キリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒にこれが曖昧であるのは驚くべき事であろう。

しかも、これを「天国」や「心の中に在る」としてしまうキリスト教指導者の多さも意外なほどである。

ユダヤ人に向けたマタイ福音書の「天の王国」[ἡ βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
また、異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書での「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂「天国と地獄」の「天国」と訳されるべきものでもなく、まるでかけ離れたものである。

そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。    (初心者向けの解説はこちらを


-◆イスラエルが選ばれ招かれた「神の王国」-------------------

さて、この天国ではない『王国』が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。

それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らとの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。

即ち、神YHWH*とイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とある。
これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。*(現在は発音不明となった神名)

この律法契約で約された事を、神は遠い昔のシュメール時代の人アブラハムに対し、『あなたの子孫によって、諸国の人々は自らを祝福するであろう』(創世記12:2-3)と語り既に約束していたのであった。つまり、「神の王国」はアブラハムに示された全人類を益する神の手立てなのである。

後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、『・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・』(ペテロ第一2:9)とキリストの弟子の中の聖徒たちに適用している。

その意味するところは、イスラエル民族の皆が誰でも祭司ではなかったように、キリスト教徒のすべてではなく、選ばれた『聖なる者ら』(ハギオイ)が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当し、その益が残りの人類に及ぶことである。

この王国に召され『選ばれた民』はペテロの指摘するように、その時には存在していたが、この王国の民が歴史上に最初に現れたのは、使徒言行録第二章に描かれた、聖霊降下が起こり、奇跡を行うキリストの業がその弟子らに継承された日からであった。

この点では、ペテロが述べたように、新約聖書の書かれた時代にはキリスト教徒の集まりのほとんどが、『聖霊』によって選ばれた『祭司の民』であったため、それを読む今日の人々は、『聖霊』もないのに自分もその一人であると錯覚するのであり、今日のキリスト教徒の大半がそのようである。
それで、「聖霊のバプテスマ」を具体的に理解しづらく感じるのはその証拠となっている。

さて、契約によってその『選ばれた民』となるべきイスラエルではあったが、律法契約はイスラエル=ユダヤ人によっては遂に守られることが無かったため、神はこの契約の破棄を決意する。(エレミヤ31:32)
では、神の王国の実現はイスラエル民族の不行跡によって阻まれたのだろうか?

神はそこでその意志を完遂させるべく、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を知らせていた。(エレミヤ31:33)この新しい契約と律法契約と入れ替えることで「祭司の王国、聖なる国民」を実現させる筋道をユダヤに確保したのである。
しかし、イスラエルは「新しい契約」に無事に入って王国の実現への道を保っただろうか?

やはり彼の子孫イスラエル=ユダヤ民族は、アブラハムへの神の不動の約束に基づき、『王国』の担い手、選民となるはずであった。
しかし、律法契約を守ることに失敗した彼らは、その違反の罪を負ってしまったまま、およそ六百年後に『契約の使者』またマーシァハ(メシア=キリスト)という『王国』の主要な王となるべきナザレ人イエスの到来を迎えることになった。(マラキ3:1)

しかし、メシアの到来はシナイ山が轟音を立てて揺れるような華々しいものとはならなかった。新たな契約は、生来の民全体とではなく、信仰を必須とする個人的なものであったからである。

ユダのベツレヘムから来ると預言されていたが、メシアの出身は北部ガリラヤの田舎ナザレであるかに見えた。そこでメシアを得るには信仰が求められる。

神殿崇拝に関わる血統になく、律法学者のような専門教育も受けていない。その廉潔な現れにユダヤ人は動揺する。なぜなら、多くの奇跡を行い、その言葉には説得力があるからであった。

バプテストのヨハネは、この人物の到来を予告し、律法不履行の民の罪を悔い、『律法の呪い』から解かれるようにと「悔い改めのバプテスマ」を施して人々を『契約の使者』であるメシアの到来に備えさせていた。(ガラテア3:13/申命記21:23)

