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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

原始キリスト教

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2024. 4. 21
ΑΓΙΑ ΔΕΙΠΝΟΝ
την δεκατέσσερα ημέρα
"Primo mense, quartadecima die mensis ad vesperam"
「最初の月、その月の十四日の晩に」 
 HagiaDeipnon

聖徒の現れを待つ原始キリスト教
- 新十四日派

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初期キリスト教徒の様子 第二世紀の小アジア


まず、なぜ小アジアか?といえば・・
そこにキリスト教の完成を見るからである。
(このブログで「小アジア」と称するのはローマ帝国のアシア州とその近隣を意味する)

教父学のジャン・ダニエルーも述べるように、第一世紀後半から第二世紀にかけて、小アジアのキリスト教は「異常なほどの盛隆を見ていた」とされている。

この時期のキリスト教を見回すと、キリストの弟ヤコブが率いたユダヤ、ペテロの影響のあったアナトリア北部や東方、パウロの育てたギリシア本土やローマ、これらの地方はそれぞれの指導者を西暦60年代半ばに相次いで失っている。
したがって70年以降、十二使徒で残っていたのが文書資料に出てくるのは、トマス、アンデレ、タダイ、そしてヨハネとフィリポなどが挙げられるが、分けても使徒ヨハネの存在は大きい。

殊に、ペテロ、ヤコブ、パウロという主軸となって働いた弟子たちの亡き後、西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びを免れたヨハネを迎えたアナトリア東部の小アジア地方にキリスト教の最後の発展があった。
それは何と言ってもヨハネの福音書と書簡、そして黙示録という、聖書を締め括るに相応しい見事な著作群にその趨勢が見られる通りである。

使徒ヨハネはイエスの弟ヤコブの率いるユダヤ・キリスト教に以前は属していたであろう。
それはパウロの異邦人キリスト教よりも旧式なユダヤスタイルに甘んじていた。
しかし、西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びは「ユダヤ・キリスト教徒」の幾つかの習慣を終わらせるものとなった。
彼らは神殿を失ったので、そこでの祭りも犠牲も意味を失って自分たちがどのような教理に行くべきかを知りたいと願っていたであろう。
そして、黙示録の中のイエスは、神殿の聖所を歩くかのように、小アジアの七つのエクレシアである七つの燭台の間を歩む姿を見せるのであった。それは『エルサレムでもないところで父を崇拝する時』の到来を示唆してもいるであろう。(ヨハネ4:21)

ユダヤのキリスト教徒は西暦66年のローマ軍の一回目の攻囲の前後からユダヤとエルサレムを去って「山地」トランスヨルダン方面に脱出した。
現代に伝えられているのは、当時デカポリス(十城市)に数えられたペッラ市への逃避がある。(ルカ21:20-22)

エルサレムの滅びの後に、使徒ヨハネはイエスの母を伴いおそらくデカポリス地方を経由して、小アジアのエフェソスに落ち着いたであろう。比較的近くのヒエラポリスには使徒フィリポが家族を伴って定住したようである。また、福音書で使徒フィリポと共に行動することの多かった使徒アンデレも小アジアに居たという資料も伝わっている
(AD65年,最晩年のパウロがテモテをエフェソスの監督に任命し、テモテが80歳まで生きたという伝承が正しければ、テモテは当地で生存していることになり、ヨハネたちが宗教的安定性があったこの地を選んだとも考えられる。但し、他の資料ではこの件は明瞭でない)

そうなると、キリスト教揺籃期の柱であったエルサレムのエクレシアの伝統は、ローマの攻囲を避けてデカポリス地方に移り、その後、小アジアに移った観がある。

さて、ユダヤとエルサレムの滅びの以前には、パウロを追い出すほどユダヤ人の先鋭化が進んだエフェソスであったものの、ローマ軍のユダヤ攻撃に前後して、帝国各地のユダヤ人居留地も襲撃や迫害を受けており、エフェソスでも急進的なユダヤ主義は収まっていたであろう。


そのエフェソスに腰を落ち着けた使徒ヨハネではあったが、さらにニ十年以上後の晩年に至って、ティトゥス帝の弟ドミティアヌスの在位中(81-96)の迫害を受け、エフェソスの沖合いのパトモス島に流刑にされる。

