十人の乙女の例えが、キリストの再来に関わるものであることは広く周知されているが、油や乙女に具体的な意味を読むことが難しい。
この理解の鍵は、「乙女たち」とその「宴会」が意味するところにある。それが把握されないかぎり、曖昧で意義の薄いものに終わってしまうであろう。
(以下に予備知識として「聖徒」に関する部分を書いたが、より詳しくは別頁「聖霊と聖徒」をご覧いただきたい。
(この知識は論旨の基礎であり、これがないと以下を理解することはほとんどできないと思われる))
-◆「十人の乙女」の例え--------------------------------
この例えはマタイ福音書の終末預言にだけ存在し、四人の使徒に話された終末予告の中に含まれている。
十人の乙女たちは、夜の暗闇に各自がランプを灯して花婿の結婚式からの到着を新郎の自宅で待っている*。しかし、到着は遅れてすっかり時が経って夜も更けてゆき、やがて乙女たちはみな眠り込んでしまう。*(古ユダヤの習慣という)
さて、真夜中になって花婿の到着が知らされた。
五人は補充の油を用意していたが、残りの五人は用意が無かった。そこで油の無い女らは、油を用意していた五人に向かって油を分けて欲しいと願うが、双方を満たすには足りないので油商人から入手してくるようにと言われる。
用意の無かった「愚かな」と形容される五人は油を買いに行き、花婿の宴に遅れてしまう。婚宴の行われている場所の扉は既に閉められている。
彼女らは、戸を開けてくれるように花婿に頼むが、却って「あなたがたを知らない」と言われてしまい、宴を共にすることから疎外されることになってしまう。(マタイ25:1~12)
-◆予備知識としての「聖徒」----------------------------------
ミナの例えなどを通して知ることができるように、花婿であるキリストは、不定の年月に亘り地上に対して不在(アプーシア〔関わりを持たない状態〕)となるが、その期間が終了すると地に対して監臨あるいは臨御(パルーシア〔物事に介入する状態〕)を始めることによって「地に帰還」する。
そのときに、すべての信徒ではなく、その中の聖霊が注がれ「新しい契約」に属している弟子ら(「聖なる者」or「聖徒たち」[ハギオイ])だけが、キリストの居る天への召しを受ける。(テサロニケ第一4:13-)
これもパウロがテサロニケ書簡で述べることだが、かつて初期の時代に在って、聖霊を注がれていた「聖徒」で死んで眠っている者らは終末に天への復活を受け、次いでキリストの臨御のときに生きていて聖霊を受けている者らはそのまま天に挙げられる。
こうして弟子の中の聖徒はすべて天に召集されてキリストと共になることで、「神の王国」(i.e「天の王国」)が完成し、その後は、神の贖罪の計画に沿って人類の祝福のために機能を始めることになる。(テサロニケ第一4:15-)
-◆キリストと天で共になる限られた者たち---------------------------------------
その聖徒たちが、天でキリストと共になるということは、聖書中で度々結婚になぞらえられており、聖徒たちは花嫁の立場が与えられている。
しかし、そのような例えで聖徒を花嫁に準えると、乙女は単数になってしまい、その中の分離を表すことができない。そこで主は、新郎宅で祝う乙女たちを用いて聖徒の立場を明かしているのであろう。
これはつまり、約束の聖霊を受ける弟子たちがどのようにその責務を果たすかを個々に問うものである。
この譬えでは、賢い乙女らも含めて十人が眠り込んでしまうというところで、花婿を待つ時間は予想外に長いことが暗示されている。それゆえ聖徒たちの死を連想させるものともいえる。
それは、キリストを待って時を過ごすうちに、自らの寿命も尽きてしまうかのようである。
使徒たちをはじめとする初代の弟子たちは、自分たちの世代のうちにキリストの帰還が為されると考えていたことは聖書中に見られる通りであり(テサロニケ第一4:15)、彼らの期待通りにキリストの臨在は起こらず、『生きながらえて主の来臨の時まで残る』と自らのことを西暦55年頃に記していたパウロの認識も、後に変化を見せており、最晩年には『わたしが世を去るべき時はきた』と言っている。(テモテ第二4:6-8)
即ち、覚醒しているうちは待っている間に時がきても、新郎を迎えることを意識しているものだが、眠気はその意識とは関係なく誰にも臨むものである。気持ちを込めて待つにせよ、人間には限界というものがある。
この見方を裏付けるように思える点は、彼女たちの持つ油の量である。
