quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

原罪

「閉塞してゆく現代を原始キリスト教が解き明かす」


この、「閉塞してゆく現代を解き明かす  原始キリスト教」2019 は、
先にDLマーケットから刊行していた「いま、なぜ原始キリスト教か」2016 を改訂し、内容を細部にわたり編集し直し、さらに数章を加えて改訂した。

キリスト教の外部にいる読者を主な対象にした書籍である。
一般的なキリスト教の紹介本は許多あるが、原始キリスト教を平易に一般人に知らせる書物はまず無い。
そこで本書を、原始キリスト教を知らせるツールとして上梓した。

本書は、現代世界の閉塞感を日頃感じている方々に是非にお勧めしたい。
それは社会問題だけでなく、個人が懐く人生への基本的な問いについて、それが創造の神となぜ関係しているかを知るきっかけとなるよう努めて書いた。


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A5版 Doc.226頁 電子版¥450 
2019年8月より再刊 


ブログ文のように改行が入るが、それは字の込んだ文章で、キリスト教にこれから近付こうとする対象読者が平易な文章と共に、見た目にも読み易い効果もあろうかと思われる。

 本書は、西暦二世紀に遡る原始キリスト教を現代の無宗教の方々に知らせるという、時間の超越を目指した企画であるが、出来上がりをざっと見直すと、古代人も現代人も倫理という面では、ほとんど変わるところが無いばかりか、その影響は今日切迫していることが改めて感じられる。

現代のおける、ヒタヒタと我々の周囲に忍び寄っている危機も、元をただせば、古代から解決できなかった「倫理」の問題に起因しているのである。
実に原始キリスト教は、たったひとつの問題に解決をもたらすことによって、宗教という神に関わる事柄のみならず、社会問題についても、また今日人類の直面している事柄にも解答をもたらすことが期待され得るものである。

だが、本書はキリスト教そのものを紹介するものであるので、現代的危機や問題の学問的記述は避け、主に聖書とその記述が伝える人間の本質的問題「倫理」を中心に、「この世」のありさま、そこからの救済としてのキリストの犠牲、キリストが用いる『神の王国』など、キリスト教の根幹を成す部分を、現代人の必要に向けてかみ砕いて解説したつもりではある。

全体は、前書きと後書きを除いて26以上の章で構成されており、ブログ文のままに、それぞれの章が独立し完結しているので、読者は関心の向く主題に応じて、どの章からでも読んで差し支えない。

もし、読者が内容に含まれるキリスト教特有の言葉に疑問が生じたときには、閲読中の章から別の章に移ってしまうことを却ってお勧めする。

このように各章が独立しているため、内容の重複が随所にあるのだが、通常の読書ならばしつこい反復になるだろうところだが、キリスト教初学者であれば、その反復の頻度によって重要度の高い事柄を把握する助けにもなろうかと思えた。

それでも、章の順番は次第に聖書の用語が増える方向性を持っており、内容もそれにつれて、キリスト教の中へと深まるように配置した。


その章建ては以下のようになった。

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序章 危機の時代
1. 「この世」というもの
2. 人はなぜ生きるのか
3. 「上なるもの」との関わり
4. キリスト教とは
5. エデンの園での試み
6. 政治と宗教という必要悪
7. 人の死後を問う
8.「魂」というキリスト教の死生観
9. キリストによる罪からの救い
10. 来るべき「神の王国」
11. 家庭という保護の場
12. 神が用いる「聖霊」
13. イエスとは何者か
14. キリスト教が成立した日
15. 原始キリスト教にない「三位一体」
16. キリスト教界の歴史
18. 争いの絶えない一神教
19. 選民イスラエルとは
20. 神の名が人を救う
21. この世の終わりと神の裁き
22. 旧約聖書を読む
23. 新約聖書を読む
24. 偶像視される聖書
25.「終末」に起る事態
26. 愛について

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この書物では、キリスト教というものが、それも一般的な教会のものとも大いに異なる古代の教えが、現代人に見えていない部分にスポットを当て、今日の人々がまさに直面している重要な問題点を知らせるという観点から、原始キリスト教に誘う目的を持っている。

