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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

神の王国

「天国」か?「天の王国」か?


これがキリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒に曖昧であるのは驚くべき事である。

しかも、これを「天国」としてしまうキリスト教指導者の多さも驚かされる。ユダヤ人に向けて書かれたマタイ福音書では「天の王国」[βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書の「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂、天国と地獄の「天国」とはまるでかけ離れたものである。(福音書の王国の違いについては拙著「神YHWHの経綸」を参照されたい)

そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。

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さて、この天国ではない「王国」が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。

それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。
即ち、神YHWHとイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とあるが、これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。

この事を、神は遠くシュメール時代の人アブラハムに対し、「あなたの子孫(後のイスラエル)によって、すべての民族の人々は自らを祝福するであろう」(創世記12:2-3)と語っていた。つまり、「神の王国」は全人類を益する神の手立てなのである。

後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、「・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・」(ペテロ第一2:9)とキリスト教徒の中の聖徒ら(ハギオイ)に適用する。
つまり、律法契約の遵守に失敗し、遣わされたメシアを退けた血統上のイスラエル民族によらない、別の「イスラエル」と呼ばれる民、「神のイスラエル」によって構成されるキリストの追随者による「王国」である。(ガラテア6:16)
こうして「王国」という奥義に関する数千年に亘る神の歩みが見て取れるのである。

つまり、キリスト教徒のすべてではなく、聖霊の賜物を得た選ばれた一定の人々が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/ヤコブ1:18/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当することで、神がアブラハムに明かしたように、その益が残りの人類全体に及ぶことになるのである。

しかし、モーセによる律法契約は、イスラエル=ユダヤ人に守られることが遂に無かったので、その後に、神が預言者エレミヤを通して予告していた「新しい契約」(エレミヤ31:32-33)に入れ替えられ、こうして「祭司の王国、聖なる国民」という本来の「イスラエル」を実現させる筋道を保ったことは聖書に明らかな通りである。

つまり、イスラエル=ユダヤ民族は「王国」の担い手、選民「イスラエル」となるはずであったのだが、律法契約違反の罪を負ってしまったまま、マーシァッハ(メシア=キリスト)という「王国」の主要な王の到来を迎えた。
そうして、血統上のイスラエルは「神の王国」となり得る機会を再び得たので、イエスは「神の王国はあなたがたのただ中にある」と言っている。(イザヤ9:7/ルカ17:21)

それにも関わらず、ユダヤの宗教体制派はナザレのイエスをメシアとしては認めず、これをまったく退けてローマの権力に渡して処刑させたのである。
イエスの頭上の罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。

このため、ユダヤ民族全体としては「王国」を受け継ぐことから除外され、民の中のほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する望みを繋いだのであった。(ローマ9:27/マタイ21:45)

そのため、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき王国、「イスラエル」の民には、イエスに信仰を持った残りのユダヤ人だけでなく、「王国」を構成するはずであったユダヤ人の不足を埋め合わせ、全体の人数の補充するためにイエスを受け入れた異邦人も『接木されて』含まれ、血統上のイスラエルに彼らが幾らか混じることになる。(ローマ9:24-27)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)

それゆえ、この異国民で元々イスラエルに属さない人々は、「血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となった」とパウロは言う。(ガラテア3:29)

これらの選ばれた人々は、キリストが「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、ユダヤ人であってもなくても、共に信仰によって選ばれた『神のイスラエル』、つまり「新しい契約」に属する人々「聖なる者」である。(ヨハネ14:2-3/ガラテア6:16)

この契約に与る「神の特別な所有物である民」「聖なる国民」に属する人々、つまり「聖徒」には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な賜物が与えられたが、それは「王国」の一員として内定したことの印であったことをパウロは度々言及している。(エフェソス1:11-14-18/コリント第二5:5)

つまり聖霊の灌がれない人はけっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もなったくない、むしろ「王国」の外に居て、聖なる人々からの優れた益に与れる言わば「客」なのである。
それこそは、聖霊ある人々で構成される「アブラハムの子孫」によって「地のすべての家族が自らを祝福する」という創世記で神がアブラハムに約束した通りである。

「王国」を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその「王国」を受け継ぐことができることになっている。(ペテロ第二3:14) ⇒ 今日のキリストの不在

その将来の「終末」でのキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは将来における「神の王国」実現の序章となると預言されている。 ⇒ 聖霊と聖徒 

終末に至り、聖霊を受ける彼らは、キリストの帰還と王国の人類支配を宣告するために、「王や高官の前に引き出される」が「誰も論駁できない」聖霊の言葉を語ることになり、それは世界中の注目を集めることになるという。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)

この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の導きによって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせた後、天に召されることになるという。(これが「携挙」と勘違いされている。テサロニケ第一4:17)

これらの人々の「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この方は神の王国では大祭司でもあり、まず聖徒らの罪を除き、大祭司イエスは次いで(聖徒ら従属の祭司と共に)人類の罪を除くことになる。
(ヨム・キプルの祭儀;レヴィ記16:11.16)(黙示録19:16/ヘブライ7:26)


この王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。
伝統的解釈に慣れた方にはもう少しの衝撃を与えるかも知れないが、それでも宜しければ以下をお読みいただきたい。
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人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは歴史に深く刻まれた事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この苦しみからけっして逃れることはできない。

ここに「救い」といわれるものが見えてくる。
王国は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。

宗教であれ、政治であれ、すべての「人間の義」は「神の義」の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は完全な正義を持ち得ないからである。そこに真正な政治も宗教も存立しえず、争いが絶えないのはそこに原因がある。

「天の王国」は、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にすべて生ける人々に対して、神の創造物たる「神の子」の義ある姿に復する機会を提供することになる。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)

「神のイスラエル」つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教をまったく終わらせてしまうであろう。なぜなら、政治と宗教とは、人間の不倫理性(アダムからの罪)に対する応急処置に過ぎないからである。(黙示録20:6/コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか


キリストが臨御(パルーシア)を始めるとき、聖霊は聖徒に再び語らせるという。
新たに選ばれる聖徒たちは、人類の支配権を巡って為政者と対峙し「神の義」の代弁者となる。
人間の支配が、太陽も月も一切の光を失ったかのようになるとの記述はこれに関連するのであろう。(マルコ13:24)

つまり将来、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、それら己を正しいとする宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、神の正義の前に溶解してしまう。

キリストによって地は平坦にされ、一切の権威も権力も伏すべきときが来るであろう。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。

