キリスト教の真にキリスト教たる真髄は何であろう。
それはユダヤ教からの見事な脱皮、次元上昇を成し遂げさせた事柄である。それはキリストの教え「愛の掟」とも呼ばれる。
ある人は「愛」と「掟」という、「内」と「外」ほどに相反する言葉の結合に矛盾を感じるかも知れない。
しかし、使徒ヨハネは、神がキリストを人間の罪の犠牲とすることによって、人間に真の命を賜ったので、我々には「愛し合う務めがある」と書いており、(ヨハネ第一4:11)他の使徒たちも「愛」の実践がどれほど重いものかを強調しているのである。
では、人の生活の隅々にまで影響を及ぼし得るキリストの「愛の掟」の『愛せよ』とのわずか一条がどれほどのものかを考えてみよう。
それにはまず、キリスト教の母体となったユダヤ教の在り様から説き起こすことをお許し願いたい。
-◆法の外面性-----------------
ユダヤ教とは、法律条項を遵守するべき義務を負うものであった。
概して、法規を守らせることは、人への外からの作用である。
先に書いた記事「なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存在させるか」でも触れたのだが
この社会で法を守らせるのものは、最終的には権力であり強制である。
「背後に剣の無い契約など、虚しい言葉に過ぎない」とホッブスも言っている。
しかし、イスラエルの神は初めから主権をかざし強制に訴えることはせず、契約の形を以って「律法」を与えた。
これが即ち、契約の仲介者の名を冠した「モーセの律法」と呼ばれるものである。
イスラエルは契約の一方の当事者であり、当然にその「律法」の遵守を期待されたのである。
神は彼らが契約を踏み外すことがあったからとて、即座に介入し、律法の施行を強要することはしなかった。
しかし、契約した以上、当然律法に関して行ったことの酬いは引き受けねばならない。それはある意味で甲乙の当事者として対等なところのある「契約」であり、そのため、イスラエルも強制を受けるわけではないにせよ、当然ながらその責を問われることになるのであった。
しかし、イスラエルはその歴史の大半の期間に亘って律法契約には従わず、その掟を無視し、あまつさえ異教を奉じるなど、律法の精神に逆行さえしていたのである。これらの行動によって彼らの内面の如何は充分に示された。
結果として、ユダ王国のマナセ王の頃までには、神は律法契約は破綻したと看做し、その決意は二度と翻ることがなかった。(列王第二24:3-4/エレミヤ15:4)
さて、彼らの律法契約のこうした不履行の原因はどこにあったか。
ひとつ考えられるのは、法規の遵守が必ずしも履行者の内面を形作らないことである。
もちろん、モーセの律法に人の内面、つまり特質を培うよう命じている条項がないとはいえない。
例えれば、レヴィ記19:18の「あなたは仲間(同胞)を自分自身のように愛さねばならない」は、愛という人の特質を直接に要求することに於いて、一般的法律にない特色を有している。
こうした律法を持ったにも関わらず、イスラエル=ユダヤは歴史上、その同胞によって圧制や搾取が為され、無辜の血も夥しく流されている。
彼らは契約に無頓着であって、律法中の基礎的な規定も大いに無視していた。
その結果、イスラエルの神YHWHは遂にその民を捕囚に処し、70年もの間この民族からエルサレムに在った神殿が失われ、この間、律法条項の多くが履行不能に陥り、律法契約は一度破綻したことがあった。
契約の証である聖なる箱は消失して戻らず、聖籤「ウリムヴェトンミム」も遂に見いだされなかった。
これらを失ったイスラエルは律法契約に対して不履行でいたことは、もはや拭いようのない事実となった。
こうして契約遵守を失敗した後、彼らは許されて新バビロニア帝国の頚木を脱し、悔い改めて帰還した幾らかの民は神殿を再建して崇拝を立て興し、それからしばらくは律法を守って過ごすのだが、やがて反対の極端に傾くようになってしまった。
つまり、律法条項の遵守を至上命題に、外面を整えることに腐心し始めたのである。
そこでイスラエル民族は、律法の条項を守らなくても、あるいは守っても、どちらにしても、その内面を向上させ進歩することなく、その延長線上でメシア=キリストを退けることになってゆく。
ユダヤ人のメシア拒絶に挙げられた理由は、イエスが律法の細目を守っていないとの外面的な判断によるものであった。