おおよそ「重要な助言」というものは、本人の見えないところを指摘するものであるから、ともすると的外れにも思われがちであるのだが、千八百年前の古代キリスト教徒が現代人に指摘するところは意外かもしれないが、それゆえにも傾聴の価値があるといえよう。

キリスト教ばかりでなく、現代社会というもの、また人というものの根本を考える機会としてお読み頂きたくお勧めしたい。


 

アダムからの罪(原罪)


創世記の原初史にある二本(群)の樹、『善悪を知る樹と永遠の命の樹』が最初の人間たちの前に置かれた。
とくに「善悪を知る樹」の実に関する禁令をもって、人は初めて倫理の問題に足を踏み出すことになる。

これは、自らの創造者との関係を決定づける一度限りの機会であった。
それらの樹は、エデンの園の中央に植えられたからには、そこに重い意味があったに違いない。
最初の夫婦が、創造者との関係をどうするのか、という問いがその二択にあったと言える。

彼らは、自らを産み出しエデン(「楽しみ」)の園に彼らを置いた神と、信頼の内に結ばれ「忠節な愛」を示すだろうか?
この点を問う役割を負ったのが、園の目立つ場所に植えられた二本の樹であった。

もちろん、創造者は彼らを創ったのであるから、永遠の命を与え、エデンで示した多くの善意を続けてゆく意志があったと見てよいであろう。
しばらくは、アダムとエヴァは神の言葉を守って、これに近づくこともしなかったが、神に人が従うのを見て苛立つ者がいた。

彼はケルブと呼ばれる種類の天使であったが、アダムの以前に自らの天使としての「神の象り」による自己決定により、創造者を否認、つまり神を神として認めず、自らが「神のように」意のままに生きることを選んでいた。(エゼキエル28:16)
その根底にある動機は自らの貪欲と、創造者への愛の欠如であろう。
自分がよければ、他者はどうでもよい、という利己心の登場というべきか。

このケルブは、エデンの東の園で蛇を用いて、人の妻を慫慂する。
女は、蛇を通したケルブの発言を信じてしまい、食物として好ましく見える「善悪を知る樹」の実をもいで食した。しかし、すぐには死ななかった。それは禁令に従う意味を明らかに薄れさせたであろう。

それから、アダムと共にいるときにそれを差し出した。アダムは不意をうたれた形で試練を受ける。
そのとき、彼がどのように考えたのかは創世記に直接は書かれていない。しかし、神に問いただされた場面で「女です!あなたが私といるようにと与えた女が」と釈明していることからすれば、妻と運命を共にしたいという願望があったのであろう。
あるいは、「蛇」はアダムを観察し、彼を神から引き離す誘因があるとすれば、それは何が最も効果的かに気づいていたことは充分な理由がある。誰かを直接説得するよりも、その強い欲を引き出す方がずっと成功し易い。これが誘惑であり籠絡であり、その後の歴史も常に証明してきたことである。

だが、この方法論は結果からすれば然程重要ではない。
ともあれ、アダムは創造されて以来最初の「神の象り」としての自由な選択を神に対して行使したのであるが、それは利己の道であり、創造者ばかりでなく、その子孫に対しても利己的な振る舞いとなってしまった。エヴァに対しても正しく愛を以って振る舞ったとはいえないであろう。聖書には『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』と記されている。(ローマ5:12)

以後、人間は諸苦と死から逃れられなくなり、短く虚しい生涯を定められ、創造者との関係も断たれて、生きる意味も知らされていない。

この根本は「倫理」に属する問題であり、相手が自らの原因者たる神であるからには、創造者ばかりか他のすべての(「神の象り」をもつ)者との関係性、つまりすべての倫理の基礎において欠陥を生じた事となる。

彼らは裸であったことに気づくようになる。
自己決定を下したことがもたらしたプライバシーなのかも知れない。
神は彼らの選択に関与せず、善悪の木の実を食することから強制的に排除しなかった。
(これを性行為を経た事に解釈するには、既に「産めよ増えよ」の神命が下されており無理があるように見受けられる)

