quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

滅びの子

神の家から始まる裁き 試練と背教の時代


時は否応なく進み、状況は刻々と変化を遂げるものである。
西暦60年代に入り、今までにない迫害にキリストの弟子らは直面していた。
その原因を作っていたのは、キリスト教とは相容れないユダヤ民族主義の各地での高まりであった。

そこでは使徒ペテロまでが、パウロのように手紙を介して、ポントス、ガラティア、カッパドキア、アシア、ビュチュニアとアナトリア半島北部方面の聖徒たちに励ましを送る必要を感じ取っていた。
 

ペテロは、迫害によって動揺し兼ねない人々に『あなたがたが召されたのはこのためだ。つまり、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからである。』と記して窮境に陥った弟子らを励ます必要を察知していたことを示す。(ペテロ第一2:21)

それゆえ『あなたがたの間に降りかかっている火は試練として臨んでいるので、何か予想外の事態に面したかのように動揺し怪しむべきではない。』『キリストの名にゆえに謗られるのであれば、あなたがたは幸いだ。栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿っているからである。』(ペテロ第一4:12.14)

迫害の困難な状況の中で、彼らには守るべき清さがあった。
即ち、『悪を行って苦しみに遭うよりは、善を行って苦しみ』『肉体の欲望を避け』『王や総督に従い』上位者を敬い、キリスト教徒の自由を『悪の覆いとはせぬよう、むしろ自らを神の奴隷の身分に置き続けるように』することで、彼らの主に倣う歩みを続ける必要があった。
そうするなら『諸国民の間にあって、常に見事な行状を示し、あなたがたを悪行者とする彼らが、来臨の日には却って神を崇めるようになる』ともペテロは言う。(ペテロ第一2:12)

彼らに約束されたのは『朽ちず汚れず、褪せない資産を受け継ぐ』ことであり、その彼らは『“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎのために選ばれた』者たちであることが明記されており、ペテロは彼らがモーセによって律法契約が目指しながらも、それが遂に生み出さなかった『選ばれた支族、王なる祭司、聖なる国民、神の格別な所有に帰する民』となったことを宣しており、これ以上ない仕方で彼ら弟子たちが霊を受けた『聖なる者たち』であることを云い表している。(ペテロ第一1:2-4)


まさしく、彼らは中にはユダヤ人ではない者も多かったが、いまや『新しい契約』に共に預かる者らであり、生涯を通してその契約を守ることで、神の御前に信用貸しされた「義」の立場を聖なる行状によって守る務めがあった。(ペテロ第一2:10/ローマ8:1/コリント第一6:20)
彼らは、聖霊が注がれることで任命された『聖徒』であり、キリストと共に『神殿』即ちヘブライ語においては『神の家』を構成することになる格別な弟子であった。即ち、裁きの始まる場としての『神の家』である。 (ペテロ第一4:14/コリント第一3:16/エゼキエル9章)

そして今や、あのペンテコステの聖霊降下から30年が経過し、キリストの初代の弟子たちには新たな時代環境の変化が臨もうとしていた。

西暦40~50年代の『順調な時期』は去りつつあり、弟子たちは厳しい現実に直面し始めていた。

しかし、聖霊の降下が止んでしまったわけではない。では「聖霊の賜物」というこれ以上ないほどの恵みの最中にあって、なにゆえ当時のキリストの弟子たちには多くの困難が臨んだのか。

ペテロは新たに直面することになった時代をこう呼んだのであった。
『今や、裁きが神の家から始まる時が到来したのだ。』(ペテロ第一4:17)

キリスト・イエスと同世代の弟子らが齢六十を越える老境に達しつつある西暦60年代に入ると、彼らの周囲は目まぐるしいほどに変化を始めていた。それは初代の聖なる者らに臨む試練の時であり、彼らは『新しい契約』をその生涯を通して守り通すか否かの裁きに面したのであった。


◆老齢に達した初代の聖徒

西暦60年に入ると、パウロは難船を経ながらもローマに送られ、その後の二年間の軟禁生活に入る。
そして弟子たちの中心と目されていたエルサレムではエクレシアの第一の柱である「義人ヤコブ」、即ちキリストの弟を62年に殉教で失う。
そして、64年にはローマ大火が起きている。火災の下手人とされたキリスト教徒への迫害が始まったともされているが、その以前にユダヤ教徒によるキリスト教排撃の火の手が各地に上がっていたのである。

かつては、激しい迫害に敢然と立ち向かった者らが徐々に去り、「義人ヤコブ」の仲裁を得て比較的平穏に過ごせてきたキリストの同世代にも、はっきりと試みとなる時節が近づいてくる。

それはユダヤ民族の愛国的メシア願望による、思想の先鋭化であり、歴史の記録も教えるように、それまでは律法に従うことが宗教的責務であったものが、民族社会的義務の様相を帯びてきたのである。パレスチナばかりか、各地の居留民の間でもユダヤ愛国主義は異様な高まりを見せていた。彼らにとって、イエス派は「悪しきユダヤ人」にほかならず、そのころのシカリオイと呼ばれる集団は、国粋主義者でない要人を暗殺するようになってゆく。

他方、ローマ側から観る場合、ユダヤ教徒とユダヤ・キリスト教徒の違いは判然とはしない。そこで彼らはユダヤ人とだけ見做される。そうしてキリスト教徒は、ユダヤ教徒からも、諸国民を含む帝国側からも圧力を受ける難しい立場に立たされることとなる。 


神殿の石の床に跪いてイスラエルと神との執り成しの祈願を日々捧げ続けていた為に、その膝の皮膚がラクダのようになっていたという「義人ヤコブ」の願いも空しく、ユダヤの体制は彼の兄ナザレ人イエスをまったく顧みることなく、「ユダヤ人の良心」とも言われたこの義人までを除き去ってしまった。それは巻き起こりつつあった動かし難く強まる時代の渦潮の影響であり、ユダヤ民族を中心に巻き込んでやがてその体制をもろとも沈めてしまうことになる。それを媒介していたひとつに、帝国が差し向ける総督の質の低下が関わっており、ヤコブの死後着任したアルビノスは横暴な支配を行い、少なからずユダヤ人の義憤を買っていたのだが、続いて赴任したフローロスに至っては、ユダヤを挑発しているとさえ云われるほどの圧制を行ったとされる。
 

使徒パウロは、このヤコブ殉教の報をローマで受けたことであろう。
おそらく翌63年に一度釈放されたパウロは、『自分もアブラハムの後裔にしてベニヤミン部族の者であり』『わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されても厭わない。』とまで云うほどに同朋ユダヤ人を深く気遣い「ヘブライ人への手紙」を認ためたのであろう。(ローマ11:1 /9:3)
そこで、新約聖書中にパウロらしからぬひとつの書簡が残ったのは、ヤコブの殉教がきっかけであったように思われる。

パウロは自分の評判がユダヤ人の間で頗る悪いことを考慮したようで、その書簡は頭書に自分の名を出さない唯一のものとなっている。
「ヘブライ人への手紙」と呼ばれるそれは、パウロによってヘブライ語で書かれたのであろう。ユダヤ人に向けて書かれたそれが、後になってからおそらくはギリシア語を話す諸国民の信徒らの依頼で、ルカやマルコのようなヘレニストである誰かによってギリシア語に訳されたため、文体がパウロらしくないかも知れないが、これほどの認識を以ってこの画期的内容を記せる人物が、この「奥義の家令」を除いて誰か他に居ただろうか。

この書簡ではキリストのモーセに勝ることが強調される、その祭司権の優越性、様々な旧約の事柄がキリストにあって成就したことを教え、『律法は来るべき事柄の影であったが実体そのものではない』と古参のヘブライ人の知覚力を刺激する。(ヘブル10:1)
イエスこそが、繰り返されることの無いひとつの永遠の犠牲を捧げたことを多くの章を費やして語るパウロの言葉は、実にあと三年で勃発することになるユダヤ騒乱と、その結末としてローマの攻囲の下に七年後に歴史上からまったく消え去ってしまう神殿祭祀について、今日の我々のように時代の下流から見る場合、この教訓がまったく重要で危急に培うべき認識であったことが分かる。

このヘブライ書簡で、パウロはキリストについてこう述べている。
『キリストは、時代の終わりに*、ただ一度限り、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られた』(ヘブライ9:26)*(シュンテレイア アイオノーン)
この『時代の終り』(あるいは世代)というのは、何の時代の終りであるかといえば、それはモーセの律法の時代の終りを指して、彼がユダヤ教のものの考え方から離れるようヘブライストらに語りかけていたというところが順当な捉え方であろうし、もし『世代』と解釈するにしても、キリストを退けた『世代』への『火のバプテスマ』による、ユダヤ体制の崩壊を含意して注意を促していたのかも知れない。(マタイ3:12/ルカ19:41-44)


動物の犠牲によるユダヤ律法体制と、イエスの犠牲によるキリスト教とは、元来、両立し得ないものであり、その対立が愛国主義の先鋭化と共に動かし難い相違として浮かび上がり、メシアを退けたうえヤコブにまで殉教の死を与えたユダヤは、悲惨な終局に向かって更にその行き止まりへの道を猛然と突き進んでいた。


それゆえ、パウロが後半生を捧げて教えてきた「業」に対する「信仰」の優位を、今やこれらのヘブライの初期キリスト教徒がしっかりと把握し、来るべきユダヤ体制の終焉を切り抜ける重大性は強調し過ぎることが無いほどであったことであろう。

こうして、パウロは本来ヤコブのテリトリーであったユダヤ人らに、態々その危急のゆえに憎まれ顔を出してまで同族に語らずにはいられなかった。その理由はヤコブ殉教によるそのヘブライストたちの中心的「柱」と目された「義人」の不在であったろう。(ガラテア2:9)