初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。

そこでは、キリスト・イエスが、その宣教で何度も語っていた『王国』(バシレイア)も、異教の「天国」にされ、善人が死後に行くという、大衆に分かり易く、ありがたいものに代えられてしまった。

しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)
何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることはエジプト以来、何度も示されてきたことである。

しかし、聖徒が如何にキリストの臨御を警告しようと、大半の宗教家も政治家も「王国」を非現実と看做すので、終末にキリストに従うことは難しいだろう。

そこが将来現れる「聖徒」の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し「世を征服」するという。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)

そのときキリストの姿は「雲」(不可視の象徴)と共にあり、為政者らは、目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので「神の王国」を現実のものとは思わないか、あるいは何らかの動機のために思いたくもないであろう。
(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)

そのときには、たとえ人々の中にキリストを罵倒していた者があっても聖徒を支持するなら「あらゆる冒涜や罪も許される」とキリストは言われる。そこに誤解があったからであろう。(マタイ12:13)(一般的道徳性の称揚はキリスト教の本質ではない)

しかし、聖徒らによる聖霊の発言に逆らうものが許されるだろうか?
神の聖霊に逆らうのは確信犯であり、どのような動機からであれ、そこに完全な選択がある。やはり、イエスは「霊に対する冒涜だけは許されない」とも言われるのである。
(マタイ12:13・25:31-46/ルカ12:10-12)


そして幾らかの時の後、試された聖徒たちの選びも確定して「王国」の国民が天に揃って完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて顕現(エピファネイア)するときに・・すべての者は象徴的に雲の中の大王の力をまざまざと思い知らされ、その臨御を認めざるを得なくなって、誰もが見えないキリストを「見る」ことになる。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第一3:13/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)

それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)宗教家はどこにいるのか?この以前に彼らは居なくなっている。聖徒が神の義を携えて現れるときから人間の宗教の一切は無意味であり、この畏怖すべき日の前に、既に権力によって処理されている。(黙示録17:16)


それで、「王国」の来る前にすべての宗派から逃れよ!党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)
それらは人々の敵意を煽り、神の義を否認し、なお永遠に争い続けようとする道、イエスを葬った精神である。

国籍の違い、政治上の見解の衝突、宗派の教義の違いが人同士にあっても闘争を惹起するように、それら人間の権威や権力は神の王国に対しても戦いを挑むであろう。
だがそれらの相克し合う指導者らが人々に対して神のような絶対的福祉を提供できるというのだろうか?(イザヤ57:21/詩篇146:3-)

一方、王として処刑されたキリストと同様に、多くの聖徒たちは死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、キリストの血の犠牲の早い適用によって倫理的に(原罪を)浄められる者らであり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど支配を委ねるに相応しい。

そして彼らの王国は、人類に神の創造物(子)としての栄光を回復するものである。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)

それゆえ、人間の政府ではなく「神の王国」を待ち、人間の義ではなく「神の義」を求めよ。これこそが「主の祈り」と「山上の垂訓」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)

これが、「神の王国」であり「世の救い」であり、すべての涙を拭うものである。
このように、不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いやその概念をさえ超える世界を作り上げるための手立てこそが「神の王国」である。

それは罪を持つどんな政治家や革命家やユートピストも企画も実現も出来なかった輝かしい人間社会であろう。
確かに黙示録21:3-4はこう述べている。
 「見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。古い秩序(体制)は過ぎ去ったからである」。

神との関係を回復する人類はかつて経験したことのない栄光の時代に入り、「顔に汗してパンを食し、遂に地面にかえる」という、現在までの生き方をまったく虚しいものとして心の片隅に思い出すこともあるのだろうか。

神の王国は千年の期間に、「愛の掟」を社会原理に据えることで、人々の思いと行動を向上させ、倫理的完全性に近づけるのであろう。そうして人類から煩雑な法律の必要をなくしてしまい。自由な行為者となった人間はそのすべての行いにおいて倫理的失敗を恐れることを自他共に必要とはしなくなる。つまり、争いも欺きや悪意も過去のものとなるのである。

人体は病や老化のない「神の創造物」の輝くような様に変わり、「地の呪い」も解けて全地は「シャロンの輝き」のようになるという。(創世記3:14/イザヤ35:2)

「神は世を愛して、誰でも彼に信ずる者がひとりも滅ぼされることなく、永久の命を持つために自らの一人子を遣わした」。
このヨハネ3:16の有名な言葉も、「王国」という手立てを通してもたらされることを思えば、「天国」の至福とはまったく異なった、そしてより深い味わいがあろう。

このキリストを主とする「神の王国」に、国境や人種や党派や宗派に関わりなく、個々に支持を表明して、我々のすべてがそれに参与することのできる時代がやがてはっきりと到来するだろう。

唯一の問題は、そのとき我々がこの「王国」を支持するか否かということだけになろう。
しかし、少なくともそれは投票行動のようなものではないようだ。
それは多少なりとも身の危険を覚悟する必要があるかも知れない。

なぜなら、神からの警告は出エジプトのときのように充分に繰り返され、神の力と威光は世に充分に告知されるとしても、「王国」の反対者は少なくないだろうし、聖霊の声に従うか否かという、人類を二分する論争を伴うことになるからである。(マタイ25章)

それは「裁き」の時である。イエスがユダヤ人に現れ、奇跡を行ったことでメシアを受け入れた人々とそうしなかった人々が分かたれたように、将来も聖徒を通してそうなるのであろう。(ヨハネ15:26-27)

さて、人は己を神と対等にしてよいものだろうか?
つまり、この終末の裁きで、人類は各々「エデンの問い」を試されることになる。

今の時点で思うに、その裁きで我々の試されるところは「信仰」「希望」「愛」ではないか。
しかも、それらは裁きの問いに対する答えとして試される人の内面の資質であり、キリスト教徒であるか否かが「裁き」の結果保障になるとは到底思えない。

仏教の「極楽」のように「天国」での安逸を期待する事と、以上のように「神の王国」を捉える事との差は余りに大きい。
一方は、個人の救いの達成を願うことであり、ご利益信仰的「天国」願望では個人愛が支配するが、他方、「天の王国」では公共善への大志があり、その神と人への自己犠牲的な愛はまさしくキリスト・イエスに倣うものである。



                    林 義平

 『神の王国』 -新十四日派の綱領として-
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今日のキリストの不在、将来の帰還  ミナの例え

