果たして、これほど人々を仲たがいさせるものが他にあるだろうか?

政治と宗教、このふたつが何故これほどまでに世界を争わせるかと、人は歴史上しばしば問いかけてきた。

ジョン・ロックはこの問題から始まって「人間悟性論」を著したという。
つまり、何が正しいのかについての人間の認識が一致しないからである。

例えば、神というものを考えるときに、人間は生まれながらに神を認識できるのかが問われた。
その考察の果ての結果は「否」とでた。
人は生まれながらには神認識で一致できないのである。

また、その後にエマヌエル・カントが、絶対の存在を人間理性で捉えうるかについて、四つのアンチノミー(二律背反)を用いて、それが不可能であることの証明を行った。

彼は、我々と絶対的存在の間で理性は宙吊りになり立ちすくむと言って、人間の最高の能力である理性判断を用いてさえ、絶対的存在(神)に到達することはないとした。

これを記した「純粋理性批判」はキリスト教ヨーロッパに衝撃を与える。

この結論の回避に向けて様々な試みがなされたが、幾らか長い目で見ると、カントの結論はキリスト教の攻撃に向かってしまったようである。

所謂、ヘーゲル左派とキリスト教を内部から崩壊させるための「高等批評」の人間主義の進展、さらに続くマルクス以降の全宗教を否定した思想に向かう系譜である。これに西欧での1830-60年代に於ける急激な技術の進歩が重なり、人間能力の賛美は無神論を装飾してゆく。


しかし、神と人との間に隔てる越えることのできない深い渓谷が存在し、両者に断絶があるということに慌てふためく必要はない。

聖書そのものが、神と人に断絶があると繰り返し述べるからである。

神と人を隔てるものを聖書は「罪」(ハッタートorハマルティア)としている。
これは、我々が時折犯す個々の過ちや不法行為を意味するわけではない。
むしろ、人類の内にあって自分たちではどうにもならない道徳不全症候群、「倫理上の欠陥」を指している。


では、我々人類は「倫理上の欠陥」をもっているのだろうか?
人は助け合うことができ、社会は愛によって支えられているのではないか?
善意は我々の周囲にごく自然にみられ、その恩恵によって生きているのではないか?

この疑問への解答を最も鮮明にしているのは、実に「政治」というものの存在である。

政治の本質的構成要素が何であるかを考えてみよう。

政治は人々を支配するひとつの方法であり、互いの間に秩序をもたらす為の取り決めである。
我々は政治を行う政府を必要としており、これがなければ危険な無法の中に投げ込まれることになってしまう。

いったい何が「危険」なのか?
他の人間ではないか?

我々は常々、様々な願望を抱いて生きているが、その想い描く願望の中には他人の権利を侵害するものがあるのではないか?いや、むしろ、そのような欲望の方が多い、それを貪欲というべきか。

したがって人間は(特に)他人同士の関係においては、保護の壁を必要としているのである。
それは「法」(便宜的正義)を定め、それを実施する「権力」(公認の強制力)を必要とする。それがなければ、我々は互いの危険のためにひと時さえ安心しては過ごせないことになろう。

たとえ政府が存在し、施行される法が如何に優れ、人に多くの益をもたらすように案出されていても、人々を服従させてそれに違反する者への報復力が伴わなければ、あるいは十分な実施力がなければ政治は為されていないことになり、これは無政府状態と呼ばれている。警察のストを想像するに我々は戦慄を覚えないだろうか。

従って、政治を政治たらしめるものは法を施行する「強制力」に他ならない。
我々はその力を、被支配民に向けた内側へのものを「警察力」と呼び、外側に向けたものを「軍事力」と呼んでおり、どちらも有無を言わさぬ暴力をその強制の原資としている。

そうなると、我々人間は相互の間に暴力を介在させていることにならないだろうか?
つまり、我々は互いに対して「危険」なのである。


では、なぜ危険なのか?
すなわち、倫理上に欠陥を抱えているからではないのか?

我々が倫理的に完全の域に達していたとする、そうすればどれほど警察や軍隊の必要があろう。
あるいは逆に、倫理的に完全な人の間で暴力を振ったり脅かしたりすれば、それは単なる狼藉であり、そうする者こそ倫理上破綻している。

しかし現状の人間は、暴力無くして公共の秩序を保ち得ない。
他者を助ける能力がないわけではない。善意をも表すこともできるのにも関わらず、監視カメラはすべての人を捉えているのである。
何故か?

