」で『ネブカドネッツアルの統治十八年目[587]に我々の神殿は荒廃させられ(エレミヤは十九年[586]とする*)、五十年の間、忘れ去られた状態に置かれた』と記しており、キュロスによるバビロン征服で、シオン山上への神殿の再建の道が拓かれた時点が、神殿破壊から50年としているので、そこでダニエルの祈りの時期であり、キュロスの勅令があった前537年が里程標となっていることに注意を引いて、更に20年を要する。(アピオーン反駁1:21)*(列王二25:8/エレミヤ52:12)

しかし、ダニエルには、アリヤー開始の四年後『そなたの道を行け、ダニエルよ!』『終わりまでその道を行って休みに入り、定められた日の終りには立ち上って、自らの分を受けよ!』との言葉をもって終末の啓示が締め括られている。ダニエル書に『七十年』の件は、あの祈り以降は二度と出て来ない。『七十年』の終わりを語るのはより後代のエズラであり、むしろ、ダニエルには天使を介して『七十週』というより大規模な奥義が託されている。こうしてダニエル書が擱筆されているのであれば、キュロスの第三年の後、ほどなくしてダニエルの人生はバビロンで終わったであろう。(ダニエル12:9.13)

即ち、あの熱烈な祈りの四年後の彼の記述にその件が何も語られていないところには、『七十年』の終了が、やはり民の帰還だけを意味しないという観方を補強するのである。ダニエルの祈願の言葉は、確かにシオン山上の神殿の再建に関するものであったのだ。



◆アリヤーの実情

この祈りの二年後、王権はダレイオスからキュロスに移り、遂にユダとイスラエルの民に対して勅令が発せられることになる。それが前537年である。
なぜか、ダニエル書にはこのキュロスの勅令への言及がどこにもないのだが、前述のエズラ記、また同じくエズラの手になる歴代誌の最後の文章によってその内容を窺い知ることができる。

その勅令の趣旨に「民の解放」はない。つまり「お前たちの帰還を許す」ということではないのである。むしろメシアと予告されたキュロスの関心は更に高度であって、神YHWHの崇拝の復興にあり、そのための神殿再建なのである。
そうして、この勅令の発布により、大祭司エシュアと総督ゼルバベルの以後22年に亘る労苦が始まるのである。

シオンに上った有志の民は五万弱であり、大半のユダ捕囚民は住み慣れたバビロンに留まることを選んだ。移動しなかった民の中には高齢に達したダニエルも含まれる。ダニエルに与えられた啓示はキュロスの第三年を最後としているので、彼は神殿の再建までは生き長らえなかった。
それであるから、捕囚の民の皆がパレスチナを目指して帰還したわけではなく、イザヤが預言して言ったように『イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る』のであった。(イザヤ10:22)

実際に帰還した『残りの者』と預言されていた僅かな人々は、キュロスの第一年の勅令に応じてその年の秋のスッコートの祭りをエルサレムで祝うことができた。
すると、周囲の諸民族に不穏な気配があり、エシュアはその年の内に祭壇を築いて焼燔の犠牲を捧げ始めた。つまり、祭祀の一部である『常供の犠牲』は始めることができたのである。

しかし、聖所の香の祭壇や机での日毎、週毎、新月の捧げ物はできず、至聖所もないため年毎の贖罪を行うこともできないし行うべき年に三つの祭りも正しくは行えない。それでは律法の規定に従った祭祀を行ってはおらず、キュロスの命にも従えてはいないのである。

『残りの者』たちは、パレスチナ到着の翌春には神殿再建の手始めとして、定礎を行うことはできたのだが、周辺民族の反対運動が始まり、勅令から八年後にキュロス大王の崩御もあって、再建の業は頓挫し、やがて民も帰還本来の意義に無頓着となっていった。
祭祀再興のイニシアティヴはやはりキュロス大王にあったのであり、 アリヤーの途に就いたはずの帰還民団はこの点で受動的であったことがここに表れている。