つまり、眠り込む以前に花婿を待つ時間が、自分たちの予想を越えて長くなってもよいような準備があったか否かを左右する証拠となっている。
そこでの「賢さ」は、時の長さへの用意であったことになり、そのような準備は、眠ってしまってからではどんなにしても行うことはできず、眠る以前にのみ行えることであるから、待つ側の乙女の対型である聖徒たちの寿命の尽きる以前が問われると見ることができるであろう。
聖徒たちが復活するのが天であれば、復活という目覚め以後にそこで忠誠の試みに遭う機会は既に無く、身分を明かすような業や信仰を、活動できる生前に衰えさせ、あるいは失っていたなら、天界に復活することすらも場違いなことになってしまうことであろう。
この点で、パウロは自らの死を悟りつつ『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した。』 ということができた。つまり、目覚めの後への備えができていたと言えよう。『今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。』とも言っている。(テモテ第二4:6-8)
確かに、パウロは西暦55年頃には自ら主を迎えると考えていたことを記していたのであるから、彼をこの例えの観点で言えば、余分の油はしっかりと確保されていたと言うべきであろう。
だが、『この世を愛して』パウロを見捨てたという、テサロニケのデマースのような人物はどうなるのであろうか。(テモテ第二4:10)
-◆「婚礼の例え」---------------------------------------
この観点を後押しするのが、同じマタイ福音書の22章にある「婚礼の例え」である。
この婚礼では、ある国の王子の婚礼に予め招いておいた客に、いざ婚礼を催すに際し、改めて出席を呼びかける通知を行った。
しかし、以前から招いておいた客たちは様々な理由をつけて、皆が揃って断ってきたのである。その挙句、呼びに行った家来まで殺されてしまった。
この内容は、イスラエル=ユダヤの民が預言者やメシアを排斥してきた歴史を彷彿とさせる。
神はアブラハムのゆえに、イスラエル=ユダヤの血統上の民に「聖なる国民、王なる祭司」となる道を開いてきたのだが、彼らは不信仰のためにそれには値しないことをメシアのときに明確に示したのである。
結局、この民族は律法契約を守らず、その上ナザレのイエスを退け、キリストを基に構成されるべき「神の王国」への招きに確かに応じなかった。(出埃19:5.6)
その結果、血統上のイスラエルから聖霊に預かる者となったのは「僅かな残りの者」と預言された通り、ナザレのイエスをメシアと認めた民族のごく一部に留まった。(ローマ11:7)
その後のイスラエル史は、ユダヤとエルサレムの滅びに向かう。
つまり、血統によるユダヤがメシアを拒絶した為にエルサレムは徹底的に破壊され、灰燼に帰したのである。
以後、ユダヤは流浪を始め、今日まで神殿もメシアも得ていない。
盛大な宴会の例えにおいては、父王が怒り、軍隊を送って人殺しどもを除き去り、街を焼いたことがこれに相当している。
更に、婚宴の席を満たすため、誰でも目に付いた人々を差し招くよう家臣に命じ、やがて宴席はいっぱいになった。
この部分の対型はメシアを受け入れたユダヤ人の不足のため、信仰に篤い異邦人からも「新しい契約」に与る人々が選民「神のイスラエル」に迎えられた歴史の明瞭な比喩になっている。
イエス自身、この事態を『多くの人が東から西から来ては、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり歯がみをしたりする』と予告しており。
パウロは異邦人によるイスラエルへの補充を『接木』として例えてもいる。
つまり、ローマ人コルネリオにも聖霊が注がれ、まったくの異邦人もその血統に関わらず「神のイスラエル」の中に加わることを許されたところから、この宴会への召しが始まったとみることができる。(ローマ10:20)
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しかし、ここで更に注目すべきはその後にある。
つまり、招かれた人々の中に華燭の宴に相応しからぬ服装をした人物が混じっていたことに主催者の王が気付く。おそらくは普段着のままで席に着いたのであろう。
それを咎められると、その者は何も言えなくなり、王は家臣にその者を捕縛し外の闇に放り出すように命じる。やはり、その者はそこで泣き悲しみ、歯軋りするだろうとされている。