しかし、ここで驚くべき且つ極めて重要な啓示を受けた。それは文字に記されて、今日「ヨハネ黙示録」と呼ばれ、今日の新約聖書の最後を占め、許多の謎を含んでこれを封印している。
この書を著した後、ネルウァ帝の時(96-98)に恩赦を受けたヨハネはエフェソスに戻り、周囲に勧められて、あの霊感に溢れる福音書を書き記したという。それに三通のヨハネの書簡も小アジアを通して伝えられている。

時代は西暦第二世紀に入るところであったが、ヨハネはトラヤヌスの治世中(98-117)まで生きたと云わる。

このように、小アジアは使徒ヨハネの声の残響していた場所であり、それは黙示録冒頭の七つのエクレシア名からも充分推察できるところであろう。
つまり、パウロやペテロ、そしてイエスの弟ヤコブ亡き後、唯一小アジアは、教理が聖霊時代の最後まで伸張し続けた地域であって、「聖書の完成」に与った人々がそこに居たと言える。

そのため小アジアのキリスト教は、他の地域のキリスト教と比べはっきりとした特徴をもっていた。
それは年に一度の「主の晩餐」の儀礼と「千年王国」の教えであり、やがて第二次ユダヤ戦役以降にエルサレムのエピスコポスまでも異邦人が任命されるところとなり、パレスチナにあっても失われることになるキリスト教徒のユダヤ性も小アジアにはなお息づく。

聖餐については、イエスとの最期の晩をその懐で過したヨハネにとって、ユダヤ暦ニサン月十四日における年一度の晩餐への思いはゆるぎなく見え、それゆえ彼の影響のあった小アジアのキリスト教徒は主の晩餐の日付から「十四日派」と呼ばれ、また黙示録の「千年期待望」も当初は他の土地に見られないものであった。この点、「ヨハネ黙示録」そのものを受け入れない地域も少なくなかったのである。

しかし、今日の聖書全体を眺めるなら、小アジアにおける最後の使徒ヨハネを以って本来のキリスト教は完成されたと見てよいであろう。聖霊の賜物を通じたキリストの監臨の最後の時である。
(聖霊の去った後は教理の進展はなく、むしろギリシア化など、非ユダヤ人たちによる教えの蹂躙の時となって今日まで続いているように見える)



それでは、二世紀中葉の小アジアのキリスト教徒の様子を想像してみよう。
これは小アジアだけでなく、当時の各地のキリスト教徒に共通に見られた習慣も含むものである。


-◆あつまり-

各都市にはキリスト教徒の会衆(エクレシア)に監督(エピスポコス)が任命され、集まりの運営には長老たち(プレスビュテロイ)が諮り、それを執事ら(ディアコノイ)が行った。選挙は行われなかったようである。
(監督と長老団の関係は地域によって幾らかの違いがあったが、小アジアでは執事らは監督に直属していたと言われる)

エクレシアに、聖霊の賜物を受けた「聖なる者たち」(ハギオイ)が居れば、エクレシアの集会の内容はこれらの人々の聖霊の賜物による異言や預言などが供された。
この点でパウロは生前に、コリントスのエクレシアには「異言」や「預言」ばかりでなく、あらゆる聖霊の賜物が揃っていることを褒めていた。

加えて旧約聖書(ギリシア語訳)や後には福音書、またパウロらの手紙からの朗読があり、文字が流暢に読め、かつ声の通る者が朗読者となっていた。朗読の後にその講釈があり、これは「知識」の賜物を持つ聖徒、あるいはプレスビュテロイ(長老)の務めであったろう。
殉教者ステファノはこの「知識」の賜物を得ていたのであろう。ペンテコステから然程経ていない時期に、「神殿に神は住まず」というユダヤ人にしては驚くほど斬新な理解をみせている。

このように聖霊はすべての弟子らを教えるものであった。
地上に居たときのイエスに会っていないパウロが「主はこのように言う・・」と述べるとき、それは彼に宿る聖霊を通してイエスの言葉を聴いていたのであろう。しかし、ヨハネの頃には偽の霊感が起こるようになってきており、聖霊ではない別の霊の言葉を語る者や、聖徒と装う不道徳な偽聖徒が利得を得ようと現れてきた。
それはパウロも警告していたのだが、ヨハネの晩年にはその圧力は非常に強くなっていたことが窺える。その背景にはハギオイ(聖徒)の減少が明らかである。