この点、それらのユダヤ人が、イエスから規定の外的墨守より内面の特質を培うようにと訓戒されたのも頷けるところである。(例 マタイ9:13)
「法」とは本来、倫理的秩序を保つためのもの、欲望の対立を避けるため、あるいは悪行とされるものを防ぐものである。畢竟、人が神をはじめとする他者と、どのように共に生きてゆくかを規制するものである。
これについては別の記事でも書いた通り、法律の存在そのものが人間に倫理上の欠陥のある証拠であり、人間にこの欠陥がある限り、我々は法律というものからけっして逃れられないであろう。
さて、モーセの律法には我々の知る今日の法律に似たところがあり、最大の共通点は条文によって人を外部から規制するという根本的方式にある。
この外部から人を縛る方式では、その動機が利己心であるにせよ何にせよ、人は出来るだけ拘束されたくないので、人はどうしても抜け道を探ろうとしがちである。
結果として、法律は法律を呼び、いよいよ人を多くの縄目で縛りつけることになってゆく。そこではこの世の習いに従い、貪欲と規制とがどこまでも競い続けてゆくのである。
ユダヤのイエス後の歴史をみると、トーラー(律法「教え」)にミツヴァ(伝承)を加えたが、その目的はトーラーを守らせるための規則であった。ミツヴァは編纂されてミシュナーとなり、さらにゲマラ(注解)が付され、それらを納める無数の規則で成るタルムードとなった。そしてタルムードは現在も条項を加えつつあり、その細かい規則は膨大な数となっているが、条規を守らせる為に条規を増加させるという点では諸国の法と同じであろう。
イスラエルの律法との関わりを観察すると、神から与えられた律法をどれほど仔細に守っても、やはり外から人を規制する「法規」が倫理的に人の内面を向上させることは難しいようだ。
それは、条項に従うにしても従わないにしても然程変わりはない。⇒ 「山上の垂訓に於ける律法の成就」
我々はイスラエルの歴史から、人の倫理的欠陥の改善について法規というものがほとんど役に立たないことを見る。
法規は社会の秩序維持のための当座の必要のみにおいて効用があるだけであろう。人そのものの性質を変えはしない。
畢竟、「法律」とは人間に宿り続ける倫理上の欠陥への応急処置、また対症療法のようなものでしかない。
他に何か意味があるとすれば、我々人間が皆、そこそこの悪者であることを知らせるばかりであろう。⇒ 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか」
では、倫理問題への根本治療のような、内面から人を変えるような方式が果たしてあるのだろうか?
法律を超越するそれは、如何にして人から善的特質を導き出すのだろうか?
-◆愛の内面性-----------------
「愛すること、これがわたしのおきてである」
「愛の使徒」とも呼ばれるのは十二使徒のヨハネである。
彼は自らの福音書を書いたときに、他の三つの(共観)福音書の存在を知っていて、それらに書かれていないことを記すよう努めたと伝えられている。(教会史Ⅲ24)
わけても、外面重視のユダヤ宗教領袖らの手に掛かってイエスが刑死する前の晩、あの浄められた夜の記述は五つの章にも及び、彼のこの晩の印象がまことに大きく深かったことを窺わせるものである。
彼は十二人の中ではおそらく最年少で、そのため彼はイエスに可愛がられ、福音書の中で「主に愛された弟子」と自ら称している。
ゼベダイの子ヨハネは、食事の席でそのふところに在り、イエスとの最後の晩に、主自らの死を記念するようにと「主の晩餐」を制定したときを共にしたが、彼はそのことは他の福音書筆者にまかせて、むしろ主の口から出た言葉に多くの注意を向けている。
その中でも白眉とされる部分が「愛の掟」であろう。
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「あなたがたはわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うようにせよ。これをわたしの掟として与える」。「友のために自ら命(魂)をなげうつことより大きな愛はない」。(15章)「あなたがたに愛があれば、人はそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」。(13章)
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ここに我々は何を見出すだろうか?