<難易度 ☆☆☆☆  中>
理解の為の基礎項目 ⇒ 「
聖霊と聖徒



今日、キリストが不在であるという考えはけっして突飛なものではない。

実に、イエス自身が例え話を用いて、弟子から長い期間離れることを何度か述べているがそれを見てみよう。

 そのひとつはルカ書にあるが、その場面はイエスの一行が最後にエルサレムに上る途上でのことである。彼らはエリコに到着し、エルサレムは目前であった。(ルカ19:11-)
ここでルカは、弟子らの誤解を伝えている。
つまり、イエスがエルサレムに入るなり「神の王国」がすぐにも出現するものと思い込んでいたのである。

 そしてイエスは彼らに話しを始めるが、弟子たちの先走る願いとは裏腹に、そこでの例え話では、生まれの高貴な人物が王権を確かなものとして授かるために遠く旅をするという。

これは、ローマ帝国に従属する王たちが皇帝からの王権の承認を得て、それを確立するために帝都に赴くという、当時の習慣を思い起こさせるものであったろう。

 さて、出立に際してこの高貴な人物は、家僕らに財産を分けて留守中に運用させることにする。
後に、この人物が王権を得て帰還したときに、家僕らは預かっていた財産の銀子(1ミナ)をどう増やしたか報告することになる。

ある者は1ミナを見事に10倍に増やしており、他の一人も5倍にすることができた。それぞれの家僕はその成果に応じて『町を治める』者となる報いを受ける。

だが、ひとりは1ミナのまま差し出し、主人は厳しい人で、自身が撒きもしなかったものを刈り取るので怖かったから1ミナをそのままとっておいたという。
 ここで主人は憤って言う。
「ならばそれを銀行に入れておけばよかったのだ。そうすれば利息と共に受け取れたものを!」

そして、この家僕から銀子を取上げ、さらに、この主人を王として受け入れるのを拒んだ市民らを「敵」と呼び、討ち殺させるのであった。

 以上がこの「ミナの例え話」のあらましである。


-◆王権が関わる出迎え---------------
 
さて、この例えの中の、王権を確保するために遠く旅行する貴い生まれの人物とはイエス自身であろう。

キリストは「神の王国」の王となる権限を下賜された将来に、支配するべきこの地上に帰還して臨御(パルーシア[παρουσία])することは度々語られているところである。(使徒1:6)

「パルーシア」はその場に臨席し、物事に関わる状態を意味し、その逆を意味する「アプーシア」[ἀπουσία]は、不在でまったく関わりを持たない状態を表している。
現在は聖霊による聖徒への指導が無く、奇跡の賜物も認められない以上、キリスト不在(アプーシア)の状態が西暦第二世紀以降続いているというべき理由がある。

実際、ヘロデ王朝の王たちがローマに赴き、そこで皇帝からの王の称号を手にして後、その支配地域に来臨していたが、それでもなお、自分の王権を確立するために邪魔な勢力を駆逐してはじめて王権を実現する必要もあったのである。 ヘロデ大王の王子たちが実際にそうであったから、イエスの弟子らはその実例を良く知っていたに違いない。

そして、財産をそれぞれに委ねられた家令らで表されるのはイエスの弟子たちであろう。主人は家令たちにミナを殖やすように求めていたのであるが、それは単なる利殖ではなく、王権に関わる事柄であったことであろう。(彼らは家令であって、すべての信徒を表すわけではない)


 
弟子とはいえ、彼らは王の支配の一端を引き受けることになるからには、彼らはすべての信徒を表すのではなく、モーセの古より予告された『王なる祭司』となる『聖なる国民』、聖霊による選びの民『神のイスラエル』に属する者らである。(出埃19:5-6)


『聖なる民』は、本来「律法契約」が産み出すことを目標としたものであったが、血統上のイスラエルは契約を守らず、遂に一度破綻する。
だが、預言者エレミヤの予告した「新しい契約」によって代替され、後代にキリストの血を以って発効した「新しい契約」は、あのシャヴオートの日に、永らく律法契約が達成できずにいた『聖なる国民』、『神のイスラエル』を遂に生み出したのであった。(出埃19:6/創世記22:18/ガラテア6:16)


彼らがキリストの弟子の中から現れたことは、使徒ペテロも当時の弟子らに向かって、彼らが『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神の格別な所有に帰する民である。』と聖霊ある者らを指して宣言した通りであった。(ペテロ第一2:9)


これらの者がキリストと共に王として地を治めることは使徒パウロも時折述べており、『聖なる民』の存在は新約聖書に散見されるところである。(コリント第一4:8)


こうして例え話を見直すと、彼ら弟子たちにはキリストの到着までに為すべき仕事があることが分かる。王として帰還するキリストは、家令が熱心に利殖を増やした分の栄華で飾られよう。
そうした僕は、その功に応じた地域を治める報酬が与えられている。

 それゆえ家令たちは主人の家の財産を増やすべきであるが、ある者はそうしないかも知れない。そうしない理由は「恐怖」であるという。つまり家令には敵の矢面に立つ勇気が求められるのである。
もし、そのように王権の栄誉を増やそうとの主人の意を汲み勇気持たないないなら、持っているものまで奪われるのである。


そこで、聖徒に与えられるものは実に価値ある資産と言える。
彼らは初代と同じく「約束の聖霊」によって奇跡の賜物を得るが、それが意味するところはどれほど重いだろうか。パウロは、それが『有罪と宣告されることはない』という人類一般に先立って贖われた状態をその人にもたらすとまで語っているのである。(ローマ8:1)

その家僕となる者らは使徒をはじめとする格別なる弟子たちである。
彼らは聖霊によって任命された『聖なる国民、王なる祭司』であり、人類の祝福となる選ばれた民である。
奇跡の聖霊の賜物は彼らの身分を証しする『手形』であり、終末後には『キリストと共に、千年の間王と』なる者らであるから、それぞれが『町を治める』という酬いは頷けるものである。(エフェソス1:13-14/黙示録20:4)

そして彼らの務めは、『暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝える』ことであるとペテロが言っている。
では、彼ら聖霊に預る人々はその類稀な宝をどのように用いるだろうか?