使徒たちをはじめとする初代の弟子たちは、自分たちの世代のうちにキリストの帰還が為されると考えていたことは聖書中に見られる通りである。使徒パウロも『生きながらえて主の来臨の時まで残る』と自らのことを西暦50年頃に記している。(テサロニケ第一4:15)

だが、彼らの期待通りにキリストの臨在は起こらなかった。そしてパウロの認識も後に変化を見せる。それから十五年を経た最晩年の西暦65年頃には、二度目の逮捕を受け『わたしが世を去るべき時は来た』と言っている。(テモテ第二4:6-8)

その後、パウロはペテロとほぼ同じ時期に処刑される。パウロはローマ市民であったためか斬首となり、磔刑を宣告されたペテロは、主と同じ様で死ぬことを憚り、自ら望んで逆さに磔されたと伝承に伝わっている。
「聖なる者」(ハギオス)は、生涯を通して忠節を保ち、主に倣った死を遂げるべき「新しい契約」に聖霊によって預かっている。

この初代の弟子らに臨んだ試みの時期に、使徒のペテロも警告の書簡を各地へ送る。
まさしく、これは律法体制の「終わりの日」であるばかりでなく、初代の「聖なる者たち」が生涯の終わりの時期を迎え、彼らの全体が試みられ裁かれる「使徒時代の終わりの日」ともいうべき時節に入っていったからである。

だが、ペテロは聖霊の霊感を受け、当時を越えて更なる将来に目を向け預言して続ける。
『終りの時には、嘲る者たちが嘲りながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。』

『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、清く信心深い行いをしていなければならない。』(ペテロ第一3:3-)

理知があり神を認識できる創造物には、押しなべて創造者への見方が問われるのであり、その為にサタンという存在は、神が初めから彼を反逆者として創造したのではないにせよ、その不忠節を教唆する歩みを通して、他の理知ある創造物を試し、その結果として意図せずに創造物の自由意思を担保する役回りを負ったのである。
それゆえ、地に来た御子にあってさえ、四十日の試練の後にサタンからの試みを受けることを神はよしとされたのであった。

では、その御子キリストに連なるべき聖徒たちはどうか。
その「聖霊の賜物」に表される「召し」に相応しい生涯を通すことができるだろうか。即ち、イエスへの忠誠の歩みを主の来られるまで、あるいは死に至るまで行い遂げるか否かは、彼らの「救い」に関わるところであり、ひとつ間違えればユダヤ体制と共に滅びに巻き込まれ、そのうえに『神の王国』のひとりと数えられず、真のアブラハムの裔とされることからも退けられてしまうのである。それを狙って猛り狂うサタンは獅子のように獲物を求めて歩き回るかのようであることをペテロは警告する。(ペテロ第一5:8)

それは聖徒であればユダヤ人も異邦人も変わるところはない。残された生涯の間に『清い行状と崇敬の思いを以って主の日を待つことを十分に心に留める』ことは彼らの最大の務めであった。(ペテロ第一3:11)

聖徒であれば、彼らの死後は天に迎え挙げられ、キリストと伴なる聖なる民の一員と成り得るが、もし、地上の歩みを相応しく終えていないなら、彼らの目覚めたときに灯火の油は足りず、『愚かな処女』に例えられるとしても仕方のないことであるが、それはもはや花婿と宴席を共にはできず、外の闇に残されるばかりである。なぜなら、天に召集されてからでは、サタンは放逐された後で、既に天におらず、試みの受けようもなく、彼らは地上の歩みであってこそ、主に忠誠を示せたはずであった。(マタイ25:1-12)

そして、このような聖徒にとっての試練の時代は、ユダヤ体制の崩壊の後も引き続いていったことは、その後の書簡も知らせる通りである。彼ら契約に属する者たちの間での分離は依然として厄介な問題を引き起こしてゆくのである。


◆使徒たちの終わりの日

西暦67年頃にペテロとパウロが相次いで世を去ると、第二世代ともいうべき聖徒らも含め、なお残された者たちがいた。
既にイエスの弟ヤコブの亡き後、そしてペテロとパウロも去った後に、トランスヨルダン方面の山地にエルサレムの荒廃を逃れたユダヤ人の弟子らの中から、引き続き警戒を緩めることのないようにとの声が上がる。

イエスの末の弟ユダが、『一度限り伝えられた信仰を守って厳しい戦いをするように』と書簡に記して兄ヤコブ亡き後にその声を上げた。
仲間たちは既に一通りのことを学んだが、その聖なる民にもう一度注意を喚起したいと彼は言う。(ユダ3)

『愛する人たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出せ。 彼らはあなたがたにこう語った。「終わりの時には、嘲る者どもが現れ、不信仰な欲望のままに振る舞う」と。 この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊*を持っていない者なのだ。』(ユダ18-19)*(プネウマ「聖霊」を含意)

ここに『終わりの時』の言葉が現れており、そこでは仲間内からの異分子の出現について容赦なく描写する。
『これらの者は、無遠慮にもあなたがたと愛餐を共にしても私腹を肥やすばかりで、風に吹かれて行き惑う水無き雲、実を結ぶことなく枯れ果て、晩秋に根扱ぎにされた樹木、その身の恥を泡のように吹き出す海の荒波、永遠の下界の闇と暗さが定め置かれている迷える(軌道を外れた)星辰』。(ユダ12-13)

これらの者らは聖徒の交わりにあって意味なく、その欲望のままに過ごすばかりで、神の聖霊の祝福にも実は与ってはいないことが暴露される。この輩には聖徒としての印である聖霊があるように装うとしても、実はそれを持ってはいないとも警鐘を打ち鳴らしている。

この『終わりの時』が先に逝った使徒たちの予告した時代であり、ここでユダはペテロの言葉を引用しているが、パウロも、荒野のイスラエル人たちの不行跡について触れた後に、このように語っていたのである。
『これらの事が彼らに起ったのは、他の者に対する警告としてであって、それが書かれたのは、時代*の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(コリント第一10:11)*(アイオノーン「世代」とも)

これは西暦七十年のユダヤ体制の「終わり」に近づいたペテロやパウロの世代の「終わり」だけを意味したのだろうか。

しかし、それから30年ほど後の、第一世代のその最後を飾る使徒ヨハネはユダに続いてこう記している。
『子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたが以前から反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知るのである。』(ヨハネ第一2:18)

これらの書簡の内容を時代に沿って追ってゆくと次のような結論に至る。
即ち、聖徒たちの第一世代が老齢に達し始める頃から、彼らへの試練が強まり、その後もその状況が続き、それは第二世代以降まで続き、遂に聖霊で油注がれた聖徒のすべてが地から消え去るに至るまで続いていたという事になろう。その間に聖徒らは試され分離が生じていった。

これについて使徒ヨハネは『反キリスト』を挙げており、それは『キリストが肉体で来たことを証ししない者』であることも知らせている。

しかも『彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒に留まっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが明らかにされるためである。』とも語る、即ち、『反キリスト』と呼ばれる者らは、以前には彼らと共に居た者らであることも教えている。

では『反キリスト』は聖徒であったのだろうか。
ここでイエス自身が語っていたことで留意する価値のある言葉をマタイの福音書に見出す。
曰く『その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか」と言うであろう』。(マタイ7:22)

『悪霊を追い出す』権威を持ち、多くの力ある業を行う者が奇跡の聖霊を賜った聖徒でなくして誰であろうか。しかし、聖徒の身分は不動のものではない。
それゆえに『新しい契約』が取り結ばれたのであり、契約とは不確定な事柄があるところで必要とされるものではないか。

これについてパウロはこう言っている。
『最初の確信を最後までしっかりと持ち続けてこそ、我らはキリストに連なる者となれるのだ。』(ヘブル3:14)

ここで我々は、キリスト自身の言葉も思い起こすであろう。
『狭い門から入るようにせよ。滅びに至る門は広く、その道は広く、そこから入って行く者は多い。』(マタイ7:13)


したがって、聖霊を灌がれた者と雖も、『キリストの掟』を全うせず、その清い立場を敢えて汚すならば、キリストは決して彼らを是認はしない。マタイの例えの結末はこうなっている。
『そのとき、わたしは彼らにはっきりと、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。』(マタイ7:23)

主イエスは、これに類する例えを多く残されていて、他にも「小麦と毒麦」「引き網」「結婚式」などが思い浮かべられるところである。

これらの離れる者たちは、単に「罪」の傾向が彼らの忠誠の邪魔をしたということにはならない。ヘブライ書でパウロが言うように、そこでは『一たび、光に受けて天からの賜物を味わい、聖霊に預かるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後なお堕落した者は、再び悔い改めに立ち帰らせることはできない。神の子を自分の手で改めて磔刑に付し侮辱する』とされる者となるのであり、『故意に罪を習わしにするのであれば、もはや何の犠牲も残されてはいない。』(ヘブル6:4-6/同10:26)
これが即ち、キリストが『けっして赦されることの無い罪』と呼んだものである。(マタイ12:31)

では初期聖徒たちの終わりの日の試練に際して、『新しい契約』を離れてしまい、聖霊によって油注がれた立場を汚してしまった者たちが出たのだろうか?
使徒ヨハネの言葉、『反キリスト』が彼らから出てきたという指摘には、そうではないという反論の余地が無いようである。


キリストの仮現説、つまり『キリストが肉体で来たことを証ししない者』としてのグノーシス主義というユダヤ教とキリスト教の中間派生的宗教の台頭をヨハネは強く懸念していたであろう。
その教えには、ユダヤ体制の崩壊によってユダヤ人が感じたに違いない失望が込められており、すべての造物主は不完全な劣った神(デーミウルゴス)であったので、この世の有り様もすべては虚しいとする。
それらの「デーミウルゴス」の一人には何とYHWHまでが、「ヤルダオバート」という別名ながら悪しき神に含まれているという、根深い神への失望と恐るべき誤謬の入り混じったものとなっていった。

