quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

終わりの日

キリストの語った終末預言と歴史


イエス自身が死を三日前にした週の第三日にその預言は語られた。

最後にエルサレムに上ったイエスと弟子たちは、この日に神殿を見て周り、弟子がこのヘロデ大王の建立した神殿の見事さを感嘆したことが、その預言が語られるきっかけを作った。

イエスは言った。「あなたがたはこれらのものをよく見極められないのか」「これらの(石組み)の石ひとつとして石の上に残らないだろう」。

この発言に対して弟子らはすぐには反応しなかった。民族の誇りとなっている見事な神殿がまったく崩れ去るという内容は彼らユダヤ人からすれば衝撃が大き過ぎたのかも知れない。

一行は神殿から東の谷を渡って、春先の日差しのなかであったろうか、聖域を見下ろすオリーヴ山を登ってゆく。
その間に使徒の四人が申し合わせたのか、彼らだけがイエスに密かに近づいて、先刻の神殿の石に関する発言の意味をそっと尋ねた。

「どうぞ、お話ください。そのような(すべての)ことは何時起こるのでしょうか?」「〔あなたの臨御とこの世("アイオーン"「時代」)の終わる[以上マタイのみ]  その徴しとしてどんな事があるのですか?」


これに答えてイエスの終末の預言が語り始められる。

では以下に、共観福音書を組み上げてイエスの発言をまとめてみよう
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誰からも惑わされぬように自分に注意せよ。わたしの名を騙って来るものは多い

自分自身に心せよ。あなたがたは王や高官の前に引き出されるが、そのとき何を語るべきか気を揉んだり、練習しようとするな、そのとき聖霊があなたがたにあって証しのために誰も論駁できないことを語らせるからである。そのようにして、王国の福音はあらゆる人々に宣明されるであろう」。

あなたがたは諸国民の憎しみの的となり、家族によってもわたされるだろう」。「多くの者がつまずき、倒れるだろうが、最後まで忍耐したものが救われる」。

あなたがたは戦争や無秩序とその噂を耳にするだろう。国民は国民に敵して決起し、食糧不足と疫病が蔓延し、あちこちで地震が起こるだろうが、これらは苦難のはじまりにすぎない」。

エルサレムが野営する軍勢に囲まれるを見たなら、都に居る者はそこを出よ、外にいる者は都に入ってはならぬ」。「荒廃させる憎むべきものが立ってはならぬ場所(聖所)に立つを見るなら、ユダヤに居る者は山に逃れよ」。「二階に居る者は何かを持ち出そうとして階下におりてはならず、野にいる者は外衣をとろうとして戻るな」。

そのとき、世の初めから今に至るまで起きたことがなく、その後も起きないような大患難がある」。「その日に妊娠している女と赤子に乳を飲ませる女にとっては災いとなる」。「実に、その日が短くされないなら、肉なる者は誰も救われないだろう。しかし、選ばれた者たちのゆえに、その日は短くされる」。

そのとき、自分がキリストだと言って惑わすものがあり、選ばれた者すらにも惑わされる者が出る」。

太陽と月と星に徴しがあり、諸国民は海の動揺から逃れようの無い苦悶がある(ルカ)」。「太陽は闇に月は血に星は天から落ち森羅万象は震い動く」。

そのとき、人の子が雲に乗って(と共に/の内にあって)到来し、すべての者は(刺し通した者も)それを見る」。

彼は、天の四方の風から自分の選んだ者たちを集めるだろう」。


-◆メシア拒絶の代償----------------------------------------

本来はエルサレムの神殿の破壊に関する言葉からの質問であったが、ここでイエスはユダヤの体制の終わりを述べつつ、事はそれだけで済まないことをも言葉の端々に表しているのが分かる。


しかし、ここではまずユダヤ体制の壊滅についてみてみよう。

イエスは刑場に曳かれる際に「エルサレムの娘たちよ、わたしのためではなく、自分のために泣け、孕まなかった胎と含ませなかった乳は幸いだというときが来る」。と言っている。(ルカ23:28)

それは、メシアを退けた後果をユダヤが刈り取らなければならないことを述べたのだろうか?