この聖霊を受ける人々には、王となる主人に忠義を尽くし、反対勢力と対峙することも求められている。
それが『長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対して証しをする』というキリストの予告された事態の発生である。(マタイ10:18)
そのとき、彼らには『聖霊』が臨むとも教えられている。


その時、地上に聖霊を注がれて現われる人々が、その聖霊を用いるべきひとつの務めがあると、イエスは語っているのである。

すなわち、為政者の前に引き出され、聖霊によって語ることに他ならない。


マルコ13章はこれを以下のように語っている。
『あなた自身に注意せよ。あなたがたは裁判所に捕われ、会堂で鞭打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してまさにわたしを証しすることになる。そのようにして、まず福音があらゆる民に宣明されねばならない。また、人々があなたがたを捕えて連行するとき、何を言おうかと、前もって心配しなくてよい。そのときに与えられるものを語ればよい。語るのはあなたがたではなくて、聖なる霊である。』(マルコ13:9~11)


この場面のマルコ13章では、為政者の前に引き出されることを指してから、「そのようにして」あるいは「こうして(カイ[καί]を口語訳や新改訳はこの意味に訳している)王国の福音はあらゆる国民に伝えられる」とあり、人類社会の全体に向かった王国の到来の宣告が聖霊の業となることを伝えている。

マタイは、よりはっきりと弟子らが王や高官の前に引き出され聖霊によって語る意義が『彼らと諸国民への証しのため』であると言っている。(マタイ10:18)
聖霊を以て語る者らにこの仕事が与えられていることは、キリストの顕現の前に彼らが存在し、前以って王権を称揚するという前段階があることを知らせるものとなっている。

さらにルカ12章は「聖霊によって弟子が語る」という事と、「聖霊に言い逆らう罪には許しがない」と云う事のふたつを関連付けており、そこに人類の裁きが関わることをも知らせているのである。それぞれの福音書が我々に訴える意味はきわめて明瞭と云うより外ない。
 

しかも、弟子らには為政者の前で何を言おうかとあれこれ迷うなとあるからには、この場面でその人々に与えられる神の御力は圧倒的であるようだ。
つまり、それは神ご自身、重要な事柄と見做す事柄「神の王国」が関わっているからに違いない。

奇跡の聖霊が注がれる者とは即ち「聖なる者」または「聖徒」である。初代の聖徒はあのエルサレムの二階の部屋で最初の聖霊の降下を経験して以来、多くの奇跡の賜物に恵まれ、それは彼らが「聖徒」であることの動かぬ証しであった。パウロはその聖霊が彼らの身分を証しするものであると書いている。(コリント第二5:5)
そして将来、聖霊が再降下して新たな聖徒たちに語らせるその発言は、きっと世界を震撼させるものとなるだろう。(ルカ21:15/ハガイ2:7)

聖霊の発言は広く知らされるべきものであり、全地に響くユダのライオン(ダヴィデ王)の声である。人々はこの王権に関わる論争を聞かねばなるまい。 (⇒ 記事「聖霊と聖徒」
この類まれな「聖徒」という立場への認証は神からの選びであって、本人のエントリーするところでは到底ない。そこには超自然の賜物が与えられるが、それは神の王国という『相続財産への新たな誕生』であるという。(ペテロ第一1:3)

この例え話の中で、清算を求められるのは一般の家僕ではなく「家令」である。彼らには託されたものと任された仕事があり、その重さも責任の大きさも本人たちがよくよく承知しているはずである。



だが、この貴重な『聖霊』を用いず隠してしまい、自分が努力するわけでもない銀行の利息さえも得ようとしなかったからには、この1ミナを殖やさなかった不精な家令は主人の王権の獲得をどれほど喜んだのであろうか?

彼は、その理由を述べて言う、『あなたは厳しい方で、お預けにならなかったものを取りたて、お撒きにならなかったものを刈る人なので、怖ろしかったのです』。(ルカ19:21)

この家令は自ら殖やす努力の必要のない銀行も利用しようとしなかった。
つまりは、神の業を行う聖霊の賜物をまったく表に出さなかったのであり、これは周囲からの反対を恐れて、『聖霊』を持っていることさえ隠しておいたということであろう。

確かに「聖霊の賜物」は、まったく憑依状態に陥るのではなく、それを持つ者が制御できるものであることをパウロはコリント人への第一の手紙の中でよく言い表している。(コリント第一14:27-33)

この例え話では「不精な家令」と、王権を望まなかった「市民」らが共に処罰を受ける点で似た範疇に入る。
即ち、「不精な家令」の態度は主人が王として帰還するに際し、主人の王権を望まなかった人々と幾らも変わらない。
自分が努力するわけでもない銀行の利息さえも得ようとしなかったからには、この不精な家令は主人の王権の獲得をどれほど喜んだのであろうか?それよりは自分の身の安全の方を選んでいるのである。その家令に足りなかったのは主人の側に立ってその王権を擁護する勇気であった。

主人の王権取得を何ら意に介さないこの「不精」と呼ばれた家令は、いまや王となった主人からすれば当然ながら、家令には相応しくなく、大いなる怒りと不興に触れ、是認や悦納を受けるには程遠くされるのである。


この「ミナの例え話」に非常に似たマタイの書にある「タラントの例え話」では、この不精な奴隷は主人の勘気を被り、外の闇に放り出されている。それは主人の家令からの解任であるばかりか、処刑を受けるほどの立場への失墜である。
その処置は、王の臨御が誰にもはっきりと認められる次なる段階、即ちキリストの『顕現』(エピファネイア)と呼ばれる事態の進展の中で行われることであろう。


それで、キリストが「神の王国」の王権を確かなものとして佩帯して、この人間社会に臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)が示される直前に、「家令」らはパルーシアの間の働きの首尾を申告しなければなるまい。


つまり、キリストが王として顕現するとき、これをどれほどの栄誉をもって迎えるのかということであろうし、王キリストは家令らである『聖霊』を与える者らに忠節な支持を求めるのである

この例えは、聖霊を注がれる『聖徒ら』(ハギオイ)には、極めて重い務めが生じることになることを教えている。
それをイエスは為政者らの前に引き出され、聖霊の語らせるままにこの世を断罪することであることを使徒らに明らかにしていたのである。(マタイ10:17-20/ヨハネ16:7-11)

そこで聖霊が注がれ『新しい契約』に差し招かれた者らには真にキリストに従う勇気を要すると同時に、その務めから逃れようとする誘因もまた存在するに違いない。それはまさに福音書でイエスが『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』とも『わたしとの結びつきを否認するものをわたしは恥じる』とも警告していた通りであろう。

したがってこの例え話は、聖徒たちがイエスの与える奇跡の証しとなる「聖霊」をどう運用するかで、キリストの臨御をどう迎えるかがまったく異なることを示しているのであろう。


つまり、王の支配権に関わる論争にまで聖霊の音信を公開させず、その発言を抑え、聖霊を聖霊のまま差し出したのでは、王の前に何の意味もない、ということになろう。
王や高官らの前で聖霊の言葉を語り、世を断罪まですることは大いに勇気を要することであるに違いない。

