これがキリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒に曖昧であるのは驚くべき事である。
しかも、これを「天国」としてしまうキリスト教指導者の多さも驚かされる。ユダヤ人に向けて書かれたマタイ福音書では「天の王国」[ἡ βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書の「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂、天国と地獄の「天国」とはまるでかけ離れたものである。(福音書の王国の違いについては拙著「神YHWHの経綸」を参照されたい)
そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。
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さて、この天国ではない「王国」が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。
それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。
即ち、神YHWHとイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とあるが、これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。
この事を、神は遠くシュメール時代の人アブラハムに対し、「あなたの子孫(後のイスラエル)によって、すべての民族の人々は自らを祝福するであろう」(創世記12:2-3)と語っていた。つまり、「神の王国」は全人類を益する神の手立てなのである。
後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、「・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・」(ペテロ第一2:9)とキリスト教徒の中の聖徒ら(ハギオイ)に適用する。
つまり、律法契約の遵守に失敗し、遣わされたメシアを退けた血統上のイスラエル民族によらない、別の「イスラエル」と呼ばれる民、「神のイスラエル」によって構成されるキリストの追随者による「王国」である。(ガラテア6:16)
こうして「王国」という奥義に関する数千年に亘る神の歩みが見て取れるのである。
つまり、キリスト教徒のすべてではなく、聖霊の賜物を得た選ばれた一定の人々が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/ヤコブ1:18/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当することで、神がアブラハムに明かしたように、その益が残りの人類全体に及ぶことになるのである。
しかし、モーセによる律法契約は、イスラエル=ユダヤ人に守られることが遂に無かったので、その後に、神が預言者エレミヤを通して予告していた「新しい契約」(エレミヤ31:32-33)に入れ替えられ、こうして「祭司の王国、聖なる国民」という本来の「イスラエル」を実現させる筋道を保ったことは聖書に明らかな通りである。
つまり、イスラエル=ユダヤ民族は「王国」の担い手、選民「イスラエル」となるはずであったのだが、律法契約違反の罪を負ってしまったまま、マーシァッハ(メシア=キリスト)という「王国」の主要な王の到来を迎えた。
そうして、血統上のイスラエルは「神の王国」となり得る機会を再び得たので、イエスは「神の王国はあなたがたのただ中にある」と言っている。(イザヤ9:7/ルカ17:21)
それにも関わらず、ユダヤの宗教体制派はナザレのイエスをメシアとしては認めず、これをまったく退けてローマの権力に渡して処刑させたのである。
イエスの頭上の罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。
このため、ユダヤ民族全体としては「王国」を受け継ぐことから除外され、民の中のほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する望みを繋いだのであった。(ローマ9:27/マタイ21:45)
そのため、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき王国、「イスラエル」の民には、イエスに信仰を持った残りのユダヤ人だけでなく、「王国」を構成するはずであったユダヤ人の不足を埋め合わせ、全体の人数の補充するためにイエスを受け入れた異邦人も『接木されて』含まれ、血統上のイスラエルに彼らが幾らか混じることになる。(ローマ9:24-27)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)
それゆえ、この異国民で元々イスラエルに属さない人々は、「血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となった」とパウロは言う。(ガラテア3:29)
これらの選ばれた人々は、キリストが「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、ユダヤ人であってもなくても、共に信仰によって選ばれた『神のイスラエル』、つまり「新しい契約」に属する人々「聖なる者」である。(ヨハネ14:2-3/ガラテア6:16)
この契約に与る「神の特別な所有物である民」「聖なる国民」に属する人々、つまり「聖徒」には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な賜物が与えられたが、それは「王国」の一員として内定したことの印であったことをパウロは度々言及している。(エフェソス1:11-14-18/コリント第二5:5)
つまり聖霊の灌がれない人はけっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もなったくない、むしろ「王国」の外に居て、聖なる人々からの優れた益に与れる言わば「客」なのである。
それこそは、聖霊ある人々で構成される「アブラハムの子孫」によって「地のすべての家族が自らを祝福する」という創世記で神がアブラハムに約束した通りである。