グノーシス派の創唱者の一人と目されるケリントスなるユダヤ人を使徒ヨハネは個人的に知っていたと古代資料が語っている。
ヨハネはキリストが間違いなく肉体で来られたという『この教えを携えずにあなたがたの許に来る者を迎え入れても、挨拶の言葉をかけてもならない』と命じていたが、ヨハネがエフェソスの浴場にケリントスの姿を認めると、そこから出て行ってしまったとさえ伝えられている。
このような偽教師の存在は、確かにしっかりと使徒に追随しないような聖徒らには紛らわしいものであったことであろう。グノーシスではキリストの教えとまったく異なる教理と伴に、キリスト教の自由さとは不釣合いな禁欲の道徳も教えられていた。

この使徒時代の終わり以降に現れた様々な派はケリントス派だけでなく、イエスは予告された預言者ではあっても普通のユダヤ人であったと見做したエビオン派は、あのエルサレムの滅びをトランス・ヨルダン地方に逃れた人々から派生したと言われる。
また、自分たちの教祖が天啓を受けたと主張するエルカサイ派は、使徒ヨハネの最晩年頃に東方パルティアに出現したらしいが、旧態依然として全信徒に割礼を強制していた。そこからマニ教が興されるのは時間の問題となっていた。
これらはユダヤ・キリスト教からの変形であり、ユダヤ教を引きずった人々の好感と支持を得て、神秘主義と結婚禁止と禁酒などの律法化に再傾斜していった。

これらの人々も、初めはヤコブの指導の下にあったのであろうが、エルサレムの柱が抜けてしまった後に、分派は分派を産んで広がってゆく。その中にあってキリストの末弟ユダは、かつての使徒たちの言葉に注意を喚起し、残された使徒らも迫り来る背教の侮り難い勢力との日々の戦いを余儀なくされていった。


◆終末の聖徒の試練

この時代の試みの時期に離れ去った者らがあったということから、我々の関心が「世の終末」の聖徒たちに向けられて不思議はない。即ち、将来に再び現れるであろう、聖霊を受ける人々と、そこからの異分子の出現についてである。

初期の聖徒たちに試練の「終わりの日」が臨んだように、将来の聖徒らも地上で試されなくてはならないに違いない。『あなたがたは王や高官の前に引き出され、それは証しをする機会となる』と予告された主の言葉は終末に関わるものである。(ルカ21:12-15)
したがって、終末の聖徒らは、聖霊の言葉を賜って世の為政者たちと対峙しなければならず、そこで迫害は当然覚悟されるべきものである。(マタイ10:17-42)
そして、初期と同様に、聖霊を受けていながらも試みに篩われ、契約から脱落する者があるとしても驚くべきことではない。

まさしく、終末への示唆に富むダニエル書の記述にそれを見出すのである。
『キッテムの船が、彼に立ち向かって来るので、彼は脅かされて帰り、聖なる契約に対して憤り、事を行うだろう。彼は戻って行き、聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』

この部分は、ダニエル書の記述の終わりも押し迫った11章30節に在り、いよいよ世界の終わる時が近づいた場面での『北の王』と呼ばれる政治勢力の、対抗する『南の王』との『押し合い』の過程で生じることとされている。

ここで、『北の王』は『聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』と明瞭に書かれていることは注目に値する。
これこそは、聖霊で油注がれ、その奇跡の賜物を一度は得た者らが、『新しい契約』から離れてしまうが、それを『北の王』は『用いる』というのである。
加えて、この続く部分も衝撃的である。
『彼から腕(軍勢)が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる』

こうして、この謎の言葉『荒す憎むべきもの』の姿について我々は幾らか進んだ理解に入ることができる。
即ち、『荒す憎むべきもの』は『神殿と城郭』また『常供の燔祭を取り除く』という言葉によって、聖なる者らの捧げる崇拝を中止に追い込むものであり、それは『腕』とよばれる権力つまりは軍事的強制を用いてそれを成し遂げるということであろう。
これこそは、黙示録に在る『七つ頭の野獣』の行うところでもある。
そして、そこには『聖なる契約を捨てる』元聖徒らが関わると云う。

ここで思い起こされるのが、パウロがテサロニケの聖徒らに書き送っていた、『キリストの臨御』の起こる終末に関する次の記述である。
『だれがどんな手段を用いるにしても、それに騙されてはならない。まず背教が起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れてからでなければ終わりは来ない。』(テサロニケ第二2:3)

ここで『背教』という言葉が挙げられている。これについてパウロは、彼の当時もその『不法の秘事が働いているが、それは今のところ抑制しているものが無くなるまでのことであり、その後に「不法の人」が姿を現す』と言って、「背教」と「不法の人」とに注意を向けさせている。(同7-8節)

その『不法の人』にはサタンの働きが在って『あらゆる偽りの力と、徴と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行う』と言う。

背教への抑制力であった聖霊が地上を去った後に、つまり西暦第二世紀以降の古代からパウロに語っていた「背教」と「不法の人」が現れたかと云えば、そのように考えねばならないわけでもない。

なぜなら、この書簡を記していた時分のパウロ自身の認識では、キリストの臨在は自分の生きている間に起こることを想定していたが、実際には後に自分の死を悟るように変化しているでのあるから、『今のところ抑制しているものが無くなるまでの』時代の終りとは、パウロ死後の古代を必ずしも想定する必要はない。


むしろ、『不法の人』とは、聖霊の賜物のような力ある業を行う偽預言者となるのであろうから、それは単に異なった教理を説く指導者では役不足なのであり、プロテスタントが16世紀に唱えたような『不法の人』をローマ教皇と観ることさえも、器としては不十分と言えるほどである。

なぜなら、教皇と雖も、『聖徒』のような奇跡の賜物も、あるいはそれに匹敵するものも何ら持たなかったからである。終末に勃興する『背教』に比べれば、今日のキリスト教界の逸脱など取るに足りないほどであり、一たび聖霊を受けた者らの背教は究極的な神への抗いとなり、この世に最後をもたらす最悪の宗教となろう。
だが、実際の『不法の人』が不思議な力を持って聖徒に対抗し、また聖徒を征服しようとも、彼らの霊が神の聖霊の価値に勝ることはない。

それはパウロが『ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。』としているように、モーセの奇跡に立ち向かったエジプトの祭司らの限界と同じくなろう。(テモテ第二3:8)
というのも、黙示録がこの点を語っているからである。

『また見ると、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、徴を行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に戦いをするためであった。』(黙示録16:13-14)

こうして我々は『新しい契約』から堕ちた元聖徒の偽りの栄えとその末路を眺める視座に就くのである。即ち、彼らはモーセに逆らった異教祭司の対型となり、ある程度の不思議な力を発揮はするが、それは『かえる』止まりである。なぜなら、エジプトの祭司が行えたモーセの真似事は『かえる』を出すところで留まってしまったように、必ず限界を迎え、ハルマゲドンの決戦を用意し、シオンに対して全人類軍を整えても、その行く先には『火の湖』が定め置かれているのである。(出埃8:7・8:18-19/黙示録20:10)


◆背教の行方

だが、それでも『不法の人』の行うところによって世の相当数の人々が聖徒を支持するところから離れることは、上記の引用文にも示される通りなのであろう。
このような『不法』の働きは初期聖徒の時代にも働いており、それはやがて聖霊の油注ぎを受ける者らが絶えて、キリスト教界がキリストの教えから離れ、他の宗教と本質的に変わるところのないご利益宗教に堕した以上の『背教』となることであろう。

『不法の人』は『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して、自分は神だと宣言する。』ともパウロは書いている。(テサロニケ第二2:4)
これを推進するのが『北の王』であろう。『この王は、その心のままに事をおこない、すべての神を越えて、自分を高くし、自分を大いにし、神々の神たる者にむかって、驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』(ダニエル11:36)
そして、この王は旧来の宗教を顧みることをしないとも預言されている。
『彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好む者も、いかなる神をも顧みない。彼はすべてに優って、自分を大いなる者とする』(同37節)

それゆえ『北の王』が新しく自分を崇拝させる宗教を興したとしても不思議はないようだ。また、旧来のすべての宗教『大いなるバビロン』を何ら顧みず、却ってこれを破滅に至らせることにも躊躇はないのであろう。そこには自分への崇拝が既に存在しているからである。

それを支えるのが元聖徒の『偽預言者』らであり、彼らの教唆はまず聖徒を攻撃させて地上から一掃し、次いで諸宗教「大いなるバビロン」も亡きものとする。こうして『北の王』を至高の賛美へと高め讃えさせるが、それも長くは続かない。
なぜなら、聖霊の声に信仰を働かせる人々の集団である『シオン』を『北の王』が軍事力を誇示して恫喝したところで、この王は天使長ミカエルの手に掛かり、あっという間に『人手に拠らず』歴史の舞台から消え去ってしまうからである。(ダニエル11:45/8:23-25) ⇒「二度救われるシオンという名の女」

だが、聖徒らを亡き者とし、『大いなるバビロン』をも滅亡させたところの、この新たな崇拝は過ぎ去ることなく、偽預言者と共に、まだひと時の間は存続することになる。
そこで、黙示録は『子羊のような二本の角を持った』別の野獣に、その傲慢な崇拝を継続させ、これは広い範囲の人々に強制を施すことに成功するようだ。(黙示録13:15)

こうして、人類は神の聖霊の声や徴に信仰を懐く人々と、それに頑強に抵抗する背教に組する無数の人々とに二分されることであろう。ここに終末の裁きが成し遂げられ、いよいよキリストの王権領受の瞬間が近付くことになる。即ち、『神の怒りの葡萄搾り場を踏む』という「戦うキリストの日」である。⇒ 「黙示録の四騎士」
我々はここに、聖霊に信仰を懐くことが簡単ではないことを悟らねばならない。