イエスはその数日前に次のようにも言っている。
エルサレムよ、お前(女性名詞)を取り囲んで先を尖らせた杭をめぐらし攻める日がくる。それは自分の査察されているときを見分けなかったためだ」。(ルカ19:43)

この国民の罪と言えば、神に属する者たちへの殺害であることを示してイエスはこうも言う。
アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この世代がその責任を問われるのだ。そうだ、真にあなたがたに言う、この世代がその責任を問われるであろう。」(ルカ11:50-51)

ユダヤは、キリストが水を与え、周りを掘って肥やしをやりして三年世話をしても実を生らせないイチジクであり、「お前からはもう二度と実がならぬように」と宣言されてもいる。(ルカ13:6-9/マタイ11:19)

こうしてみると、ユダヤ体制の終わりはイエス拒絶の代償であることはゆるぎないようである。*
ユダヤは体制として、ナザレ人イエスに信仰を置かず、その聖霊の奇跡の力と、神からの廉直な言葉を遂に認めなかった。そればかりかローマ総督にわたして処刑させたのである。
*(ヘゲシッポスや史家エウセビオスも同様の見解だが、彼らの言を待たずとも福音書そのものが雄弁に語っている。)

それでなくとも、ユダヤは以前からモーセの律法契約にも違反しており、メシアを退けることにおいて二重の過ちを犯そうとしていたのである。

ユダヤ体制派の策謀によりイエスの処刑が三日後に迫っていたこのときにおいて、神殿というユダヤの崇拝の要をまったく捨て去る神の決意はもはや翻らなかったが、イエスはそれを語っていたのであった。

では、その言葉はどう成就したか?
それを、以下に「ユダヤ戦記」を基に関連性を辿ってみよう。


-◆ その世代における成就 --------------------

イエスを除き去ったユダヤの体制は、その後、ますます愛国心を高めていった。
その先鋒となったのは、パリサイ人のシャンマイ派由来のシカリオイという集団であったという。
そのシカリオイの名は匕首(ナイフ)に由来し、彼らは匕首を忍ばせて雑踏に紛れ込み、自分たちの意に染まない要人を暗殺していたのである。

彼らの主張は、ユダヤをかつてのようにローマや異邦人の頚木から解放し、偉大なメシアの統治によって世界を治める地上の王国とすることにあったという。

確かに、旧約聖書を読むなら、メシアの統治は世々限りなく、神の熱心がそれを行わせるとある。(イザヤ9章)

そして、ユダヤ全体も歴代ローマ総督の悪政のためにむせ返り、とくにギリシア人総督フローロスが敢えてユダヤを煽るかのように振舞ったとき、独立への願望が堰を切らんばかりになっていたユダヤは、遂に引き返すことのない岐途に踏み込んだ。

西暦66年、ユダヤの過激派は死海沿岸のマサダ要塞に詰めるローマ兵を殲滅させ、神殿での皇帝の犠牲を妨害したのであった。これらは、宣戦布告に等しい暴挙となった。
そこで、大祭司アンナス(ハナニヤ)はヘロデ・アグリッパスⅡに暴徒の鎮圧を依頼するが、この王の軍も返り討ちに遭ったうえ、神殿直近のアントニア要塞まで陥落してしまったのである。

ここにイエスの予告に傾聴すべき部分が現われる。
即ち「あなたがたは戦争や無秩序とその噂を耳にするだろう」の言葉である。

現実は、まさに「国民は国民に敵」する事態となってゆく。
帝国各地のディアスポラの民が蜂起し、また、ギリシア人もユダヤ人を攻撃し始めた。
実にアレクサンドレイアのような都市までもが民族対立の危険な都市と化したのである。