「王国」を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその「王国」を受け継ぐことができることになっている。(ペテロ第二3:14) ⇒ 今日のキリストの不在
その将来の「終末」でのキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは将来における「神の王国」実現の序章となると預言されている。 ⇒ 聖霊と聖徒
終末に至り、聖霊を受ける彼らは、キリストの帰還と王国の人類支配を宣告するために、「王や高官の前に引き出される」が「誰も論駁できない」聖霊の言葉を語ることになり、それは世界中の注目を集めることになるという。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)
この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の導きによって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせた後、天に召されることになるという。(これが「携挙」と勘違いされている。テサロニケ第一4:17)
これらの人々の「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この方は神の王国では大祭司でもあり、まず聖徒らの罪を除き、大祭司イエスは次いで(聖徒ら従属の祭司と共に)人類の罪を除くことになる。
(ヨム・キプルの祭儀;レヴィ記16:11.16)(黙示録19:16/ヘブライ7:26)
この王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。
伝統的解釈に慣れた方にはもう少しの衝撃を与えるかも知れないが、それでも宜しければ以下をお読みいただきたい。
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人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは歴史に深く刻まれた事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この苦しみからけっして逃れることはできない。
ここに「救い」といわれるものが見えてくる。
王国は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。
宗教であれ、政治であれ、すべての「人間の義」は「神の義」の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は完全な正義を持ち得ないからである。そこに真正な政治も宗教も存立しえず、争いが絶えないのはそこに原因がある。
「天の王国」は、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にすべて生ける人々に対して、神の創造物たる「神の子」の義ある姿に復する機会を提供することになる。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)
「神のイスラエル」つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教をまったく終わらせてしまうであろう。なぜなら、政治と宗教とは、人間の不倫理性(アダムからの罪)に対する応急処置に過ぎないからである。(黙示録20:6/コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか
キリストが臨御(パルーシア)を始めるとき、聖霊は聖徒に再び語らせるという。
新たに選ばれる聖徒たちは、人類の支配権を巡って為政者と対峙し「神の義」の代弁者となる。
人間の支配が、太陽も月も一切の光を失ったかのようになるとの記述はこれに関連するのであろう。(マルコ13:24)
つまり将来、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、それら己を正しいとする宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、神の正義の前に溶解してしまう。
キリストによって地は平坦にされ、一切の権威も権力も伏すべきときが来るであろう。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。
初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。
そこでは、キリスト・イエスが、その宣教で何度も語っていた『王国』(バシレイア)も、異教の「天国」にされ、善人が死後に行くという、大衆に分かり易く、ありがたいものに代えられてしまった。
しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)
何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることはエジプト以来、何度も示されてきたことである。
しかし、聖徒が如何にキリストの臨御を警告しようと、大半の宗教家も政治家も「王国」を非現実と看做すので、終末にキリストに従うことは難しいだろう。
そこが将来現れる「聖徒」の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し「世を征服」するという。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)
そのときキリストの姿は「雲」(不可視の象徴)と共にあり、為政者らは、目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので「神の王国」を現実のものとは思わないか、あるいは何らかの動機のために思いたくもないであろう。
(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)
そのときには、たとえ人々の中にキリストを罵倒していた者があっても聖徒を支持するなら「あらゆる冒涜や罪も許される」とキリストは言われる。そこに誤解があったからであろう。(マタイ12:13)(一般的道徳性の称揚はキリスト教の本質ではない)
しかし、聖徒らによる聖霊の発言に逆らうものが許されるだろうか?