この質問に示唆を与えるのにフランス革命を前にしたモルリイの著述がある。
彼は言う、人間には貪欲という悪徳があるとして・・

「この世における唯一の悪徳は「貪欲」である。他のあらゆる悪徳はどんな名で呼ばれていようとも、すべて貪欲の和声であり、音階であるにすぎない。・(略)・虚栄、うぬぼれ、傲慢、野望、うそつき、偽善、非人情などを分析してごらんなさい。・(略)・その一切のものは精巧だが危険きわまる要素たる所有欲に帰一するのである。」と指摘した。(
M.Morelly “Code de La Nature”「自然の法典」1755大岩誠訳p26

しかし、この問題は近世に限らず、ギリシアの哲人を悩ませ、ガウタマ・シッダールタが考慮の中心においたものであり、人類は有史以来この問題と格闘してきたであろう。

政府は人々の際限の無い欲望の衝突を避けさせるために通貨を流通させ、本人の遂げられる欲望の範囲を規定する。それは一見公正のようでいてけっしてそうではないが、ともあれそれに従う以外にはない。交換社会に関わらなければ人間らしい生活水準は保てない。
これが、欲望への配分であるが、大半の人々は満足してはいないだろう。人類が通貨の交換に満足していれば、金銭がらみの犯罪は無く、使徒パウロも「金銭はあらゆる悪の根だ」とは言わなかったであろう。

しかし、政府の権力が通貨を介した売買を保証しなければ、人々は買い物ひとつできず、生存も脅かされかねないだろう。しかし、金銭そのものは人間だけが認識する仮想のものであり、政府が保証して初めて意味を成すものに過ぎず、人間の倫理問題そのものを孕んでいる。それは自然界からすれば、極めて異様な抽象物なのである。

だが、人と人が生きようとするときに金銭は欠くことができない。
人は一人では人らしく生きられないからである。いや、金銭や財が無ければ、人は生存さえ危ぶまれるのが「この世」というものではないか。

そして売買とは何か?
それは交換取引であり、報酬なしには互いのために働かぬという礎の上に築かれた互酬制度である。

それがなければ、人間社会では互いの貪欲の危険に曝されてしまうのである。
ヤコブはその書簡の第四章で争いの原因を端的に指摘する。
「あなたがたの争いや戦いはどこからくるのか。それはあなたがたの肢体の中から挑発する欲望ではないのか」「あなたがたは間違った仕方で求めるので得られない」それゆえ「争いを続け、戦い続ける」というのである。(ヤコブ4:1-3)

これが人間というものの実状ではないのか?
我々は互いの貪欲(罪の発現)を牽制するために、個人に勝る力、権力を必要としている。
それでも人が争いを続けているのは、政治というものが、人間の貪欲を調整するのに不十分であるからではないか?
つまり、政治とは人間の貪欲に対処するための応急処置また対症療法である。

秩序のために有無を言わさぬ暴力を必要とする人間とは、何者であろう。
やはり、人間は倫理上の欠陥である「罪」(原罪)を持っていると言えるのではないか?
我らはこの「罪」から逃れない限り、いつまでも争い続けるであろう。

そして、創造の神。その業が完全であるといわれる存在者が、初めから人間をこのように作ったとすれば、我々はそのような神を心底崇め捧ることができるだろうか?
人々はむしろ、神が居るのなら、なぜ世界にこれほど害悪があるのか、と問うのではないか?

もちろん、創造の神はこのような人間を創造のはじめの企図に沿うものとはみていない、とても神自らの「象り」であるなどと認められないに違いない。

それゆえ現在の人間は、誰も神の創造物たる「神の子」の立場をすら得ていないのである。


モーセの律法の祭儀は、人間と神の大いなる隔たりを「血」の犠牲の必要なもの、また、罪の内在する人間が神の栄光を見れば死に至ることを何度も示している。これはとても「親子」の関係とは思えない。

カントが人間理性では神を見出すことができないとしたように、我々は神についての情報を我々自身からは知り得ず、上から啓示される以外に探りようはないのである。
それらの情報とは、神に関する知識のみならず、自分は何者で、何ゆえ生き、またどこに行くのかというような、人の事象の彼岸にある創造への問い、人間自らは探すことのできない答えの正解をも含む。