ローマのシリア総督ガッルスは、ここにおいてユダヤ体制は反乱したと見做さざるを得ず、ダマスカス駐屯の第十二軍団と共にユダヤに向かって進軍を始める。だが、ユダヤ人の諸都市は抵抗らしいこともせずに制圧されていった。
なぜなら、その時期はユダヤの秋の仮小屋の祭りの最中であって、ほとんどの住民はエルサレムに上っていたからである。

ローマ軍が地中海方面からユダヤの山地を登り、いよいよ祭りを祝うエルサレムに近づくと、ユダヤ人は数を頼んでいっせいにローマ軍にかかっていった。しかもそれは安息日であって、40年ほど前のイエスのときにはあれほど固執し、その以前のセレウコス朝との戦いでは安息日に攻められて敗戦までしたユダヤ人が、安息日を踏みつけて攻めかかったのである。

だが、ローマ軍は秩序だった攻撃によってエルサレムの城壁を崩し始め、大方の住民は降伏するよりほかなしと思っていたのだが、しかし、そこでいったい何が起こったのかは今もって分からない理由のために、ガッルスは一目散に撤退を始めたのである。総督自身も軍を見捨てるようにして逃走し、這う這うの体でカイサレイアにたどりつく。
ローマにとって非常に不名誉なものであったのだろうか。撤退というよりは敗走と云うべき体たらくの真実の理由は歴史から削除されてしまったようだ。

しかし、これはローマ軍の殿軍を追撃し、大いに気勢を上げたユダヤ人に高慢に振舞わせる罠となった。

それからは、各所で若者たちに軍事教練が施され、武器が量産されたが、事を冷静に見ていた人々は、崇拝をないがしろにしながら神頼みの勝利を当てにするユダヤの異常さを察知した。ペルシアのような国ならいざ知らず、小国ユダヤが超大国ローマに抗ったところでどうなるかは見えている。

そして、イエスの言葉「エルサレムが野営する軍勢に囲まれるを見たなら、都に居る者はそこを出よ」の句はイエスの弟子らに意味を持ち始める。

そこで、ローマ軍がいったん退いたあとで、イエスの弟子らや他の賢明な人々は愛国心が崇拝心を上回ってしまったユダヤを見限り去って行った。弟子らはイエスの言葉に従い東方の山地デカポリス地方に身を潜めるが、これは彼らを救うものとなる。(教会史Ⅲ5)

その後、エルサレムは数度ローマ以外の軍勢に囲まれるが、次第に都から脱出することは困難となっていった。

そして遂に、ローマ軍の二度目の攻囲が始まると、父ウェスパシアヌスと共に皇帝と呼ばれた全軍司令官ティトゥスは、エルサレム周辺の木々を伐採し、ユダヤの都を柵で取り巻く作戦をとったのである。

こうしてイエスの「先のとがった杭」の預言が成就し、聖都の周囲はかつての木々の緑成す美しい佇まいを失い、乾いて荒れた土がすっかりむき出しにされてしまったとヨセフスは記す。

もはや、ユダヤ人に逃れる術は無い。慈悲あるティトゥスは都から出ようとするものを許すつもりであったが、粗暴なアラビア兵などが、ユダヤ人が宝石などを呑み込んでいるものと決め付け、貪欲から次々に人を切り裂き腸を調べたのである。しかし、そのような財産を呑み込んだ脱走者はごく少数であったという。

城壁の外でこのように凄惨なことが起こる間に、市内ではシカリオイからゼーロータイ(熱心党)へと発展した過激派と、ユダヤの強盗集団が神殿の聖所を自分たちの要塞としてしまい、血で汚し、奉納物を私物化したのであった。
これは「立ってはならぬところに憎むべき何者かが立った」と見ることができるだろう。彼らはユダヤ史上最悪の役者というほかない。預言者ダニエルが記したようにこの不法な者らの「行く先(翼端)には滅びがある」。(ダニエル9:27)

実際、彼らはエルサレムの荒廃を呼び込んだ。
総勢六万に上る大軍を率い、既に皇帝と呼ばれたティトゥスではあったが、懐深くも神殿と聖都を残すべく再三再四熱心党と強盗集団への説得を繰り返したのである。