かつてパウロはこう語っていたものである。
『不法の者が来るのはサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と徴と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである。
そこで神は、彼らが偽りを信じるように惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、裁くのである。』(テサロニケ第二2:9-12)

ここで重要なことは、信仰を懐きさえすれば、あるいは神に関わる進んだ知識を取り入れさえすれば、自分は安泰であるなどと思うべきでないことである。まして、特定の宗教組織への所属など何の保証にもなりはしない。



◆アナニアとサフィラを見よ

この夫婦は自分の畑地を売った金額をごまかしてまで、バルナバのように人々から讃えられることを望んだ。そこで悪巧みを仕組んで裁かれ死に至ったが、彼らはまるで信仰の無い者らであったろうか?
いや、まず聖霊の働きに信仰を働かせ、使徒たちと行動を共にする決意を固めたのであろう。
しかし、メシアに信仰を持った彼らであっても、貪欲に誘われた試みによってその内奥の姿が焙り出されてしまった。(ヤコブ1:13-15) あるいは聖霊をさえ受けていたかもしれない。おそらくはそうであろう、ならば咎は一層重い。
この夫婦は、バルナバのように純粋な内面を持ってはいなかったので、隣人愛の外見をした誉れを得ることだけを願った行動をとったが、人々を欺くその動機は利己心であったろう。

これを単なる献金の動機がどうのと捉えるなら、それはこの世の人間の観点であって、聖霊が注がれ『新しい契約』に与っている状況下では様相が異なるのである。それが如何に違うかをこの夫婦の受けた処罰が物語っている。このような宗教組織内の動機の悪い献金が今日なされたとしても、然程のことは無い。なぜなら、今日はどこにも聖霊が無いからである。

しかし、この夫婦が欺こうとしたのは単なる人間ではなかったので、ペテロは彼らが『聖霊に対して偽りを働いた』と断罪し、この二人は共に救いには至らず死に絶えたのである。

これを裁いたペテロがまるで「罪」の無い人間であったのではない。ペテロは主の奇跡の豊漁を見るなり、『わたしは罪深い男です』と叫んでいる。また、キリストを三度否認したのもペテロであったのだ。
だが、罪を認めるペテロと、隠し遂せると思ったアナニアとサッピラとは動機では正反対であったに違いないし、今や聖霊によって『聖なる者』とされ、その聖さを守る務めが契約によって課せられていたのである。

この夫婦には、聖霊というものの重さを弁えるところがまるで無かったのであろう。それが単なる人を騙すように思えたところにそれが曝け出されている。

もちろん「アブラハムの裔」にこの二人が含まれることは無くなった。彼らは人々を欺いたつもりでも、実は『聖霊を試した』以上、聖霊を保持するに値しなかったのである。
ならば、信仰にある仲間であったにも関わらず、『聖霊への許されざる罪』で、この夫婦は裁かれたのである。何と厳しい教訓であることか!


パウロはこう言っている。
『キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆が迫害を受ける。しかし、悪人や詐欺師たちは、騙し騙されしながら、いよいよ悪に堕ち込んで行く。』(テモテ第二3:12-13)
これが「終わりの日」の実相なのであろう。即ち、ここで言う『悪人や詐欺師』とは一度は浄められた者である。

それゆえ、『終わりの時には困難な時期が来ることを知れ』として『人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となる』という事柄は、単に世相を云い表しているのではない

これらの言葉は、聖霊ある者らの失態を描き出している。
この者らは、聖なる『新しい契約』に価せず、それから『離れる』ことになるのだろう。

ヘブライ人に宛てた時期より後の、このテモテへの書簡が書かれた時期にあたる、ローマ大火後のパウロが二度目に逮捕された最晩年に、ここで彼はなお将来の「終わりの日」のことを含めて警告しているのである。
これがもし、ユダヤ体制の滅びの時期についてを述べていたのなら、それはなお将来のことではなく、もうそこに到来していた危機の時代であったはずであるから、このように『終わりの日には・・を知れ』とは言わなかったことであろう。


この『困難な時代』とは、まさしくエクレシア内の試練の時期なのである。さもなければ、『こうした人々からは離れよ』とは命じられず、また、『常に学びながらも神の真理に達しない』とされる者らも関連付けされなかったであろう。(テモテ第二3:1-7)

この世というものは、常に苦難の状態にあるもので、俗世の人の性向が善くもないのはノアの日から変わるところが一向に無いし、それは所謂「クリスチャン」であっても然して変わらない。(創世記8:21)

この『困難な時代』は、まずパウロ後の主要な使徒らが去った時代にまず一度成就し、なお「終末」の聖徒らの試みの上に二度目の成就を見るのであろう。

そこで、キリストに従おうと決意固める者には内奥の純粋性が求められるに違いない。
それはキリストに関する知識を取り入れて信仰を働かせ、バプテスマに浴したとしても、一途に求めるべきところは一向に変わるものとはならないのである。殊に、聖霊を注がれた者については、その重責を問われるであろう。

これらの事柄の結論として、ペテロが警告した『神の家から裁きの始まる定められた日』の到来が臨むときに聖徒らの心すべきこと、またその聖霊に信仰を働かせるすべての者らにとって自らを省みるべきことは何であるか?
イエスはこの重要性を端的な言葉で次のように語られた。
『目は体の灯火である。ゆえに、あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう。
だがもし、あなたの目が暗ければ、全身も暗いだろう。もしあなたの内なる光が実は闇であれば、あなたの暗さとはどんなに酷いであろうか。』(マタイ6:22-23)

このことでキリストに従おうとする者には僅かな油断も大敵となろう。
ベオルのバラムの貪欲は、神YHWHの祭司という自らの貴重な立場を幾らも誉れとはさせなかった。
コラとダタンとアビラムらの自分本位な正義感を見よ。それが何か彼らを益しただろうか。

そして、ユダ・イスカリオテがいる。
パウロは『不法の人』を『滅びの子』とも言い換えているが、聖書中でこの言葉が当てはめられているのはユダひとりであり、それは聖徒の背教が如何なるものか、また、どのような結末を迎えるのか、そして、十二使徒というこれ以上ない優れた環境からでさえ、『滅びの子』が現れたことが、警鐘を音高に打ち鳴らしているのである。

我々の前に置かれたこれらの例を眺め、自己の内面を探る人々は、神に正面から向き合う覚悟が必要であろう。

それであるから、救いに至るほどの「信仰」が、正確な知識を取り入れるだけで出来上がると思うなら、それは大きな見込み違いである。その人の内面にあるものこそが真実に益ある「信仰」を産み出すのであり、「知識」は助産婦のようでしかない。まして行状や活動の『業』は、『裁き』に影響を微塵にも与えないことであろう。

そして、もちろんすべての人に皆「罪」がある。
我々には間違いがどうにも避けられない。
しかし、それから逃れたいと願い続けるのと、「罪」に凝り固まってしまったり、自分は恩寵を得て「罪」から逃れたと思い込んでしまうのとでは正反対に違うのである。

ユダヤ体制の滅びの端緒となるユダヤ騒乱を、およそ三年後に控えたヘブライ人にパウロはこう戒める。
『あなたがたの誰も、生ける神を離れて不信仰で邪悪な心を育てることがないように』また『罪の力のために頑なになることのないように』とも記した。

使徒ヨハネも後の聖徒らに向けてこう言っている。
『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはない。しかし、自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方であり、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださる』(ヨハネ第一1:8-9)

我々には皆「罪」があり、日常しばしば倫理上の間違いを犯す。
それゆえ、神に対して頭を垂れて謙る姿勢は誰もが是非とも持つべきであろう。
だが、ある人々には、あるいは状況によっては、神に謙虚さを示すのが難しくなることもあろう。試み手としてのサタンの手腕が発揮されるのは、こうした人をその固有の弱さや特定の状況に追い込むことに違いない。
この観点から見ると、『わたしたちを試みに陥らせないでください』との主の祈りにある言葉もやはり疎かにはできないものである。

そして、聖徒に在っても「神と人を愛する掟」は違えることのできないものである。
『「彼を知っている」と言いながら、その掟を守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の言葉を守る者は、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼に在ることを知るのである。「彼の内に在る」と言う者は、彼が歩まれたように、その人自身も歩むべきである。』(ヨハネ第一2:4-6)

このように歩む聖徒らに倣い、聖霊無い者であるなら増々全能者の前に膝を屈める思いを強め、自分を高めず、罪の清められるのを一心に願いつつ待ち望む必要があろう。

初期聖徒たちの「終わりの日」に生じた試練は、「エデンの問い」に臨んだ『初穂』の人々の情報を伝えており、世の終末を将来に控えたすべての者にとっても、「自己の内面を問う」という、真に重い教訓を含んでいるのである。

使徒ペテロもこのように言う。
『「義人がかろうじて救われるとすれば、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどこに出るのだろうか」云われる通りである。』(ペテロ第一4:18)
これは一般人悪行を言うのではなく、聖なる者らが一般的犯罪者としての苦しみに遭うことのないようにとの訓戒であり、またアナニヤやサフィラのような者が出ることを警告しているのである。(箴言11:31<口語訳>)
それはキリストが再三警告していた「新しい契約」からの脱落となるからである。(エゼキエル9章)




              
   © 林 義平
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 二度救われる『シオン』という女  消え去る「北の王」

 黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か キリストの王権領受の時

 エルサレム会議にみるキリストの弟ヤコブの寛容さ ヤコブとパウロ







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小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時