それゆえ、神との断絶のゆえに、人間は神を求めるに当たって宗教を必要とし、上からの情報を求めるのである。
もちろん、事象の彼岸にある形而上の問題を扱うこの分野では、理性的判断を用いられず自然科学の客観的検証方法は通用しなくなる。そこで偽者の入り込む余地は大いにあり、実際、宗教界ではどうやらそのようである。

もちろん政治に同じく、人間の行う限り如何なる「宗教」も客観的な実証を伴う答えを持ち得ない。
にも関わらず、宗教家の多くは自派の正義を唱えるが、これは相克の源であるばかりか、神だけにあるものを自らにあるとする越権を犯しているであろう。

そして相争う宗教には、却って唱えるような「正義」がないことが、その争いや敵意の存在によって証明されることにはならないだろうか?
逆に言えば、正義も倫理も無いから争うのである。


ゆえに政治と宗教には人間の罪(原罪)が刻印されている
すなわち、倫理的欠陥があり、そこに上なる者との断絶があり、これが政治と宗教を存立させている。例えそれらの応急処置が在ってさえ、人に「罪」ある限りこれらの正義の無い不完全で闘争を招く分裂支配から人類はけっして逃れられないであろう。利己的欲の有るところでは分裂が必ず起こる。

したがって、いずれの政治や宗教であれ、それらは上手くつきあってゆかねばならない人間の必要悪であって、共に「ベター」を求める「罪」への不完全な「緊急手当」のようなものであり、それに気づく者にとっては政治も宗教も自分の身も心も捧げつくすには値しないものとなろう。

やはり『罪』は致死的なものであることには変わりない。
まして人間製の政治と宗教は不確実な偶像のようなものに過ぎず、人に真の解決を何らもたらさず、崇め奉るべきものでもない。不義にして死すべき肉なる人間に元々真理も正義も無いのである。それこそが「罪」の存在証拠であろう。

聖書は、人の「罪」のはじまりを創造者からの離脱にあるとする。
事の始まりにおいて倫理の基礎を破壊していたのであり、人類の創造者への無頓着が自己存在理由を足蹴にし、それが一切の倫理の土台を損なっているのである。

世のおおよその人には、「罪」が人類にあまねく見られるので、人間の不倫理性は当然の事と思われているだろうが、聖書は「罪」がアダムからのものであることを明かしてこう述べる。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』(ローマ5:12)

アダムからの「罪」の遺伝のような連なりを認めるか否かに関わり無く、明らかに我々は互いとどう生きてゆくかを弁えているとは言い難い。それはこの世を一瞥するだけで事足りる。

しかし、創造の神は、人間を創造物として本来意図した状態に引き上げ「神の子」の立場に引き上げるために「任命した」(「キリスト」の意)仲介者とその手立て「神の王国」を設けたことが聖書から知れるが、人間の創造者が関わるこの「贖罪」こそは「罪」の根本治療となり得よう。

人間はどんなに優れた倫理教育を受けようとも、誰も根本から倫理上の欠陥を修復することなどできるわけも無い。それは、まさに汚れた者が汚れた者にその汚れた手を差し伸べるようなもので、自分自身が欠陥者だから誰も浄められないのである。

上の領域からの「贖罪」という根本治療がキリストの血の犠牲を介するという以外に具体的にどうなされるかと知る者は居ない。だが、神の王国の果てには、人類を傷つけてきた政治と宗教を最終的にまったくの無に帰さしめることは聖書の知らせるところである。

倫理を回復した人類には、政治も宗教も似つかわしくもない不要物となる。それを成し遂げる「贖罪」は上から差し伸べられる清い手の「救い」であり、創造者たる神YHWH*の経綸、至上の手段である。*(発音不明の神の御名⇒シェム ハ メフォラーシュ

それは、シュメール時代の人物アブラハムからだけでも四千年に亘って進められてきた悠久の神の歩みであり、それを留め得る者は誰もいない。今日それを証しするのが、創造の神の人類救済の歩みを記した「聖なる書」である。



 ⇒ キリスト教を価値の高みに昇らせた「愛の掟」

 
                             新十四日派      © 林 義平
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上記内容は拙著「神YHWHの経綸」下巻の一部を要約し書き改めた。














政治と宗教.