「神の愛」と言われても。「愛」の以前に、そもそも神の概念がはっきりしていない。
そこへ愛ということになれば、何かを飛び越した印象があって当然であろうし、得体の知れないものに擦り寄られる不気味さすら感じる人があっても致し方ないことであろう。

そこでまず、神を特定しておく必要がある。

この愛の主たる「神」とは聖書にある創造の神であり、自分以外の一切を在らしめた第一原因者というべきものを指す。
この神は創造を企図したときにどのような動機を持ったのかは分からない。
しかし、神は創造物、殊に理知的意識を持ち自らとの関係性を認識できる者らとは、精神意識上の交友を望んだであろう。

それは創造者と被造物、また被造物同士の相互認識と関係性の交流であり、あたかも家族や友人のような姿であろう。それは奴隷と主人のようなもの、あるいは人間界に見られるような尊大な独裁や格差や差別や上下のあるような関係ですらない。
創造者と被造物においてすら、ある意味においての等質性がある。
それを創世記は「神の象り」と表現している。

つまり、神を認識できる被造物は単なる「物」という次元を超えるのである。
聖書の創世記に描かれる創造者は、自らの創造物である人間、その初めであるアダムを非常に愛したところが観察される、即ち、動物たちを彼の前に連れて来ては、それをアダムが何と呼ぶかによって、すべての動物にその通りの名を与えたというのである。自作の表題を誰かに決めさせるという発明家や芸術家がいるとしても、それは相当に愛情の伴う異例なことではなかろうか。

ここで明らかなように、アダムの思考は神から独立しており、それを神は楽しんでいる。そこに様々なキリスト教派がいうような「服従を望む神」の姿は見当たらない。

また、人は物質の地球上の管理のために作られたと書かれているのだが、単なる管理の下僕ではないようだ。
もちろん、ロボットのようなものでもない。
神との相互認識から意志の交流が生まれるが、互いにその関係性を楽しめるものとするために、それらの被造物は、ある種の神と同様の個別の意志を持ち、自由に決定を下せるものでなくてはならない。

創世記で「神の象りに造られた」という言葉が用いられているのは「人」であり「アダム」である。
アダムは「神の子」であったが、天使らも「神の子たち」と呼ばれている。そのそれぞれが自由意思の持ち主であり、神との意思の交流があったに違いない。(列王一22:21)

それは人間をして他の動物たちと決定的に異ならせるもの、つまり本能だけによらない意思の自由、加えて抽象概念の把握もあろう。これなくしては、見えない神を思考することも意思の疎通を図ることもできないだろう。

一方で、神にとっても自らの「象り」としたからには、神がこれを卑しめることはない。
殊に自由意志決定においてこれを尊重するのは神自らの神性を重んずることでもある。
ここに人間のプライバシーを認める理由がある。即ち、意志決定を妨げないことの必然性の存在である。

アダムが「善悪の知識の樹」から食することを、全能の神であれば強制によって妨げることもできたであろう。だが、それではアダムの意志の方向が見えないし、人を「物」の領域に引き下げてしまう。

善悪の知恵の木と永遠の命の木とが植えられたとき、人の前にふたつの道が選ばれるようにされたのであり、神がそれらを設置したのであれば、その選択は人に任されるべきであったに違いない。
しかも、二本の木々がエデンの園の中央に置かれたということは、人の境遇とその選択が関係を持っていたことを物語っている。

創造された生き物の名を付けることを人に許し、その自由な思考を楽しむ神は、ここに於いて、自由意志を更に保つべき行動に出たと言えるのである。
その自由意志は諸刃の剣と成るものであったからであろう。既に一人のケルヴは自由意志を自らへの強い愛着に向けてしまい、創造界の調和を乱し始めていた。それが誘惑者となった『蛇』であることを黙示録が明らかにしている。(黙示録12:9)

そこでは、神が全知であってあらゆる者は神の知りうるところではあるにも関わらず、アダムもエヴァにもその決定を事前に把握することは避け、監視するようなこともしなかった。そうでなければ、アダムを創造することに不利益があるので、はじめから人を造らなかったであろう。全知全能の神が、禁断の木の実を食べたことで隠れた二人を、「どこにいるのか」と呼んで探しているのである。

このように神と雖も、その全知全能性を抑制することは神自らの「象り」を尊重するゆえであり、その目的とするところは真に自由な意思を在らしめるものである。つまり、人を創造した神は「圧制者」ではなく、本来は監視カメラを置いて強制するようなことをしない。

