quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

千年王国

千年期 その地上社会と新しいエルサレム



◆「千年期」とは
キリスト教には「千年期説」とされる特有の教えがある。
それは、聖書中でもヨハネ黙示録第20章にのみ記されているところの、キリストと聖徒らが地上を『千年間支配する』との句に根拠を置き、終末に再臨するキリストがもたらす千年の地上支配を信奉する教説のことであり、その起源は使徒ヨハネ直後の小アジアの弟子らにまで辿ることができる。まさに小アジアは使徒ヨハネが晩年を過ごした場所である。

確かに、『第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する』との句は、黙示録の第20章6節に読まれる通りに存在している。
だが、聖書中で千年期説の根拠となる句は、このヨハネ黙示録にのみ存在しているため、キリスト教界から排斥され易いところがあった。

やはり、東西教会が分離するよりずっと以前の西暦431年に開催されたエフェソス公会議に於いて、早くも千年期説は「異端信仰」として裁かれている。そこでキリスト教界に於ける「千年期説」の立場は大きく損なわれ、その趨勢は今日にまで及んでいるので、千年期説信奉者を表す「ミレニアニスト」や「キリアスト」と言えば、今日のキリスト教界に在って軽蔑される形勢は余り変わらない。

エフェソス会議の以前から「聖アウグスティヌス」が唱えていたように、イエスが教えた『王国』は、初臨でのキリストの到来と共に始まっていると考えられ、それは「教会」の中で進行中であると考えるのが「正統信仰」とされたのであった。まさしく「千年王国」よりもローマ帝国を重んじたアウグスティヌスは「無千年期説」の旗頭となった。彼はそのために二百年も先達のエイレナイオスが著した千年期説を唱える「異端反駁」の写本の一部を破棄し、「無かった事」にまでしていたのである。

だが、このエイレナイオスは、黙示録を著した使徒ヨハネの教えを受け継ぐ小アジア出身の初期ギリシア教父であり、如何にアウグスティヌスの名声が大きかろうと、彼が後のラテン教父である以上、この第二世紀最大の教え手エイレナイオスを尊重するべきであったことは明白である。
では、我々は教父アウグスティヌスとヨハネ黙示録のどちらに信を置くだろうか。

ヨハネ黙示録については、キリスト教界にとって如何に不可解な書であろうとも、その聖典性を奪い去るには今日まで至っていない。
従って、「千年期説」は歴史上、特に宗教改革期以後に度々に現れてきた。
だが、この「千年期説」はオカルト的好奇心を煽る方向からの印象が否めず、そのアプローチはシモン・マグス的であった脆弱性が確かにある。

そこで良識的な人々は、そうした精神性に欠けたアプローチに潜む悪霊的性質を直感的に感じ取って嫌悪し、旧来の安穏とした「正統信仰」に留まり、ヨハネ黙示録に有る『彼らはキリストと共に千年の間支配する』との記述を無視、乃至実際のものではないとの解釈に納得してきたのであった。いや、今日の教会員の中には、そのような記述があることすら知らない人々も少なくないことであろう。
しかし、だからと言って『この預言の巻物の言葉から何かを取り去る者がいれば・・』と警告する黙示録に千年期の記述が無かったとするべき理由にはなり得ない。

実際、千年期の地上の人々の素晴らしい幸福に関する記述が聖書中に多かったなら、こうした事情はいくらか変わったものになっていたかも知れない。「天国の至福」の解釈も薄らいだであろう。
その点、千年支配の中での地上社会の様子を伝える聖書中の文章はけっして多くなく、稀なのである。

その理由として考えられるのは、人にとって願望が先立ち「ご利益信仰」に陥らせるのを、神ご自身が望まないためであろう。一度そうなってしまえば、人は自分の益のために神を信仰し始めるに違いない。残念だが「人」とは、皆が揃ってそこまでさもしい存在なのである。そしてキリスト教界は、やはりそうなってしまった。
だが、全能の神にしてみれば、今直ちに人類に至福を与える能力がないわけもなく、この世の現状がそうなっていないからには余程の事情があってのことである。つまり、人の側に『罪』という重い問題がある。

それゆえ千年期の到来する以前の「終末」に人類の裁きがあり、それを通過できないとしたら、幸福の到来の記述がどんなに望ましいもので、どれほど多くあったとしてもまるで意味を成さないのであるから、むしろ、終末をどう迎えるかという事柄が人にとってよほど重要であり、やはり聖書の文章の大半は、神の裁きに於ける倫理上の教訓で満ちている。

そもそも「千年期」とは、キリストの王国が支配する期間であり、悪と苦難を誰もが避けられない『この世』を過ぎ去らせて後の、生ける人類の贖罪の行われる十世紀間を意味する。
この千年は以下にみるように過渡期であり、『支配』がある以上は、そこに生きる人類からアダム由来の『罪』が全く去っているとは言い難い。
この千年期の人々も秩序を守るための何らかの「法」を必要としており、それを有効とさせる「権力」という強制力も当然に要請される。

しかし、その「権力」も終わりを迎える時が来る。それは人類がキリストの贖罪によって『キリストの丈の高さに達し』倫理上の完全に至って、「支配」というものを必要としなくなった千年期の後のある時を指している。その時には「権力」ばかりか「法」の必要さえ無い。『愛は法を全うする』からである。(エフェソス4:13/ローマ13:10)