預言者ハガイは往時の民の意識についてこう記している。
『この民はYHWHの家を建てる時はまだ来ない、と言っている』『この家が荒れ廃れているのに、あなたがたは鏡板を張った家に住んでいる時なのか。』(ハガイ1:2.4)

この預言が語られたのが、前522年にガウマタを退けて王となったヒュスペスタスの息子ダレイオスの治世第二年、即ち前520年の事とされている。(ハガイ1:1)従ってキュロス王の勅令から17年、第二神殿の定礎からも16年が経過しているにも関わらず、工事は途中で投げ出され、聖域は荒れるままに放置されていたことが暴露されている。
だが、二人の預言者の現れに動かされたゼルバベルとアリヤーの民は、諸国民に反対されながらも建てる業を再開しているが、それはやはりその年、ダレイオスの第二年であったことをエズラは記した。(エズラ4:24)

前述のベテルの民らが断食をいつまで続けたものかと受動的な態度で尋ねてきたのは、この二年後(前518年)のことになる。(ゼカリヤ7:1)

これらに鑑みるに、当時のアリヤーを行ったはずの帰還民にとって、『七十年』という期間の終りとは、神殿が再建されて祭祀が復興し、女シオンの『夫』たるYHWHが再びその聖なる御名をそこに置くことがその到達点であるという認識を有していたと云うことができるのである。

この観点から、エホヤキンら第二次捕囚となったユダの民へのエレミヤの、『YHWHはこう仰せられる。「バビロンでの七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。』という預言の言葉は、 流刑民たちの将来がまるで見えず、動揺している彼らへの慰めであり、彼らが流刑地で増え、その城市のために祈れという、囚われの長期化に備えさせるものでもあり、それが『七十年』という期間に亘ることを知らせて、彼らを安堵させる目的があったことが分かる。(エレミヤ29:10)

その『バビロンでの七十年』という期間が、どのように経過したかは歴史に記されるものとなってはいったが、それは人が字面を追うように、単に捕囚から帰還までの期間を指していたわけではなかったのである。神の言葉である『七十年』の真意は、やはり神の意図に従って理解されなくてはなるまい。

 

◆七十年の終点と起点

ダレイオスの第四年(前518年)、ハガイとゼカリヤの預言に鼓舞され、再び神殿再建に積極的に着手していたゼルバベルは、キュロスの寛容政策を踏襲する新王ダレイオスから承認の書簡を受ける。それは周辺諸民族の反対を打ち破るものであった。
反対する諸族が宮廷に問い合わせると、却ってメディアの都エクバタナから十九年前の勅令の記録が発見され、政権基盤の弱かったダレイオスは大王キュロスの勅令を継ぐことに国民への支持を求める意義を持つこともあってか、キュロスのようにエルサレム神殿の再建を認定する。(エズラ4:23-6:12)

ゼルバベルの前に立ちはだかった『山』のような諸国の反対も、ダレイオスの勅書によって『平坦にされる』。即ち、神殿再建がペルシアの王の旨となった以上、近隣諸民族の反論は許されなくなったのである。(ゼカリヤ4:7)

こうして、風に揺らいで弱り果て、芯にすがるばかりに消えかけていた燈火は、再びオリーヴ油を供給されてその炎を明るく燃え立たせ、豊かな輝きを取り戻したかのようになったといえよう。人々や状況を導いて神殿の再建に向かわせたのは、ここに於いて、もはや人間に功を帰するのは的外れである。

神YHWHは、ゼカリヤを通してこう言われる。
『此は、力によらず、勢いによらず、我が霊による也』
『ゼルバベルの手、この家の礎を据えたり、彼の手、是を成し終えん。』
(ゼカリヤ4:6・8)

その後、モリヤ山上の再建工事は順調に進んだらしく、ダレイオスの第六年のアダル3日*に遂に神殿は完成を見たとエズラは記す。工事の再開から4年目ということになる。
それはユダヤの陰暦であれば前516年の最後の月に相当することになるが、それならば、実にネブカドネッツァルによって第一の神殿を喪失した前586年から正しく70年目になる。*(グレゴリウス暦;前515年2月3日<水>)