そして最後に、この語り手であるイエスは「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と結論付けている。(マタイ22:1-14)
-◆外に出される者ら---------------------------------------
この婚礼の例えと同様に、乙女の例え(またミナやタラントの例え等)も話の結末には「外に出され、泣き悲しみ、歯軋りする」という状況が共通しているがどういうことだろうか。
それらのたとえは何か共通したものを教えていないだろうか。
婚礼の例えの場合、「異邦人」という初めから招待されていない者で十分な準備ができなかったような酌量されそうな理由があったにせよ、結婚式の服装の相応しくない出席者は、やはり除外されることになるのだろう。
その理由は、その場への認識を欠いているからである。それでは、出席そのものを断ってきた本来の招待客であるユダヤ人の不敬と大差ない。
これらの例えは共に、本来は神の恵みに入るはずであった人々がその立場を失うことの警告であり、こうした戒めは、イエスの言葉の中で何度も繰り返されている。
そして、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という法則は、一方で、異邦人から聖徒に招かれた者らにも、また、乙女の例えが示すように、聖徒の肉の寿命の尽きた後にも適用されるであろう。
生ける者にも死して眠る者にも、一度聖霊を注がれた「聖徒」となったなら、その裁きは同じように臨む。
テモテ第二4:1の『生ける者と死せる者を裁くために定められた』キリストの姿はここに見出される。
実に聖徒たちは『キリストに属する者ら』であり、共に「生ける神殿」となる以上、キリストの吟味を受けるのは当然であろう。
即ち、一度聖霊を受け、その賜物に与りながら生涯を聖徒に相応しく過ごさなかった者らは、天に招かれようとも、資質がそこで問われるということである。
これは「十人の乙女」そして「宴会」の双方の例えに共通する主題であり、聖霊を注がれる聖徒たちにとっては重大事であり、軽視されてよい訓戒ではない。
-◆「多くを委ねた者には多くが求められる」----------------------------------
「婚宴」はまた、将来に乙女らが花婿キリストと共になる祝いの時である。
もし、寿命の尽きる前にキリストを待ちきれず聖徒としての行いや認識を欠いていたなら、復活して後の聖徒らの持ち物、つまりキリストの臨御(パルーシア)が起こり花婿が到着して乙女らが夜半に起こされる時、祝うべきその時に手持ちの油は不足していることであろう。灯火の光明は消えかけており、主の来臨を明るく照らし出して迎えることは叶わないのである。
その「油」を聖徒としての必要な認識や練り浄めと解するなら、愚かとされる五人は復活してから花婿であるキリストを迎えるだけの認識や態度をもう一度培わなければならないし、練り浄めも必要であろうが、試練もない天界においてそれは無理である。
また、この「油」が聖霊そのものであるなら、個々の聖徒のうちで相応しく歩まない者がいれば、その者から「油」に相当する聖霊の賜物は、夜半に起きるとき既に尽きている、ともとれる。
まさに、キリストと共になるとは、恐るべく聖なる立場の責を負うことに違いない。(ヨハネ6:65)
そのように考える場合、死に至る前に、あるいは天に挙げられる以前にどのような生き方をしたか、つまりたとえ死に至るとも「主」を待ち続けたか否かによって、聖徒らが天に召されたときの境遇に反映されるであろう。
しかし、それは時間の上で間に合わないだけでなく、復活があってから認識を培うようではキリストと共になる者に相応しい信頼性もない。それまで何をしていたのかが問われても仕方の無いことである。
では、油の足りなくなった乙女らは、具体的にどう復活するのだろうか。
天界に復活するとしても、その後はすぐに悪霊らと同じような境遇に置かれるのかも知れず、あるいは、天界への復活に意味がなくなっているならば、それも起こらずに「千年期」の後の諸世紀のすべての人々の復活に含まれるとすれば、そこで確かに、天界でキリストと共になることからは閉め出されたことを痛感することになろう。
その落ち度といえば、やはり聖徒としての立場に相応しい生涯を送らなかった為に、召され復活してすぐにキリストを直ちに迎えるべき準備ができていないところにある。