神の聖霊に逆らうのは確信犯であり、どのような動機からであれ、そこに完全な選択がある。やはり、イエスは「霊に対する冒涜だけは許されない」とも言われるのである。
(マタイ12:13・25:31-46/ルカ12:10-12)
そして幾らかの時の後、試された聖徒たちの選びも確定して「王国」の国民が天に揃って完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて顕現(エピファネイア)するときに・・すべての者は象徴的に雲の中の大王の力をまざまざと思い知らされ、その臨御を認めざるを得なくなって、誰もが見えないキリストを「見る」ことになる。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第一3:13/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)
それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)宗教家はどこにいるのか?この以前に彼らは居なくなっている。聖徒が神の義を携えて現れるときから人間の宗教の一切は無意味であり、この畏怖すべき日の前に、既に権力によって処理されている。(黙示録17:16)
それで、「王国」の来る前にすべての宗派から逃れよ!党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)
それらは人々の敵意を煽り、神の義を否認し、なお永遠に争い続けようとする道、イエスを葬った精神である。
国籍の違い、政治上の見解の衝突、宗派の教義の違いが人同士にあっても闘争を惹起するように、それら人間の権威や権力は神の王国に対しても戦いを挑むであろう。
だがそれらの相克し合う指導者らが人々に対して神のような絶対的福祉を提供できるというのだろうか?(イザヤ57:21/詩篇146:3-)
一方、王として処刑されたキリストと同様に、多くの聖徒たちは死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、キリストの血の犠牲の早い適用によって倫理的に(原罪を)浄められる者らであり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど支配を委ねるに相応しい。
そして彼らの王国は、人類に神の創造物(子)としての栄光を回復するものである。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)
それゆえ、人間の政府ではなく「神の王国」を待ち、人間の義ではなく「神の義」を求めよ。これこそが「主の祈り」と「山上の垂訓」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)
これが、「神の王国」であり「世の救い」であり、すべての涙を拭うものである。
このように、不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いやその概念をさえ超える世界を作り上げるための手立てこそが「神の王国」である。
それは罪を持つどんな政治家や革命家やユートピストも企画も実現も出来なかった輝かしい人間社会であろう。
確かに黙示録21:3-4はこう述べている。
「見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。古い秩序(体制)は過ぎ去ったからである」。
神との関係を回復する人類はかつて経験したことのない栄光の時代に入り、「顔に汗してパンを食し、遂に地面にかえる」という、現在までの生き方をまったく虚しいものとして心の片隅に思い出すこともあるのだろうか。
神の王国は千年の期間に、「愛の掟」を社会原理に据えることで、人々の思いと行動を向上させ、倫理的完全性に近づけるのであろう。そうして人類から煩雑な法律の必要をなくしてしまい。自由な行為者となった人間はそのすべての行いにおいて倫理的失敗を恐れることを自他共に必要とはしなくなる。つまり、争いも欺きや悪意も過去のものとなるのである。
人体は病や老化のない「神の創造物」の輝くような様に変わり、「地の呪い」も解けて全地は「シャロンの輝き」のようになるという。(創世記3:14/イザヤ35:2)
「神は世を愛して、誰でも彼に信ずる者がひとりも滅ぼされることなく、永久の命を持つために自らの一人子を遣わした」。
このヨハネ3:16の有名な言葉も、「王国」という手立てを通してもたらされることを思えば、「天国」の至福とはまったく異なった、そしてより深い味わいがあろう。
このキリストを主とする「神の王国」に、国境や人種や党派や宗派に関わりなく、個々に支持を表明して、我々のすべてがそれに参与することのできる時代がやがてはっきりと到来するだろう。
唯一の問題は、そのとき我々がこの「王国」を支持するか否かということだけになろう。
しかし、少なくともそれは投票行動のようなものではないようだ。
それは多少なりとも身の危険を覚悟する必要があるかも知れない。
なぜなら、神からの警告は出エジプトのときのように充分に繰り返され、神の力と威光は世に充分に告知されるとしても、「王国」の反対者は少なくないだろうし、聖霊の声に従うか否かという、人類を二分する論争を伴うことになるからである。(マタイ25章)
それは「裁き」の時である。イエスがユダヤ人に現れ、奇跡を行ったことでメシアを受け入れた人々とそうしなかった人々が分かたれたように、将来も聖徒を通してそうなるのであろう。(ヨハネ15:26-27)
さて、人は己を神と対等にしてよいものだろうか?
つまり、この終末の裁きで、人類は各々「エデンの問い」を試されることになる。
今の時点で思うに、その裁きで我々の試されるところは「信仰」「希望」「愛」ではないか。
しかも、それらは裁きの問いに対する答えとして試される人の内面の資質であり、キリスト教徒であるか否かが「裁き」の結果保障になるとは到底思えない。
仏教の「極楽」のように「天国」での安逸を期待する事と、以上のように「神の王国」を捉える事との差は余りに大きい。
一方は、個人の救いの達成を願うことであり、ご利益信仰的「天国」願望では個人愛が支配するが、他方、「天の王国」では公共善への大志があり、その神と人への自己犠牲的な愛はまさしくキリスト・イエスに倣うものである。
林 義平
『神の王国』 -新十四日派の綱領として-
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