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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

聖霊

「聖霊」という第三のもの

長文 2万3千文字超



マタイの福音の終わり間際にある『神と子と聖霊の名によってバプテスマを施し・・』の句にあるように、キリスト教で欠くことのできない対象が三つある。
即ち、創造の神であり、その子キリストであり、もうひとつが「聖霊」とされている。

「神」とは、正しく崇拝の対象とされるべきものであり、その理由を聖書は
『主よ。我らの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるに相応しい方です。あなたは万物を創造し、あなたの御意志のゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』 と記し、唯一永遠の原因者に最大の栄誉が帰せらる理を明示している。(黙示録4:11/列王第二19:15/ネヘミヤ9:6)
 
「キリスト」とは、『神と人との仲介者』として立てられるべく「油注がれた」つまり任命を受けた者を意味し、『神の独り子』とされている。旧約聖書の古代から予告された、そのメシア(油注がれた者)の役割を信じ、その教えに従おうとするのがキリスト教である。(テモテ第一2:5/ヨハネ1:14/ヨハネ5:23)

このあたりまでは理解することに然程の難しさはないのだが、第三に挙げられる『聖霊』とは何を意味するのだろうか。

ユダヤ教に於いて「神」とは、創造者にして、アブラハムに現れ、海を裂いてイスラエル民族を奴隷から救出し、モーセを介して律法を与え、ダヴィドの王統をもたらし、神殿に御名[יהוה](発音不明)を置き、多くの預言者を遣わしタナハ(旧約聖書)を著した聖なる方である。
この神はメシアの到来も予告し、そのメシア=キリストがガリラヤ地方のナザレ村から来た奇跡を行う人イェシュア=イエスであることを信じる者たちがユダヤ教から分かれて新たな信仰の道を歩み始め、それが今日のキリスト教へと進んでいった。

以上の事柄は一般に教えられる歴史を追っても確認のできることである。

だが・・
『聖霊』とは何か?

この神とメシアに並ぶほどの存在としての「聖霊」が含まれるという概念を旧約聖書に見出すことは無い。
ユダヤ教徒にとってしてみれば、聖なる神こそ崇拝の対象であり、メシアの到来も予告されていることも認めることはできる。(ただ、それがナザレのイエスであると肯んじることは無いにしても)
そして聖霊が働いて創造が為され、イスラエルを導き、預言者に霊感を与え、タナハを書かせたことも認められるであろう。

しかし、「聖霊」が「神」や「子」と共に名を挙げられるに相応しい理由というものを見出せるだろうか。

そこで聖書の中を追ってゆくと、このマタイの記述を以って、「聖霊」を高める理由というものがキリスト以降の独自のものであること、またそれが神やメシアと並び得るものであることを確認できるのである。

この「聖霊」は、キリスト教徒にとって非常に重要なものであり、些かも軽視してよいようなものではない。
しかし、けっして「イエスの代わりに遣わされた神」などと云う三位一体がどうのということではない。
やはり新約聖書での『聖霊』とは、キリストの犠牲の死を以ってはじめて下賜される道が拓かれたものであり、キリストの血のうえに成り立って存在するようになったところの、このうえなく貴重な事象の始まりであったことが分かるのである。 
イエス自身が『わたしが(地上を)去って行かなければそれ(助け手の聖霊)は来ない』と最後の夜に使徒らに語っていたことを使徒のヨハネが書いている。(ヨハネ16:7)

キリストの死は大きな変化をもたらした。
それは『サタンを無に帰せしめる』 ほどの勝利を収め、同時にキリスト自身を『完全な者』としたことをヘブライ人書簡が証ししており、使徒ヨハネもキリストの崇高な死の未然を含んで、『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかった。』と書いている。やはり、主の死の犠牲を以って下賜が許されたものが、この格別な霊、即ち『聖霊』ということができるのである。(ヘブライ2:9-10.14/ヨハネ7:39)

そして、新約聖書にあって、このように「聖霊」を高めるべき理由が、このマタイ最後の一文だけに拠るものではなく、新約の多くの箇所に見出すことができ、その点では、却って前述のマタイの記述が、新約の使徒言行録以降に見られる聖霊の働きを一文にまとめて簡潔に総括したもののようでさえある。

マタイ福音書のこの最終部分は後代の書き加えではないかとも言われてきた。
その蓋然性も無くは無いようだ。だが、マタイ福音書のヘブライ語もギリシア語も原典が存在していない以上、その真贋を断言することはできない。しかし、内容を吟味する道は残されている。