だが、ユダヤのならず者らは、まるで勝ち目がないにも関わらず投降を拒み続けたので、市内は物資に窮し、遂に常供の犠牲も絶えてしまい、美麗を讃えられた聖都と神殿も徹底的な破壊に至るのであった。


その過程で、無数の命が塵芥のように掃き捨てられた。
攻囲が始まったときには春先の「過越しの祭り」の時期と重なり、エルサレムはユダヤ人で溢れ、人口が何倍にも増えていた関係で、城内では食糧不足が速やかに進行し、僅かな食料を巡って奪い合いがあちこちで起こり、やがて若者ですら栄養不足から手足は萎え腹部は突出したという。
そして遂にネブガドネザルの攻囲のときと同じく、母親が子供を食らうという事態にまで致る。街路に散乱する死体からは疫病が発生し、それは体力の落ちた人々を容赦なく襲う。

こうして「食糧不足と疫病」を予告したイエスの言葉が重みを増す。
そのような状況下では、確かに「孕まなかった胎と含ませなかった乳は幸いだ」と言われるだろう。

聖都の壊滅、そしてその凄惨さは古代バビロニア軍による攻囲の比ではなかった。
ヨセフスによれば神殿の焼失は、カルデア軍のときと同じ夏のアヴの月の9日となったという。ヨセフスの挙げる数字には相当な誇張があるとされるものの、110万の死者というのは、未曽有のユダヤ人殺害がなされたという表現として読むことができよう。(ティベリウス期の帝国内のユダヤ人の総数が400~450万人と推定する現代の資料がある。そのほとんどがディアスポラであった)

エルサレムの破壊の程度も徹底的なものとなった。城壁を調査できたネヘミヤのときと異なり、此の度はあたかも絨緞爆撃の跡のようにエルサレムは地下施設と路条を残して更地のようにされ、ティトゥスが命じて地上に残ったのはほんの三つの建築物だけであった。そのため、イエスの時代の遺構も不明瞭で、現代でも大祭司の館や総督館、ゴルゴタの位置など不明なものが多い。

やがて帝国は、反乱を繰り返すユダヤ人の当地への定住を禁止するに及び、ローマ属州ユダエアの名称はついに地図から失われる。その後、この地域はパレスティナの名を以って呼ばれるようになり、それが現代に及んでいるのである。

ユダヤの民は、奴隷や剣闘士の需要をまかなわされて帝国の各地に散って行き、大半は流浪の民となった。ユダヤ人には特別な税金が課されるようになり、残った民も135年のバルコクバの乱の終りを経て、エルサレム地区への入域さえ叶わなくなってしまう。

かつて、バビロニアによる神殿の破壊からは百年かからず復興したユダヤ=イスラエルも、ローマ軍攻囲の後は二千年が経過しようとする今なお神殿祭祀の再興を見ず、「彼らのメシア」は依然現われていない。

それを思えば、ユダヤ人にとって「世の初めから今に至るまで起きたことがなく、その後も起きないような大患難」がエルサレムに臨んだと言ってよいであろう。これらすべての患難は、メシアを退けたユダヤ民族の結末となる「邪悪な世代」への処罰として臨んだ。つまりそれは、モーセから千数百年の代々続いたユダヤという偉大な体制の歴史を閉じる「終結」であった。(マルコ13:19/ルカ3:17)

一方ではその以前に、神はキリストを通して「新しい契約」に聖なる人々を招き、「神のイスラエル」を発足させていたのであった。それこそが血統上のユダヤに替わって、律法によらずにアブラハムの約束を受け継ぐ新しい体制の誕生であった。(ガラテア6:16)


-◆その世代に起こらなかった事柄-------------------------

さて、このように神殿の石についての弟子らの質問の答えが、現実となってユダヤ人とエルサレムに降りかかったのだが、イエスの預言にはそのときに当てはまらない部分が残っている。

弟子らは、為政者の前に際立った仕方で立たされておらず、聖霊が反駁のしようもない語りを行うのを誰が聴いただろうか。(マタイ10:17-/マルコ13:11-)
明らかに『雲と共に来る人の子』の姿を世界はまだ見ていない。(マルコ13:26/ルカ21:27)


では、それらの残された部分はどうなるのか?
それはなお将来に成就を控えているのだろうか?