長文15000字超 <難易度 ☆☆☆☆☆☆☆ 特高>

-予備知識-
「聖徒 聖霊が指し示す者」、「大いなるバビロンの滅び」、「神の家から始まる裁き」、「マタイ福音書の終末預言と例え」、「オイコノミアと七つの頭」




◆終末に撒かれる毒麦

 マタイ13章24節を以って始まる「小麦と毒麦の例え」はマタイ福音書にだけ存在し、「種まき人の例え」の解釈を述べた後に、イエスの身近に居た弟子らに話されており、おそらく群集はこれを聞いていない。

 つまり、「種まき人の例え」の四種類の種の中でも、実を結ぶ「良い種」に相当する人々すらも更に選別を受けることを警告しているように読めるのである。

 ユダヤ人を念頭に置いたマタイの福音書は神の王国をほとんどの箇所で「天の王国」と呼んでいるが、この「小麦と毒麦の例え話」の主題もやはり「天の王国」である。

では、その例え話に耳を傾けてみよう。
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 「天の王国は、このような例えのようだ。
 人は自分の畑の中に良い種を撒いた。

しかし、人々の眠っている間に、この人に敵対する者が来て、小麦の間に毒麦(ジザニオン)の種を撒いて去っていった。

草が芽生えて、実ると、そのとき毒麦も現われた。

家の僕らが主人に近づき「ご主人さまが畑にお撒きになったのは良い種ではありませんでしたか?どうして毒麦があるのでしょう?」と訊く。

主人曰く「それは敵対する者がしたことだ」。すると僕らは「私共が行って抜きましょうか?」と言うと
「いや、毒麦を引き抜く際に、小麦も一緒に抜きかねない」。「収穫まで両方とも成長させておき、その時になったら刈る者には、まず毒麦を集め焼くために束ねさせ、次いで小麦を収穫の蔵に納めるために集めさせよう」。

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 以上が例え話であり、群集を解散させた後で、これらについてイエスは弟子たちの要請にしたがって、その意味するところを語っている。
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良い種を撒くのは人の子、つまりキリストである。
畑とは世界であり、良い種は王国の子らであり、毒麦とは邪悪な者の子らであり、それらを撒いたのは悪魔で、収穫は世の秩序の終わる時で、刈る者は天使である。

それで、毒麦が取り集められて火で焼き尽くされるように、世の秩序[アイオーン]の終わり(終焉[シュンテレイア])もそうなる。
人の子は、天使らを遣わして、人をつまずかせる者と不法[テーン アノミアン]を行わせる者らを自らの王国から集め出し、炉の火に投げ込ませるであろう。そこで泣き悲しみ歯軋りするのである。

それから、義なる者たちは彼らの父の王国で太陽のように輝きわたるであろう。

耳のある者は聴くがよい。
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敵対者が畑に別の種を撒いたような、いやがらせの行為が実際、古代に行われていたとも言われている。(ローマ法では処罰の対象であったという)

この毒麦を食すと死亡に至ることもあるというからには、その分別は命に関わるものである。

食すことのできないこの中東の毒麦は、実を結んで穂が出るようになるまでは小麦によく似ており、そればかりか共に根を伸ばして絡み合えば、毒麦だけを選んで抜き去ることは難しいと言われている。
それが撒いた悪人の狙いでもあろう。畑全体の予定していた収穫を阻害してしまえるからである。

だが、この例え話の主人の判断は合理的である。
成長する間、農夫であっても小麦か毒麦かの区別がつかなかったし、多少養分を毒麦に吸い取られていたとしても、収穫の時期になってしまえば、遠慮なくどちらをもバッサリと刈り取ろうが引き抜こうが支障はなくなる。

しかも、穫り入れの時期になれば穂の外見から双方の見分けがつくので、小麦は蔵に納め、食料にならない毒麦の方は竈で煮炊きの火にでも供すればよいであろう。

さて、イエスは良い小麦の収穫を期待したが、それは「天の王国」に集められる人々のことを語っているのであり、単に「クリスチャン」の中に区別が生じるなどと考えていれば、この例えの本旨には到達しない。

これを結論から言えば、「新しい契約」に参与することよって、イエスと共に王また祭司となるはずの「聖なる者たち」の中の分離を表している。⇒ 聖霊と聖徒


即ち、奇跡を行う聖霊を注がれた『聖なる者』となった者には、『多くを委ねられた者は多くが求められ』『狭い門から入るよう励み』『自分の魂を救おうとするものはそれを失う』ほどの試練が待っているのであり、そこで脱落する『聖なる者』が出ることは、「ミナ」や「タラント」の例えをはじめ、「婚礼の服装」「引き網」「一人は残される」など多くの警告が与えられている。

また、「小麦は倉へ納める」という新約聖書で繰り返される言葉が、ユダヤ人の中から「聖霊のバプテスマ」を受けた者と「籾殻」とされ「火のバプテスマ」を受けた者の相違の中でも語られており、それがイエスをメシアと信じた側と信じなかった側のユダヤ人の結末を語っているところからも明らかである。⇒ 聖霊と火のバプテスマの異なり

この倉に納める「小麦」とはキリストがその宣教を通してパレスチナで集め始めた『聖霊によって油注がれた』『アブラハムの裔』『聖なる国民、王なる祭司』を表しており、もちろん単なる「クリスチャン」などではけっしてない。⇒アブラハムの裔を集めるキリストの業
即ちキリストと共に天の神殿を構成する格別で少数の弟子たちである。

だが、「小麦が倉へ納められる」ことを喜ばない者がいる。それはサタンであり、「小麦」に相当する『アブラハムの裔』また『王国の子ら』が集められ、神の王国が実現することは悪魔の立場を危うくし、天に居られなくするものである。そこで彼は「ディアボロス」(中傷者)の特性を発揮して、「聖徒」たちを誘惑し、本来「小麦」であった者を「毒麦」と変じさせることを目論む。その意味に於いて『毒麦』の種を撒くのは『敵である』サタンである。(黙示録12:7-)

そこでこの「小麦と毒麦の例え」は、キリストと共になる聖なる『召された者』らの中に悪魔が自分の種である邪悪な者らを混ぜようとして、「偽の聖なる者」を撒き足すということであろう。そうすれば、『聖なる者』また「キリストに与えられた者」『神のイスラエル』の数を満たさぬように影響でき、王国の実現を阻むことになるかも知れない。(コリント第一1:2/ヨハネ17:6/ガラテア6:16)


では、すぐに悪魔の撒いたものを抜き去ることが良いかと言えば、実際の毒麦のように見分けがつかなかったり根が絡んだりして、大切な聖徒である『小麦』まで損なう危険があり、それは敵対者の大いに喜ぶところとなるだろう。サタンが妨害したいのはキリストの民『神の子ら』が『収穫』されて揃い、『天の王国』の実現することを阻むことである。(ルカ11:23・13:34)


そこでキリストの側で必要になるのは、『額に証印を押される』『神のイスラエル』の十二部族を『四方の風から集める』という『裁き』であり、それに適う者たちが見極められるのが終末の聖徒の裁きとなるのである。(マタイ24:31)

彼らが天界の神殿の石となるからには、彼らの主と同様に『試された石』となるべき必要があり、その試みの場がこの毒麦の例えで言うところの『世界』という『畑』であって、それは聖霊の種の撒かれる地上以外にない。

この小麦と毒麦との処置の過程から、もうひとつの裁きも進行してゆく。
それが『キリストの兄弟たち』である聖徒らに寄り添い親切を示すか否かという、その時に生ける人類の残りに対するより大規模な裁きであるが、その前に、どうしても『小麦』となる人々が試され集め出されなければ何も進まない。そこでイエスは使徒らを通して、その試みに備えさせている。


まさにこれを指して、イエスがこの例えの終わりに『世の終わりも(小麦と毒麦の例えのように)そうなる』と語ったと言えよう。
では、『小麦』と『毒麦』をはっきりと区別させるのは何であろうか。
 


さて、初代のエクレシアにおいて、信徒の中でも聖なる者たちには聖霊が注がれていたのだが、最後の使徒ヨハネの時代(第一世紀末)には偽の霊感が混入し始めていた様がその書簡に窺える。(ヨハネ第一4:1-6)⇒ 西暦二世紀のキリスト教

これは人類全体を二分する事柄「世の裁き」ではなく、繰り返しになるが、一般のキリスト教徒の良し悪しを述べるような単純で浅薄なものでもなく「どのクリスチャンが正しいか」などと云う観点からこの小麦と毒麦の例えを見ていれば、その奥深い意味にはいつまでも到達しないであろう。

これこそは「世の裁き」に先行する、聖霊を受ける人々が試練の中にあって起きる分離を意味しているのであり、まだ将来の「主の日」、即ち終末に起きることである。


だが、その人々「聖徒たち」にとっては重大な関心事となるに違いない。その選別キーワードに「不法」[アノミアス]が挙げられる。この「小麦と雑草の例え」の解き明かしでイエスが語った『不法を行わせる者らを』集め出すからには、雑草また毒麦とは「不法」を行う者である。⇒神の家から始まる裁き


即ち、「雑草」と「不法」は聖書中で「聖なる者たち」(ハギオイ)と呼ばれるイエスの約束した聖霊を受ける人々の中から起こる「背教」が関係している。即ち、「脱落する聖徒ら」のことであり、パウロがテサロニケのエクレシアに『まず背教が起こり、不法の人が現されてからでなくては(主の日は来ない)』と言っていたところの『背教』(アポスタシア)がこれである。(テサロニケ第二2:3)

『毒麦』また『背教』は、キリスト教の外側で起こる事象ではなく、まさしく内部から、それも聖霊注がれ、不定の将来に『回復』を果たす「浄められたキリスト教」の中枢での逸脱を指し示している。『聖なる者ら』が担う責任は非常に重いものであり、命を掛けて聖霊の言葉を語り、為政者とこの世に対峙せねばならず、『自分の魂を見出そうとする者はそれを失う』ほどであるという。(マタイ10:32-39)