そこで、この『あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ』のマタイの句は、聖書の全体の調和を崩すものでも、異質のものでもなく、むしろ、聖書教の核心を有して一言で見事に云い表しているかの観がある。

従って、この新たな第三のものは、メシアの到来をさえ認めていないユダヤ教徒に理解されることは無いであろう。
この『聖なる霊』(ハギオー プネウマトス)の概念は、以下に見るように、まったく新約の世界だけに属するものであり、他のいかなる宗教も持ち得ない超絶的な事象ということができる。

では、何故にこの『聖霊』が神や御子に並ぶほどの高い立場を占めているのだろうか。
ここにおいて、我々は新約の中での「聖霊」を振り返って注目してみるときに何を再発見するだろうか。

そこで、「聖霊」の格別なところを陳述する場面としてヨハネ福音書の最後の晩餐の場面からはじめて、新約聖書の内容を探り出してみることにしよう。


◆イエスから使徒へ

イエスは祭司長派に捕縛される夜に、十二使徒らとの最後の晩餐に際し多くを彼らに語ったが、その重要な言葉の数々は、その場でイエスの懐に居たヨハネ、あの主の御傍に仕えた十二人の最年少で、殊に主に可愛がられていたこの漁師ゼベダイの子によって、その名による福音書の中の四つの章を占めるほどに多くが書き出され、今日にそれを読む我々に伝えられているのである。

やがて最後の夜も明ければ、総督ピラトゥスの前に引き出され、昼には磔刑を受けるという、使徒らと過ごす最後の貴重な時間に語られた内容には、イエスの去った後の弟子たちへの指導や励まし、また将来を予告して備えさせることなどを含み、イエスの公生涯中にあっても特に濃密な教えと使徒らへの気遣いに満ちており、それはヨハネ福音書の第十四章からイエスの祈りを含む第十七章に及んでいる。

イエスは、使徒たちに一年ほども前から自らがユダヤの当時の祭司長派から退けられて殺され三日目に生き返ることを度々話してはいたのだが、使徒たちはこの死と復活の奇跡が起こることを理解できずに過ごし、こうして磔刑に処される前の晩になっても未だに充分には知らず、ユダ・イスカリオテが『しようとしていることを早く済ます』ために晩餐の場から立ち去った理由も判然とはしていなかった。

しかし、師はこう言われる
『子らよ、わたしはまだすこしの間、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」言ったとおり、今あなたがたにも言う。』
『わたしは去って行くが、あなたがたのために場所を用意したら戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎えよう。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。』 

自分たちの師が彼らからいよいよ去って行くと語るに及び、掛けがえのない主との別れが近付いた使徒らには深い落胆が臨んでゆく。

そこで、思ったままを口にし易いトマスが『私たちはあなたがどちらにおいでになるのかを知らないのです。どうして、そこへの道が分かるでしょうか?』と憂いを訴え
義理堅いフィリポは『私共に父をお示し下さればそれで満足します!』と印を求める。
そしてペテロは、親密な口調で『何処においでになるのですか?主よ。』と後に有名となる一言を以って尋ねた。

イエスは答えて言う。『あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、後になってから、ついて来ることになろう』。
するとペテロは強く反発し、『主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか!あなたのためには命も惜しくありません!』

そこでイエスは答えて
『あなたがたは心を動揺させず、父と私を信頼せよ。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのだ。
わたしが去って行って、あなたがたに場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしの許に迎えよう。わたしのいる所に、あなたがたも居るようにするために』

『「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからだ。』

こうしてイエスは使徒たちを励ます言葉を連ねてゆき、自らが地上を離れその父の御許へ戻ることが彼らの益になることを言葉を続けてゆくのだが、この晩の使徒らは、師が天に去り、時経て後に彼らをも天に招くという、この意味を悟ることができないでいた。

年若かった青年ヨハネにとって、この晩のイエスの懐にあって師の口から出た多くの言葉は65年以上後の彼の最晩年までも心と想いの中に刻まれるほど印象深いものであったのであろう。

そして、これら後に残す使徒たちへの慈愛に満ちた言葉の中でひとつ注目を引くものがある。
それこそは、師の去った後に弟子たちに到来する「援助者」であった。

『わたしは父にお願いしよう。あなたがたに別の援助者(パラクレートス)が与えられ、それが永遠にあなたがたと共にいるようにしてくださるようにと。
 そのものは真理の霊なのだ。この世はこれを受けることはできない、見ることも知ることもないからだ。
だが、あなたがたはこの霊を知る。 なぜなら、これはあなたがたに留まり、あなたがたの内に在るようになるからだ。』(ヨハネ14:16-17)