メシアが現れたことにより、ユダヤ=イスラエルの人々には、いよいよ『新しい契約』に入る道が開かれるのだが、それは律法契約が遂に生み出さなかった『王なる祭司、聖なる国民』となるよう招くものであった。

それであるから、イエスが『見よ!神の王国はあなたがたの只中*にある!』と発言したとき、これはけっして諸国民に語った訳でないし、その理由もない。(*[ἐντος ὐμῶν]エントス ヒューモーン「あなたがたの内部に」)

『神の王国』とは、王キリストだけのものではなく、ひとつの国としての民を必要としたのであり、ユダヤはその民となるよう古来招かれていたのであり、その目的は、神がアブラハムに語られたように、全人類をこの世の虚しい状態から救うことにあった。

イエスは王国の民を召す業をパレスチナで始めていたのであるが、ユダヤ人の反応は芳しいものとはならなかった。原因はユダヤ人らの不信仰な傾向であり、それはモーセの出エジプト以来、この民の見せ続けた誉められたものでない性向であった。

アブラハムの子孫であるユダヤ人にこそ『王国』の機会が開かれていたのだが、まさに王国の王となるべく任命を受けたメシアが、『神の王国はあなたがたの只中にある』と言った通りに、光輝なく質素な身なりではあっても現に選民であったユダヤ人たちのところに来ていたことに注意を向けたのであった。

この時期、メシアを受け入れるユダヤ人は『「王国」に向かって殺到している』ともイエスは語っていたのであるが、それは素朴な平民たちばかりで、それに気付かない体制派のユダヤ人にメシアはその認識を促していたのである。(ルカ17:20-21/16:16)

したがって、イエスが『王国』について「あなたがたの只中に」と指摘したとき、ユダヤ人らには『王国』そのものが到来する姿を目にすることはなくとも、イエスがメシアであり、その『王国』の王がそこに立っているばかりか、信仰の目を以ってメシアをイエスに見ることのできた謙虚な平民のユダヤ人たちが、既にその『王国』を捉えつつあったのであり、それを『あなたがたの只中にある』とキリストは語っていたのである。

無論、イエスに信仰を働かせず、聖霊による奇跡の業にメシアを見ない頑迷なパリサイ人の心の中に『王国』があったとは考えられないが、メシアであるイエスは、ユダヤ人の中に現れようとしていた王国に信仰を促していたのである。その場に目立たない仕方で王国の王となるメシアが来ていたのにも関わらず、それらのパリサイは、なお「王国はどのようにして来るのか」と尋ね、そのメシアがそこに居ることよりも、華々しいダヴィデの王権の到来を期待したのであった。

そのように、パリサイを含むユダヤの宗教体制はナザレのイエスを認めず、与えられたメシア=キリストを退け、王国の民を集めず、却って散らしてしまい、その王さえもローマの権力に渡して処刑させたのである。メシアの罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。

この結果、ユダヤ民族全体としてはメシアの到来によって示されつつあった『王国』に反対したために、これを受け継ぐ望みが無くなり、信仰を抱いたほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する希望を繋いだのみであった。(マタイ21:45)



-◆律法契約に代わる「新しい契約」 ---------------------

そのため、神はイスラエル民族との関係を終了させて、別の契約を用いてアブラハムの血の繋がりではなく、アブラハムの信仰に適う人々を「内面のアブラハムの子孫」として『聖なる国民』に差し招くこととなる。

それはイエスの語った、婚宴を設けたのに招いておいた客の来なかった王の例え話にも表わされていたところであり、王は宴席を満たすために周囲から呼ばれてもいなかった部外者である人々を引き込んだのであった。(マタイ22:1-10)

この例え話の中の、招いておいたはずの呼ばれるに相応しいユダヤ人が招待に応じず、王の怒りを買って滅ぼされてしまったように、メシア=キリストを退け『王国』への招待を拒んだユダヤの世代が過ぎ去る前の西暦七十年に、神はその裁きを下し、エルサレムは神殿もろとも完膚なきまでにローマ軍に破壊され、以後ユダヤ人は流浪の民となってゆく。それは律法契約も神の恩寵もイスラエル=ユダヤを去ったことの明らかな証しであった。(ルカ13:6-9/19:41-44)