その時について使徒パウロはこう言う。
『それから、終局が来る。その時、キリストはあらゆる支配、あらゆる権威と勢力を無力にして、父なる神に国を引き渡される。』そしてそれが『キリストはすべての敵をその足の下に置くまで、支配する』という詩編第110の句の意味であることを指摘したうえで『最後の敵として、死が無に帰せしめられる』としている。(コリント第一15:24-26)
では、そこに至るまでの権力による支配の存在する千年期の人類社会とは今日の世と然程変わらないのだろうか。
この期間についての数少ない聖書中の記述としては、まずイザヤ書の第65章、及び第11章が挙げられる。


◆新しい地に住む人々
まず直接的な記述が多めの第65章に目を向けよう。

その章のはじめはこう書かれている。
『わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と』。
使徒パウロはローマ書でこれを引用し、『わたしを求めなかった者』について聖徒として接木された諸国民に適用している。また、聖徒への道を自ら断ったユダヤ人らについても同じくこのイザヤの句を適用して『よからぬ道に歩み、自分の思いに従うところの背ける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた』とのイザヤ65章の2節をも引用して、神を探求する異邦人と悪に凝り固まるユダヤ人とを対照させている。これは後にメシアに信仰を働かせなかった大半のユダヤ人の上に成就することになった。

そこでは確かに、イザヤのその後の文章には『葡萄の房』の比喩について『わたしはヤコブから子孫を出し、ユダから我が山々を受け継ぐべき者を出す。わたしが選んだ者はこれを受け継ぎ、我が下僕らはそこに住む。』とあり、彼らが聖徒を指しており、その住む『山々』が象徴の「信徒ら」を表していることは理解できる。

但し、17節以降で様子は異なっている。
なぜなら、『見よ、わたしは新しい天と新しい地とを創造する。以前の事は覚えられることなく、心に思い起すことはない』と続くところから、『天の王国』だけを語るだけでなく、その『新しい天』の下での『新しい地』についても言及する下地をこの句に設けているからである。
それから『エルサレム』と『わたしの民』との対照も語られる。

そして人の営みがその後に語られている。
『わずか数日で死ぬ嬰児と、己が命の日を満たさない老人とは、もはやその中にない。百歳で死ぬ者もなお若い者とせられ、百歳で死ぬ者でさえ、呪われた罪人とされる。
彼らは家を建ててそこに住み、葡萄畑を作ってその実を食べる。彼らが建てる所に、他人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの者が食べない。
我が民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手の業を永く楽しむからである。彼らの勤労は無駄にならず、その生むところの子らは災いを被らない。彼らはYHWHに祝福された者の末裔であって、その子らも共に居るからである。
彼らが呼ばない前に、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。
狼と小羊とは共に食らい、獅子は牛のように藁を食らい、蛇はちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでも損なうことなく、破ることはない」とYHWHは言われる。』(イザヤ65:20-25)

これらの句によれば、その世界が如何に住みやすいとは言え、やはり過渡期であることを表している。
なぜなら、このイザヤが描く世界には依然として「死」があるからである。
しかし黙示録は『死とハデスが火の湖に投げ込まれる』千年期の後の事態を記しており、『火の湖とは第二の死を表している』とも告げているのである。『第二の死』とは、もはや復活のない永遠の滅びを指しているおり、それはパウロのような聖なる者についても『死は永久に飲み込まれる』とイザヤを引用して言う通りである。即ち、「死」というものが「墓」(ハデス)と共に存在しなくなることを表している。(黙示20:14-15)

だが上記のイザヤ65章には『百歳で若者として死ぬ者』が有り、しかも『呪われた者』とされるのである。
これはこの社会に生きる人々が依然として倫理の完全性に到達しておらず、象徴的にせよ『永遠の命の木』からその『葉』はともかくも「実」は食していない状態を暗示している。(黙示録22:2.14)

他方でメシア=キリストは『命の創始者』[αρχηγον της ζωης]と呼ばれてもいる。(使徒3:15)
それは、地上で死に至るまで試された結果、律法を尽く全うして倫理の完全に到達されたことにより、『ただ一人不滅性を持つ』に至り、その完全性を以て、ほかのあらゆる知的創造物を『天にあるものも、地にあるものも一つに集める』その要となったことによるのであり、イザヤがその第九章で語るようにメシアは『とこしえの父』、つまり永遠の命の供給者となったのである。(ヘブライ2:10/テモテ第一6:16/フィリピ2:8-11/イザヤ9:6)

だが聖書には、律法祭祀のように『神の王国』が具体的に言ってどう贖罪を行うかの記述は見出せない。
いずれにせよ、千年王国で暮らす人々の贖罪は進行中であるに違いなく、死を経ていないことによる『罪の報い』を得ていないところの終末を通過してきた人々には、依然としてアダム由来の罪』の影響は赦されても、時に自ら敢えて悪に走ることもあえい、そこで死も起こるのであろう。

それでも千年期の地上は、今日『この世』と呼ばれるこの社会とは著しい違いがあることは明らかである。
上記のイザヤ65章にあるように、その寿命は『樹木のようになり』、各々が自分の家をそれぞれに建て、その働きの成果はその人のものである。
搾取も重税もなく、数百歳に及ぶ寿命が病気や老化に苛まされるとも考えられない。生まれる子らは損なわれず、自然災害や事故、ましてや犯罪被害なども無いのであろう。
今日の世に生きる我々からすれば、それだけでも「至福」と言っても過言でないほどであるが、神の人に対する意図はこれらを上回るものであることは千年の終わった後の、まったく『罪』のない世界が有ることへの記述に示されている。