ヨハネ福音書の中でイエスはこう言っている。
『わたしは真実のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け手(パラクレートス)は来ないであろう。だが、もし行けば、それをあなたがたに遣わすようにしよう。その者は来て、この世の誤りを明示し咎め立てる。つまり罪について、義について、裁きについて。』(ヨハネ16:7-8)

従って、やはり聖霊を受ける者には、大きな責務が生じることになる。
そこで『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』ほどの恐れからの葛藤を生じさせるものともなろう。(マルコ8:35)
イエスは脱落する者も現れることを示唆することを憚らず、むしろ警告することが多いのだが、そのミナの例えでも『不精な奴隷』に描かれる。


その王国の価値を高めず知らせずに過ごすとすれば、主人の王権取得への熱意に欠けており、反対する「市民たち」と一向変わるところがない。

この点で言えば、初代キリスト教徒らは「来たりませ主よ」(マラナスァ)の言葉の下にキリストの王国が(人手によらず)主と共に到来することを待ち望んでいたのだが、ことにキリスト教がローマの国教となって後に、「神の国」は世俗の帝国に実現されてしまい、初代からのキリストの王としての到来の希望はうやむやにされ、神の御力ではなく、教会や人力を通して抽象的に実現されるものとまで貶められた。

これらの王国の理解に関して「変質したキリスト教徒」の行動は、果たしてキリストが王として到来するときにその人間を超えた栄光ある王権に誉れを添えることができるだろうか?

 だが、更に疑問が起こる。キリストが地上に聖霊を用いて弟子を指導し「監臨」していたキリスト教初期の時代はともかく、終末でキリストが帰還するときに果たして家僕がいるだろうか?(ルカ18:8)

 これについては、まず思い浮かぶ事として、小アジアのポリュクラテスがローマのウィクトルに宛てた書簡の中に先達のメリトンについて述べた言葉がある。

「我らは、純正な時代に何も付け加えることはしない。アジアの光明は眠りについたが、再び主の顕されるときに回復するであろう。そのとき彼は天の栄光をもって到来するだろうし、聖徒たちも生き返るだろう。」と書き、少し後で「そのうえ、祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう。」(教会史V)

 つまり、聖霊を受けキリストに属する者であった初期の人々は眠りについているが、キリストの王権を帯びた臨御(パルーシア)のとき「早い復活」に与り、初期の聖徒らは直接に天に召しだされる。
そのときに、彼らのかつて地上の生涯で行っていたことが、王の臨御にどれほどの栄えを添えるかが吟味されるだろう。

加えて、その臨御のときに地上で聖霊を受ける人々もあり、彼らも聖霊を受ける以上、同じように王の臨御を栄光あるものとする務めがある。(テサロニケ第一4章)
彼らが、その務めを終えるとき、地上に残る聖徒らは『雲にあって空中で主に会う』という天への召しに預かるであろう。もちろん、これはキリスト教徒なら誰でも受けるものではない。


-◆聖なる者とは-----------

では、将来の終末において聖徒となりうる人はどのような人であろうか?

現時点で分かることは、人類から「買取られた者」たちであり、主人の王権を擁護して為政者に立ち向かう人であるということである。
しかも命をかけてのことでに違いない。それは初期殉教者と何ら変わらないことであろう。(ダニエル12:7/黙示録12:11/13:7)
すくなくとも、自分の「救い」に願をかけるような軟弱な人々ではなさそうである。「多くを委ねられた者は多くを要求される」からである。(マタイ10:39)(ルカ12:48)

 これはすなわち、支配権に関する政治的問題になることは間違いがなさそうだ。
その世の支配権を巡る争いとは、キリストの『神の王国』が現存する諸政権に対して挑む争論である。

それは即ち『神の王国』が「信者の心の中にある」ような曖昧なものではなく、正しく実効支配を行い得る実際の政権であり、それも世界の諸政府を相手に『聖霊』の言葉によって『この世』が如何に間違っているかを論駁するのである。


キリスト教をはじめとする既存の宗教家たちはこの論争では脇役とならざるを得ない。彼らは神の言葉を語る聖徒の出現によって存在意義を失っており、激しく聖徒を妬むのみである。

それで、新たな聖徒が対峙するのは宗教家ではなく政治家らとなる。(黙示録19:2)

こうした政治的論争があって初めて『世の王国は我らの主とその王国となった』(黙示録11:15)と言い得るのであり、それは相克を繰り返す人間の政争ではない。『聖徒』には神の正義があり、それに比べれば人間の正義な虚しく、却って害になるものである。


 『聖徒』となる人々は、帰還する大王の王権を掲げる人々であろう。彼らにこそパラクレートス(助け手)たる聖霊は必要となる。その助け手は聖書中のどの預言者の事例よりも大きな奇跡を聖徒を通して行うことであろう。(ヨハネ14:16)


一方、聖霊の述べることを聴き、それに従いたいと思う世界の人々は、それぞれ過去にどんな罪を犯していようと聖霊の発言に従うので、聖霊への罪を犯すことはない。彼らは聖徒らを支持して神の王国の到来を迎える側に立つことになろう。それはロバに騎乗するイエスの前に外衣を敷き、シュロの枝を手に歓呼して迎えた故事のようにである。(マタイ21:8-9→黙示録7:9-10)

このようにする人々は、王の臨御を迎えるについては、明らかに「聖霊」という神の御力を持ちながら、勇気無く何ら運用しなかった「形ばかりの聖徒」よりは、よほど王権を引立てることになろう。

であれば、王権を佩びた主人キリストを勇気なく何ら讃えなかった「聖徒」は、世の一般の反対者と何ら変わるところがないではないか。そして、ミナの清算が済むと、主人は王権取得に反対した市民を撃ち殺すことになる。これは将来、恐るべき成就を迎えることになろう。(ルカ19:27)
それは神が『シオンに立てる王』を認めず抗うすべての勢力を裁きに渡す、終末の出来事「ハルマゲドンの戦い」となるのであろう。
 

キリストの来臨に際して、その王権を望まない敵も少なくは無い。為政者らは雲の内にあるキリストを現実の存在とは見做せず、自らの支配欲を掻き立てるばかりであろうし、この世に慣れ切った『市民』もキリストの支配を理想主義の絵空事と思うのであろう。ただ、聖霊の奇跡の発言に信仰を働かせる人々だけが、聖徒らに親切を示すことをキリストは予告されている。(マタイ25:31-46)

では『神の王国』の王の到来を前にして、キリストの家令はどう行動するだろうか?
聖霊を以って語り為政者に立ち向かうか、それとも事を恐れて沈黙しているか。


現在のところ、未だ聖霊によって語る人々は現れていないことからすれば、やはり、今もキリストの不在は継続しており、未だ終末には入っていないのであるが、一方、キリストの帰還する時、それは只ならぬものである。