やがて、この言葉は成就して、使徒たちを含めた弟子たちに見紛うことのない仕方で『援助者』の働きを為す聖霊が到来することになる。
それはイエスの刑死と墓での安息から五十日を経たあの五旬節の朝のことであった。それゆえ、使徒たちはこの晩には、それがどんなものかを知らず、それが彼らをしてどれほどの偉業を成し遂げさせるかも知る由もない。

それでも後になって、彼らはこの晩にイエスがこう語っていたことを思い起こしつつ得心したことであろう。
『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』
また、彼らの主はこうも語っていた『父の許から真理の霊が来るとき、その者がわたしについて証しをするはずだ。そして、次にはあなたがたが証しを行うのだ。あなたがたは初めからわたしと一緒に居たのだから。』(ヨハネ14:12/15:26-27)

イエスは復活後の四十日間、時折に使徒たちに現れては話しかけ、自らの復活を得心させると、最後には彼らの見守る中、聖霊について再び語って『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の絶え果てるところに至るまでが、わたしの証人となる。』と言われ、これが地上で語られたイエスの最後の言葉となった。(使徒1:8)
それからイエスは天に高く昇ってゆき、やがて雲間に見えなくなってゆく。

その光景が終わっても、彼らはおそらく長い時間、師を慕って空のその方向を眺め続けていたのであろう。そこへふたりの天使が現れて言う。
『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を眺め入って立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、また来られるであろう。』(使徒1:11)

弟子らがイエスの昇天を眺めた十日の後、エルサレムの目立たぬ一角でユダヤ人の迫害に未だ怯えるイエスの御傍に仕えた120人ほどのガリラヤ人の弟子たちの上に、イエスが父に願って彼らに与えると言われていた「約束の聖霊」が臨むことになる。

その現れは、隠棲する彼らとは正反対に、五旬節の祭りに各地から集まっていた離散のユダヤ教徒らに何事かと思わせる大音響の風の音を伴い、多くの人々の注目を誘ったのである。
ガリラヤから来ていた120人ほどの弟子たちの上には聖霊が見える『炎の舌』の形を以って現れており、彼らはそれぞれが諸国の言葉で『神の壮大な事柄』を語っていたが、それを見た人々は驚愕する。

そこで彼らは確かに『力を受け』、もはやイエスを殺めたうえに、弟子たちまでをも迫害しようとしていたユダヤ人らを怖れ怯える態度からは打って変わって、この日の朝に、百二十人のガリラヤ人らは、あの晩には主を三度否認していたペテロを先頭に立ち上がり、彼らの主イエスこそがメシアであること、そしてユダヤの民がこのメシアを退けてしまったことを証し、世界宣教の第一歩を踏み出したのであった。

使徒ヨハネはこう述べている。
『神が御子についてなさった証し、これが神の証しである。 神の子を信じる者は、自分の内にこの証しを持っている。神を信じない者は神を偽り者とする。神が御子について証しせられたその証拠を、信じていないからである。』(ヨハネ第一5:9-10) 

異言という奇跡の言葉とペテロの証しを聴いた群衆はキリストの死に心を痛め、ペテロに問う『わたしたちはどうしたらよいでしょう』。
ペテロは答えて『バプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊を得る』と語っては、そうして『人々を弟子とするように』というイエスに命じられた『人を漁る業』に着手するのであった。(使徒2:36-39)

即ち、律法契約に属していたユダヤ人らが、イエスをメシアとして認め、このことに信仰を持つなら、水のバプテスマを介して、その聖霊を受ける者となり律法契約から「新しい契約」へと移されるようペテロは勧めていたのである。ユダヤ教徒である彼らは既にその神YHWHを崇拝しており、そこにナザレのイエスをメシアとして信仰することが加わると、聖霊を受けるというのである。(マルコ16:16-17)
ここに、神、子、霊の本質が見える。

他方で、イエスを退けたユダヤ体制や祭司長派らには、もちろん神からの奇跡の賜物が与えられることは無い。彼らの信仰の対象は神だけに留まり、彼らにはバプテストのヨハネが予告した『聖霊』に代えて『火のバプテスマ』が用意されていたのである。(マタイ3:11-12)
即ち、その『世代』の内に臨むメシア拒絶の断罪であり、それは西暦七十年にユダヤとエルサレムの滅びという大規模で悲惨な結末を迎えることになる。(ルカ19:41-44)
それゆえペテロは『この曲がった世代から救われよ』と熱心に説き勧めるのであった。(使徒2:40)