それこそが神の意志の行きわたった「至福」の名に値する世界であろうが、今日の我々には、どうにも想像さえつかないし、神が『甚だ良かりき』と言われたからには、我々の考えも及ばないほどの途轍もない完美な世界なのであろう。即ち、神の創造当初の企図に復帰した世界であり、そうして神は「創造の七日」を完了されることであろう。


◆人の誕生が続く時代
だが、ここでは「千年期」に話を戻そう。
イザヤ書にはもう一か所『神の王国』の地上を描写している記述かある。
それが第11章であり、このようにある。
『狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜は共にいて、小さい童子に導かれ、雌牛と熊とは食物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、獅子は牛のように藁を食らい、乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、乳離れの子は手を蝮の穴に入れる。彼らは我が聖なる山のどこにおいても損なうことなく、やぶることがない。水が海を覆っているように、YHWHを知る知識が地に満ちるからである。』

この句が千年王国を指しているのか、その後の至福の世界を描いているのか分からないとの意見もあろうが、これが千年期であると考えられるのは、童子、乳飲み子、乳離れした子の存在である。

なぜならば、人間の誕生が継続していることが明らかであり、千年期後の完全な世界とは言えない理由がそこにある。
黙示録が明かすように、千年期の後には諸世紀の人々の復活が起こるとされている。
これは言うなれば、聖徒らの『第一の復活』に対する「第二の復活」であり、あらゆる死者が『墓から出てくる』とされるものである。これはキリストの声を聞いて聖徒らが墓から出てきて生前の行いを裁かれる復活とは異なるものである。

当然ながら、後の復活に与る無数の人々は死を経過することで『罪の報い』を受けており、堕罪以前のアダムの状態、『罪』の無い倫理的状態で地上に現れてくるのであろうが、やはりこの人々も神と人との『愛』という絆を選択し、『永遠の命の木』から食するに値する者か否かを試される必要がある。
そこで「中傷者」(ディアボロズ)である悪魔も、千年の拘禁から解かれて人々に誘惑を仕掛ける「必要」があると言える。

神は『すべてのものを自らの目的のために創造された。邪悪な者をさえ悪しき日のために』という句は、例え自発心によってひとりの天使が悪魔となったにせよ、『邪悪なる者は義なる者の代価、不信実に振舞う者は廉直な者に取って代わる』との句と共に、捕えておいた悪魔をさえ有用に再度使役する創造神の全能性を明かしているというべきである。(箴言16:4/21:18)

従って、千年期後の裁きは最終的なものに違いなく、すべての人が試されて後に、いよいよ神は創造の業を完遂し、現れるべきすべての魂たる人々が永遠に生きるための『愛』の理由を得て、神と共に歩むに至るのは、まさにその時である。
だからこそ、『地に満ちよ』との人間に対する下命もその働きを成し終え、それ以後は新たな人の誕生がないと結論すべき理由がある。
もし仮にも、新たな人の誕生があるならば、その人に対しても永遠に生かす為の試みが必要になるが、その試みのために中傷し、誘惑を仕掛ける器となる悪魔は、その以前に永遠の滅びの中に去っている。思えば、そのような中傷そのものが完全な魂だけの時代に存在し得ない道理もあろう。

従って、千年期も終わりに近づくと、あるいは最後の裁きの前までに、人の新たな誕生は無くなると結論できることになるのである。

更に、イザヤ第11章の動物と幼児の記述が千年期を指していると捉えるべき理由に、この預言が書かれた時の政治情勢が挙げられる。
イザヤはユダの王ウジヤからヒゼキヤの四代の王の時代に霊感を受けて預言したと自己紹介をしており、当該の第11章はアハズ王の16年間の治世中にあり、そのイザヤの記述は、この王がイスラエル王国とシリア王国の連合した攻勢から逃れるべく、既にアッシリアに多くの貢物をして敵の背後からの攻撃を依頼してしまっていた。そして神に頼らないその目論見は成功を見るのである。
だが、これは神の目に良いことではなかったので、イザヤはこれを咎める預言を告げているのが、それがこの第11章の背景にある。

そこで注目すべきは、覇権国として台頭しつつあるアッシリアが、イスラエルとシリアの連合軍を駆逐するだけでは止まらず、ユダ王国にも攻撃の矛先を向けるという先見であり、それはイスラエル王国を滅亡させた後、アッシリア王セナケリブの時に現実となるのである。

しかし、アッシリアも神の目からすれば、イスラエル王国の悪を罰する道具でしかなく、エルサレムのすぐ近くにまでその軍が迫ろうとも、神YHWHは『大枝を切り落とすかのように』その勢いを断ってしまわれるとイザヤを通して言われるのであった。
そこで『エッサイの切り株から』『実をよく結ぶ新芽』が生え出ると語られるのだが、これは明らかにメシアを指している。

なぜなら、『彼はYHWHを恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって裁きを為さず、その耳の聞くところによって定めを為さず、正義をもって貧しい者を裁き、公平をもって国の内の柔和な者のために定めを成し、その口の鞭をもって国を撃ち、その唇の息をもって悪しき者を誅す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる』と語られ、それから先の動物と幼児の平和な描写が続くのである。