まさしく、燃えて回転する剣と二人のケルビムをもう一本の木の前に置いて、監視させたのは、アダムらが『罪』に陥った後のことであったのだ。

この観点から神を捉えると、創造の神は主権を翳す圧倒的な上位者であることを望んでいないことになる。
これに調和して、人に屈従を強いることは、人が本来造られた「象り」に反することであり、圧制が人間にとって不自然であることは歴史が永らく証明してきたであろう。



-◆創造の意図を離れた創造物-----------------------------------

さて、神は全創造のはじめにひとつの生命を誕生させた。
もちろん人間の創造を遥かに先立ってのことである。
この最初の創造物は格別のものであり、神の象りという点において最高度のもの、「精密な描写」とも言われている。 ⇒ 「ホクマの謎」

箴言八章によれば、彼は神の創造のはじめであるだけでなく、自ら以外のすべての創造に関わった。
それゆえ、彼は神が直接に手を下して創造したということにおいて唯一であり、それゆえ神の「ひとり子」と新約では呼ばれている。

この創造の業への関与の深さに調和して、彼は「神」(定冠詞無し*)であり、「大能の神」(エル・ギッボール)とも呼ばれている。彼は人の創造に関わっており、箴言では人を深く愛したことが伝えられている。(*ヨハネ1:1/イザヤ9:6⇒テモテ第一6:15)

しかし、人アダムは神との関係、つまり最初の倫理性の発露、自由意志の表明において、蛇の道に従い、創造者を創造者として認めない行動をとった。これは神と「ひとり子」にとってさぞや残念なことであったろう。

この選択が及ぼしたものについて例えを用いて説明するなら、性能に優れたコンピュータに自由意思を付与したと仮定する。
自由な意志がある以上、それはもはや単なる「モノ」ではなくなるだろう。
それはある意味で人間のひとりのようになる。このマシンが自らの作り手を尊重しつつ自由意志を行使するなら、それはなんと良い関係となろう。

しかし、これが作り手である人を無視するようになり、その意図に反する決定を下して行動したり、更には作り手を攻撃し害するようになった場合どうなるか?そこに欠落するものは「愛」である。

我々なら、自らが作り手(当該存在の原因者)である以上、その悪意を持った意志の持ち主の存続をやめさせる当然な権限を行使するであろう。まして、それが周囲にまで悪影響を及ぼしてゆくならそれは権利を越えて、存在させた責任をとらねばなるまい。

おそらく同様に、神もアダムについてそのような処置をとった。それは永久に存在することの停止、寿命の付与である。もちろん、こうした事態が発生しうることを神は知っていたに違いない。しかし、自由な意志の尊重のために敢えて犠牲の危険をとったのであり、それが自らとその「象り」とを尊重するからにほかならない。

即ち、被造物が創造者の意図に反して行動し、永久に存続する場合、創造者の意図はいつまでも達成されないことになり、それは作り手の権限を無に帰さしめることになり、それは被造物全体の益にもならない。

こうしてアダムは永遠の生命から退けられ、神の創造物としての本来の栄光や、『神の子』が持つ神との親しい交友から除外されることになった。
そのゆえに地は呪われ、アダムの耕す地面には雑草が繁茂するようになった。それらが生活の糧を得る労働を非常に辛苦なものにして今日に至っている。(雑草は人間の生活圏と密接に関係するという)

また、様々な大地の災害も始まったであろう。
そして「顔に汗してパンを食し、ついに土に帰る」という言葉は今日なお真実ではないだろうか。
それは、人が地を治めるべく造られたという意図から外れたので、地は人に対して必ずしも協力的では無くなることを意味したのかもしれない。



-◆神のひとり子の贖い-----------------------------

しかし、アダムの子孫については、遺伝によって寿命ある生命を受け継いだのであり、彼らが神を神として認めるか否かは未知数であった。それでもアダムは一度の違犯によって、子孫をまるごと神を認めぬ道に引き入れてしまったのである。(ローマ5:12)

現状で、人間は様々な宗教を奉じていてすら、アダム由来の罪(原罪)を免れることは誰にもできず、地上は様々な悪で満ち、強欲からくる争いを特徴とする「この世」が存在しているのである。(ヤコブ4:1-4)

ここにおいて、神と「ひとり子」はアダムの子孫の救済を企図した。(ヨハネ3:16)
人類の失ったもの、つまりアダムに代わる完全な倫理性を持つ生命(魂*)を犠牲として差し出すこと、その代価によってアダムから連綿と続いた人間の生命(魂)を回復するのである。これは「贖い」と呼ばれる。