そこで「新しい契約」を通して、『王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物』たるべき『王国』の選民には、ユダヤ人だけでは足りず、イエスをキリストとして信じた諸国の人々も含まれ混じることになるのであった。(ローマ9:24-27)

イエス自身、異邦人の信仰の深さを高く評価しつつ、『いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。』と語っていたことがこうして現実となってゆく。(マタイ8:11)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)

それゆえ、これらのイスラエルに属さない人々は「接木され」、血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となったとパウロは言う。(ローマ11章/ガラテア3:19)

パウロは彼ら全体を『神のイスラエル』と呼び、他方でアブラハムの血統上にありながら信仰が薄くキリストを迎えなかった『肉のイスラエル』と対照して語っている。(ガラテア6:16/4:21-31)
即ち、真の意味での選民イスラエルは、必ずしも血統によらず、イエスへの信仰によって形成されたのであった。

これらの人々は、キリストから「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、破棄された「律法契約」に代わる「新しい契約」に属する人々である。(ヨハネ14:2-3)

この契約に与る、神の「特別な所有物である」「聖なる国民」の人々には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な奇跡を行う賜物が与えられたが、それは『王国』の一員として内定したことの印でもあった。
(エフェソス1:13-14)

つまり聖霊の灌がれない人は選ばれておらず、けっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もまったくない、むしろ『王国』の外に居て、「贖罪」というその優れた益に与れるのである。

『王国』を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその『王国』を受け継ぐことができることになっている。新約聖書に記された一定の道徳律は、聖霊が注がれ「新しい契約」に入った人々の守るべき『聖なる行状』の求めを示しているのである。(ペテロ第二3:14/コリント第一6:9-11) ⇒ 今日のキリストの不在

その将来のキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは「王国」出現の序章となる。
 ⇒ 聖霊と聖徒

この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の発言によって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせ、その後、選民のすべてが天に召される集められることになるという。(マルコ13:9-11)(これが「携挙」と思われているテサロニケ第一4:17)

これらの人々の中心である「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この王国の唯一首位にして世代交代の必要ない大祭司ともなる。(黙示録19:16/ヘブライ7:26)


人類の将来に関わるこの王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。



-◆「罪」に対処する為の「王国」の政治と宗教------------------------


人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは冷厳な事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この罪の苦悩からけっして逃れることはできない。

ここに「救い」と謂われるものが見えてくる。
人間は「罪」あるゆえに誰も「真の正義」を持てないが、「神の王国」は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。
宗教であれ、政治であれ、すべての人間製の「正義」は神の義の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は、宗派であれ党派であれ、他のどんなイデオロギーであっても「完全な正義」を持っていないからである。

しかし、キリストと聖なる者らで構成される「天の王国」こそは、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にはすべての生ける人々に、神の創造物たる「神の子」に復する機会を提供するのである。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)

つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教を終わらせてしまうであろう。(コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか

まさに政治と宗教は、人間の原罪に対処するための必要から生じた一時的「対症療法」だからである。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。

初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。



-◆「王国」の到来する将来 ----------------------------------


『神の王国』の来るときについて、イエスは幾つかの例え話を用い、自らが一度去った後に再び(地に王権を持って)来ることを何度か述べていた。
それは使徒たちを通しても繰り返し語られており、イエスが肉体で到来するのではなく、「パルーシア」[παρουσία]というギリシア語で表される方法で地に帰還するのであり、それは『雲に乗って』あるいは『雲と共に』という状況の下である。

「雲」が視界を阻むもので、聖書中で「雲」はその働きをもって度々語られている。
すなわち、不可視性の象徴であり、イエスの帰還を「到来」や「再来」とせずに、「その場に関わりを持つ」「監臨」また「臨御」という意味のある「パルーシア」の語を用いたからには、その帰還は単純なものではない。