従って、イザヤ11章の記述の状況からすれば、メシアの到来によるアッシリアからの解放を告げているのであり、これは終末のアッシリア、即ちダニエルによって言われた『北の王』の恫喝からの解放にこそ期待されるべきものであろう。
その予型は、アハズを継いだヒゼキヤ王の時に、セナケリブに率いられたアッシリア軍の壊滅となって成就した。それはイザヤ書の第37章にも、列王記や歴代誌略にも記されている通りである。
そこで終末のアッシリアである『北の王』の脅威に曝され、そこから保護されるのは、聖なる祭司の民『聖徒ら』ではなく、『シオン』を構成する『信徒ら』の集団である。

キリスト・イエスはこの事態の発生を予告して『あなたがたは戦争や戦争の噂を耳にするであろうが、慄かないようにせよ』と言われ『これらは起こるべきことではあるが、終わりはまだ来ない』と語られたのである。これは同士討ちで終息する所謂「ハルマゲドンの戦い」を指すものではなく、突然に軍が壊滅してしまうという、それ以前の別の事態の発生を指している。即ち、ハルマゲドンや大患難以前に起きる『シオン』の神の民の危機である。

そうであれば、『聖徒』は地上を去っており、『神の民』と呼ばれ得るものは『シオン』とそこに集う信仰を懐いた人々以外に敵は目標を持てない。

従って、以上の事情からもイザヤ第11章の幸福な描写は、『北の王』の攻勢が失敗に終わった後の『新芽』たるメシアの統治、即ち「千年期」の支配の様子と言えるのである。



◆贖罪の進行途中に在って
そこでイザヤ書の二つの記述は共に「千年期」の地上を描くものであり、なお「死」というものがあり得ることが分かるのである。
その「死」とは『呪われた罪人とされる』の句に示されるように、終末で聖霊の言葉に信仰を置いた人々が、それまでの世で経験したこともないような優れた社会に住みながらも、なお離れ落ちる危険性が皆無ではないことを教えるものである。
『悪しき者は恵まれても、なお正義を学ばず、正直な地にあっても不義を行い、YHWHの威光を仰ぐことをしない』とイザヤが述べている。(イザヤ26:10)
千年期であっても、そのような間違いの起こる原因のひとつには、終末で大患難を生き残る人々への裁きが相当に寛容であることが考えられる。

キリストがご自分の犠牲について『モーセが荒野で蛇を掲げたように』と語られ、ご自分を処刑する兵士らに執り成しの祈りをなさっていたように、『世を裁くためではなく、救うために来た』と言われたものである。
モーセに、延いては神に不平を鳴らした荒野のイスラエルの民も、毒蛇の害を免れることには、掲げられた銅の蛇を眺めるだけという簡単さや寛大さがあった。
終末での大患難の渦中に在っても、キリストの犠牲に信仰を抱くのであれば、おそらくはその最後の災厄である疫病から逃れられることであろう。

キリストがご自分に釘を打ち込むなどして磔刑に処した兵士らに執り成しを祈ったからには、その寛大な赦しは聖徒らを迫害し、終末に『聖なる都市を踏みにじる』反対者にしても信仰を懐く限り変わるところがないのであろう。その中からでさえ『この人は確かに神の子であった』と語り、メシア信仰を示した百卒長のような人々も現れることであろう。

やはり黙示録には、聖所の外側の庭、即ち「異邦人の中庭」を『測ってはならない』とある。そこは諸国民を入れる領域であり、聖徒らの要件と異なり、人数に制限がないばかりか、規準に縛るべきでない。例え、彼らが聖徒らの宣教機関中の42か月の間、ずっと迫害し続けていたとしてもである。(黙示11:2)

このように、言わば「緩い」裁きが終末に為される理由には、『この世』というものが余りにも神から遠く隔たっており、『ヤハよ、もし、あなたの目を止められるものが咎であるなら、YHWHよ、いったい誰が立ち得ましょうか』と詩編の述べる通りに、人類社会一般は罪深いからであり、そこには無知や誤解また慣習や強制あってのことでもある。それをそのまま裁くには無慈悲なことになってしまうであろう。それでは『悪人の死を喜ばず』と言われる神の意志にも反することであろう。(詩編130:3/エゼキエル18:23)

そうして広くされた救いは、『その道が狭められており、それを見出す者は少ない』また『入ろうとしながら、入れない者は多い』という聖徒の裁きとは対照的に寛容な結果をもたらすことになるのである。

そのためか千年期に入ってから、自ら望んで罪に走る者が出ないかどうかは難しいところなのであろう。
だが、そうだからと言って、誰であれ忠節な愛から抜け落ちることを自分に許すことはまったく慎むべきことにあるに違いなく、それは今日にあって信じる者となった以上は同じことでもあろう。『信徒』とは、信じているだけでなく、自分が信頼に値する者であることを示すという意味も有しているのであり、それはギリシア語(ピストス)でもヘブライ語(マーミニーム)でも変わらない。

「信仰」とは、揺れ動いているものを指さず、深い内奥から湧き上がるものであり、原動力となるものは『愛』である。それゆえ使徒パウロも『重要なのは、愛によって働く信仰である』として、愛「アガペー」が信仰の動機であるべきことを述べている。ヘブライ語の『愛』は「ヘセド」であり、これも「忠節で不変のもの」を含意しているのであり、明らかに信仰の対象や仲間を変節して裏切るようなものではあり得ない。(ガラテア5:6)