この日のうちに、エルサレムの一角に隠棲していたペテロたちには三千人ものユダヤ教徒が加わったと記されているが、この勢いは「聖霊」の助力なくして考えられない。

イエスというメシア信仰を得た人々は、五旬節の祭りの後も喜びと熱意のうちにエルサレムに留まり続け、聖霊の業の証しを目撃しつつ自分たちが見出したイエスへの信仰を喜び、神殿での崇拝を共にし、家々ではエルサレムの人々がパンを分け合い離散の逗留者への食事を給していた。(ヨハネ14:1/使徒2:42-47
だが、祭司長派はこの集団の動きに不穏さを感じ始める。

せっかく総督に圧力をかけて「民の扇動者」ナザレ人イエスを亡きものとし、その一派の運動は五十日は下火になっていた、いや、その派の教祖を公に処刑してほとんど鎮火したはずであったが、これが今や以前に増して活気を帯びているのである。そこでサンヘドリンは使徒らを呼び出し、『もうこの名(イエス)によって語ってはならない』と脅しの警告を与えるのであった。(使徒4章)
しかし、ペテロたちは男だけで五千を数えるほどに増えており、この脅しも一向この聖霊の業を止めることにはなっていなかったに違いない。

彼らの主を殺害に追い込んだサンヘドリンからの脅迫に面した彼らは、却って、心をひとつに神に祈り、『彼らの脅しに目を留められ、あなたの僕イエスの名によって徴や奇跡が起こりますように』と神に祈ると、神の御力によってその場は揺れ動き、皆がひとり残らず聖霊に満ちて、大胆に神の言葉を語り出したのであった。

そこではもはや、神の恩寵がどこにあるのかは問うまでもない。ユダヤ律法体制は未だ存続してはいたが、新たな大祭司イエスは、自らの犠牲によって従属の祭司となるべき人々を、自らに信仰を働かせるユダヤ人から選び取っていたのである。(ヘブライ9:11-14)

これは聖霊の勝利であり、数の上では圧倒的に優勢な体制派がどれほど反対しようと、ひとたび「約束の聖霊」が注ぎ出されて始まった以上、その流れを止めることは誰にもできない。
この物事の進展は、天に戻ったキリストが神に願い出て与えられた神の威力である「聖霊」によるもので、イエスこそがメシアであり、その指導にユダヤが服すべきことを証し、また、服した人々が真に「アブラハムの裔」としての選びに入ったことを表していたのである。

この「アブラハムの裔」を選び出す業はキリストの地上への現れによって予備的に始まってはいたが、イエスの血の犠牲が神の御前に受け入れられるに及んではじめてこの格別な『約束の聖霊』が注がれ始めている。

それゆえ、キリストは『わたしが去って行かなければ、助け手はけっして来ない』と弟子らに語り、ペテロは『この方(イエス)は神の右に高められ、約束の聖霊を父から受け、それを注ぎ出された』と民に宣告したのであり、ヨハネは、その以前には『霊は無かった』と書いている通り、それは旧約の『聖霊』とは異なる、よほど高い次元のものであった。(ヨハネ16:7/使徒2:33/ヨハネ7:39)
 
その霊を受ける者らは、この世のすべての人々を救う『王なる祭司、聖なる国民』、真実のイスラエルの最初の人々がこの五旬節に聖霊を以って生み出されたのである。つまり、イザヤの予告していた、石女サラの奇跡の出産のはじまりであった。それはいまや真実のアブラハムの裔『神のイスラエル』を生み出し始めたのである。(創世記22:18/出埃19:5-6/ペテロ第一2:9/イザヤ66:7-8)

エルサレムに現れた聖霊を持つ人々の集団は、普段から神殿に集い、境内東側のソロモンの柱廊とよばれる南北に400mほども続く長い建造物の下に集まるのを常としていたが、祭司長派の目を気にしてか、彼らにその場で加わる勇気を示したユダヤ人はいなかったものの、街頭では彼らを通して行われる徴や奇跡が知られるようになってゆき、イエスのときのように人々は病人を街路に並べ、ペテロがそこを通るときに、その影がかかるようにさえしようとしていたのであったが、やはり『ひとり残らず癒された』と、あのルカが記している。(使徒5:16)

これらの際立ったイエス派の活動に危機感を懐いた祭司長派らとサドカイ派は、使徒たちが神殿境内で民に講話しているところ職権で捕縛して牢に繋ぎ、この集団の勢いを抑え込もうと目論んだ。
だが、彼等が相手にしていたのは単なる人ではなく神の御力である。
夜中に天使が彼らを解放し、神殿で神の言葉を語り続けるようにと伝えるのであった。