それに加えて、グノーシス運動の台頭がある。この創唱者のひとりケリントスなる人物はヨハネと同じ世代のユダヤ人であったという。このユダヤからの教えは、ユダヤとエルサレムを失って自分たちの神を逆恨みするようなところがあり、現実逃避的教理を有していた。つまり、創造物はすべて失敗作であり、造った神も劣った存在者であるという。

キリスト仮現説を唱えるこの派の活動は伸張し始めたが、ヨハネは「キリストが肉体で来たことを告白しない霊感」を強く指弾した。イエスその人を肌で知るようなヨハネにとってそれはまったく受け入れられない教理であったに違いない。

しかし、キリスト教徒には聖霊の降下が続いていて、全体の教理を導き、聖霊の賜物を持つ人が居る間は破壊的分派は成功していない。
殊に使徒ヨハネの影響の残る小アジアは、グノーシス主義の影響から免れた数少ない地域となったという。そのような異なる教えを持ち込もうとする者には「挨拶の言葉もかけてはならない」というヨハネの警告は功を奏したのだろうか。


さて集会では、聖霊の賜物によってあのペンテコステのときのように聖徒たちが一斉に話し出すと集会全体の益にならないからと、一人ずつが数人だけ話すよう、かつて勧告し秩序付けたのはパウロであった。

それは聖霊の賜物が憑依状態に陥るものではないことをも教えている。賜物が臨んでいる間も、それぞれが自分の意識を別に持っており、賜物をコントロールできたことをパウロがはっきりと書いているのである。(コリント第一14章)
しかし、その賜物を持つ人々は減少しており、ヨハネの晩年には小アジアでも次第に背教への危機に瀕してゆくことになる。



集まりは夜間にも行われていたようで、遠くのエクレシアから誰かが訪問すると、話を聞くためにその都度、昼夜を問わず不定期に集まりを催したようである。
ユダヤからの使徒らを受け入れた小アジアのエクレシアでは、旧来通り第七日の安息が行われていたようである。
聖餐(主の晩餐)は、小アジアでは年に一度、ユダヤの除酵祭に日付を合わせていたことをエフェソスのポリュクラテス(c196没)が証言している。
(二世紀初め、シリアのアンティオケイアのイグナティオスがこれらをユダヤ的と批難していたが、それは「パスカ論争」に発展している)

集会場所は大き目の個人の家が用いられた。
古代の家は、よほど貧しいか狭い市街地の家でもなければ、今日の電気や水道、ガスなどの設備がない分、火を扱う場所や井戸などの台所の広さは今日の住宅の比ではない。古代の彼らが近代的住宅を見れば、「ウサギ小屋」のように揶揄されても仕方ないだろう。
加えて奴隷たちや家畜類を用いていたのであちこちに大きなスペースを必要としたから、百人ほどの人々が集まれる部屋をもつ家庭は少なくなかったようだ。

しかし、信徒が増え、エクレシアに余裕ができると皆で資金を集めて集会のための建物を手に入れた。当時のギリシア圏には哲学者たちが多く、自分の学校(私塾)を所有していたが、あちこちの寂れた学校跡は適した集会場所となったであろう。かつてエフェソスでは、シュナゴーグでのユダヤ人一半の反対行動を避けようとしたパウロが、無名な哲学者テュランノス(ツラノ)の講堂の空き時間*を利用したという。*(西方写本のあるものは、パウロが午前11時から午後4時までこの講堂で講話していたと註釈している)

他に、公の集まりではないようだが「愛餐」は互いにもてなす習慣である。
それは人種や貧富や知己の有無といったさまざまな違いを越えて友誼を深め、持てる者が持てない者を歓待する宴であったが、今日の先進国の教会で見られるような飽食者同士の料理を競うような自己満足の「愛餐」とは様子も意義も異なるだろう。
このためキリスト教徒は、見知らぬ土地への旅行においても便宜があった。(これはやがて偽信徒に悪用されることになったが、使徒ヨハネやキリストの弟ユダはこれに警戒するように求めている)