それはナザレのイエスが霊者となって変貌した、畏怖すべき御厳の大王としての復讐のための帰還であり、すべての政権はそれを放棄しなければ実質的な闘争と滅亡になり兼ねないものである。(ローマ8:3/ヘブル9:28/詩篇2)

それは全人類への「エデンの問い」でもあり、神と人との支配権を巡る争いであり、実のところは人間にまったく勝ち目はないのだが、来臨する大王は不可視性の「雲」にまとわれるために、政治家らは、自分たちだけが「現実の為政者」であると思い、自信満々であろう。


以上のように、ミナの例え話からキリストの人間社会に対する不在期間があると見做すことはけっして理不尽ではないそれは即ち、初代の聖霊の賜物の途絶えて以降、現在も含んでいる。
(「主の祈り」からすれば、その間の祈りが不在であるから聞かれないということにはならないだろう)


 しかも、この話の前後でイエスは、その帰還する時期について弟子らは「まったく思わぬ時」になると注意を促しているので、「待ち続ける」ことが現在の弟子の主要な務めであろう。「主人は遅いと」宴会を始めるときではない。
 

キリストが出立するのもその旨なら、帰還するのもその意志のままであって、肉なる人間がこの件に口を差し挟む余地はない。その時や方法について人は予告も意見もできるようなものではないだろう。(ルカ21:8)

現在のところ聖霊の再降下を人類は見ていない以上、啓示の無い人類にはそれを知る確かな手立てはない。ただ、聖なる書物が、これまでの神による人類救済の業が悠久の時に亘り、どう展開してきたかを知らせる。
 

時の不可知は、ひとつにはパウロが言うように「肉なる者が誰も神の前に誇らないためであ」ろうし(コリント第一1:29)、もうひとつ考えられるのは「裁き」のためである。

 
「裁き」は我々人間の内面の性向と願望など、人間互いに探りえない深奥についてのものであり、すべての人はこの「エデンの問い」に直面しよう。それゆえ、キリストの臨御は(視界を遮る)「雲と共に」「雲に乗って」為される必要もある。「キリスト変貌の意義」


しかし、ミナの例え話では全人類の裁きではなく、キリストの家僕らがその以前に裁かれることについて述べていたのである。(ヨハネ第一2:28)

つまり、キリストの御許近く仕え、イエスが天に去って後に聖霊を託されることになる『聖徒たち』の裁きであり、ペテロも、初代に聖徒が存在した時代にあって、既に『裁きは神の家*』から始まっていると仲間の聖徒らに警告している通りである。(ペテロ第一4:17/*「神殿」を含意2:5-)


彼ら一人一人が聖徒の栄光に本当に相応しいのかが、まず初代のキリストの聖霊による監臨の時期、そして終末の王権を佩帯した臨御の時期に再び問われるだろう。(コロサイ1:22)  ⇒ 終末に残された三年半に契約を結ぶメシア


こうして例えの意味するところを概観すると、終末の世の姿を垣間見ることになる。 

すなわち、キリストは帰還すると、まず聖霊を注いで聖徒を任命し、彼らを通して自らの王権を宣明させ、人類を分かつであろう。
その際に、聖霊を受ける弟子らにはその働きを問われるに違いなく、ミナやタラントの例えはこれに注意を促すものとなっているのである。

その働きは地上のすべての人々のためのものである以上、『聖なる者』らには、キリストに続いて自己犠牲を示すべき理由があり、自分の刑木を荷って絶えず主の後に従う義務がある。
実際、彼らはそのような道に召されたからであり、最終的には、キリストと共に栄光に浴することになる。

その上なる賞を目指して生き抜くこと、これが「新しい契約」に属する掟であり、死に至るまでの忠節を神は大きな酬いをもって受け入れるに違いない。

我々は、これほどの自己犠牲を払う人々に対して、相応しい感謝と同意を示さずにいられようか。



 



                  新十四日派    林 義平

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 本ブログの記事一覧


   マタイ福音書のキリストの預言と例え







 

神の王国



キリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒にこれが曖昧であるのは驚くべき事であろう。

しかも、これを「天国」や「心の中に在る」としてしまうキリスト教指導者の多さも意外なほどである。

ユダヤ人に向けたマタイ福音書の「天の王国」[ἡ βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
また、異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書での「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂「天国と地獄」の「天国」と訳されるべきものでもなく、まるでかけ離れたものである。

そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。    (初心者向けの解説はこちらを


-◆イスラエルが選ばれ招かれた「神の王国」-------------------

さて、この天国ではない『王国』が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。

それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らとの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。

即ち、神YHWH*とイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とある。
これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。*(現在は発音不明となった神名)

この律法契約で約された事を、神は遠い昔のシュメール時代の人アブラハムに対し、『あなたの子孫によって、諸国の人々は自らを祝福するであろう』(創世記12:2-3)と語り既に約束していたのであった。つまり、「神の王国」はアブラハムに示された全人類を益する神の手立てなのである。

後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、『・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・』(ペテロ第一2:9)とキリストの弟子の中の聖徒たちに適用している。

その意味するところは、イスラエル民族の皆が誰でも祭司ではなかったように、キリスト教徒のすべてではなく、選ばれた『聖なる者ら』(ハギオイ)が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当し、その益が残りの人類に及ぶことである。

この王国に召され『選ばれた民』はペテロの指摘するように、その時には存在していたが、この王国の民が歴史上に最初に現れたのは、使徒言行録第二章に描かれた、聖霊降下が起こり、奇跡を行うキリストの業がその弟子らに継承された日からであった。

この点では、ペテロが述べたように、新約聖書の書かれた時代にはキリスト教徒の集まりのほとんどが、『聖霊』によって選ばれた『祭司の民』であったため、それを読む今日の人々は、『聖霊』もないのに自分もその一人であると錯覚するのであり、今日のキリスト教徒の大半がそのようである。
それで、「聖霊のバプテスマ」を具体的に理解しづらく感じるのはその証拠となっている。

さて、契約によってその『選ばれた民』となるべきイスラエルではあったが、律法契約はイスラエル=ユダヤ人によっては遂に守られることが無かったため、神はこの契約の破棄を決意する。(エレミヤ31:32)
では、神の王国の実現はイスラエル民族の不行跡によって阻まれたのだろうか?

神はそこでその意志を完遂させるべく、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を知らせていた。(エレミヤ31:33)この新しい契約と律法契約と入れ替えることで「祭司の王国、聖なる国民」を実現させる筋道をユダヤに確保したのである。
しかし、イスラエルは「新しい契約」に無事に入って王国の実現への道を保っただろうか?