第一世紀に成就した預言の最終的な実現を見るのはまだこれからと言える。
イエスがユダヤの体制の終焉を預言する中に、『起きたこともないような大いなる患難がある』と『この世』の終わりの預言を含んだように、ローマ軍によるエルサレムの滅びは、将来のユダヤ一国の出来事を遥かに超える出来事の予型であったことを教えている。(マタイ24:21)

エルサレムの聖所を汚して、ユダヤの体制の終わりを招じ入れた熱心党や盗賊集団が居たのだが、来るべき時代にも何者か「荒廃をもたらす憎むべきもの」がいるが、未だ確定していない。(マルコ13:14)

将来のそのものは、同様の行動をもって象徴的「聖所」に現われるであろう。その聖所とはキリストと共に神殿を構成する『聖なる者ら』を蹂躙することを意味するのであろう。

だが、その蹂躙とは『二度死んだ木』のように神からまったく打ち捨てられた地上に残るエルサレム市は何ら関わらないものである。

それでも、先の成就と同じく、その象徴的「聖所」は、その者が立つときに神の目には聖所ではなくなり、打ち捨てられた汚れた場所となるとしても、それら『荒廃をもたらす憎むべき者』が原因して諸国民は象徴的「聖所」または「エルサレム」を踏みにじるのであろう。(ダニエル8:13)

我々はそのまったく強情な悪党らの正体を見るのだろうか。
しかし、その前に『聖所』に相当する『聖なる者たち』が、真に聖霊を注がれ、奇跡の賜物をもって現れなくてはならない。(黙示録11:1-3)

だがしかし、将来の悪党どもに相当する者らは、間違いなく地上に関わるであろう。即ち、『一人は連れてゆかれ、一人は残される』というキリストの警告にあるように、地に残されるユダ・イスカリオテのような『滅びの子』であり、『聖なる者たち』の内からの脱落者らが、地上のエルサレム、またはその近郊に関わり、『背教』に関わる何事か不善を為すことは予期されるべきである。(ルカ17:33-35/テサロニケ第二2:1-10)



こうして、共観福音書の後に記され、エルサレムの荒廃を経てなお終末預言を繰り返す預言の書、旧約への許多のリンクを孕んだ聖書全巻の封印にして最も不可解とされる最終巻、「ヨハネ黙示録」へと我々の目は向かう。
その成就するときは、第一世紀の預言のみならず、聖書中の預言がそこに集中する世代となるだろう。




   新十四日派  ©2011  林 義平
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 ブログ内の
記事一覧

 ⇒「マタイ福音書の終末預言と例え
 ⇒「黙示録の四騎士 時代の印か 絶滅の使者か
 ⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

 



新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)


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「天国」か?「天の王国」か?


これがキリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒に曖昧であるのは驚くべき事である。

しかも、これを「天国」としてしまうキリスト教指導者の多さも驚かされる。ユダヤ人に向けて書かれたマタイ福音書では「天の王国」[βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書の「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂、天国と地獄の「天国」とはまるでかけ離れたものである。(福音書の王国の違いについては拙著「神YHWHの経綸」を参照されたい)

そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。

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さて、この天国ではない「王国」が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。

それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。
即ち、神YHWHとイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とあるが、これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。

この事を、神は遠くシュメール時代の人アブラハムに対し、「あなたの子孫(後のイスラエル)によって、すべての民族の人々は自らを祝福するであろう」(創世記12:2-3)と語っていた。つまり、「神の王国」は全人類を益する神の手立てなのである。