ユダヤ教にはモーセによって年三回の祭りなど(大会)が規定されていたが、ユダヤ人キリスト教徒であっても既に神殿を失っており、キリスト教にはこれ類するものがなく、宗教的理由でどこかに向かうとしても個人的な旅行が多かったように見受けられる。(但し、ユダヤ人キリスト教徒がユダヤの暦を用い続け、今日のユダヤ人がするように家庭でその日を祝わなかったと言い切ることはできない)

集会の方法はそれぞれの地方によって幾らかずつ異なっていたであろうから、旅をして各所で交流することは新鮮さを得る機会にもなったであろう。



-◆ 書 物 -

聖霊が去った後の時代の集会については、聖書からの朗読がなされたという。こう述べる殉教者として著名なユスティヌスの時期(c.165没)には、ローマの彼の周囲では、聖霊が集会の内容を導くことは無くなっていたようである。
しかし、朗読の習慣は、諸国の異教のような偶像に香を焚くことなどの儀式中心の崇拝からすれば、キリストが中心に据えられていても、なお「聴いて学ぶ」というユダヤのシュナゴーグの流れを参入者に感じさせるものであったろう。(ローマ10:17)

もっとも新約聖書が今日の形に編纂され始めるのは第二世紀以後のことで、聖書の朗読に供するべく、パウロの書簡群が各地で筆写されつつあったが、実際には現在新約聖書に収められている以上にパウロが多くの手紙を書いていたことは聖書に収められた手紙文からも知られている。
新約聖書が編纂されるまでの弟子らの必要を満たしていた書物として、「十二使徒の遺訓」(「ディダケー」)が読まれてもいたであろう。この書はハンドブックのような案内書以上のものではなく、「経典」とは云えず、また信徒を縛る修道院の規則のようでもない。

小アジアでは、それらが読まれているほかには旧約のギリシア語訳である七十二人訳*が専ら用いられていた。
*(第五世紀、アウグスティヌスの時代に七十人〈セプチュアギンタ〉と略して呼ばれるようになった)
使徒ヨハネの著作群がやがて加わって新約聖書が綴じられるのは更に多年を要したらしいが、小アジアが護持する「黙示録」についてはシリアなど地方によっては受入れに難色を示したところもあった。

その背景として、使徒たち初代の著名な弟子らが世を去る第二世紀半ばから、あちこちで著名な人物を騙る、程度の低く不自然な内容の疑文書が多数噴出してきており、「ヨハネ黙示録」の際立った難解さにも疑いの目が向けられたためである。しかし、聖霊の導きが預言者らの減少に伴って退潮してゆく中にあっては、かつての使徒らの残した真正な著作をまとめるべき焦眉の急が感じられたに違いない。


他方、集まりでは崇拝に関する歌がまとめられていたようである。それがどのようなものであったかは楽譜らしいものも無い時代のため、残念ながら伝えられていないが、ユダヤの詩篇歌の延長線上にあったのかもしれない。但し、当時は器楽は官能的(或いは俗的)とされ、集まりでは採用されなかったという。今日ビザンティン系のギリシア語の聖歌を聴くことができるが、これは第四世紀以来の伝統を継承しているというが、第二世紀のものは、単声のよりシンプルな読誦に近いものであったのであろう。
(後にヨーロッパ中の教会堂に置かれるオルガンは、この時分にエジプトで水力を利用した「水オルガン」の形で存在するようになっていたというが、まだキリスト教と出会っていない)

それはユダヤ神殿のかつての大合唱と管弦楽による祭日の崇拝とは対照的に、こじんまりしたものであったに違いない。エクレシアでの聖歌は、シュナゴーグでのユダヤ教の賛歌に似ていたようで、音程を定めるための先唱者を司式者が務めたところは共通していたと言われる。(これは後のアカペラによるミサ曲にも痕跡を留めている)

初代キリスト教徒の集まりは礼拝の要素はほとんど無く、主の晩餐やバプテスマ以外は「儀式」ではなく、愛を培い聖霊からの知識を分配するような「集会」というべきであったろう。そこで複雑な合唱があったようには思われない。

それでも、霊の賜物の中にはこの点でのもの(霊の歌)があったかも知れない、おそらく楚々とした音の動きの狭い落ち着いた曲調は、次第にギリシア圏各地のあるいはヘブライの音律によって多様化していったであろう。それは中世期から今日まで伝わる八種類の「教会旋法」に痕跡を残しており、この中にも小アジアの地名を見出すことができるが、当地の音楽の繁栄を垣間見るかのようである。