-◆終わりの日に眠りから起こされる者たち---------------------------------
この「十人の乙女」の例えの解釈を支持するように見做せるのはダニエル書である。
その12章では、天使長ミカエルが終わりの日に立ち上がるが、そのとき地の塵の中に眠る者が多く起こされ、彼らはあるいは栄光に、あるいは定めないときに至る恥辱へと出てくると書かれているのである。(ダニエル12:2-)
この預言の記述を吟味すると、この内容はミカエルの戦うべき現今の政治勢力の影が残っている時代であり、黙示録と照らし合わせると千年期以前に相当するため、初期教父エイレナイオスの理解に従っても、全人類の死者の復活を述べているのではない。
この復活は、その前のパウロが「早い復活」と記し、黙示録が「第一の復活」と呼んだものであり、キリストと共になる「初穂」の人々が人類から買い取られて天に召されるパルーシアの時のことを記していよう。彼らはそのようにして聖徒に相応しいかを見定められ、彼らの吟味される「裁き」に立つであろう。
(フィリピ3:11/黙示録20:5.6/ローマ8:23/ヤコブ1:18)
ペテロが「各々行った業によって裁かれる」と述べたのは、行状に表れるところの、この聖徒としての愛に基づく行動がどれほど行われていたかが判断されることを指していたのであろう。そこに、キリストの追随者としての認識が証しされるからである。
ヨハネ福音書にある「良いことを行った者は命の復活、忌むべきことを行った者は裁きの復活」というこの言葉も、聖徒に関してのみ当てはまるものであり、その他の死人は「死の報い」である死を経ていれば、死の眠りに就いた時点で、既に罪は過去のものである。(ヨハネ5:25-/ローマ6:23)
(したがって、ほとんどの死者が受ける後の復活では、そのすべての人々が「新しい契約」に無い以上、生前の応報を受けることはない。黙示録20:12)
しかし、聖霊を受けた者は肉であったときから既に贖罪を受けており、「新しく生まれた」状態にあったので状況は異なる。彼らは霊による命を味わい知っているという。
それは永遠の命が既に地上で始まっているとも言い得る状態であったろう。したがって、彼らにとって肉体の死はまさに眠りに近いものになる。(ヨハネ3章/ローマ8:1/コリント第二5:17/ヘブライ10:20)
-◆起き上がる聖徒-----------------------------
死の眠りについた聖徒について、西暦第二世紀小アジアのポリュクラテスは書簡で次のように書いている。
『祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう』。(教会史V24)
このように、初期の純正なキリスト教徒、しかも聖霊の賜物に預かった人々の希望は、死後に至福の楽園のような「天国」に行くことなどではない。死という象徴的「眠り」の内に時を「待つ」のである。
そこに非ヘブライ的かつ異教的な死後の命などは無く、キリストのパルーシアを待ち、そのとき天に復活することこそが彼らの願いであった。(ヨハネ6:54)
もちろん、信仰のうちに人生を全うした聖徒には、主イエスに対して忠節を尽くした生涯の歩みに関する充実感もあるだろう。殉教者に至っては、パウロの語った如く、復活は大勝利の凱旋のようであろう。(コリント第二2:14)
だが、聖霊を与りながら、そのように充足した喜びのうちに入れない者が居ないとも限らない。
それゆえ、ペテロは手紙を書いて、聖徒らが行状に注意し、「肉体の残りの日々を人の欲望に沿って生きるのではなく」「自分の召しを確固たるものとする」よう訓戒している。(ペテロ第一2:11-21/第二1:10)
パウロも「貞潔な処女」として聖徒たちを夫キリストに差し出す務めが自分にあると言っている。それゆえ、彼らはシミもキズもない者としてキリストの前に立てるよう励むべき理由があったのである。(コリント第二11:2)
彼らが聖霊に預かる者となり、「聖なる者」と呼ばれ、聖霊の賜物を使いこなし「大いなる業」を行なおうとも、それは彼らの「約束手形」にすぎず、アダムの罪ある肉体にあって、その「義」も信用貸しされたものなのであり、「新しい契約」をどう保つかは本人次第であった。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)(契約とは不確定のものに対してとられる措置である)
そこで聖徒らに重要なのは、自分たちが受けたものに対する価値観を失わぬことである。