そこで恐れ慄いてしまい、その果たすべき責務を離れてこの世と妥協してしまう者は、当然に「新しい契約」に相応しくないばかりか、仲間であった聖徒たちの敵と変ずるとしても不思議はない。もう、その者たちにキリストとも神の王国とも関わりはないのである。これは『背教』というべきであろう。 ミナやタラントの恐怖のために財産(聖霊)を隠してしまった奴隷の例えはこの警告となっている。

そこでは堕落させようとのサタンの誘惑が働くことで『小麦』となるか『毒麦』なるかの分かれ目となるのであり、その結末については『聖なる者』らの個人の忠節に関わる問題であるので、エデンの二本の木の試みと同じく、神はこれを予見しない。そこで毒麦を『小麦も共に抜いてしまわないように』する必要が生じると言える。それは即ち、聖徒らに臨む試練の結果として初めて両者の違いが現れるのであり、その間は『聖なる者ら』の裁きにキリストは手を付けることはないことになる。(フィリピ1:10/ペテロ第二3:12/ダニエル11:35/マラキ3:2)


そして、『収穫まで両方とも成長させ』るという時間の流れは、あのペンテコステからずっと現代まで続いてきたとは言えない。
なぜなら、真に聖霊を注がれた『聖なる者』は初期(第二世紀)に一度途絶えており、次に現れるのは「終末」という将来の『主の日』だからである。即ち、キリストは終末に至って弟子らの中に聖霊の注ぎを許し、そこで再び倉に納められるべき「小麦を撒く」ことになるであろう。⇒「ダニエルの七十週」

もし、初代から種は撒かれたままであると主張しようにも、それではローマ国教化以後の『畑』という世界は雑草だらけになっていることになり、この例えとは大いに様相を異にする。この例えに語られる『毒麦』とは、今日のキリスト教界の逸脱を遥かに凌ぎ、『聖霊を冒涜する』ほどの恐るべき『背教』というべきものとなろう。それは使徒パウロが書いたように、その『背教』(アポスタシア)が来なければ『主の日』も来ないからである。(テサロニケ第二2:1-17)


さて、古代には第二世紀までの初期の『聖なる者』たちも試練に遭っており、ユダ・イスカリオテの存在が示すように脱落した者が居たであろう。西暦60年代に入ると迫害が各地で起こるようになり、ペテロが警告する『神の家から裁きの始まる』時期が到来している。⇒神の家から始まる裁き
他の脱落者の例を挙げれば、アナニアとサッピラもそれに当たるように見える。この二人の場合はそのまま抜き取られたことになるが、これは聖霊降下からそう日を経ていない事例なので、言わば「芽を摘んだ」のであろう。

初期の『聖なる者』たちの選別は、死に至るまで忠節であったか否かによって分けられるものであり、それは復活において、『命の復活』となるか『裁きの復活』となるか*を左右するものとなるであろう。これは「十人の乙女」の例えに表わされている。⇒十人の乙女の例え 


*(これは『第一の復活』と呼ばれる(Rev20:6)ところの、キリストによる聖徒らを裁くための『千年期』直前の復活であり、キリストの声に呼び出される者ら復活(Joh5:28-29)を指している。従って、神による『義者も不義者も生き返る』(Act24:15)という、ユダヤ人が広く信じたところの諸世紀に生きた全人類の復活とは明らかに異なっている)



そこで、この小麦と雑草の例えは、初代キリスト教徒のように聖霊を受ける人々が再び現れる終末期の二度目事態を我々に指し示すもので、現状では、この例えから、将来に起こるであろうその実態を推察する以上のことにはならない。つまり、誰が『小麦』で誰が『毒麦』かを『主の日』に入ってもいない今の時代に決め付けるのは不毛な論議なのである。

そして現在は、奇跡を行う『聖霊』が地上の誰の身の上にも注がれていない以上、種の撒かれてもいない今日、『聖徒』からの『毒麦』も『背教』も芽吹いても始まってもおらず、小麦も雑草も生育さえしていない


背教というなら、すべてのキリスト教には初代のようには聖霊が無いことにおいて、どんな宗派も本来のキリスト教から逸脱している最中にあり、現在はそれ以上に「背教」のしようもない。
イエスの『毒麦』の例えも、パウロの言う『背教』も、キリスト教界の原状の逸脱ように「生易しい背教」では済みそうになく、それこそは、終末期における世界を惑わすサタンの猛り狂った反キリストの大暴れとなろう。



-◆「不法の人」--------------------------------

パウロの時代(西暦60年代まで)にも、彼によって「不法[アノミアス]の秘事」は既に始まっており、(聖霊という)抑制力が除かれるときが来れば、それははっきりと姿を現すと述べており、その「不法の人+」は、また「滅びの子×」とも呼ばれている。(テサロニケ第二2:1-12)

(+ [ホ アンスローポス テース アノミアス]=不法「重大な不正/法律を超える/無法な」)
(× [ホ ヒュイオス]=「子/子孫」 ・ [テース アポーレイアス]= 滅び「破滅/破壊」)


このように、使徒たちは当時から「聖なる者たち」の間から異なった分子の現われることを警告していたのだが、それは内部から現われることにおいて見分けがつき
難いことは容易に想像できる。しかし、単にクリスチャンの中にも悪い輩がいるということではない。(悪い輩はどこにでも居る)

それらの事は使徒たちの時代に成就していて、もう既に過ぎ去ったことなのだろうか?
だが、イエスの例えの内容は、それがずっと将来に起こることを示している。


というのも、イエスは『畑』を『世界』[コスモス]と述べ、『収穫』の時期を『この世の秩序の終わり[シュンテレイア]』と語っているが、これは小麦の最終的な収穫と倉に納めるところの、即ち、『神の王国』への『聖徒』たちの終末の集め出しの時期を指していよう。


なぜなら、初期の『聖なる者』らも使徒時代の『世界』の至る所から集め出されたが、終末に至って初めて『収穫され』『倉に納められる』からである。(黙示録7:1-3)

幾つかの古代資料は、使徒時代が終わり、初代の人々がまったく眠りに就いた第二世紀半ばまでに、消え去る聖霊の賜物について知らせているのだが、確かに、その聖霊の時代が去った後に、歴史はローマ国教化や以後今日まで主要なキリスト教に影を落とす教義の変更が酵母(パン種)のように作用して、イエスの伝えた教えを本質的に入れ替え、宗教上の封建的圧制者を登場させている。⇒ ローマ国教化で失われたもの


では、16世紀のプロテスタントが唱えたように、ローマ教皇が「不法の人」かと言えば、当時から歴史は今日までも流れ続けており、未だ『世の秩序の終わり[シュンテレイア]』を迎えておらず、事はそう簡単ではない。

イエスの言う通り、「世の秩序の終わり」に至るのであれば、時の経過を待つ以外にこの秘儀が具体的に誰を指すかは知ることができないだろう。

パウロはキリストが口の息で「不法の人」(アノモス「無法者」)を殺し、「その臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)によって絶つ」と書いている。それは将来起こるキリストの臨御の開始から、さらに幾らか経った時点での地上への介入を意味する。(テサロニケ第二2:8)
 

したがって、誰が不法を行う「毒麦」か、また誰が「不法の人」であるかについて現在まで様々な推測がされてきているにしても、小麦と毒麦が『撒かれ』てもおらず、共に生育している段階にさえ達していない現在、即ち、正しく聖霊を注がれた「聖なる者たち」も存在さえしていない状態で「不法の人」の実体を見極めることには無理がある。

これについてエイレナイオスは、使徒ヨハネの言う反キリストについて「その者の名をはっきり告げる必要があったなら、その黙示を見た者自身がそれを告げていたであろう。なぜならそれが見られたのは然程昔ではなく、ドミティアヌスの治世の終わりで、ほとんど我々の世代のことであったからである」と第二世紀に自著"異端反駁"に書いている。

将来の「収穫の時」。それが何時であるかについては、ある物事の進展がない限りそれを判断することは人にはできないに違いない。それはパウロの云う『背教』の起こる時期を指しており、それにはサタンの誘惑によって脱落する「元聖徒」が関わるもので、『抑制力となっているもの』*である『聖霊』が『聖徒』と共に地上を去るという、終末期も進んだ後のことである。(テサロニケ第二2:1-12)
*(パウロがテサロニケ第二2:6-7に於いて『抑制力となっているもの』を『者』とも書いていることについては、前者を聖霊、後者を聖徒と見做すことができるように思える)


それゆえ、地上に聖霊が無い以上、イエスの語った毒麦の例えと不法の人に関する記述は現在までも変わらずに「秘儀」であり、時限ファイルの様相を呈しているのである。

将来、徴として進展し始めるこのパウロの警告は、約束の聖霊を受けていながら「背教」に至る「不法の人」が「すべての神々や崇拝の対象の上に己を高め、神殿に座して自分を神だと宣する」という事態の発生を伴うとされるが、これはイザヤやダニエルの預言でも語られている。(イザヤ14:3- /ダニエル11:36-)

様々な研究熱心な人々が聖書を詳細に調べ、この傲慢な「不法の人」の実体に迫ろうとして今現在も努めているのだが、いずれにせよ、世界は、この尊大で強烈な指導者に対してどう振舞うかによってふたつに分かれるであろう。

以下に、その理由と思えるところを述べよう。
 


-◆「不法の人」をめぐる事態の進展-----------------------

この「不法の人」が「滅びの子」ともされる理由は、キリストによって除き去られることが定められているからであろう。
しかし、その末期には大いに増長し、その傲慢さは神をも超えてゆこうとするが、その時点となれば「不法の人」が誰であるかは疑いなく明らかになるであろう。