この欠陥は『罪』(ハッタートorハマルティア)と呼ばれ、以後は人間と神との間を隔てる越え難い障碍となって今日に及んでいる。(イザヤ59:2)

以来、人は神の創造物の価値に達しておらず、その「子供」としての立場を得ていない。(ヨハネ1:12)

作られたものが、作った者の意図に反して存在し続けるなら、製作者の意図はいつまでも成し遂げられないので、神が人に寿命を設け、やがて命が尽きるように「その日に死ぬ」、つまり、そのとき以来寿命を持つよう取り計らったことは理に適うものであろう。(創世記2:17/3:19)

一度、寿命をもつ不完全な生命となったアダムは、永遠の生命を子孫に伝えることはできなくなった。彼らは「善悪の木」から食さないなら「永遠の命の木」から食すことが許されたであろうが、いまやその木から強制的に排除されることになった。神は彼らが「永遠の命の木」にも近づくことのないようにと、燃えながら回転するという剣と天使らを配置したのであった。ここに最初の「権力」が登場している。(創世記3:24)

さて、人間の子孫に対して倫理的欠陥も遺伝し、人は社会を構成するのに自発的善意(愛)を期待できなくなって、逆に暴力という強制力を必要とするようになった。その強制力は権力であり、内向きの警察力と外向きの軍事力と呼ばれている。人間は互いの間にこれらの暴力を介在させなければ秩序を保つことも難しい、そこでは何が善で何が悪かを仮にでも決めておかなければ、生存さえ脅かされることになってしまう。

その原因は「貪欲」である。
それを規制するために善悪を定めた法が施行され、通貨が流通する。それらは、人の充足できる欲望の範囲を規定し、貪欲と貪欲の衝突を調停するものである。

しかし、市場経済は公平ではない、古代より今日に至るまで「顔に汗してパンを食し、遂に地面に帰る」の言葉は人類にとって真実であり続けた。それでも、大半の人々の困窮は、物資の不足が招いたものというよりも、人間が共通に抱く「自分さえよければ」という貪欲が招いた、財物の偏在に原因しているのである。

他方、この倫理上の欠陥は、神との間に断絶をもたらした以上、人間は神を探求するための「宗教」を必要とすることになった。

人間は自らの感性や悟性を用いて創造神を知ることができない。
創造された物を観察して物事を探求する「科学」、この人間の最大の叡智をもってしても、事象の彼方にいる神を指し示すことはない。この現実の理由について、聖書はやはり『罪』が神と人の間を隔てていると教える。 (イザヤ59:2)
そうなれば、人間は神を探るために神の側からの知らせ「天啓」を待つよりほかない。

アダムの踏み外しは、こうして子孫に政治と宗教を必要とさせたが、その原因たるものは、倫理上の欠陥、すなわちこの『罪』である。

そこで、政治と宗教に争うなと命じることには無理がある。
倫理的欠陥ゆえに両者ともに正義を持ち得ないから、互いに不確実な「人間の義」を競うばかりである。

むしろ、政治と宗教が存在するという現実こそが、人間に『罪』があることを証しているのである。
なぜなら、政治と宗教というこのふたつは、人間の『罪』への応急処置であり、「必要悪」だからである。

もし、真実に正義をもつ宗教なり政治なりがあるなら、疑いようのない上からの啓示を持つだろうが、現在までのところまったく見かけない。
誰もが得心できる普遍的な政治上、また宗教上の「正義」などは、元来『罪』ある人間に所有できるようなものでは決して無いからである。

そこで、政治と宗教は正解と思えるものを陳列するばかりで、多極化する定めを最初から負っている。
我々は、その中から、自分にとって比較的良いと主観的に思えるものを選び取るに過ぎないのだ。

そして、神の側から真実が知らされない限り、人はこれを続ける以外にないし、『罪』がある以上、人は正義も真実も知り得ず、虚しい生涯を終えるのみである。

では、神は『罪』ある人類を放置するだろうか。⇒ 「二人目のアダム」 



                                      新十四日派          林 義平

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関連項目
 「キリスト教の究極の目的
 「人はなぜ傷付きながらも政治と宗教を存続させるのか









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