詩を作り出すことにおいてサルディス市のメリトン(c.180没)は傑出した才能の持ち主であった。彼の講話はそのものが押韻された詩を成しており、ヘブライの聖書の故事をキリスト教の上での意味を与える対型論のはしりであったから、タナハを彼が「旧約」と呼んだのはなるほど頷ける。後のポリュクラテスもメリトンについて「彼はまったく聖霊によって語った」と賛意を記している。



-◆信徒と聖徒の構成 -

それぞれのエクレシアには聖霊が灌がれ、その賜物を持つ人々「聖徒」(聖なる者)と、賜物を持たない「信徒」からエクレシアは構成されていた。初期の「エクレシア」では、ほとんどの成員が聖徒であったが、時の経過と共に信徒が増えていった様が見受けられる。第二世紀に成立したとされる外典「イザヤの昇天」では当時のシリアからエクレシアに預言者が絶えたことが伝えられている。

使徒パウロはその書簡の前後の挨拶で、それぞれの人々に挨拶をしている。
例えれば、エフェソスへの手紙の冒頭では「聖なる者たち、及びキリストと結ばれた忠実な者(「信徒」と同義語)たちへ」とあり、コロサイへの手紙には「キリストと結ばれた聖なる者たち、そして忠実な(「信仰ある」と同義語)兄弟たちへ」となっている。
ヘブル人書簡では、内容にその差が現れるようになっているのが観察される。
エクレシア内の信徒と聖徒

会衆がエクレシア、つまり「召しだされた人々」の意で呼ばれたのも、主には聖徒たちを中心として集まりが構成されていたことを窺わせている。
というのも、聖霊の賜物を保持することは、天でキリストと共になることの事前の証(手形)であるとパウロは書いている。

それは、人の側から働きかけができるものではなく、上からの選びによるのであり、人はその条件をさえ付けることができない。
例えれば、パウロの助手テモテであっても、パウロが按手したときに初めて預言の賜物を得たとあるが、パウロが聖霊の賜物を授けたわけではない。

選ばれた聖なる者「聖徒」は、天でキリストと共に「王」(支配者)また「祭司」(贖罪者)となるよう招かれたのであり、彼らの本来の務めは彼らの死して復活した後にある。
その生前に地上で聖霊の賜物を受けたのは、仲間の聖徒を集め出す目的ばかりでなく、聖書教からキリスト教を完成しそのメシアの王国を地に知らせておくことであったろう。

彼らを通して、王国の良い知らせ、すなわち「福音」が伝えられると同時に、王国の完成に至るどの段階に時代があるかが残りの人類に知らされていたからである。(それは現在、キリストの臨御を待つのみとなっている)


-◆ 宣 教 -

当時のエクレシアの集会は、聖徒らの信仰の発露や友誼と宣教がその主な目的であった。
宣教は本来、アブラハムの相続財産である王国を受け継ぐべきユダヤ人に向けられたが、イエスのときと同じくユダヤ人の反応は芳しいものではなかったから、コルネリオ以来、異邦人からの者も聖徒となることが許されたので、異邦諸国民に向けても宣教が行われてゆくようになった。

それで、パウロたちの宣教方法に見られるように当初はユダヤ人の会堂でユダヤ人が宣教を行ったが、これは今日見られるように異邦人による異邦人への宣教が専らとなってゆく。

だが、異邦人同士の新しい方式の宣教方法がどのようなものであったかは資料に明瞭にないが、長途旅行の困難さに立ち向かったことは間違いない。宣教上の未開地へと、勇んで向かった事例が残されている。

また、聖霊の降下のあった時代には、その奇跡的賜物そのものが人々を招き寄せる働きを果たしており、宣教は集会を中心とするものであったように見える。コリント人への第一の手紙の第14章には、外来者が預言者らにその秘密を暴露されてゆき、エクレシアに平伏するシーンが描かれている。

初期宣教に携わる人々の熱意は、パウロやバルナバばかりでなく福音宣明者のフィリポのように聖霊の裏づけによってますます強められたに違いない。聖霊が各地で注がれることによってエクレシアも増え広がり、更に未踏の地へと聖徒らを旅させたことであろう。