その尊大さは、おそらく終末で早々と過ぎ去ることになるローマ教皇の比ではなく、全世界に崇拝を要求して「神の王国」とその王権を得るべきキリストにあからさまに逆らう人類の(照りつける太陽のような)独裁者であり、その姿は4000年以上前の底知れぬ深みから歴史の新たな舞台に登って来るであろう大王の姿に『像』のように重なるものであろう。(黙示録17:8)⇒「誤解されてきたバベルの塔」


ダニエル書では、この大王は聖徒の中のある者たちをも滑らかな言葉で誘い背教させ、また、聖徒を攻撃して成功し、優勢となるとすら予告されている。(ダニエル7:21/11:32-35)
これは『北の王』から起こされる『腕』(権力)であり、『北の王』が『人手によらずに砕かれ』た後も偶像化されて存続することが黙示録に示唆されている。(ダニエル8:25/黙示録13:15)⇒「二度救われるシオン」

パウロが「抑制する者が居なくなったとき」に、それが姿を現すと言っていたのは、将来、再び聖霊が聖徒に注がれて後のことを意味しているのであろう。パウロはまた同時の状況について『その不法の策略は既に働いている』とも述べていた。これは『不法の人』として当事者が顕現するのが聖霊の注ぎが終わり、悪霊の力に入れ替わった後のことを指して云うのであろう。つまり聖徒らが殉教し、或いは選ばれて天に召されると、以前は聖霊を受けた聖徒であった筈なのに、依然として地に『残されて』いる者らがいる。即ち、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは捨てられる』の言葉の成就でもある。(マタイ24:40-42)

彼らはタラントの例えの中で、外に放り出されてしまう者に相当し、その持てる聖霊も取り上げられる。
しかし、彼らには「別の霊」を与える親玉が現れている、それはサタン崇拝の偽宗教であるが、『大いなるバビロン』は既に滅んでおり、今日見るような類いの宗教ではないであろう。

それこそは、諸宗教を葬り去った『七つ頭の野獣』の『偶像』による、その時まで存在したことの無いような「まったく新たな装いの宗教」の教祖的存在者なのである。


この教祖自身も「元聖徒」であり、聖霊は失っても引き続きサタンの霊力を受けて奇跡を行う者、『聖なる神殿を汚す者』、世の滅びを招く者となるであろう。そのすり替わりは巧妙で、『聖なる者の中からさえ躓く者が出る』。
ならば、その現れは聖徒らの天への召集に先立ち、『四十二ヶ月存在する』『七つ頭の野獣』と時間的に重なるとも言える。


そのように捉えると、以下のように黙示録13章と合致するかのようにして、その後の見通しが開ける。

つまり、聖徒たちが四十二ヶ月の期間、聖霊の賜物によって預言者の業を行った後、彼らは「新たな角」の攻撃を受けて倒れ、彼らの主がそうであったように、彼らが死すべき肉なる人であるうちはけっしてこれに勝利することはない。敵らは彼らに打ち勝ったことを喜ぶさまが黙示録にある。(11:10)つまり、『女の裔』はここでも主のように『踵を砕かれる』ことであろう。(創世記3:15)


その攻撃によって聖徒たちの中からさえつまずいて抜け落ち、「不法」に加担する者も出る。
その点、『滅びの子』(ホ ヒュイオス テース アポーレイアス)が当てはめられている例が、聖書中でユダ・イスカリオテだけであることは非常に示唆に富む。


即ち、「十二使徒」という最高度の聖なる立場にある者らの中からですら、『滅びの子』が現れたのであれば、『聖なる者ら』からどうして落伍者が出ないといえようか。
実にキリストの福音書中では、脱落についての類似した「例え」が他にも多数存在し、これを警告しているのである。


マタイの福音の第七章では「良い実を生み出せない木」についてイエスは語り、次いで、『その日、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言う』者らのことを予告している。

これら預言したり、払魔したりする権限を持つのは、まさしく聖霊の賜物を得た『聖徒』に他ならない。

そして、終末において、彼らは聖霊を得てすら「背教」に至り、本来の仲間である『聖徒』を排撃しておきながらキリストの顕現(エピファネイア)の段階になってからキリストに寄り添うことが許されるわけもない。⇒黙示録の四騎士

この「背教」による「聖徒」からの離開が生じることを教えるイエスの例えには、毒麦やミナの他に「引き網」や「選別される二人」、また「荒らす憎むべき者」、パウロが言う「不法の人」また黙示録の「偽預言者」などがあり、それらの中でも最たるものがこの「毒麦」の例えということができる。

初期の『聖徒』たちのように、将来の聖なる者らにも「キリストの杯」を飲み干して自分たちの主に続く覚悟が要ることはイエスの再三語ったところである。
 

こうなると、誰が真に聖なる者となるのかは、こうした事態の進展して来るまでは分からないことになり、やはりダニエル書はそれが聖徒を『練り清め、白くする』ためであるという。(ダニエル11:35)

そこから出る『灰汁』は聖徒の背教という、終末の著しい事態を表すものであろうことが明らかではないか。

「神の家から始まる裁き 試みと背教のとき」


その試練の後に小麦と毒麦の相違が明らかになるに違いない。

『小麦』として蔵に納められるべき聖徒が、来るべき『王国』において人類を統治し裁く役割を担うからには、自分の命を惜しんでなどいればキリストと共になる資格に適わず、そこで選別が起こるのであろう。(マタイ10:32-)




-◆悪魔の手段、脱落聖徒から現れる「不法の人」---------

例え話に戻れば、小麦も毒麦も実際の種は最初からどちらかなのだが、将来においては、試練の時の経過が無いなら分からない。だが、双方を収穫という終わりのときまで生育させ続ける理由に相当するところがこうして幾らか見えてくる。

つまり、これらの植物が実を結んだ最後の時期になるまで、人の目には小麦か毒麦かが分からないように、将来のある時点で、聖霊の注ぎをはっきりと受けた人々が存在するようになったとしても、なお試みがあるという事であり、聖徒の試みを経なければ例え話の「小麦」が誰で、「毒麦」が誰なのかは分からないということである。


ミナの例えのように、主人の帰還した後で清算される弟子の中にも、「外の闇に投げ出されそこで歯噛みする」者がいるとイエスは語っていたが、この区別の類似にも「時」が共に重要な要素となっている。⇒ ミナの例え

そうなると、生育中の小麦と毒麦が外見上似ているように、もちろん我々も将来「聖霊の賜物」を持ってその業を行う聖徒を眺めても初めから誰が小麦で誰が毒麦と断ずることはできないのであろう。


しかし、今から「不法」が何であるかを推論しておくことには大きな価値があるようだ。
それは、キリストの王権に関わる帰還への反対行動であろう。

しかもそれはあからさまな反対ではなく、「アンチ・クリスト」の語が示すように、キリストに「代替」するという詐騙であって、「終末」において天に臨御するキリストを偽り、自らがキリストであると主張し、恰もキリストが地上にいるかのように横暴に振る舞うものである。

キリストを詐称する者が多く現れるにせよ、『不法の人』は格別であるようだ。
彼は自らを高め、様々な宗教を倒させて、『あらゆる神とされるものの上に座す』のであろう。それはサタンのような悔いる余地なき「自己愛者」の典型、その象徴像のような人物なのであろう。(ダニエル11:36/テサロニケ第二2:4)


即ち、「聖なる霊」が聖徒らを通して語るその言葉と、「アンチ・クリスト」のいずれの言葉に従うかに関わる個々の人々がそれにどう応じるかという問いであり、ある人は『誰も反駁できない』聖霊の言葉に信仰を働かせ、またある人は何らかの理由でそれを退けることであろうし、そこに誘惑を仕掛けるのがサタンの腕の見せ所となろう。


「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従う「脱落聖徒」は『毒麦』となるが、それは聖霊を与えられた人々の変質を言うのであり、聖徒が各地から現れる意味で『畑は世界』と雖も、元々「聖霊」を撒かれていない大多数の信仰持つばかりの人々『信徒』がそのようになることは無いことだろう。
 

しかし、「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従ってしまう危険は「聖徒」にも「信徒」にも同等にあって、それは『天の雲と共に』に臨御して見えない真なるキリストを否み退ける結果を覚悟しなければならない。「不法の人」は、自分を神よりも高めるほどの自己崇拝を強要するだろうからである。(ダニエル11:31-35)

即ち、ユダ・イスカリオテが現れたように、『聖なる者たち』の中から脱落する者が生じ、多くが忠節を保って天に召される中、試練に脱落した彼らは地上に『残される』が、サタンは彼らを利用して『偽預言者』とする。特にその頭目が『不法の人』であり、神に勝ったものとして自分を示し『神の神殿に座す』ことになるというが、これはパウロが注意を促し『常々語っていたこと』であったというのである。(テサロニケ第二2:3-4)



-◆不法の人を招く諸宗教の教理-----

そこで恐ろしい効果を発揮してしまい兼ねない教理が既に地上のキリスト教界に現存している。
その第一が「三位一体説」であり、第三世紀頃にキリスト教に混入してきたものであるにも関わらず、我々の時代を飛び越えて、終末にまったく尋常ならざる効果をもたらし兼ねないものである。
その恐るべき効果をもたらし兼ねない教理の第二は、キリストの見える「地上再臨」 があると信じさせる教えである。

これらによって、サタンの霊力を帯びた脱落聖徒は、地上に置いてゆかれ、天への召しに与れないだけのことでは済まず、キリストが終末預言に於いて再三警告した、「地上にメシアが現れた」という偽りを推動し、そこに三位一体説が加わって、更にその者を「神」の座に祭り上げ兼ねないのである。

もし、そうなるのであれば、「三位一体説」も主の「地上再臨説」も終末の裁きの時にまで、『大いなるバビロン』の滅びを通過して存在し続けることになる。組織宗教としてのキリスト教が去ったとしても、確かに人の信仰心というものは簡単に変えられるものではない。