そろそろこの辺りで、宗教領袖らも使徒らの業が人間のものでないことを悟っても良さそうだが、一度反対を始めて意固地になったのか、朝になって使徒らが鍵の掛かったままの牢にはおらず、普段のままに神殿で話していると聞いても彼らへの反対と脅す姿勢を変えようとはしない。

しかし、幾らかの変化が言葉に滲んでいるようにみえるのが
『あの者(イエス)の血を我々に負わせようとしている』という使徒らへの非難の言葉である。
つまり、早めに消し止めるべきボヤのようで見えた使徒らの活動は、彼らが思ったように易々と制圧できるものでないことを認めはじめたように読める。つまりは、「意外に手強い」と感じ始めたのであろう。しかし、宗教領袖らも、相手の後ろ盾が徒ならぬものであることを悟っても良さそうなものである。

しかし、使徒らの言葉は容赦なくそこを責めたてる。
『(神は)イスラエルを悔い改めさせて、これに罪の赦しを与えるために、そのイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に挙げられました。我らはこのことの証人ですし、聖なる霊もまた証人なのです。』

人が最も強く怒りを覚えるのは、的外れで不当な批難を浴びるときよりは、その批難が的確で正しいことを意識したときではなかろうか。もし不当な批判を為されているなら、真相が明らかにされることを待てばよいのだが、その批判がまったく正当である場合には、そこに釈明の逃げ道は塞がれており、心の余裕は微塵も無い。
殊に、宗教指導者のように相手を自分より下に見下しているなら、その怒りはどれほど激しいものになるだろう。

祭司長派がメシアを除き去ったことの咎を平民の使徒たちに暴かれ、奇跡をもたらしている「聖霊」までもがその悪行の証人であるとの言葉を聞いた者らには返す正義の言葉はまるで無い、そこで激怒の余りに使徒らに殺意を懐いた。
明らかに不義なる者が、明らかな正義に立ち向かう術は、指弾する相手を抹殺して黙らせる実力行使以外に無く、その殺意こそはまさしく彼らがイエスを除き去ることになったもので、これをユダヤの宗教領袖は繰り返そうとするところであった。

もし、ここで律法学者のガマリエルが彼らを制止しなかったなら、ここで最初の弟子の殉教が発生していたことであろう。
ガマリエルは、賢くも体制派が神の聖霊と衝突してしまう危険を察知したようである。
『この者らを放っておこう。・・・然も無いとあなたがたは神を敵に回すことになり兼ねない』。


◆信仰を惹き起こす 

もちろん、ガマリエルがイエスに信仰をもって帰依したわけでもない。しかし、彼は内心で、使徒らが異言や癒しなどの奇跡を行い、この度は鍵の掛かったままの牢から出たばかりか、相変わらずに神殿でイエスの福音を宣明する姿を冷静に観察し、「あるいはこの業が神の力から出ている可能性もある」と判断し、中間的な立場をとったのであろう。

この賢い人物も、イエスをメシアとして受け入れるようになったということはその後も遂になかったであろう。もし、そのようなことがあれば、その高い立場や影響力のゆえに使徒言行録などが記述しないことは考えられない。また、このような人物の帰依はユダヤ体制の趨勢さえ左右したのかも知れない。しかし実際には、その高貴な立場ゆえに、また大ヒレルの家系に属するミシュナー編纂の学者の長としても、平民中心のこの集団への参加が縁遠いものにされていたことは想像に難くない。

ユダヤ人の間では、使徒らの聖霊の業を目の当たりにしても、このように「中間的」な思いにあった「事情のある」人々も多かったのではあるまいか。
だが、それはイエスにも聖霊にも真に信仰を懐くには届かず、「アブラハムの裔」に数えられるには明らかに不足している。それはアブラハムという人物の示した信仰の如何が示す通りである。
 
こうして、キリストの約束した「聖霊」は使徒と弟子たちにとって確かに「助け手」の役割を十二分に果たした。
それは神の是認が律法体制からキリストの弟子らに移ったことの「印」という表面的な意思表示という程度のものではなく、それを超えてイエスが地上で行っていた『父の業』が継承され、いや、それ以上に聖霊が起こす奇跡によってイエスをメシアと信じて受け入れるユダヤ人を「新しい契約」へと招いていったのである。

この背景を考慮に入れつつヨハネ福音書の次の言葉を改めて読むなら、何が見えてくるだろうか。
『真に、わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、また、更に大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』(ヨハネ14:12)