このことにおいて最適任者は「ひとり子」である。
なぜなら、彼は神に最も信頼されており、紛うことなく創造者を創造者とするであろう。

さらに、彼の創造物筆頭の地位から創造者を尊重する態度が示されるとき、その第二の地位ゆえに全創造界には創造者が創造者とされ、至高者として尊ばれるべき理由が生じ、それは創造界全体に秩序を与え、この『初子』を要として家族のように親密な関係が回復されることになるからである。(コロサイ1:20)
これこそ神もひとり子も意図する世界であったろう。

しかし、それは神にとっても大きな犠牲を伴うものである。
親になったことのある人なら分かると思うが、自分の子の命を誰かに差し出すということがどれほどのものか。
人は我が子のためになら自分を差し出すことも厭わない。危急のときに親にとって子は自分よりも貴重となる。親は子のために猛火の中に飛び込み、猛獣にも立ち向かうのである。
それは人ばかりではない。動物であってすらそれを示す。

それであれば、貴重な「ひとり子」を愛情に富む親が誰かに差し出すとき、そこに何があるのだろうか。

一般常識からすれば、子を差し出すのは親のすべきことではないともされるだろう。
同様に、神に対してその異論を唱えた者がいるようだ。
「蛇」である。

この主張は、ユダヤ伝承に含まれるおそらくの話だが、人間という不義理な輩に神の貴重なひとり子を与えるなど豚に真珠のようなものだとサタンが語ったとされている。
(蛇自身は自由意志から既に神を退けているので、アダム同様に御子の贖いの埒外にある)

この伝承の由来には、アブラハムへの試練がある。
非常な高齢になってからやっと得たひとり息子イサクを、羊のように丸焼きにして差し出せとの指令は聖書の神ではなく、当時のカナンの地の残虐な偶像の神々の相貌を突然に呈する。

だが、アブラハムは自ら信じる神の善性を疑わず、約束にしたがい自分のひとり子を神は復活させてくれるとの信仰を抱いたので、ひとり息子イサクに刃を向けるところまで進んだ。そこで神は遂に声を発して介入し、アブラハムの手を止めさせたが、後にパウロは「アブラハムはイサクを捧げた(も同然であった)」と書いている。(ヘブライ11:17-19)

ここで示されたのは、アブラハムの神への「従順」ではない。
パウロはこう書いている。『彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていたのである』(ヘブライ11:19)
即ち、アブラハムは試されたときに、闇雲に神への従順を全うすることに注力したのではなく、神の善性を疑わず、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』との言葉に深く信頼をおいていたのである。
こうして、アブラハムは人間の中にも神を深く信じて、そのひとり子を差し出す者がいることを立証したのであった。そこでパウロは『信仰によって、アブラハムは試練を受けたときイサクを献じた』と記しているのである。

「従順」は自分の想いを別にして従うことを求めるが、「信仰」はそうではない。自らの想いが自発的行動を起こすものである。そうでなければ、神は知的創造物を「物」として支配することを望んでいることになるであろう。

アブラハムが示したのは、神への信頼で結ばれた絆の強さであったということができる。それは人格的結びつきによる彼の判断であって、機械的、自動的なものではなかったというべきであろう。何が何でも神に従うというのは法則に従う物体であって、思考力のある存在がただ言われたままに動くというのであれば、それは「神の象り」を自ら侮蔑することになる。

アブラハムの信仰を創造の神はどれほど悦んだことであろう。
最も貴重なものを差し出しあう神とアブラハムであったので、神と人という言葉の及ばぬほどかけ離れた存在でありながら、遥かな違いを乗り越えて、神はアブラハムを『我が友』と呼ぶようになったのである。このようにされた者は聖書に例を見ないが、この件を通して、まさしく人は『友』とまでされ得るべき、その「象り」に創られたというべき理由も見えてこよう。(ヤコブ2:23/イザヤ41:8)

こうして、サタンの反論は廃され、神はその「ひとり子」、『創造のはじめ』である『言葉』を世に遣わすことになる。
「ひとり子」も喜んでこれに応じたであろう。彼が人を愛したからだけではない、その父を深く愛するゆえに、父を父とし、創造者としての「神性」を立証することは命をも懸けるに足ることであったに違いない。

パウロは「神は我々が敵であったときに御子を通して和解していた」と書いたが、人々が誤解をもって、また無知であるゆえに神を無視しているその間にも、既に神とその御子の愛は我々に対しても完うされたのである。

このように、人類全般に知られない間に神の愛は遂げられ、これは神の最大の栄光となった。
御子の死に至るまでの忠節を通して、自由意志者の間で神が神とされ、その神性が遂に立証されたのである。(フィリピ2:5-11)