これこそ、キリスト教の真髄である。
同様に他の使徒たちも「愛」についてはその重要性を書き記して憚らない。
パウロはコリント第一13章の全体を以って愛が如何に大きなものかを述べた。
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たとえ、わたしが様々な言語、天使の言葉にさえ通じていても、愛がないなら、それは単にやかましいだけの銅鑼やシンバルのようなものだ。
そして、預言の賜物があってすべての神聖な奥義に通じていたとしても、あるいは、山を移動させてしまうほどの信仰さえもっていても、愛を欠くなら何の意味があろう。
自分の持てる家財のすべてを人々に施し、自分の魂(命)を他の人のために差し出したところで、愛をもっていないなら何の価値もないのだ。
愛は忍耐強く、妬みや誇りや傲慢を行なわない。下劣な行いをしない。利己的にならず、苛立つことをせず、根にもつこともしない。
不義を喜ばず、真実と共に喜ぶ。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐える。愛はけっして絶えることがない。
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論理に通じ、解釈の先端を走った「奥義の家令」であるパウロであってさえ、愛が知識をどれほど超越するかをこのように言葉を究めて説いている。
また、立場は大いに違えどもパウロと協調して働いたイエスの弟ヤコブは、律法中のひとつである「隣人を自分のように愛せ」を「王たる律法」と呼んで、様々な愛を実践し、それが意義を持つようにせよと人々を戒めている。それが言葉に終わってしまっては、確かに愛は空しくなるに違いない。
そして愛の使徒とも呼ばれるヨハネは、イエスの命じた愛せよという掟を高く掲げる。
その第一の手紙の第四章で彼は愛することを、まことに美しい言葉を用いてこう説いている。
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愛する者らよ、我々はこれからも愛し合ってゆこう。
愛こそは神からのものであるから。
また、すべて愛するものは神から生まれている。
神は愛であり、愛の内に留まる者は神と結ばれており
神はその者と結ばれている。
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キリストの直弟子らは、彼らの主が述べた愛の重要性をよくよく認識していたことは明らかである。
彼らがギリシア語で「愛」と記すとき、幾つかあるギリシア語の「愛」を意味する単語のうちでアガペー” ἀγάπη”(第二音にアクセント)を選んだ。
それは、ギリシア語で使用頻度の少なかったものであり、それを用いることを通してその「愛」の優れた性質を知らせるようなニュアンスがあったという。(元の「アガペー」の意は「奴隷など立場の低いものへの慈愛」であったという)
イエスが弟子らに教えた「愛」とは、一般に見られる自分の身内や、自分によくしてくれる者に示す愛を超えるものであることは、「友の為に命を投げ打つ」という言葉にも示されるが、「敵をも愛せ」の言葉はさらに鮮烈な印象を与えるものである。
そして、使徒ヨハネは第二の手紙において、第二世紀に入ろうというその当時の弟子たちに次のように訴えている。
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わたしは新しい掟ではなく、当初からの掟を伝える者として願う。
それは、わたしたちが愛し合うことである。
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この手紙を書いているヨハネは老境に達してなお、65年以上前のイエスと過ごした最後の晩のキリストの言葉の重みを告げている。
そして、この「愛」が「律法」と比較した場合にどれほど画期的なことであるかを指摘していたのは使徒パウロである。
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あなたがたは、この愛し合うことの他には誰にも、また何をも負ってはならない。
他の人を愛する者は、律法を完うしているのである。・・・
どんな掟があるにしても、律法は即ち「あなたは隣人を自分のように愛さねばならない」の言葉に要約される。
愛は隣人に悪を行なわない。それゆえ、愛は法律を完うするものなのである。
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こうして我々は、人を外から規制する「法」を超えるものを見出す。
それは人の内面から発するものであり、自ら望んで自らを規制するものである。
その人は、他者の喜びを自らと共に味わうことを望む。
それが即ちアガペーと呼ばれる「愛」である。
「愛は法律を完うする」というからには「アガペー」のその持てる本質が世に満ち亘るなら、今日の人々の貪欲を制御するために世界に行き渡っている外的な「法の支配」を不要なものとさせ得るであろう。
もし、人がアガペー愛の完全さを体現するのであれば、その人に「法律」という外面からの規制の必要はまったく無くなってしまい、倫理上の完全さに到達して、創造されたままの輝かしい「神の子」としての姿に回復されることであろう。
「罪」が神と人の間を隔てるものなら、「愛」は人を神と結ばせ、人と人の真の絆とも成り得るものである。
モーセの律法は600近い規則で構成されていたが、「キリストの律法」ともいえる「愛の掟」はまったくシンプルである。
しかし、我々がそれを行なうとなれば、律法のように、いやそれ以上に生易しいことではないであろう。