この言葉のように、聖霊を得た弟子たちの活動は、やがて諸国に出て行き、ローマ士官コルネリウスをはじめとする無割礼の諸国の民にさえ信仰を振い興させることになっていった。それはイエスが地上のパレスティナで始めた業を世界へと推し進めるものであり、キリストの犠牲を以っていよいよ「聖なる民」、「アブラハムの裔」を集めるという完成に向かって邁進する活動であったのである。

即ち『わたしが行う業』とイエスが呼んだのは、『父の御業』であり、それは「聖霊」の力量なくして行い得るものではない。(ヨハネ10:37)
それゆえ、イエスは自ら行う業についてこのように言われた。
『子は父がしていることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない』
『もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてよい。 しかし、行っているのであれば、わたしは信じないとしても、その業は信じよ。』 (ヨハネ5:19/10:37-38)

イエスの行う『父の業』は、イエスが、父である全能の神と結びついていることを教え、その業は人々から信仰を惹き起こす働きを果たしていたのである。

行われた無数の癒しはイエスに従う群衆を造り出し、ゲネサレの湖での奇跡の豊漁はペテロをはじめ四人の使徒を追随させるものとなった。 あの気位の高いサンヘドリンの中からさえ、密かに信仰を持つ議員も現れて、人目を憚り、夜中にイエスの宿を訪ねさせ「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるような徴を、誰も行うことはできません」と言わしめている。

「わたしはあの方の衣の房縁に触れるだけで治る」と固く信じた、十二年もの長い間に表沙汰にしたくもない流血の疾患にあったあの女も、イエスの知らぬところで癒され、結果として『(アブラハムの)娘よ、あなたの信仰がよくならせたのだ。安心して行くがよい』との言葉を賜っている。その信仰はまさしくイエスをメシアとするものであった。

主イエスはその時に、ご自身から『力が出て行く』のには気付かれたが、それがどんな働きを為したのかは分からずに、『わたしに触れたのは誰か?』と許多の人々が御傍に迫っている中でも、そっとながら、格別な触れ方をした何者か非常に深いメシア信仰の持ち主を切に捜し求められる。その者はまさしく『アブラハムの裔』であるに相違ない。その女の信仰に応じて主から出て行った『力』とは、即ち御父からの聖霊である。それ以外の何とであると言えるだろうか。

イエスの奇跡の業によって、イエスがメシアであり、父である神が共にあることが示され、それは神の遣わしたキリストへの信仰へと人々を導いていたことは明らかなことである。
その一方で、こうした聖霊の業を見ても、それによって信仰を持たず、反発した者たちもまた存在した。
イエスの業を『悪霊たちの頭目ベエルゼブブ』に帰した宗教領袖らであった。

したがって、聖霊の業は人々の信仰を惹き起こすと同時に、不信仰を焙り出す働きもあったと言える。
だが、この不信仰は『聖霊に言い逆らう』ことになり、それは『許されることのない』罪に至る危険を孕むことである。
それで使徒ヨハネはこう述べる。
『神が御子についてなさった証し、これが神の証しである。 神の子を信じる者は、自分の内にこの証しを持っている。神を信じない者は神を偽り者とする。神が御子について証しせられたその証拠を、信じていないからである。』(ヨハネ第一5:9-10)

だが、『わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのだ』との言葉に表されるように、聖霊の力を認める者はイエスと共に「集める」のであり、それは聖霊に信仰を懐き、アブラハムの裔を導き出す業の一端に与ることになるのである。(マルコ9:40) 

このように「聖霊」の業と信仰とは不可分の関係にあり、第一に聖なる民を集め、次いでその民の言葉に信仰を持つ者たちをも導き出すことになるであろう。これは終末の世の裁きに敷衍されるものでもある。


◆真理を明かす聖霊

そしてこの「聖霊」が弟子らにもたらした益には、真理への啓示もあった。イエスはその働きをこう述べていた。
『そのもの、つまり真理の霊が来ると、あなたがたに真理をあまねく手引きする。そのものは、自らによって語るのではなく、聞き受けたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに伝えるからである。』(ヨハネ16:13)

この点で、使徒パウロは特筆に値する人物となった。
律法体制のユダヤ教が尾を引くイエス派の中にあって、彼ほどキリスト教の向かうべき方向を、生涯にわたり確固として指し示し続けた者がほかに居たろうか。