明けて翌、紀元前515年の正月ニサンには神殿が献納され、次いで過越しが十四日に挙行され、続いて翌日から無酵母パンの祭りが七日間行われている。(出埃40:1-2/エズラ6:14-22)

こうして、律法に規定されたレヴィのすべての祭祀が復興をみる。ここにキュロスの勅令も遂に成し遂げられ、晴れがましくもダヴィドの血を引くシャルティエルの子にして総督のゼルバベルが、その半生を捧げた一大事業の重責をこうして果たすことができたのであった。ここに於いてこそ、キュロス大王はまさしく「メシア」であったというべきであろう。
 
そこにはかつてのように、聖所と至聖所が存在し、聖なる日毎、週毎、新月の捧げ物が可能となり、贖罪の日の儀式も行えるので、大祭司、祭司、民の贖罪の儀式も可能となった。年初の祭りの後、レヴィの祭司団24組がその相応しい順に従い担当に就いたことであろう。
まさに、その崇拝は70年の空白をもって預言の通りに再開されたのである。
ここに神YHWHの、その言葉を反故にせず万難を排して成し遂げる力を観ることができないだろうか。その律法祭儀の再開は、神殿の破壊から71年目のことであった。

ユダヤの繁栄は依然としてなお将来のことではあったが、こうしてシオンはイスラエルの聖なる神YHWHを再び迎えることができ、聖都として復興を遂げ、ダニエルが切に祈り求めてやまなかった昔日の輝けるイェルシャライムは聖なる光を取り戻したということができる。そこでは神殿の存在によって、遂にモーセの律法が民の生活から祭祀に至るまで施行可能となったのであり、イスラエルは神への正式な崇拝を七十年間、彼らの罪科のゆえに中断を余儀なくされたが、YHWHの言葉の通りに見事に契約として回復したのであった。(レヴィ26:44-45)

こうして彼らは仕えるべき本来の主人を再び見出すことができたのである。異邦の影響を脱することにおいて、彼らが膝を屈するのはもはやバビロンの王ではなくなったと言えるのはこの時なのであろう。まさしくユダの民について、歴代史略第二が他国に支配されることにより『彼らがわたしに仕えることと、地の諸王に仕えることとの違いを知るためである』との預言者の言葉を記す通りである。(12:8)

確かに、他ならぬエレミヤ自身が預言してこう述べているのである。
『あなたがたがわたしを捨てて、自分の地で異なる神々に仕えたように、あなたがたは自分のものでない地で異邦の人に仕えるようになる』 (エレミヤ5:19)
この言葉は、まさしくエレミヤの預言した『七十年の間バビロンの王に仕える』* との件の言葉を補足しており、単に政治上の支配と被支配の関係がエレミヤの七十年に込められていたのではないことを指し示しているのである。まして、イスラエルはその後もペルシアの宗主権の内にあり、独立を得たわけでもない。むしろ、神殿祭祀の復興によってこそ、バビロンからもたらされた障碍は初めて過去のものとなったのである。

ゆえに、エレミヤの預言にあるようなイスラエルの神が『バビロンの王に言い開きを求める』 とは、この再建と祭祀の再興を以って、成し遂げられたと観ることができよう。それは何もバビロンの王朝の瓦解がその時に起こることを必要とするわけではない。むしろ、バビロンの王が行った神殿破壊が、この復興によって責めを負い、著しい悪評に貶められることを示唆していたと預言を読むことができるであろう。*

エレミヤの預言の言葉の中に、この点を例証するものがある。
『バビロンの国を逃れ、脱出した人々の声がする。我々の神、YHWHの復讐を、その神殿への報復を彼らはシオンでふれ告げる。』(エレミヤ50:28)