終末に於ける裁きの間に、信仰を働かせて神の側に立ち、救いに至ったとしても、その信仰はどれほどのもので、その後も育てられるか否か、これは千年期に於いての重要な課題となるのであり、特に大患難の終局間際で転向してくる人々には軽視できないことであるに違いない。



◆新しいエルサレム
さて、イザヤ書第65章からは、やはり黙示録との関連に於いて明らかになることが有る。
それは黙示録第21章に書かれている『聖なる都市、新しいエルサレム』が何を指しているかについてである。

イザヤ書第65章の少し前から見てゆくと、そこにはユダとイスラエルの背徳的な宗教事情が語られており、神YHWHはひねもす彼らに手を差し伸べていたにも関わらず、異教の崇拝を止めないことについて『強情な民』であることを嘆き、またその酬いを刈り取らせることを警告している。

その一方で、神は『わたしを求めなかった者に尋ね出され、わたしを探さなかった者に見い出された。わたしの名を呼ばなかった国民に「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と言った』とある。
加えて『わたしを尋ね求めたわたしの民のためにシャロンは羊の群れの牧草地となり、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる』とも言われる。

これは、契約に在ったヤコブ、つまりイスラエル民族の強情さ不遜さと対になって語られており、神を崇拝すると口先では言いながら、実際には異教に堕した崇拝に固執する古来の民への糾弾と、契約になかったものの、真の神を捜し出した人々に対する神の善意を語るものである。

これらの人々について示唆する一言も、こう加えられている。
『地で自らを祝福する者は真実の神によって自らを祝福し、地で誓いの言葉を述べる者は真実の神によって誓う。』
これはまさしく、かつてアブラハムに語られた『アブラハムは必ず大強な国民となって、地のあらゆる氏族が彼によって自らを祝福する』との、彼の子孫への約束を指し示している。(イザヤ65:16/創世記22:18)

即ち、アブラハムの裔である『祭司の王国、聖なる国民』となるキリストの聖徒らによって、彼らがキリストと共に『天の王国』を構成し、地の民に贖罪を行い、支配を行うその祝福に自ら信仰を懐いて入ることを言うのであり、そうであれば、このイザヤ65章の続く部分での「樹木のような寿命」や「自分の業の報いを存分に受ける」ことなどの祝福は、明らかに『アブラハムの裔』以外の『神の民』のものであるに違いない。

そして、これらの祝福を描くイザヤの句の前には、恰も黙示録を意識したかのようにこう書かれる。
『見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。以前の事は覚えられることなく、心に思い起すこともない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない』。

こうして千年期の祝福をもたらすことに「エルサレムの建設」が関わっている。
それは古代のシュメールに於いて、反抗者ニムロデが建設して以来始まった、繁華ながら俗悪で喧噪に満ちるような『この世』の象徴としての都市ではない。
遊牧生活のアブラハムが待ち望んだ『神が設計し建てられる堅固な礎を持つ城市』であり、これは聖なるものである。 それであるから、パウロは聖徒らを代表して『わたしたちは、ここ(地上)に城市を持っておらず、来るべきものを切に求めている』とも言っているのである。(ヘブライ10:9-10/13:14)

そして黙示録は、『聖なる城市エルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて天から降ってくるのを見た』と言う。(黙示録21:2)
即ち、夫とはメシア=キリストであり、共になる花嫁とは『あなたがたを純潔な処女として、ただ一人の男子キリストに捧げる』とした使徒パウロの言葉に明らかで、それはキリストとの『新しい契約』に与った『聖なる者ら』にほかならない(コリント第二11:2)

その結果は『人の目からすべての涙が拭い取られる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも苦痛もない。以前のものは過ぎ去ったのだ』との黙示録の言葉に現れている。
ここに『死もなく』というのは、裁かれることが無く、まったく死というものが無いというのではなく、今日的な事情が過ぎ去り、いずれは老いて死に至る定めからは解かれることを言うのであろう。
なぜなら、もとより千年期がそれ以前の『この世』と異なり「樹木のような寿命」をもたらすのであれば、そこに生きる人々は、一生の短く、また老化してゆく空しく限られた生涯から解放されることも大きな祝福である。

この『新しいエルサレム』という聖なる城市は、天からのものであり、天界のキリストと聖徒らで造られる以上、もはや地の諸国民に踏みにじられるようなものではなく、その超越性は地上に模倣を許さないほどのものである。

こうして、聖書中に数少ない千年期に関するイザヤ書にある二つの喜ばしい場面から、『神の王国』の統治し贖罪する世界の様子と、それをもたらす政祭の中央となるダヴィドの城市、黙示録に記された聖なる『新しいエルサレム』が何を指しているかを知る手がかりを得ることができるのである。
もちろん、キリスト教界に蔓延している「天国と地獄」などの異教由来の幼稚な教えなどには僅かな足場さえここに存在せず、「聖」アウグスティヌスの無千年期も聖書を無視した謬説以上のものでもない。