後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、「・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・」(ペテロ第一2:9)とキリスト教徒の中の聖徒ら(ハギオイ)に適用する。
つまり、律法契約の遵守に失敗し、遣わされたメシアを退けた血統上のイスラエル民族によらない、別の「イスラエル」と呼ばれる民、「神のイスラエル」によって構成されるキリストの追随者による「王国」である。(ガラテア6:16)
こうして「王国」という奥義に関する数千年に亘る神の歩みが見て取れるのである。

つまり、キリスト教徒のすべてではなく、聖霊の賜物を得た選ばれた一定の人々が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/ヤコブ1:18/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当することで、神がアブラハムに明かしたように、その益が残りの人類全体に及ぶことになるのである。

しかし、モーセによる律法契約は、イスラエル=ユダヤ人に守られることが遂に無かったので、その後に、神が預言者エレミヤを通して予告していた「新しい契約」(エレミヤ31:32-33)に入れ替えられ、こうして「祭司の王国、聖なる国民」という本来の「イスラエル」を実現させる筋道を保ったことは聖書に明らかな通りである。

つまり、イスラエル=ユダヤ民族は「王国」の担い手、選民「イスラエル」となるはずであったのだが、律法契約違反の罪を負ってしまったまま、マーシァッハ(メシア=キリスト)という「王国」の主要な王の到来を迎えた。
そうして、血統上のイスラエルは「神の王国」となり得る機会を再び得たので、イエスは「神の王国はあなたがたのただ中にある」と言っている。(イザヤ9:7/ルカ17:21)

それにも関わらず、ユダヤの宗教体制派はナザレのイエスをメシアとしては認めず、これをまったく退けてローマの権力に渡して処刑させたのである。
イエスの頭上の罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。

このため、ユダヤ民族全体としては「王国」を受け継ぐことから除外され、民の中のほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する望みを繋いだのであった。(ローマ9:27/マタイ21:45)

そのため、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき王国、「イスラエル」の民には、イエスに信仰を持った残りのユダヤ人だけでなく、「王国」を構成するはずであったユダヤ人の不足を埋め合わせ、全体の人数の補充するためにイエスを受け入れた異邦人も『接木されて』含まれ、血統上のイスラエルに彼らが幾らか混じることになる。(ローマ9:24-27)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)

それゆえ、この異国民で元々イスラエルに属さない人々は、「血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となった」とパウロは言う。(ガラテア3:29)

これらの選ばれた人々は、キリストが「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、ユダヤ人であってもなくても、共に信仰によって選ばれた『神のイスラエル』、つまり「新しい契約」に属する人々「聖なる者」である。(ヨハネ14:2-3/ガラテア6:16)

この契約に与る「神の特別な所有物である民」「聖なる国民」に属する人々、つまり「聖徒」には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な賜物が与えられたが、それは「王国」の一員として内定したことの印であったことをパウロは度々言及している。(エフェソス1:11-14-18/コリント第二5:5)

つまり聖霊の灌がれない人はけっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もなったくない、むしろ「王国」の外に居て、聖なる人々からの優れた益に与れる言わば「客」なのである。
それこそは、聖霊ある人々で構成される「アブラハムの子孫」によって「地のすべての家族が自らを祝福する」という創世記で神がアブラハムに約束した通りである。

「王国」を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその「王国」を受け継ぐことができることになっている。(ペテロ第二3:14) ⇒ 今日のキリストの不在

その将来の「終末」でのキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは将来における「神の王国」実現の序章となると預言されている。 ⇒ 聖霊と聖徒 

終末に至り、聖霊を受ける彼らは、キリストの帰還と王国の人類支配を宣告するために、「王や高官の前に引き出される」が「誰も論駁できない」聖霊の言葉を語ることになり、それは世界中の注目を集めることになるという。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)

この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の導きによって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせた後、天に召されることになるという。(これが「携挙」と勘違いされている。テサロニケ第一4:17)

これらの人々の「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この方は神の王国では大祭司でもあり、まず聖徒らの罪を除き、大祭司イエスは次いで(聖徒ら従属の祭司と共に)人類の罪を除くことになる。
(ヨム・キプルの祭儀;レヴィ記16:11.16)(黙示録19:16/ヘブライ7:26)