他者が定めた規則に従うだけで自分をよしとするのは、ある意味で容易なことである。その人の内面は問われるわけではない。
しかし、「神と人を愛せ」という一ヶ条だけなら、人は自らの良心や共感などを動員しなければならず、その都度、内面の特質が問われてくるのである。それが即ち『自分にして欲しい通りに』の意味である。
そして「愛の掟」を守る度に、経験を通しその人の内でより善いものに更新されることによって、生きた掟となり得る。
しかも、それはまったく個人の問題であって、外面的に互いに裁くことの出来ないものである。
それゆえ、この余りに簡単な掟ではあっても驚くべき内容が込められている。
その掟がシンプルであるゆえに、自由自在にあらゆる状況に様々な仕方で適用ができ、つねにこの「掟」に従おうとする各個人の限界や進歩の過程にも応じたものともなり得るのである。
キリスト教はこの「愛の掟」において史上かつてない宗教上のすばらしい次元上昇を果たしたのであり、これ「愛の掟」は、存在するすべての宗教を超絶するもの、他の追随をけっして許さぬものであろう。
そこには今日の世界を動かしている貪欲と、それを押さえ込むための法と権力というシステムの対極がそこにある。つまり、今の世の中は互酬システムで築かれたものであり、その原則は「他人のためには働かぬ」というところにある。
それは「友のために命を投げ打つ」また「敵をも愛する」精神とは大いにかけ離れていよう。
この愛をこの世に在って体現したのは、まさしくイエス・キリストであった。
神を愛して、自らは質素な生活の中で父を高め讃え、神殿を猛然と浄め、父を誤解する者を正し続けた。
また人々を愛し、多くの病を負い、悟りの遅さを忍び、死に涙し、遂に神と人の為の極刑にその命を散らすことを惜しまなかった。
その偉大な生涯は、あらゆる創造物に史上一度示されたアガペーという愛の真正な体現であった。
-◆アガペーは行動原理となり得るか-----------
他方、今日の社会はまったくよそよそしいものである。
我々は他者からのサーヴィスを受けるために代価を与えねばならず、毎日の生活が便利ではあっても、必ず通貨を持って買い物に行くのであり、利害は常に天秤にかけられるものである。
人は金銭を得るために愛想をよくし、支払う者は与える者であるかのように振る舞う。誰のお陰で生きて行けるのかとでも言うだろうか。
金銭はその人を規制し、願望の遂げられる範囲を定める役割を持っている。即ち「貪欲」への抑止力である。
この金銭というものが市場経済を作り上げるのだが、それは公平を装いながらけっして公平なものではない。貧しさに苦しむ人々をしり目に富は偏在する傾向があり、有り余るところには更に集まってくる。
誰かが富むということは、この世では必ず他の人々の貧しさの上に成り立つのであり、富者がキリストに喜ばしく語られたところを新約聖書に見出すことはまずできない。キリストに従うことは『駱駝が針の穴を通るほどに難しい』とされ、『金を愛する者ら』はイエスの話が不快であったともいうのである。(ルカ16:14)
その一方でイエスは、貧窮にある寡婦が神殿に僅かな額を奉納するのを見ては、その信仰を非常に高く評価された。
金銭は弱者に苛酷に作用し、その生活を悲しむべきものにするが、それでも富める者らにあっても必ずしも栄えを楽しませるものとはならない。そこにも勝ち負けのあるギャンブルのように動揺したものがある。「市場」とはアガペーの反対の動機に突き動かされ、「貪欲」という以上に定まった目標の無い、どこに向かうか分からない潮流そのものである。それは人々を呑み込む無慈悲な大波のようであり、当て所も無くバブルの有頂天と恐慌の絶望とを行きつ戻りつしていないだろうか。(イザヤ57:20)
創世記に語られる「あなたは顔に汗してパンを食し、ついに地面に帰る」という苦難の生活を逃れ出る人は常にごく僅かであった。
今でも一日2米ドル以下で生活する人々は人類の半分にも達していると言われるが、やはり過去についても経済学者は歴史の状況を俯瞰して「人類の歴史の大部分において、人は底知れず貧しい状態にあった」と述べている。(ダスグプタ「経済学」p17)
物資が不足しているのだろうか?統計からは必ずしもそうではないという結果になる。所有の大小が公平な分配を阻害しているのである。
富める者と貧しき者とは、様々な争いによってバランスを取らざるを得ず、また、富める者同士も、しばしば更なる富を巡って奪い合うことが起こり、一瞬にして莫大な富が消え去る恐怖と無縁でもない。個人同士の争いと同じく、国家同士も互いに利害を巡って対立し、ときに軍事力などの行使するが、それは兵にも民にも苛酷な仕打ちを行うものである。命を賭した人々が礼を尽くして葬られたとしても、奉られるほかに何の酬いがあるだろう。
キリストの弟ヤコヴはその原因を次のように指摘する。
『 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのか。
あなたがたの肢体の中で合い争う欲望が原因ではないのか。
あなたがたは貪っても得られず、人殺しをする。熱望しても手に入れることができず争い戦う。
あなたがたが得ることができないのは、あなたがたが願わないからだ。
なるほど願いはする、だが受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからなのだ。』(ヤコヴ4:1-3)
ここでヤコヴが指摘するような人間の貪欲に対処するための法による支配、つまりこの世の現状であるところの、愛に基づかない貪欲のシステムがもたらした悪弊に、人々は既に充分すぎるほどの辛苦を味わったであろう。
では、キリストの教える「愛」に支配された社会の実現は可能だろうか?