 彼らが第一に伝えるべきは、ナザレのイエスがメシア=キリストとして来られたことを世界に知らせることであった。無名であったその名は、パウロの存命中でさえローマ帝室や親衛隊にも広まったことを彼の書簡が記している。他の十二使徒らも世界宣教に旅立って行き、各地で殉教を遂げたが、イエス・キリストの名とその犠牲の死による救いはローマ帝国の領内を越えて広く知らされてゆく。

 遠く離れた地にあってもバプテスマを施し、按手すると聖霊が降り、その地でもエクレシアの開かれる喜びは何事にも増して達成感を与えたことが想像される。
パウロの最晩年には地中海世界からメソポタミアに至る地域でキリストの福音が伝えられていたが、西暦70年の「火のバプテスマ」を経た後は、生き残っていた使徒たちは東西に旅立って行ったとされている。

 トマスはインド方面に向かい、そこで自分の兄弟マタイの著したヘブライ語写本の福音書を見たという。
アンデレはスキティアに、タダイはオスロエネへ向かったという資料的痕跡もある。
 後に小アジアからは、使徒ではないがヨハネの直弟子ポリュカルポスの知人で、スミルナ市出身の高名なエイレナイオスがルグドゥヌム市(現リヨン)に渡り、苛烈な迫害に耐えたゴール族信徒たちを束ねるエピスコポス(監督)となって、南フランスに小アジアの伝統を移植している。
今日、ユダヤ教の聖典を「旧約」として異邦人キリスト教徒の読むべきものとされたことは彼ら小アジア人に由来するといわれる。


-◆バプテスマ-

新規参入者がキリストとその神に信仰を働かせ始めると、教え手によって教理教育が施され、バプテスマへの準備が行われる。
初期にはその準備は簡素なものであったようだが、時代が下るに従い、受洗への準備は儀式的になっていった。

西暦第二世紀頃には、バプテスマは春先の主の晩餐の前後に行われたようである。
それは教理教育の準備段階を経て、前日(あるいは数日)の断食があり、それまでの個人の犯した罪の告白があり、それが許されるよう祈祷がされる。

バプテスマそのものは神と子と聖霊の名において三回水に沈められる。
これはマタイ福音書の最後に明示されているが、三位一体を信じていたわけではなく、そのギリシア神秘主義哲学との混合物が登場するのに、まだ多くの時間と哲学者らの根回しが必要であって、この時分では無縁であった。また、北イタリアから南フランスを経てスペイン北部の地方では水から上がったあとに足を洗う習慣もあったと伝えられている。

更に、水から上がると「ミロン」と呼ばれる香油の塗布が額などに行われたとも伝えられている。
罪の告白と塗油はヤコブの手紙を彷彿とさせる習慣である。

エクレシア内で指導的立場につくことのない女性ではあるが、バプテスマに関しては新たに信徒となる女性たちの用に仕えるためにも古参の女性信徒が任じられて居たようだ。

彼女らはバプテスマでの世話や、女性同士での世話の必要に有用であったことであろう。(パウロは女奉仕者(デイアコノン)として女性フォイベの名を挙げている)


バプテスマを受けると必ず聖霊を受けるとは限らない。
聖霊の有無は周囲からも観察されうるもので、聖徒とは成らず信徒で留まる人の比率は時代と共に増えてゆき、聖徒は希少となりやがて姿を消していった。

二世紀初頭にシリアの護教家クワドラトス(129没)は自身が預言の霊を持っていたが、彼はイエスに病を癒された人が彼の時代(125年頃)、まだ生存していたと証言しており、この時代には「主の奇跡的力」が残っていたことが窺える。


-◆生活様式-

「クリスティアノイ」と半ば蔑称で呼ばれたキリスト教徒ではあるが、彼らを外見で特定することは難しかった。
ユダヤ教徒なら、同じ民族がかたまって居住し、服にある青糸の房縁、また異邦人と異なる食物や作法でそれと知れたが、キリスト教徒は一般庶民と変わらない服装をし、市民と同じく大衆浴場に行き、おそらくは浴場の付帯施設でスポーツも適度に行い、食物に本来禁じられるものはなかった。