さもなければ、強力な業を行い悪霊を追い出す活動をしてもなお、主イエスから「不法を働く者よ」と退けられるであろう。(マタイ7:21-23)⇒ 小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時
したがって、彼ら初代キリスト教徒には、イエスの再来が自分たちの世代に起こると信じていた人々も多く、パウロさえテサロニケへの手紙を書いていた55年頃には、迫害に遭いながらも自分は死ぬことなく天に召されるグループにあるとの認識を示している。
だが、晩年のテモテへの手紙ではこれが大きく変化し、「自分は走路を走りきった。今から後、自分には冠がある」とイストミアードの競技者になぞらえて、はっきりと死を覚悟しているのである。ここにも待ち時間の予想外の長さが窺えるが、実際二千年後の今日なお臨御の徴はないようだ。
そうした中にあって、キリストの臨御が思うような時期に来なかったからと、人類の初穂としてキリストに贖われたはずの聖徒がその道を捨ててしまったり、放蕩して堕落を見せたりして生涯を送ったとすれば、天への復活にあってはあまりにも似つかわしくない姿をさらすことになろう。(エフェソス3:12/ローマ6:6)
(この悔い改めの許容範囲には、当然一般信徒と聖徒の違いがあるだろう。コリント第一6:9-10)
-◆見張り続けよ------------------------------------------------
そしてイエスは「十人の乙女」の例え話の結びに、弟子たちはキリスト到来の時を知らないゆえに、「ずっと見張っているように」と付け加え、それからタラントの例えに移っている。
この「時を待つ」姿は、シナイ山麓でYHWHの会見の天幕で祭司として仕えるアロンと子らが、任命の灌油を受けても、さらに七日を待たされたのに似ていることも指摘できよう。(レヴィ8:33-)
聖徒たちはキリストと共に「王なる祭司」となるので、律法契約の下での祭司の先例が予型としての意味を持っていたと考えることは不適切ではないだろう。
モーセはその日々を待つことの意味するところを「力を満たす必要があり」また「自分を見張り」「死ぬようなことのない」ためであると語った。
イエスと共に王また祭司となる聖徒らも、同様に「死ぬことのないように」自らの生涯という「七日」の相当する期間を心して「見張る」必要があるのだろう。
つまり、その「八日目」に相当するキリストの到来と聖徒たちの権能の満たされる日が、自分たちの思うより遅くなり、生涯が終わってしまうことも念頭に置くようにと、この「十人の乙女」の例えを用いて諭していることになる。
聖徒の受けるものが大きい分、「多くを委ねた者には多くが求められる」ものである。
彼らは人類の『初穂』であり『神の子』であり『新たな祭司職』を受ける『聖なる者』なのであるから。(ルカ12:48)
(後に、アロンの子らのうち二人は不適切に振る舞い、祭司から取除かれて死んでいる)
全世界の民は、彼ら聖徒たちが間違いなくキリストの花嫁となって神の王国の完成されることを願うべきである。そこに我ら諸国民の光というべき「救い」があり、その王国は人類を神の創造物へと復帰させるからである。
我ら諸国民は将来の聖徒の現われを祝し、聖霊を注がれ重い責務を負うことになる彼らを全く支持するべきであるといえる。(ゼカリヤ8:23/ローマ8:19-)
新しい契約は効力を果たし、天に聖徒の全員が揃ってキリストと共になり、神の千年王国が完成して機能は始めることで、地の人々から倫理上の欠陥除かれ、社会は輝くように変化するという。
人は皆、「神の子」となって創造された通りの姿を取り戻すのである。そこでは、今日この時にも行われているであろう、あらゆる不義や不公正、様々な悪行も存在しなくなる。神との関係の回復の結果として、死や老化も過ぎ去り、地の呪いも解かれるであろう。
それは人間の努力の及ばない栄光、神の属性を持つ人類の誕生となる。
『創造物は切なる願いを抱いて神の子らの顕し示されることを待ち焦がれている』とパウロが語ったように、人類の最初にキリストの贖いを適用され、先立って「神の子」となる「聖徒たち」は、我々「諸国民の光」であり、真のアブラハムの子孫「神のイスラエル」、「神の所有に帰する民」となる。
では、その礎となるべく、より多くを委ねられる「聖徒たち」に、より多くが求められたとしても、神の意志と人類にとってそれは喜ばしいことではないか。
©2011 林 義平
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