やはり彼の子孫イスラエル=ユダヤ民族は、アブラハムへの神の不動の約束に基づき、『王国』の担い手、選民となるはずであった。
しかし、律法契約を守ることに失敗した彼らは、その違反の罪を負ってしまったまま、およそ六百年後に『契約の使者』またマーシァハ(メシア=キリスト)という『王国』の主要な王となるべきナザレ人イエスの到来を迎えることになった。(マラキ3:1)

しかし、メシアの到来はシナイ山が轟音を立てて揺れるような華々しいものとはならなかった。新たな契約は、生来の民全体とではなく、信仰を必須とする個人的なものであったからである。

ユダのベツレヘムから来ると預言されていたが、メシアの出身は北部ガリラヤの田舎ナザレであるかに見えた。そこでメシアを得るには信仰が求められる。

神殿崇拝に関わる血統になく、律法学者のような専門教育も受けていない。その廉潔な現れにユダヤ人は動揺する。なぜなら、多くの奇跡を行い、その言葉には説得力があるからであった。

バプテストのヨハネは、この人物の到来を予告し、律法不履行の民の罪を悔い、『律法の呪い』から解かれるようにと「悔い改めのバプテスマ」を施して人々を『契約の使者』であるメシアの到来に備えさせていた。(ガラテア3:13/申命記21:23)

メシアが現れたことにより、ユダヤ=イスラエルの人々には、いよいよ『新しい契約』に入る道が開かれるのだが、それは律法契約が遂に生み出さなかった『王なる祭司、聖なる国民』となるよう招くものであった。

それであるから、イエスが『見よ!神の王国はあなたがたの只中*にある!』と発言したとき、これはけっして諸国民に語った訳でないし、その理由もない。(*[ἐντος ὐμῶν]エントス ヒューモーン「あなたがたの内部に」)

『神の王国』とは、王キリストだけのものではなく、ひとつの国としての民を必要としたのであり、ユダヤはその民となるよう古来招かれていたのであり、その目的は、神がアブラハムに語られたように、全人類をこの世の虚しい状態から救うことにあった。

イエスは王国の民を召す業をパレスチナで始めていたのであるが、ユダヤ人の反応は芳しいものとはならなかった。原因はユダヤ人らの不信仰な傾向であり、それはモーセの出エジプト以来、この民の見せ続けた誉められたものでない性向であった。

アブラハムの子孫であるユダヤ人にこそ『王国』の機会が開かれていたのだが、まさに王国の王となるべく任命を受けたメシアが、『神の王国はあなたがたの只中にある』と言った通りに、光輝なく質素な身なりではあっても現に選民であったユダヤ人たちのところに来ていたことに注意を向けたのであった。

この時期、メシアを受け入れるユダヤ人は『「王国」に向かって殺到している』ともイエスは語っていたのであるが、それは素朴な平民たちばかりで、それに気付かない体制派のユダヤ人にメシアはその認識を促していたのである。(ルカ17:20-21/16:16)

したがって、イエスが『王国』について「あなたがたの只中に」と指摘したとき、ユダヤ人らには『王国』そのものが到来する姿を目にすることはなくとも、イエスがメシアであり、その『王国』の王がそこに立っているばかりか、信仰の目を以ってメシアをイエスに見ることのできた謙虚な平民のユダヤ人たちが、既にその『王国』を捉えつつあったのであり、それを『あなたがたの只中にある』とキリストは語っていたのである。

無論、イエスに信仰を働かせず、聖霊による奇跡の業にメシアを見ない頑ななパリサイ人の心の中に『王国』があったとは考えられるところではないが、メシアであるイエスは、ユダヤ人の中に現れようとしていた王国に信仰を促していたのである。

それでも、パリサイを含むユダヤの宗教体制はナザレのイエスを認めず、与えられたメシア=キリストを退け、王国の民を集めず、却って散らしてしまい、その王さえもローマの権力に渡して処刑させたのである。メシアの罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。

この結果、ユダヤ民族全体としてはメシアの到来によって示されつつあった『王国』に反対したために、これを受け継ぐ望みが無くなり、信仰を抱いたほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する希望を繋いだのみであった。(マタイ21:45)



-◆律法契約に代わる「新しい契約」 ---------------------

そのため、神はイスラエル民族との関係を終了させて、別の契約を用いてアブラハムの血の繋がりではなく、アブラハムの信仰に適う人々を「内面のアブラハムの子孫」として『聖なる国民』に差し招くこととなる。

それはイエスの語った、婚宴を設けたのに招いておいた客の来なかった王の例え話にも表わされていたところであり、王は宴席を満たすために周囲から呼ばれてもいなかった部外者である人々を引き込んだのであった。(マタイ22:1-10)

この例え話の中の、招いておいたはずの呼ばれるに相応しいユダヤ人が招待に応じず、王の怒りを買って滅ぼされてしまったように、メシア=キリストを退け『王国』への招待を拒んだユダヤの世代が過ぎ去る前の西暦七十年に、神はその裁きを下し、エルサレムは神殿もろとも完膚なきまでにローマ軍に破壊され、以後ユダヤ人は流浪の民となってゆく。それは律法契約も神の恩寵もイスラエル=ユダヤを去ったことの明らかな証しであった。(ルカ13:6-9/19:41-44)

そこで「新しい契約」を通して、『王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物』たるべき『王国』の選民には、ユダヤ人だけでは足りず、イエスをキリストとして信じた諸国の人々も含まれ混じることになるのであった。(ローマ9:24-27)

イエス自身、異邦人の信仰の深さを高く評価しつつ、『いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。』と語っていたことがこうして現実となってゆく。(マタイ8:11)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)

それゆえ、これらのイスラエルに属さない人々は「接木され」、血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となったとパウロは言う。(ローマ11章/ガラテア3:19)

パウロは彼ら全体を『神のイスラエル』と呼び、他方でアブラハムの血統上にありながら信仰が薄くキリストを迎えなかった『肉のイスラエル』と対照して語っている。(ガラテア6:16/4:21-31)
即ち、真の意味での選民イスラエルは、必ずしも血統によらず、イエスへの信仰によって形成されたのであった。

これらの人々は、キリストから「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、破棄された「律法契約」に代わる「新しい契約」に属する人々である。(ヨハネ14:2-3)

この契約に与る、神の「特別な所有物である」「聖なる国民」の人々には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な奇跡を行う賜物が与えられたが、それは『王国』の一員として内定したことの印でもあった。
(エフェソス1:13-14)