しかし、問題がまるでないわけではない。
その一つが外食である。ヘレニズム世界では多神教の神々の神殿が多くの都市に林立しており、人々は供物として多くの食物をその神々に献じていた。
しかし、そのままでは折角の上等な食物も無駄になってしまうので、それらの食物が奉納された後に市場(アゴラ)で売られ、そこは今日のスーパーマーケットの様相で、商品の中には神殿から下げられた「霊験あらたか」なものも売られていた。

また、神殿内にも食堂を付随しているところも多く、そこでは神前から下げられた食物が調理されて供されていた。
そこは一般庶民にとっての今日のファミレスといってもよいようなところであったらしいが、この会食は一般に、その食物を捧げられた神との交友、また崇拝の一環と位置付けられていた。

そのため、キリスト教徒の良心が鋭敏な者は、これらを避けようとして、一度神前に供された食物を共にする「悪霊の食卓」を伴にはしない決意を固めていたし、神殿から下げられた肉を買うことも避けていた。
しかし、その一方で、弟子としての経験が長く円熟した人々は、「食物はすべて創造の神からのもの」と拒む理由はないと見ていたので、兄弟同士が互いを裁いてしまう危険もあった。

これをパウロは、良心の鋭敏な(弱い)人々に円熟した者らが配慮して「つまづかせる」ことのないようにと調整を図っている。そして彼は「自分の兄弟をつまづかせるのであれば、もう二度と肉を食べない」とまで言っている。
つまり、規則を定めてそれを守ることに腐心したユダヤ教と異なり、キリスト教は自らの愛(アガペー)に基づいて自らを律するという、より高度な「愛の掟」を有していたといえよう。そこには権利を主張してばかりの態度は見られない。



-◆無理解と反対-

エクレシアは世界各地で設立されていったが、反対にも遭遇しなければならなかった。
その多くは故国を失ったユダヤ教徒の先導による嫉妬深く陰険なものであったらしい。帝国がキリスト教徒の迫害に乗り出すときにはユダヤ教徒はせっせと告発に励み、当時のキリスト教徒の強烈なユダヤ嫌いの原因を作ったが、その影響は今日まで続いている。

ユダヤの安息日(シャバット)を嫌った異邦人的キリスト教徒はキリストの生き返ったシャバットの翌日(週の第八日)を主日(キュリアケー ヘメーラ)と呼んで安息するようになる。
それがローマの太陽曜日(ディエス ソリス)であった由来が後にコンスタンティヌス帝の喜ぶところとなってゆくが、ヘブライの色彩を残す小アジアはこの習慣を持たなかったので、後々異邦人的キリスト教徒との間に論争が起き、日曜安息を強要するローマ国教化の進展によって小アジア式は圧迫されやがて消滅することになる。
だが、キリスト教そのものが安息日を命じているわけではない。

また、キリスト教の全体は「世間の常識」のようなものによっても反対を受けた。
それは、ローマ帝国の版図が広く、その統治に益するべく各地の神々とローマ諸神とを同一視する「信仰合同」が進んでいたというところが大きい。

ローマが新しい占領地を得ると、そこの信仰を抹殺せず、却って自分たちの神と同定してしまうことで取り込み、被占領民の前でその同じ神に崇拝を捧げてみせることができたのである。これは民心掌握の一便法である。
こうして広大な国境を持つローマは諸国の神々の入り乱れるところとなったが、宗教合同は次第に諸国民同士の絆を形成していった。

しかし、これを肯じない宗教がひとつあった。ユダヤ教である。
皇帝はこれに手を焼くことを恐れ、帝国はユダヤ教を保護教とするのだが、ユダヤ教から更にイエス派という得体の知れない新興宗教が現れてくる。今日なら「カルト」と呼ばれたであろう。

それはユダヤ教とも異なり、服装や習慣で見分けることもできない。
初期のキリスト教徒に十字架は用いられておらず、イエスの姿を絵に描くことさえ避けて、人型(十字形)をかろうじてイエスの印*としていた初期は、偶像崇拝を強く禁忌しており、まして主殺しの刑具に向かって祈りはしない。第二世紀ではキリスト教徒は社会に希薄で、ときに迫害も起こるのであるから、もし首から表象物などぶら下げていれば、それは「逮捕してください」というに等しい愚行でしかない。 *(カッパドキアに多い、これが十字架に発展したのかも知れない。十字架が崇拝に現れるのは第四世紀以降である。)