即ち、バビロニア帝国が既に去っていたとは言え、真に神殿の破壊と蹂躙への責めは、その再建を以って問われるという意味が『神殿への報復』という言葉に見られ、その『報復』はエルサレム神殿が他ならぬシオン山上に於いて再び現れることにより、ネブカドネッツァルの咎がいよいよ責められると捉えることは充分に理に適ったことであろう。

こうしてエレミヤの七十年を見直すと、それは単にイスラエルが他国の王に支配されていた期間を指してはおらず、神殿の再建によって神YHWHを民の主人として再び迎え入れ、律法祭祀によってその前に跪拝するまでを描いていたことが見て取れるではないか。更に捕囚以前のレハベアムの時代に、預言者シェマヤを通して神はユダ民族がエジプトのファラオ、シシャクの覇権に屈することになることを予告し、『これは彼らがわたしに仕えることと地の諸王国に仕えることとの違いを知るためである』と語らせている。(歴代第二12:8)
まして、独立を失い約束の地を追われた民であれば、その教訓は長く続く痛みとなって以後彼らを苛んだに違いない。

この点では、ユダ王国周辺の諸族についても同じように当てはまる。
なぜなら、七十年を告げたその同じエレミヤ書の中で、モアブの神ケモシュとアンモンの神マルコムもそれぞれに『流刑になる』と確かに記しているのであり、これら神々は偶像をバビロンに持ち去られてエルサレム神殿の什器類と同じようにバビロンに囚われていたのだが、共にキュロスの宗教政策の寛容さに与っていたであろう。彼は各国の神々をその在るべき場所に戻したことが知られているからである。(エレミヤ48:7/49:3)

預言の言葉の表面を近視眼的に字句通りに追っていれば、こうした事情は一向視野に入ってはこないであろう。 
ただイスラエルには、契約の箱とウリム ヴェ トンミムが戻らなかったが、エダーシェイムによると、至聖所には箱の場所に『礎石』と呼ばれ、神殿の礎石とは異なる岩が置かれていたとのことである。贖罪の日に、大祭司はこの岩の前に牛の血を捧げることになった。
契約の箱の消失は人事を超えることであり、誰であれ、もう一度作ることは憚られたことであろう。だが、その喪失は、ユダヤ人をしてエレミヤに予告された『新しい契約』への展望をもたらすことに向けられてもいった。 (エレミヤ3:16/31:31)⇒「契約の箱 アーロン ハ ヴェリート」

もちろん、人間による観察結果である考古学にまったく間違いがないとはいえないが、オリエント史のこの時代の資料は、それぞれの年毎のものが出土しており、ベロッソスやプトレマイオスなどは言うに及ばず、多数の粘土板が次々に共通の年代認識を明らかにする中で、更に動かし難い日月食の記録も添えられ、それはサロス周期の分析と合致するのであろう。この時代は、オリエント考古学の中でも相当に明解にされている時代であるという。

歴史資料が増えるに従い、裏付けが進む場合、それが「信仰」を形作るわけではないにしても、それらの強固な論拠を前にして誰であれ異論を唱える場合、その挙証責任が生じるのは当然のことである。もし、証拠の揃っている考古学に抗う理由が「信仰」だと云うなら、その人の「信仰」というものの根拠を初めから一つ一つ検証し直すことで、有無を言わせぬ盲信を避け、理性に基いた自己の判断を確認できるであろう。

そこでダレイオスの第6年、即ち前516年から七十年を逆算すると、やはり前586年という年代になるが、それがエルサレムと神殿が新バビロニア帝国によって破壊された年であると考古学は指し示す。即ち、聖書も証しするように、ネブカドネッザルⅡ世の治世の第19年目とされている五月の夏に神殿破壊の起こった年であったのだ。(列王第二25:8-10)

この正確な七十年の祭祀の空白は、『御名のために遅れないように』と願ったダニエルの祈りの誠実さ真摯さへの全能者YHWHの見事な回答ということなのであろう。それは確かに『七十年』であったことになる。時至って遣わされた二人の預言者ハガイとゼカリヤが、最後の再建の業を促したので『七十年』に間に合うことを助けている。 しかし、その真の功は、キュロスⅡ世を含めてどんな人に帰せられるものでもなく、神YHWHの御旨に導かれるものであったからこそ、その時をだれも導き規定することはできなかったと言える。