この王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。
伝統的解釈に慣れた方にはもう少しの衝撃を与えるかも知れないが、それでも宜しければ以下をお読みいただきたい。
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人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは歴史に深く刻まれた事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この苦しみからけっして逃れることはできない。

ここに「救い」といわれるものが見えてくる。
王国は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。

宗教であれ、政治であれ、すべての「人間の義」は「神の義」の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は完全な正義を持ち得ないからである。そこに真正な政治も宗教も存立しえず、争いが絶えないのはそこに原因がある。

「天の王国」は、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にすべて生ける人々に対して、神の創造物たる「神の子」の義ある姿に復する機会を提供することになる。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)

「神のイスラエル」つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教をまったく終わらせてしまうであろう。なぜなら、政治と宗教とは、人間の不倫理性(アダムからの罪)に対する応急処置に過ぎないからである。(黙示録20:6/コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか


キリストが臨御(パルーシア)を始めるとき、聖霊は聖徒に再び語らせるという。
新たに選ばれる聖徒たちは、人類の支配権を巡って為政者と対峙し「神の義」の代弁者となる。
人間の支配が、太陽も月も一切の光を失ったかのようになるとの記述はこれに関連するのであろう。(マルコ13:24)

つまり将来、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、それら己を正しいとする宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、神の正義の前に溶解してしまう。

キリストによって地は平坦にされ、一切の権威も権力も伏すべきときが来るであろう。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。

初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。

そこでは、キリスト・イエスが、その宣教で何度も語っていた『王国』(バシレイア)も、異教の「天国」にされ、善人が死後に行くという、大衆に分かり易く、ありがたいものに代えられてしまった。

しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)
何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることはエジプト以来、何度も示されてきたことである。

しかし、聖徒が如何にキリストの臨御を警告しようと、大半の宗教家も政治家も「王国」を非現実と看做すので、終末にキリストに従うことは難しいだろう。

そこが将来現れる「聖徒」の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し「世を征服」するという。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)

そのときキリストの姿は「雲」(不可視の象徴)と共にあり、為政者らは、目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので「神の王国」を現実のものとは思わないか、あるいは何らかの動機のために思いたくもないであろう。
(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)

そのときには、たとえ人々の中にキリストを罵倒していた者があっても聖徒を支持するなら「あらゆる冒涜や罪も許される」とキリストは言われる。そこに誤解があったからであろう。(マタイ12:13)(一般的道徳性の称揚はキリスト教の本質ではない)

しかし、聖徒らによる聖霊の発言に逆らうものが許されるだろうか?
神の聖霊に逆らうのは確信犯であり、どのような動機からであれ、そこに完全な選択がある。やはり、イエスは「霊に対する冒涜だけは許されない」とも言われるのである。
(マタイ12:13・25:31-46/ルカ12:10-12)


そして幾らかの時の後、試された聖徒たちの選びも確定して「王国」の国民が天に揃って完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて顕現(エピファネイア)するときに・・すべての者は象徴的に雲の中の大王の力をまざまざと思い知らされ、その臨御を認めざるを得なくなって、誰もが見えないキリストを「見る」ことになる。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第一3:13/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)

それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)宗教家はどこにいるのか?この以前に彼らは居なくなっている。聖徒が神の義を携えて現れるときから人間の宗教の一切は無意味であり、この畏怖すべき日の前に、既に権力によって処理されている。(黙示録17:16)


それで、「王国」の来る前にすべての宗派から逃れよ!党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)
それらは人々の敵意を煽り、神の義を否認し、なお永遠に争い続けようとする道、イエスを葬った精神である。

国籍の違い、政治上の見解の衝突、宗派の教義の違いが人同士にあっても闘争を惹起するように、それら人間の権威や権力は神の王国に対しても戦いを挑むであろう。
だがそれらの相克し合う指導者らが人々に対して神のような絶対的福祉を提供できるというのだろうか?(イザヤ57:21/詩篇146:3-)