このように悠久の時に亘る神の偉大な人類救済の業に対して、今からでさえ信仰を働かせ、その意義の重さを悟れる人は真に幸いである。





   ©2020 林 義平







神の王国



キリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒にこれが曖昧であるのは驚くべき事であろう。

しかも、これを「天国」や「心の中に在る」としてしまうキリスト教指導者の多さも意外なほどである。

ユダヤ人に向けたマタイ福音書の「天の王国」[ἡ βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
また、異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書での「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂「天国と地獄」の「天国」と訳されるべきものでもなく、まるでかけ離れたものである。

そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。    (初心者向けの解説はこちらを


-◆イスラエルが選ばれ招かれた「神の王国」-------------------

さて、この天国ではない『王国』が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。

それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らとの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。

即ち、神YHWH*とイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とある。
これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。*(現在は発音不明となった神名)

この律法契約で約された事を、神は遠い昔のシュメール時代の人アブラハムに対し、『あなたの子孫によって、諸国の人々は自らを祝福するであろう』(創世記12:2-3)と語り既に約束していたのであった。つまり、「神の王国」はアブラハムに示された全人類を益する神の手立てなのである。

後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、『・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・』(ペテロ第一2:9)とキリストの弟子の中の聖徒たちに適用している。

その意味するところは、イスラエル民族の皆が誰でも祭司ではなかったように、キリスト教徒のすべてではなく、選ばれた『聖なる者ら』(ハギオイ)が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当し、その益が残りの人類に及ぶことである。

この王国に召され『選ばれた民』はペテロの指摘するように、その時には存在していたが、この王国の民が歴史上に最初に現れたのは、使徒言行録第二章に描かれた、聖霊降下が起こり、奇跡を行うキリストの業がその弟子らに継承された日からであった。

この点では、ペテロが述べたように、新約聖書の書かれた時代にはキリスト教徒の集まりのほとんどが、『聖霊』によって選ばれた『祭司の民』であったため、それを読む今日の人々は、『聖霊』もないのに自分もその一人であると錯覚するのであり、今日のキリスト教徒の大半がそのようである。
それで、「聖霊のバプテスマ」を具体的に理解しづらく感じるのはその証拠となっている。

さて、契約によってその『選ばれた民』となるべきイスラエルではあったが、律法契約はイスラエル=ユダヤ人によっては遂に守られることが無かったため、神はこの契約の破棄を決意する。(エレミヤ31:32)
では、神の王国の実現はイスラエル民族の不行跡によって阻まれたのだろうか?

神はそこでその意志を完遂させるべく、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を知らせていた。(エレミヤ31:33)この新しい契約と律法契約と入れ替えることで「祭司の王国、聖なる国民」を実現させる筋道をユダヤに確保したのである。
しかし、イスラエルは「新しい契約」に無事に入って王国の実現への道を保っただろうか?

やはり彼の子孫イスラエル=ユダヤ民族は、アブラハムへの神の不動の約束に基づき、『王国』の担い手、選民となるはずであった。
しかし、律法契約を守ることに失敗した彼らは、その違反の罪を負ってしまったまま、およそ六百年後に『契約の使者』またマーシァハ(メシア=キリスト)という『王国』の主要な王となるべきナザレ人イエスの到来を迎えることになった。(マラキ3:1)

しかし、メシアの到来はシナイ山が轟音を立てて揺れるような華々しいものとはならなかった。新たな契約は、生来の民全体とではなく、信仰を必須とする個人的なものであったからである。

ユダのベツレヘムから来ると預言されていたが、メシアの出身は北部ガリラヤの田舎ナザレであるかに見えた。そこでメシアを得るには信仰が求められる。

神殿崇拝に関わる血統になく、律法学者のような専門教育も受けていない。その廉潔な現れにユダヤ人は動揺する。なぜなら、多くの奇跡を行い、その言葉には説得力があるからであった。

バプテストのヨハネは、この人物の到来を予告し、律法不履行の民の罪を悔い、『律法の呪い』から解かれるようにと「悔い改めのバプテスマ」を施して人々を『契約の使者』であるメシアの到来に備えさせていた。(ガラテア3:13/申命記21:23)

メシアが現れたことにより、ユダヤ=イスラエルの人々には、いよいよ『新しい契約』に入る道が開かれるのだが、それは律法契約が遂に生み出さなかった『王なる祭司、聖なる国民』となるよう招くものであった。

それであるから、イエスが『見よ!神の王国はあなたがたの只中*にある!』と発言したとき、これはけっして諸国民に語った訳でないし、その理由もない。(*[ἐντος ὐμῶν]エントス ヒューモーン「あなたがたの内部に」)

『神の王国』とは、王キリストだけのものではなく、ひとつの国としての民を必要としたのであり、ユダヤはその民となるよう古来招かれていたのであり、その目的は、神がアブラハムに語られたように、全人類をこの世の虚しい状態から救うことにあった。

イエスは王国の民を召す業をパレスチナで始めていたのであるが、ユダヤ人の反応は芳しいものとはならなかった。原因はユダヤ人らの不信仰な傾向であり、それはモーセの出エジプト以来、この民の見せ続けた誉められたものでない性向であった。

アブラハムの子孫であるユダヤ人にこそ『王国』の機会が開かれていたのだが、まさに王国の王となるべく任命を受けたメシアが、『神の王国はあなたがたの只中にある』と言った通りに、光輝なく質素な身なりではあっても現に選民であったユダヤ人たちのところに来ていたことに注意を向けたのであった。