こうしてYHWHは『七十年』に則してあらゆる事を推し進め、ペルシアの勅命から22年後、ユダヤの民に神殿祭祀を復興させて、指名されたメシアとしてのキュロス大王の役割も成し遂げさせたとみることができる。
神YHWHは確かにキュロスの右手を執られ、神の民としてのイスラエルを名実ともに取り戻したと言えるのである。新たな神殿が以前のものに見劣りするにせよ、それはユダヤ人への教訓ともなり、以後は七十年の間に忘れられた律法の再教育から始めて、民の間で神との契約が重視されてゆく。
そこで率先したのがまずエズラのような書士であり、やがて律法学者らとそれに従うパリサイ派も現れて、律法遵守がユダヤ人の良識を形作ってゆくことになる。このように神殿祭祀の再開があってこそ律法の全てが守られる条件を満たしたのであり、そこでメシアも完全無欠のユダヤ教徒として『律法を成就する』環境が与えられることになる。もちろん捕囚からの帰還だけがこれらの回復をもたらしたわけではない。

従って、エレミヤの語った『七十年』をその語られた言葉のままに、バビロン王の頸木を解かれた民の帰還と定住だけに当てはめようとすれば、その『七十年』というパズルのピースはどこにもぴったりと置く場所を見出さないことであろう。
 
ある宗派のように『七十年』の起点を、前607年であると言い張って強引に押し込めようとすれば、整然と収まっているほかのパズルのピースを押し退けて全体を混乱させるに違いないが、教導者の言いなりになって実際には神の言葉を深く省みて確認することもなく、その「信仰」によって無理に信じようと努める人々がいるのは心が痛む。しかも、その動機はどこにあるのだろうか。自分の利益か、神の意志か?(ヨハネ7:16-18)

いずれにせよ、この件もひとつの予型であり、エレミヤの預言した『七十年』に於いては、エルサレムに聖所と至聖所が再建されることになったのだが、更にダニエルに新たに告げられた『七十週』では、その成就の場は人の及ばぬ天の領域となり、『聖の聖なる処』即ち天界の至聖所に『油を注ぐ』という、地上の至聖所について予告したエレミヤを超えて、謂わば七倍も重要な事柄を指し示している。

それは恰もキリストの初臨が再臨の予型、即ち模型であるように、エレミヤとダニエルという、この両者の預言が揃うことで、神YHWHの終末に関わる偉大な奥義の概要、地上の神殿祭祀を遥かに超える天界の祭司制度の開始をいよいよ悟る入口に我々は立つことになるのである。





   ©2015 林 義平



 ⇒ 「バビロン捕囚期の年表」 
 ⇒ 「指名されたメシア キュロス
 ⇒ 「アリヤー・ツィオンの残りの者
 ⇒ 「ダニエルの『七十週』 全能者の描く巨大構造


*確かに、エレミヤ25章にはユダだけでなく、周辺の『諸国の民も七十年の間バビロンの王に仕える』と預言しているのだが、これは『七十年の後、カルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする』と続くことからすると、この時代以降もバビロンは栄えを続けているので、これは終末の『大いなるバビロン』への二重の意味を含んでいるのであろう。『大いなるバビロン』から解かれるのは、聖徒だけでも信徒だけでもないと思われる。新たに『わたしの民』と神に呼び掛けれれる終末の人々であろう。

なお、天の神殿の建立に関わるダニエルの『七十週』は、新しい『契約の使者』であるキリストの再臨を待っており、依然として最後の半週が終了してはいない。キリストは律法契約の使者ではなく、『新しい契約』に預かる聖徒を、終末に再び聖霊の注ぎによって出現させるからである。



この記事はこの書籍に採録
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