ただや鳥の簡単な図柄が仲間であることを素早く知らせるささやかなサインであったから、「踏み絵」のような崇拝物を用いた「宗門検め」も彼らには通用しなかったであろう。
当時は極刑として十字架刑は続いており、十字架を自分たちの表象とすることさえ異様で常識外れなことであった。
五世紀以降に始まる十字架を堂々と頚に下げる風習は、ローマ国教化によりキリストを葬った十字架刑が悪と見做され廃止されたこと、即ちキリスト教が「この世」と妥協したことの明確な証しというべきなのであろう。

第二世紀当時の民衆からすれば、この輩はローマ万神に犠牲も捧げず、一般常識たる皇帝への焚香すらもしない奇怪な存在である。もちろん誰も皇帝が本当に神だと信じているわけではないが*、形だけでもそうすることで帝国民は皆仲間だという心地よい共感を得られるものである。*(自らが神であると称えた皇帝ネロ、カリギュラ、ドミティアヌスは皆、弑殺されている)
このような帝国民の「友愛」(フィランスォローピア)を否定するような秘密結社のような連中は神々を認めない「無神論者」ではないかとされた。

こうして、帝国内のあちこちに僅かずつ生活するキリスト教徒は、民衆一般から多神教でないゆえに「無神論」と、加えて世間的常識の通用しない者「人類憎悪」(ミサンスォローピア)の悪人、あるいは世間に合意することのない強情者として見做され、当局からも罪せられるのであった。
かと云って、社会一般からキリスト教を理解してもらい、ある程度の市民権のようなものを持つに至るのはまだまだ先の先のことであり*、迫害が強まるに従い、信徒たちは社会の片隅に目立たぬように集まりをもつようになってゆく。
しかし、それはますます危険視される原因ともなった。*(ここに護教論が多数著された理由がある)
 

今日でもキリスト教の宣教や宗派によって集会も含めて禁止令を出している国々があるが、そのような国の集まりでは当局の妨害を案じて夜間に灯火を消すことがある。
西暦第二世紀もそのようにしていたようである。
そこで、キリスト教徒は夜に消灯して乱交するとか、聖餐のことであろうが、子供(人の子)の肉を食し、血(契約の表象)を飲んでいるとの噂が世間に恐れを拡大させた。ここでも風評のお先棒を担いだのは嫉妬に狂ったユダヤ教徒とされている。

それでもキリスト教徒は増えてゆく、それは外面的宣教が困難な中で、信徒らの内面の輝きが人々を引き寄せたからであろう。
教勢は静かに拡大し、ローマでは帝室からも殉教者が出るようになる。いや、この点で言えば、帝都ではパウロの到着の前ですら帝室の中からも告発される者が出ていたのである。

小アジアにおいては、使徒ヨハネの直弟子でスミュルナ市のポリュカルポス(c.155没)の殉教も書物となっており、その死をものともしない信仰の崇高さを今でも読むことができる。

また小アジアからの移民が多かった南フランスでは、著名なエウセビオスの「教会史」が採録しているルグドゥヌム周辺での迫害の記録に残る老若男女が、厳めしい裁きの場や苦痛の拷問台の上で「わたしはキリスト教徒です」と告白しつつ次々に殉教してゆく様子は、まことに今日のキリスト教徒の襟を正させるものである。(ヨハネ14:27)

彼ら殉教者たちが闘技場で示す勇敢さや死に面してさえ保つ静穏の見事さには、やがて「世間一般」からも同情と尊敬の声が湧き上がる。
そして、人々はこの気高い崇拝に関心を向けるようにさえなってゆくのであった。

迫害者らがコロッセオで猛獣の餌食にしようと、宴会での燃える巨大な松明の芯にしようと、彼らの主イエスを否認させて征服することは誰にもできなかった。

むしろ、征服したのは殉教した者たちの方であった。
パウロの言葉を借りれば、彼らは崇高な死の勝利を以って「この世をまるごと凱旋行列に捕虜として引っ立てた」のである。
殉教によって世を征服した彼らは、まことに「聖なる者」としての名と、その「外衣」を汚さずに主に続いたのであった。





      新十四日派   © 林 義平 jst
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