この父子の何という強固な結びつき、そして幸福な関係であろう。
ここに比べるべきもない偉大な、そして究極の愛がある。



-◆一度限り立証された神の神性-------------------

御子の死を通して創造者の神性は余すところ無く立証されたので、もはや神からの独立の道をゆく蛇を初めとする「神のようになろうとする」者の存在価値は、神(創造者)と御子(被造物)の固い愛の絆によってまったく否定された。(ヘブライ2:14)

この愛によって創造界が満たされる日がやがて実現することだろう。
それは、圧倒的主権者と被支配民というような人間に見られた過酷な関係ではない。そこで為政者は民の福祉を省みず、民も従いながらも愛しはしない。

しかし、神と御子は人々が敵のようである状態からこれを愛し、最大の犠牲を払って神の家族に迎え入れようとしているのである。

キリストは自らを指して、(家の)「子」が自由にする者は奴隷身分を解かれると語っている。(ヨハネ8:34-36)
現在の人類は、様々な艱難辛苦と老化と寿命の奴隷であり、不公正な政治や市場経済の圧迫、また強烈な権力を翳す様々な脅しに隷属しているのである。

このようにバランスと秩序を欠いて奪い合いと争いの憎しみ満ち、命儚い世に依然として生きる我々ではあるが、神の子となって迎えられ、創造されたままの愛と栄光への内に帰る道筋が御子によって一条開かれた。(ヨハネ1:12)

こうして、政治的権力という一切の強制の必要の無い、また神も権威を翳す必要の無い、あたかも家族のような姿が神と被造物の間に見られるようになるであろう。
何故ならば、政治というものは、人間の不倫理性に対処するための応急処置に過ぎず、貪欲の調停を行う機関だからである。それは常に人類の貪欲への対症療法であるので、様々な矛盾や難題を抱えたまま、度々に機能不全に陥るのである。

また、宗教も同様に、人間の不倫理性のゆえに神と人の間に断絶があるところの仲介を行うための存在である。しかし、これは神の任命した仲介者を介さない限り、人は神との絆を回復することは無いのであり、実際、現今の宗教はみなそのようである。⇒「人はなぜ、苦しみながら政治と宗教を存続させるのか」

神がキリストを通して与えるものは、これら人間には解決不能な陥穽からの救いであり、隷属を去った自由なのである。
仲介者キリストが人にもたらすものは、不倫理性の除去、即ち「贖罪」であり、それは根本治療である。
隷属から解かれたその「自由」を得るならば、人は他者に語るように神に語りかけ、神はイエスにそうしたように実際に答える。
いや、そのときに神は、人から『問われる前に答え、既に語るときに聴く』とさえ言うのである。(イザヤ65:24)

そこでは所謂「宗教」の必要も無くなってしまい、人は「神の子」に復して「罪」のもたらす神と人の断絶はまったく過去のものとなるだろう。

そこで明らかなことは、人を人として創られた神は、強力な主権を翳して支配し「従順」を求めるのではなく、人ひとりひとりの自発的「信仰」を望まれるということである。それが人の自由意志の選択を担保するのであり、信仰を選ばせることで、神は自らの『象り』を尊重される。
それゆえ聖書には、『信仰ゆえの従順』という言葉はあるが、『従順ゆえの信仰』というものは無い。

そうでなければエデンの園に二本の木々は要らず、終末の裁きに於いても信仰ではなく、ただ従順を求めるはずではないか。
人を救うのは「従順」ではなく、明らかに「信仰」である。もし、神が自ら主権者としての支配を望まれたなら、苦しみ充る世も人々も即座に消滅し、サタン諸共にとうに滅ぼされていたに違いない。

だが、神が創造物に望まれたのは、親子のような関係であり、親が子供の上に主権を行使しようとするなら、その親は悪い見本のようなものではないか。 神はいずれ、聖霊によって自らを明確に示される。その時に信ずるか否か、それがアダムの子孫に与えられた二本の木々になると云えよう。(ヨハネ3:36)

さて、我々はこれにどう応じるだろうか?



 


        新十四日派     林 義平
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ブログ内の記事一覧



*文中「生命」に(魂)を付したが、これは初学者のためである。
正しくは「生命」ではなくヘブライ概念の「魂」(ネフェシュ)とするべきだが、理解の混乱を避けた。

 ネフェシュ(魂)の意については以下が関連
  「ネフェシュとは何か
  「ネフェシュの翻訳
  「ネフェシュ 命に優るもの

関連 ⇒ 「神は主権を追い求めるか」
        ⇒ 「神はなぜ信仰を求めるか