一方、王として処刑されたキリストと同様に、多くの聖徒たちは死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、キリストの血の犠牲の早い適用によって倫理的に(原罪を)浄められる者らであり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど支配を委ねるに相応しい。

そして彼らの王国は、人類に神の創造物(子)としての栄光を回復するものである。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)

それゆえ、人間の政府ではなく「神の王国」を待ち、人間の義ではなく「神の義」を求めよ。これこそが「主の祈り」と「山上の垂訓」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)

これが、「神の王国」であり「世の救い」であり、すべての涙を拭うものである。
このように、不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いやその概念をさえ超える世界を作り上げるための手立てこそが「神の王国」である。

それは罪を持つどんな政治家や革命家やユートピストも企画も実現も出来なかった輝かしい人間社会であろう。
確かに黙示録21:3-4はこう述べている。
 「見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。古い秩序(体制)は過ぎ去ったからである」。

神との関係を回復する人類はかつて経験したことのない栄光の時代に入り、「顔に汗してパンを食し、遂に地面にかえる」という、現在までの生き方をまったく虚しいものとして心の片隅に思い出すこともあるのだろうか。

神の王国は千年の期間に、「愛の掟」を社会原理に据えることで、人々の思いと行動を向上させ、倫理的完全性に近づけるのであろう。そうして人類から煩雑な法律の必要をなくしてしまい。自由な行為者となった人間はそのすべての行いにおいて倫理的失敗を恐れることを自他共に必要とはしなくなる。つまり、争いも欺きや悪意も過去のものとなるのである。

人体は病や老化のない「神の創造物」の輝くような様に変わり、「地の呪い」も解けて全地は「シャロンの輝き」のようになるという。(創世記3:14/イザヤ35:2)

「神は世を愛して、誰でも彼に信ずる者がひとりも滅ぼされることなく、永久の命を持つために自らの一人子を遣わした」。
このヨハネ3:16の有名な言葉も、「王国」という手立てを通してもたらされることを思えば、「天国」の至福とはまったく異なった、そしてより深い味わいがあろう。

このキリストを主とする「神の王国」に、国境や人種や党派や宗派に関わりなく、個々に支持を表明して、我々のすべてがそれに参与することのできる時代がやがてはっきりと到来するだろう。

唯一の問題は、そのとき我々がこの「王国」を支持するか否かということだけになろう。
しかし、少なくともそれは投票行動のようなものではないようだ。
それは多少なりとも身の危険を覚悟する必要があるかも知れない。

なぜなら、神からの警告は出エジプトのときのように充分に繰り返され、神の力と威光は世に充分に告知されるとしても、「王国」の反対者は少なくないだろうし、聖霊の声に従うか否かという、人類を二分する論争を伴うことになるからである。(マタイ25章)

それは「裁き」の時である。イエスがユダヤ人に現れ、奇跡を行ったことでメシアを受け入れた人々とそうしなかった人々が分かたれたように、将来も聖徒を通してそうなるのであろう。(ヨハネ15:26-27)

さて、人は己を神と対等にしてよいものだろうか?
つまり、この終末の裁きで、人類は各々「エデンの問い」を試されることになる。

今の時点で思うに、その裁きで我々の試されるところは「信仰」「希望」「愛」ではないか。
しかも、それらは裁きの問いに対する答えとして試される人の内面の資質であり、キリスト教徒であるか否かが「裁き」の結果保障になるとは到底思えない。

仏教の「極楽」のように「天国」での安逸を期待する事と、以上のように「神の王国」を捉える事との差は余りに大きい。
一方は、個人の救いの達成を願うことであり、ご利益信仰的「天国」願望では個人愛が支配するが、他方、「天の王国」では公共善への大志があり、その神と人への自己犠牲的な愛はまさしくキリスト・イエスに倣うものである。



                    林 義平

 『神の王国』 -新十四日派の綱領として-
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