キリストが捧げた唯一度の犠牲が神殿祭司による供儀の一切を終了させ、律法はキリストに導く養育係であったゆえに、キリストは律法の終わりであると大胆に発言し、その通りに教え振る舞った彼の信念はまったく揺るぎないものであった。
この強固な信条は彼の発案したものに過ぎないのであれば、その信条がキリスト教をあれほどユダヤ教から脱皮させ、見事なまでの次元上昇を成し遂げさせただろうか。

「アブラハムの裔」が異邦人からも採られることの「奥義」は、ユダヤ人からすれば、あれほど律法で諸国民には無い聖さを求められてきていたのであるから承服し難い内容であったことであろう。だが、彼らに宿ってきた伝統に基づく律法主義の想いを乗り越えさせたのもまた聖霊の圧倒的な証し有ってのことである。

エルサレム会議を仕切ったヤコブは最後に議決を通知する中で、『聖霊とわたしたちは以下に書く他には何も重荷を加えないことを良しとした』と記させたが、ペテロやパウロたちに働く聖霊に敬意を払い、諸国民にも降る聖霊を自分たちに勝る権威として頑なユダヤ教を抑え込んだと言えよう。
そしてそれは少なくともヤコブをはじめとするユダヤの人々にも納得させる証拠となったのだ。
これはたいへんな指導力というべきであろう。


聖霊の教えは、これに加えて聖霊を持つ者らに「奥義」を啓示することも含まれていた。
これは地上にいたイエスからその講話を聞いた人々とは大いに異なっている。
イエスはその公生涯の間に民衆に話すときには例えを用いて語ったので、身近な弟子らを除いて、それらの話の意味を悟ることはできなかったことを福音書が伝えている。

その理由はといえば、『あなたがたには、天の王国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。』というものであった。
しかし、聖霊を受ける弟子たちには、その聖霊が真理の全体にあまねく案内をし、彼らはそれを深く知ることが許された。

この「奥義」(ミュステーリオン)は「隠されたもの」の意があり、これは神の企図する事柄、また「神の王国」に関わるものであるが、エデンの園で始まり、その後の時の経過と共に次第に明らかにされ、その概要が漸進的に姿を現してきたもの、「神の経綸」とも言うべきものである。

イエスの地上での宣教では、その講話を聞く者の大半がその益を得損なっていた。
なぜなら、メシアは講話のほとんどを例え話として語り、その意味を身近な僅かな弟子たちだけに示したからである。その差別の理由をイエスはイザヤの預言を引用してこのように指摘する。
『この民の心は鈍くなり、その耳は聞え辛く、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためである』

イエスの周辺に集まった群衆の大半には欠けているものがあった。
群衆は使徒たちのようではなかった。つまり、難病を癒し、死人さえ生き返らせる預言者のようには広く知れ渡り、また敬ってイエスに付き従いさえしたが、この人々にはその表面的なところから更に踏み込もうとするところがなかった。それは例えの意味を知ろうとして更に一歩踏み出さなかったところに表れている。
それは族長イスラエルの兄エサウが示したような神に対する鈍感さであったことであろう。


つまり、エデンに発し、アブラハム、モーセ、ダヴィデと世々に亘って示されてきた神の意図また経綸の行方であるところの「神の王国」に対する意識の欠如という問題をイエスの周囲の群衆は抱えていたのである。
あるときには『これこそ来ることが定まっていた預言者だ』と言ってはイエスを王にしようともしているのだが、それは古来預言者に伝えられてきた神の意志とは異なり、世俗的で愛国的な自分たちの思い描く王にしようとの思惑であり、イエス自身はそうしようと押し迫る群衆を避けている。

イエスが明かしたように大半のユダヤ人には『天の王国の奥義を知ることが・・彼らには許されていない。』それは、彼らをして『悔い改めて癒されることがない』という厳しさがある。この「癒し」とは肉体の癒しを意味しないであろう。

即ちそれは、ペテロがあの五旬節の日に『自分の罪を拭い去って頂くために、悔い改めて本心に立ち帰りなさい。主のみ前から回復(また「慰め」アナプシュクシス)の時がきて、あなたがたのために予め定められたキリスト・イエスを、神が遣わして下さるためである。』と述べたようなより本質的な「回復」であったことであろう。(使徒3:19-20)
その「癒し」には、ユダヤ人が父祖から負ってきた律法契約不履行の呪いと罪科に対する悔い改めを必要としたに違いない。(ガラテア3:10)

そのようにイエスの教えである「奥義」の理解や益は誰にでも与えられるものではなかった。
そこでマタイは、イエスが何事も例えで語ろうとした背景について詩篇78編2節を引用し、『わたしは口を開いて例えを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』と記したことには、この秘密の保持者としてのメシアと、これに耳を傾ける者にだけ与えられる「奥義」の存在を示していたと言える。