つまり聖霊の灌がれない人は選ばれておらず、けっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もまったくない、むしろ『王国』の外に居て、「贖罪」というその優れた益に与れるのである。

『王国』を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその『王国』を受け継ぐことができることになっている。新約聖書に記された一定の道徳律は、聖霊が注がれ「新しい契約」に入った人々の守るべき『聖なる行状』の求めを示しているのである。(ペテロ第二3:14/コリント第一6:9-11) ⇒ 今日のキリストの不在

その将来のキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは「王国」出現の序章となる。
 ⇒ 聖霊と聖徒

この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の発言によって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせ、その後、選民のすべてが天に召される集められることになるという。(マルコ13:9-11)(これが「携挙」と思われているテサロニケ第一4:17)

これらの人々の中心である「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この王国の唯一首位にして世代交代の必要ない大祭司ともなる。(黙示録19:16/ヘブライ7:26)


人類の将来に関わるこの王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。



-◆「罪」に対処する為の「王国」の政治と宗教------------------------


人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは冷厳な事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この罪の苦悩からけっして逃れることはできない。

ここに「救い」と謂われるものが見えてくる。
人間は「罪」あるゆえに誰も「真の正義」を持てないが、「神の王国」は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。
宗教であれ、政治であれ、すべての人間製の「正義」は神の義の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は、宗派であれ党派であれ、他のどんなイデオロギーであっても「完全な正義」を持っていないからである。

しかし、キリストと聖なる者らで構成される「天の王国」こそは、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にはすべての生ける人々に、神の創造物たる「神の子」に復する機会を提供するのである。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)

つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教を終わらせてしまうであろう。(コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか

まさに政治と宗教は、人間の原罪に対処するための必要から生じた一時的「対症療法」だからである。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。

初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。



-◆「王国」の到来する将来 ----------------------------------


『神の王国』の来るときについて、イエスは幾つかの例え話を用い、自らが一度去った後に再び(地に王権を持って)来ることを何度か述べていた。
それは使徒たちを通しても繰り返し語られており、イエスが肉体で到来するのではなく、「パルーシア」[παρουσία]というギリシア語で表される方法で地に帰還するのであり、それは『雲に乗って』あるいは『雲と共に』という状況の下である。

「雲」が視界を阻むもので、聖書中で「雲」はその働きをもって度々語られている。
すなわち、不可視性の象徴であり、イエスの帰還を「到来」や「再来」とせずに、「その場に関わりを持つ」「監臨」また「臨御」という意味のある「パルーシア」の語を用いたからには、その帰還は単純なものではない。

キリストが『雲の内』に、つまり世人からは見えない状態で世に対して『臨御』し始めるとき、『聖霊』は『聖徒』に再び語らせる。
彼ら聖徒たちは支配権を巡って為政者と対峙し『神の義』の代弁者となるので、彼らには誰も抗弁することができない、人間の世界は太陽も月も一切の光を失ったかのようになるという。(ルカ21:12-14/マタイ10:17-20)

つまり将来に、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、聖霊を通して知らされる神の義の前に、己を正しいとするどんな宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、その立場は溶解してしまう。

キリストの前に地は平坦にされ、一切の権威も権力も平伏すべきときが来るであろう。
しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)

裁きの行われる前に何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることは、エジプト以来示されたことである。

しかし、大半の宗教家も政治家も『王国』を非現実と看做すので、キリストに従うことは難しいだろう。そこで将来現れる『聖徒』の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し『世を征服』するであろう。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)

そのときキリストの姿は引き続き雲に隠れており、為政者も人々も目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので、神の王国を現実のものとは思わないか、あるいは思いたくもないであろう。(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)

そのときには、かつての個人的な罪は然程の問題ではない。
問われるのは神を神とするかという「エデンの問い」である。
たとえ、人々の中にキリストを罵倒していた者があっても、聖徒を支持するならどんな罪も許される。そこに誤解があったからである。(マタイ25:40)

しかし、聖霊の発言に逆らうものは許されることがあるだろうか?
聖霊に逆らうのは確信犯であり、そこに完全な選択がある。神に敢えて逆らうことを選ぶのである。

こうして将来、聖徒が語るときに、我々は聖霊に対してどう反応するかが問われるであろう。
(マタイ25:31-46/ルカ12:10-12)


そして幾らかの時の後、人類の裁きの進行と共に、試された聖徒たちの選びが確定することで『王国』が完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて世界に顕現(エピファネイア)するときに、すべての者は地上に起こる事柄を通して象徴的な不可視の雲の中に王の臨御を認めざるを得なくなる。⇒ 黙示録の四騎士

そこではすべての者がイエスの臨御を、その時に起こる意外な事態を通して「見る」ことになるだろう。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)

それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)



-◆『王国と神の義を求める』とは何か---------------------------


それで『王国』の来る前から、人々を憎ませ裁き合わせるあらゆる宗派から逃れ、また分断し相争わせるあらゆる党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)

それらは互いにも、また聖霊に対してさえも敵意を煽り、自らの義に固執して神の義を否認し、なお現世のままに永遠に争い続けようとする凝り固まった「蛇の道」となりかねない。(イザヤ57:21)

一方、王として処刑されたキリストと、その同じ道を歩む『聖徒』たちは、死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、倫理的に浄められた人々であり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど政治を委ねるに相応しい。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)

それゆえ、人間の政府ではなく『神の王国』を待ち、人間の様々な正義ではなく『神の義』を求めよ。これこそが「主の祈り」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)

これが、『神の王国』であり『世の救い』であり、すべての涙を拭うものである。
不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いや、その概念をさえ超える世界、神の創造物の立場(子)に復帰した輝かしい人類を作り上げるための手立てこそが『神の王国』である。

神の王国の千年の間に、人々はイエスの主要な教えであるアガペーと呼ばれる愛を思考と行動の原理として向上してゆくことになり、その到達点は悪意、欺き、争いがなく、互いに気遣う幸福な社会であり、それこそ創造において意図された人間本来の姿であろう。

黙示録21:3-4はこう述べている。
 『見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。以前のものは過ぎ去ったからである』。

それでもなお、あなたは「天国」の至福を望むだろうか?
もしそうなら、それは誰のためだろうか?

「天国」が個人を益するものとすれば、『神の王国』は人類に幸福をもたらすものである。
このふたつは、それを望む人に正反対の精神を抱かせるものと言える。
つまり、利己心と利他心ほども異なることになる。




              新十四日派   © 林 義平

 『神の王国』 -新十四日派の綱領として-

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