この時期、メシアを受け入れるユダヤ人は『「王国」に向かって殺到している』ともイエスは語っていたのであるが、それは素朴な平民たちばかりで、それに気付かない体制派のユダヤ人にメシアはその認識を促していたのである。(ルカ17:20-21/16:16)

したがって、イエスが『王国』について「あなたがたの只中に」と指摘したとき、ユダヤ人らには『王国』そのものが到来する姿を目にすることはなくとも、イエスがメシアであり、その『王国』の王がそこに立っているばかりか、信仰の目を以ってメシアをイエスに見ることのできた謙虚な平民のユダヤ人たちが、既にその『王国』を捉えつつあったのであり、それを『あなたがたの只中にある』とキリストは語っていたのである。

無論、イエスに信仰を働かせず、聖霊による奇跡の業にメシアを見ない頑迷なパリサイ人の心の中に『王国』があったとは考えられないが、メシアであるイエスは、ユダヤ人の中に現れようとしていた王国に信仰を促していたのである。その場に目立たない仕方で王国の王となるメシアが来ていたのにも関わらず、それらのパリサイは、なお「王国はどのようにして来るのか」と尋ね、そのメシアがそこに居ることよりも、華々しいダヴィデの王権の到来を期待したのであった。

そのように、パリサイを含むユダヤの宗教体制はナザレのイエスを認めず、与えられたメシア=キリストを退け、王国の民を集めず、却って散らしてしまい、その王さえもローマの権力に渡して処刑させたのである。メシアの罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。

この結果、ユダヤ民族全体としてはメシアの到来によって示されつつあった『王国』に反対したために、これを受け継ぐ望みが無くなり、信仰を抱いたほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する希望を繋いだのみであった。(マタイ21:45)



-◆律法契約に代わる「新しい契約」 ---------------------

そのため、神はイスラエル民族との関係を終了させて、別の契約を用いてアブラハムの血の繋がりではなく、アブラハムの信仰に適う人々を「内面のアブラハムの子孫」として『聖なる国民』に差し招くこととなる。

それはイエスの語った、婚宴を設けたのに招いておいた客の来なかった王の例え話にも表わされていたところであり、王は宴席を満たすために周囲から呼ばれてもいなかった部外者である人々を引き込んだのであった。(マタイ22:1-10)

この例え話の中の、招いておいたはずの呼ばれるに相応しいユダヤ人が招待に応じず、王の怒りを買って滅ぼされてしまったように、メシア=キリストを退け『王国』への招待を拒んだユダヤの世代が過ぎ去る前の西暦七十年に、神はその裁きを下し、エルサレムは神殿もろとも完膚なきまでにローマ軍に破壊され、以後ユダヤ人は流浪の民となってゆく。それは律法契約も神の恩寵もイスラエル=ユダヤを去ったことの明らかな証しであった。(ルカ13:6-9/19:41-44)

そこで「新しい契約」を通して、『王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物』たるべき『王国』の選民には、ユダヤ人だけでは足りず、イエスをキリストとして信じた諸国の人々も含まれ混じることになるのであった。(ローマ9:24-27)

イエス自身、異邦人の信仰の深さを高く評価しつつ、『いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。』と語っていたことがこうして現実となってゆく。(マタイ8:11)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)

それゆえ、これらのイスラエルに属さない人々は「接木され」、血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となったとパウロは言う。(ローマ11章/ガラテア3:19)

パウロは彼ら全体を『神のイスラエル』と呼び、他方でアブラハムの血統上にありながら信仰が薄くキリストを迎えなかった『肉のイスラエル』と対照して語っている。(ガラテア6:16/4:21-31)
即ち、真の意味での選民イスラエルは、必ずしも血統によらず、イエスへの信仰によって形成されたのであった。

これらの人々は、キリストから「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、破棄された「律法契約」に代わる「新しい契約」に属する人々である。(ヨハネ14:2-3)

この契約に与る、神の「特別な所有物である」「聖なる国民」の人々には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な奇跡を行う賜物が与えられたが、それは『王国』の一員として内定したことの印でもあった。
(エフェソス1:13-14)

つまり聖霊の灌がれない人は選ばれておらず、けっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もまったくない、むしろ『王国』の外に居て、「贖罪」というその優れた益に与れるのである。

『王国』を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその『王国』を受け継ぐことができることになっている。新約聖書に記された一定の道徳律は、聖霊が注がれ「新しい契約」に入った人々の守るべき『聖なる行状』の求めを示しているのである。(ペテロ第二3:14/コリント第一6:9-11) ⇒ 今日のキリストの不在

その将来のキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは「王国」出現の序章となる。
 ⇒ 聖霊と聖徒

この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の発言によって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせ、その後、選民のすべてが天に召される集められることになるという。(マルコ13:9-11)(これが「携挙」と思われているテサロニケ第一4:17)

これらの人々の中心である「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この王国の唯一首位にして世代交代の必要ない大祭司ともなる。(黙示録19:16/ヘブライ7:26)


人類の将来に関わるこの王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。



-◆「罪」に対処する為の「王国」の政治と宗教------------------------


人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは冷厳な事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この罪の苦悩からけっして逃れることはできない。

ここに「救い」と謂われるものが見えてくる。
人間は「罪」あるゆえに誰も「真の正義」を持てないが、「神の王国」は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。
宗教であれ、政治であれ、すべての人間製の「正義」は神の義の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は、宗派であれ党派であれ、他のどんなイデオロギーであっても「完全な正義」を持っていないからである。