もし、終末に地上のエルサレムに実際に神殿が再建されるようなことが起こるなら、その『座』までも提供し兼ねないことになる。もしそうなれば、それはキリスト教だけでなくユダヤ教の宗教信条も刺激するものとなるのであろう。そこで、キリストの再臨時にユダヤ教徒が大量改宗するなどと信じているキリスト教徒から見れば、自分たちの預言が成就したかに思え、大いに目出度いことに思われるであろう。

そして、イスラム教も終末にイーサー(イエス)の現れを教えてはいなかったろうか。 しかも、終末で誰が本当のマーシー(メシア)であるかの戦いで圧勝するとされてはいないか。
こうなると、いまでこそ異なる三大宗教が、終末に波長が揃って『不法の人』に向かう事態も考えねばならなくなる。 


その時には、旧来の諸宗教組織を中心にした『大いなるバビロン』が去っているとはいえ、『羊のような二本の角を持った獣』が新たなイデオロギーを推進するのであれば、それはキリスト教の影響の色濃いものである危険性も拭えない。 その大国は極めてキリスト教的であって、その起こす行動や思想の潮流は圧倒的影響力を持つのであろう。

そこで『神の神殿に座し、自分を神として示す』者『不法の人』の現れを推動するものは、現に今キリスト教徒の多くが既に信じ込んで保持しているその教えそものではないか! そうともなれば、『不法の人』とは、キリスト教の逸脱の集大成のような存在となるのであろう。


終末では、世界という畑において、我々人間の狭い観点からではなく、天上からの判断により、天使らを通して真の聖なる者たちが選ばれるだろう。そこで悪魔の撒いたものである「偽の聖なる者」も出る。「アンチ・クリスト」に屈従し「不法」[アノミアス]に関与しているからであり、その行いは大多数の人々をつまずかせるものともなるに違いない。
 

 このように終末とは、「この世の裁きの日」という以外にない、「バプテスマを受ければ救われる」などと教えていたものはその信者らへの責を負えたものではない。例え、この世の現状の諸宗教が「聖なる霊の言葉」を聖徒共々葬り去らせることに成功して、しばし喜んでも、その次に倍した滅びを被るのが『大いなるバビロン』である。 ⇒ 「大いなるバビロンの滅び」 


たとえ、これらの「地上再臨」や「三位一体」を信じていない宗派がキリスト教にあるとしても、「聖霊の賜物」を否定していれば、奇跡が起こるときにそれが想定外となってしまい、真実の奇跡の賜物も偽りの霊による奇跡も判断をつけることさえ難しいのではないだろうか?その前に、終末に次々に起こる事柄についてゆくことさえ覚束ないであろう。

そして、あらゆる旧来の宗教組織を除き去って登場する、まったく新しい強制宗教が世界を覆う。
そのために、地上に残されてしまった脱落聖徒にサタンの霊力は臨む。それが『カエル』止まりの奇跡を見せることである。それこそ信じることが『偽預言者』の唱導する『七頭の野獣の像』への崇拝なのであろう。(黙示録16:13-16)

その虚偽の崇拝とは、『聖徒』と『大いなるバビロン』を滅ぼすと、時を経ずに聖霊の声に信仰を働かせ「信徒」となった人々の集団『シオン』を攻撃するように諸国家の公権力を糾合するだろうが、それが『ハルマゲドン』という場所に象徴的に集められていることを意識する人々がその人類連合軍の中にいるだろうか。



それで、我々が聖霊を注がれた聖なる者とはならなくても、「不法」[アノミアス]の側に組しその崇拝方式を受け容れることなどけっしてしない覚悟を思い定めることが、その時には誰にあっても最重要な事になる。


その崇拝方式とは「神の王国」の意義を否定し、人間が倫理上の欠陥(「罪」)を持っている事実と聖霊の言葉とを無視し(ここに聖霊への冒涜がある)、人類の能力と可能性に信仰を置く人間賛美の崇拝であろう。

 例えるならば、今日人々が信頼して止まない科学によって、人類の永生が可能となり老化や病気を食い止める希望が現実ともなれば、人々はそれでも神の側につくだろうか? あるいは強力な世界政府が登場し、紛争のない世界の希望が具体化するときに、人々はそれに熱狂しないだろうか?だが、それは不完全な代替品、いやまったくの偽物であり『666』なのであろう。(黙示録13:18)


多くの人々がその夢を洗脳のように「額」の思いに置かされ、「手」の具体的行動に表すよう圧制によって強要される日が来るのだろう。(黙示録13:11-)
これを先導する者は、初めは神の聖霊を有していたのに、やがてサタンの魔力によって不思議を行う脱落した「元聖徒」と「七つ頭の野獣の像」を崇拝させようとする「偽預言者」の勢力であろう。


-◆不法の人という究極の偶像崇拝----------------

以上の文章が幾分難解であることは承知しているが、結論は極めて簡潔な二択に収斂する。
それは創造者と人間とのどちらを神とするかという、エデンの問いへの回帰となるだろう。

聖書の述べるところを渉猟して推察するに、将来、人類に神の側を取らせまいと『不法の人』が猛烈な活動を展開し、世界はそれに巻き込まれ、相当数の人々は無頓着な故にその罠に易々とはまり、聖霊の業を行って大いなる業を見せた聖徒であってすらも、そしてごく普通の人々に至ってはまったく容易に、その欺きの陥穽に落ち込み、不法の側に立ってしまい兼ねないのである。(マタイ7:22-23)


『蛇』については、まず、間違いなくその始めからその終わりに至るまで『蛇』であり、ディアボロス(中傷者)としての姿勢を変えないに違いない。(黙示録12:9)
サタンが『終わりの日』ともなれば、誰であろうと神を中傷し、エデンの時のようにあらゆる人々を誘惑せずにはいないであろう。むしろ、『自分の時の短いことを知り』その持てる力の限りに 、創造神からあらゆる者を引き離しにかかることは目に見えている。それは『裁きの日』でもあるからである。


その『背教』は、「終末」におけるサタンの誘惑の最高傑作となり、エデンでエヴァにしたように、できうる限り人々を誑かして多くの犠牲者を吸い寄せようとすることであろう。この世が全体としてその道に入ってしまうことは、『聖徒』が『世』と敵対していることを述べる聖書中の多くの句に示されている。
 

『不法の人』は、その『背教』によって神をも凌ぐ名誉を唱え、あらゆるものの上に自らの権威の座を設えて、その玉座に就き、世界を神と対立させたうえで、結局は世界から集め尽くした追随者共々遂にキリストの顕現のときに滅びに至る。

パウロが聖徒らに対し『あなたがたの思いが腐らされ、サタンがエヴァを誑かしたように、キリストに対して示すべき誠実や貞潔さから離れはしないか』と心配したことはまことに適切であったことになる。(コリント第二11:3)
それこそが、真の「背教」であろう。それに比べれば、キリスト教の宗派同士が「背教だ」と批難しあうことなど他愛の無いものである。「不法の人」は擬似(反<アンチ>)キリストであり、『神の王国』の劣った代替物を提唱することであろう。


この以前に、その意味はいまだ不明瞭ながら、サタンは、最後の野獣の「新たな角」通して聖徒を攻撃し、神を冒涜して憚らない。さらにキリスト教を含む旧来の諸宗教たる『大いなるバビロン』をも完膚無きまでに滅ぼし尽くすことになろう。(ダニエル7:20-26)

それを使嗾する最たる者が『不法の人』また「アンチ・クリスト」であり、「背教」によってサタンの際立った人類誘惑の器「偶像」となって、キリストは(地上の)「ここに居る」と唱え、大半の人々を騙し、聖徒の中からさえ離脱者を得る、ということであろう。
『どこであれ、死骸のあるところには鷲が集まっているものである』。しかし、わざわざ鷲の餌になる必要などはなく、そのようなところから離れるべきではないか。(マタイ24:24-28)



いずれにせよ、この考察も含めて聖書記述に対する人の予想はそれ以上のものにならないが、より重要な事を考えるに、我々はキリストのような熱意を以って創造神を神とする立場を取るだろうか。それとも「蛇」の道を行こうとするだろうか。人間が神のようになって良いものだろうか?これが焦眉の問題となるだろう。


蛇と不法の人の目的は、創造物に創造者を離れ独立した自己の道を行かせることであり、アダムの子孫は既にそうしてあらゆる倫理の基礎を失って罪の内にいるが、仲介者キリストを通して善人も悪人も信者も不信者も関係なく人類のすべてに「神の子」の認知を受ける道は残されている。

その道とは、将来聖霊が再降下し、ある人々が聖徒として為政者と対峙し、反駁できない聖霊の言葉をもって語るときに、それを支持することである。(マタイ10:18)

その言葉が世界を揺り動かす程のものになるというからには、我々は聖徒が誰かを見紛うことはない。(ハガイ2:7)

『蛇』はその一条残された神への道を断つべくあらん限りの手段を用いるに違いない。(黙示録12:9)


それはこれから聖霊の驚くべき言葉が臨んで後、先鋭化する争点となるからであり、「アンチ・クリスト」という、おそらくは聖徒からの著しい大背教者、十二使徒から現れたユダ・イスカリオテ同様に『滅びの子』と呼ばれる者の登場によって、そこで、人はそれぞれに自己の内奥が問われることになろう。(マルコ13:9-10)

『大いなるバビロン』の亡き後、「最後の究極的偶像崇拝」が登場するなら、象徴的『聖所に立つ』『荒らす憎むべきもの』の到来はその時に聖霊を信じた者らの中で紛うことなく明瞭となるのであろう。(マタイ24:15)

中傷者としての「蛇」の本性を知る者であるなら、聖徒であろうとなかろうと、その欺きにのってはならず、神とキリストを擁護して、エヴァやアダムのようにもならないことを決意せねばなるまい。




               新十四日派   ©  林 義平



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