キリストが『雲の内』に、つまり世人からは見えない状態で世に対して『臨御』し始めるとき、『聖霊』は『聖徒』に再び語らせる。
彼ら聖徒たちは支配権を巡って為政者と対峙し『神の義』の代弁者となるので、彼らには誰も抗弁することができない、人間の世界は太陽も月も一切の光を失ったかのようになるという。(ルカ21:12-14/マタイ10:17-20)

つまり将来に、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、聖霊を通して知らされる神の義の前に、己を正しいとするどんな宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、その立場は溶解してしまう。

キリストの前に地は平坦にされ、一切の権威も権力も平伏すべきときが来るであろう。
しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)

裁きの行われる前に何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることは、エジプト以来示されたことである。

しかし、大半の宗教家も政治家も『王国』を非現実と看做すので、キリストに従うことは難しいだろう。そこで将来現れる『聖徒』の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し『世を征服』するであろう。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)

そのときキリストの姿は引き続き雲に隠れており、為政者も人々も目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので、神の王国を現実のものとは思わないか、あるいは思いたくもないであろう。(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)

そのときには、かつての個人的な罪は然程の問題ではない。
問われるのは神を神とするかという「エデンの問い」である。
たとえ、人々の中にキリストを罵倒していた者があっても、聖徒を支持するならどんな罪も許される。そこに誤解があったからである。(マタイ25:40)

しかし、聖霊の発言に逆らうものは許されることがあるだろうか?
聖霊に逆らうのは確信犯であり、そこに完全な選択がある。神に敢えて逆らうことを選ぶのである。

こうして将来、聖徒が語るときに、我々は聖霊に対してどう反応するかが問われるであろう。
(マタイ25:31-46/ルカ12:10-12)


そして幾らかの時の後、人類の裁きの進行と共に、試された聖徒たちの選びが確定することで『王国』が完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて世界に顕現(エピファネイア)するときに、すべての者は地上に起こる事柄を通して象徴的な不可視の雲の中に王の臨御を認めざるを得なくなる。⇒ 黙示録の四騎士

そこではすべての者がイエスの臨御を、その時に起こる意外な事態を通して「見る」ことになるだろう。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)

それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)



-◆『王国と神の義を求める』とは何か---------------------------


それで『王国』の来る前から、人々を憎ませ裁き合わせるあらゆる宗派から逃れ、また分断し相争わせるあらゆる党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)

それらは互いにも、また聖霊に対してさえも敵意を煽り、自らの義に固執して神の義を否認し、なお現世のままに永遠に争い続けようとする凝り固まった「蛇の道」となりかねない。(イザヤ57:21)

一方、王として処刑されたキリストと、その同じ道を歩む『聖徒』たちは、死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、倫理的に浄められた人々であり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど政治を委ねるに相応しい。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)

それゆえ、人間の政府ではなく『神の王国』を待ち、人間の様々な正義ではなく『神の義』を求めよ。これこそが「主の祈り」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)

これが、『神の王国』であり『世の救い』であり、すべての涙を拭うものである。
不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いや、その概念をさえ超える世界、神の創造物の立場(子)に復帰した輝かしい人類を作り上げるための手立てこそが『神の王国』である。

神の王国の千年の間に、人々はイエスの主要な教えであるアガペーと呼ばれる愛を思考と行動の原理として向上してゆくことになり、その到達点は悪意、欺き、争いがなく、互いに気遣う幸福な社会であり、それこそ創造において意図された人間本来の姿であろう。

黙示録21:3-4はこう述べている。
 『見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。以前のものは過ぎ去ったからである』。

それでもなお、あなたは「天国」の至福を望むだろうか?
もしそうなら、それは誰のためだろうか?

「天国」が個人を益するものとすれば、『神の王国』は人類に幸福をもたらすものである。
このふたつは、それを望む人に正反対の精神を抱かせるものと言える。
つまり、利己心と利他心ほども異なることになる。




              新十四日派   © 林 義平

 『神の王国』 -新十四日派の綱領として-

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 ⇒ 聖霊と聖徒
 ⇒ キリストの王権拝受は何時か
 

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