しかし、キリストと聖なる者らで構成される「天の王国」こそは、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にはすべての生ける人々に、神の創造物たる「神の子」に復する機会を提供するのである。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)

つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教を終わらせてしまうであろう。(コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか

まさに政治と宗教は、人間の原罪に対処するための必要から生じた一時的「対症療法」だからである。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。

初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。



-◆「王国」の到来する将来 ----------------------------------


『神の王国』の来るときについて、イエスは幾つかの例え話を用い、自らが一度去った後に再び(地に王権を持って)来ることを何度か述べていた。
それは使徒たちを通しても繰り返し語られており、イエスが肉体で到来するのではなく、「パルーシア」[παρουσία]というギリシア語で表される方法で地に帰還するのであり、それは『雲に乗って』あるいは『雲と共に』という状況の下である。

「雲」が視界を阻むもので、聖書中で「雲」はその働きをもって度々語られている。
すなわち、不可視性の象徴であり、イエスの帰還を「到来」や「再来」とせずに、「その場に関わりを持つ」「監臨」また「臨御」という意味のある「パルーシア」の語を用いたからには、その帰還は単純なものではない。

キリストが『雲の内』に、つまり世人からは見えない状態で世に対して『臨御』し始めるとき、『聖霊』は『聖徒』に再び語らせる。
彼ら聖徒たちは支配権を巡って為政者と対峙し『神の義』の代弁者となるので、彼らには誰も抗弁することができない、人間の世界は太陽も月も一切の光を失ったかのようになるという。(ルカ21:12-14/マタイ10:17-20)

つまり将来に、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、聖霊を通して知らされる神の義の前に、己を正しいとするどんな宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、その立場は溶解してしまう。

キリストの前に地は平坦にされ、一切の権威も権力も平伏すべきときが来るであろう。
しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)

裁きの行われる前に何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることは、エジプト以来示されたことである。

しかし、大半の宗教家も政治家も『王国』を非現実と看做すので、キリストに従うことは難しいだろう。そこで将来現れる『聖徒』の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し『世を征服』するであろう。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)

そのときキリストの姿は引き続き雲に隠れており、為政者も人々も目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので、神の王国を現実のものとは思わないか、あるいは思いたくもないであろう。(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)

そのときには、かつての個人的な罪は然程の問題ではない。
問われるのは神を神とするかという「エデンの問い」である。
たとえ、人々の中にキリストを罵倒していた者があっても、聖徒を支持するならどんな罪も許される。そこに誤解があったからである。(マタイ25:40)

しかし、聖霊の発言に逆らうものは許されることがあるだろうか?
聖霊に逆らうのは確信犯であり、そこに完全な選択がある。神に敢えて逆らうことを選ぶのである。

こうして将来、聖徒が語るときに、我々は聖霊に対してどう反応するかが問われるであろう。
(マタイ25:31-46/ルカ12:10-12)


そして幾らかの時の後、人類の裁きの進行と共に、試された聖徒たちの選びが確定することで『王国』が完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて世界に顕現(エピファネイア)するときに、すべての者は地上に起こる事柄を通して象徴的な不可視の雲の中に王の臨御を認めざるを得なくなる。⇒ 黙示録の四騎士

そこではすべての者がイエスの臨御を、その時に起こる意外な事態を通して「見る」ことになるだろう。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)

それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)



-◆『王国と神の義を求める』とは何か---------------------------


それで『王国』の来る前から、人々を憎ませ裁き合わせるあらゆる宗派から逃れ、また分断し相争わせるあらゆる党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)

それらは互いにも、また聖霊に対してさえも敵意を煽り、自らの義に固執して神の義を否認し、なお現世のままに永遠に争い続けようとする凝り固まった「蛇の道」となりかねない。(イザヤ57:21)

一方、王として処刑されたキリストと、その同じ道を歩む『聖徒』たちは、死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、倫理的に浄められた人々であり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど政治を委ねるに相応しい。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)

それゆえ、人間の政府ではなく『神の王国』を待ち、人間の様々な正義ではなく『神の義』を求めよ。これこそが「主の祈り」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)

これが、『神の王国』であり『世の救い』であり、すべての涙を拭うものである。
不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いや、その概念をさえ超える世界、神の創造物の立場(子)に復帰した輝かしい人類を作り上げるための手立てこそが『神の王国』である。

神の王国の千年の間に、人々はイエスの主要な教えであるアガペーと呼ばれる愛を思考と行動の原理として向上してゆくことになり、その到達点は悪意、欺き、争いがなく、互いに気遣う幸福な社会であり、それこそ創造において意図された人間本来の姿であろう。

黙示録21:3-4はこう述べている。
 『見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。以前のものは過ぎ去ったからである』。

それでもなお、あなたは「天国」の至福を望むだろうか?
もしそうなら、それは誰のためだろうか?

「天国」が個人を益するものとすれば、『神の王国』は人類に幸福をもたらすものである。
このふたつは、それを望む人に正反対の精神を抱かせるものと言える。
つまり、利己心と利他心ほども異なることになる。




              新十四日派   © 林 義平

 『神の王国』 -新十四日派の綱領として-

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 ⇒ 聖霊と聖徒
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