実のところ、それはまったく無理である。
なぜなら、僅かな不純物が澄んだ水の清さを曇らせて全体を損なうように、貪欲に振舞う者がひとり存在するだけで、その者が他者の愛の上にあぐらをかいてしまえば、クリスタルのような愛のシステムそのものは容易に破壊され、愛の世界は一瞬にして隷属の帝国と化してしまう。
しかも、この貪欲は性質が悪く、清く歩もうと願う者にも病気のように巣食っており、誰もが自己の内面のこの敵と戦う必要があり、我々は度々敗北するのである。
では、すべてが「愛の掟」に従うように強制できないのか、といえば、強制されたときに「愛」は失われ、そのような強制の世界なら既に我々の目の前にある。即ち、「法と罰」の世界である。
そこで我々の切なる希望は、「愛の掟」をシステムとするであろう「神の王国」と呼ばれるキリストの治める世界、神の意志により将来に現出するであろう新制度へ向かうのである。
その王国とは、「罪」という倫理的欠陥を負った人間の成し遂げる社会ではけっしてなく、人間以上の存在なくしてはけっして到来することのないものである。
それが証拠に、人類は不公正な貪欲に基づく互酬制度を止めることができないであろう。
もしそれを過去のものとするには、人類が一斉に倫理上の大変化を起こす必要があるが、それは現状をどうみても不可能であり、貪欲を改善することすら必要を感じない人々も多いであろう。
一方、キリストの「愛の掟」に従おうとする者であっても、この世の利己的なシステムの中では、周囲の貪欲のゆえに注意深くなければ自滅しかねず、できることは限られてしまう。(イザヤ58:10)
この世がそれを許さない造りで出来ているからである。(ヨハネ第一5:19)
それでも、「愛の掟」を守り行うよう努める価値は大いにあるといえる。なぜなら、それはキリストの教えに沿って自己の内面(社会ではなく)が変革される願いを表すのであり、それを正しく『悔い改め』と呼ぶのであろう。それは特定の違反を悔いるのではなく、この殺伐たる世にあっても懸命にキリストに倣いイエスをアガペーの師と仰ぎ努めることである。
アガペーという愛はキリストによって示されたが、我々はそれにどう応えるだろうか。
もう、殺伐としたこの世の有り様に倣って『罪』の奴隷に甘んじる必要はない。
そうする人々こそが、まさに「キリスト教徒」と呼ばれるに相応しい。
その弟子らの愛を見て「人々は彼らがキリストに従う者であることを知る」とイエスは言ったが(見分けるのではなく*)、無情に代価と報復を求める「互酬の原理」に動かされるこの世にあって、「アガペーの原理」に沿おうと努める彼らの姿は浮き立つように見えるだろう。
彼らの生きるべき世界は、もう既にこの世ではなく、来るべき世界「神の王国」となっている。キリストに同じく『世は彼らに価しない』。
新十四日派 © 林 義平
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*愛によって「真のクリスチャン」が見分けられるのなら、それは存在し得ない「愛(アガペー)の体現者」を求めることになり、人間すべてが愛に対してほとんど同じような不完全さに留まっていることを無視し、「より以上の正統さ」を求めて虚しく「愛」を競わせることになり、競われたとき愛は失われ、優越感と対抗心の単なる相克となるであろう。
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