しかし、最後の晩餐の夜からイエスは使徒たちに比喩を使わずに話し始めた。
『わたしはもはやあなたがたに比喩で話さず、父についてはっきりと語る時が来る』というイエスに対し、使徒らは『今、はっきりとお話下さり、すこしも比喩を用いられていません。』と反応した。
この晩に使徒タダイもこう発言した。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとなさり、世に対しては現わそうとなさいませんが、これは何事なのでしょうか。』(ヨハネ14:22)

これは、まず使徒たちへ、そして彼らを介して信仰抱く者らへの「奥義」を知らせる許可が下りたことを知らせるものであったろう。
キリストは既に犠牲となるべく祭壇に向かって歩を進めているに等しく、この時点で、天の父は御子の忠節の歩みに何の疑念も持たれなかったに違いない。
使徒らも既に史上最初の「主の晩餐」に与っており、その忠節な歩みについても神は御子の犠牲を既に捧げられたものとして、この晩から彼らの「義」を信用されたのであろう。⇒「主の晩餐で忘れられてきた二つの意義」 

こうして、御子の犠牲により、イスラエルの中から「義なる者」が現れることが明らかとなり、彼らには『天地創造の時』また『世の基礎が置かれた時』以来『隠されてきた』奥義を知るに至る道が開かれた。

そしてイエスはこのことにおいても聖霊の果たす役割を知らせ、『それは真理の霊であり』『真理の霊が来ると、あなたがたに真理をあまねく手引きする』『助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わしてくださる聖霊は、あなたがたに全てのことを教え、またわたしが話しておいたことを、尽く思い起させるであろう。』と最後の晩餐の席で彼らに知らせたのであった。


◆使徒時代に働いた聖霊
 
さて、五旬節では、聖霊を注がれた弟子たちに与えられた最初の賜物は「異言」(グロソラリア)と呼ばれる習得したこともない言語で『神の壮大なこと』(これはおそらくは、神の目的またその経綸に関する事柄であったのであろう)を語る能力であった。
これは五旬節の祭りに集っていたユダヤ教徒たちへの「徴」となり、その奇跡を見聞きして多くの者たちがペテロの宣明するイエスをメシアとして受け入れた。

それから、使徒たちを通して強力な癒しが行われ、これらはガマリエルⅠ世も無視できないものにし、憤激するサンヘドリンに自制を促すほどであったことは前述の通りである。

そして、「約束の聖霊」はそのほかに、異言を翻訳する能力、個人の秘密や近い将来に起こることを知らせる預言などの賜物も弟子たちに与えていった。
それだけでなく「知恵」や「知識」と呼ばれる賜物もあり、この点では五旬節から然程経っていない時期に殉教したステファノスについて使徒言行録は特筆している。

エルサレムではイエス派はおそらく万の数に達しており、ユダヤ教徒の間では無視し難いものとなっていたであろう。
そこで、解放奴隷の会堂というおそらくはギリシア語を話すユダヤ教のグループが、ヘレニストであるイエス派のステファノスと論議を交わした。
だが、『知恵と霊によって語る』ステファノスに、そのグループは反駁することにおいてまるで『歯が立たなかった』と記されている。
人が最も「実力行使」に及び易いのは、やはりこのように論理を失った状況なのであろう。

そこでこれらの反対者は、ステファノスを亡き者とすることで、その知恵の言葉も諸共に除き去ることを謀り、彼をサンヘドリンに引き出すが、そこでステファノスは弁明を行い、その最後の部分で命を掛けてユダヤ教徒を『いつも聖霊に逆らってきた』と糾弾したものであるから、宗教領袖らの理性を欠いた怒りはまさに堰を切らんばかりとなり、加えてステファノスに『見よ!天が開けて人の子が神の右に立っているのが見える』とまで言われるに及んで、彼らはその霊的な言葉を聞くまいと両耳に手を当てて突進し、ステファノスは石打に遭って最初の殉教者として記録されるに至ったのであった。

この弁明の後から、ユダヤ教徒のイエス派に対する態度はまったく強硬なものとなった。
その後、執拗に繰り返されるユダヤ人の嫉妬を込めた迫害の始まりである。
しかし、これによって聖霊の働きは新たな段階を迎えることになった。

つまり、イエスへの信仰を携えた者たちが迫害を避けて各地に散って行き、五旬節以降の集団生活がここに終わりを迎えると同時に、イエスの教えはエルサレムから各地へと広がり始めたのである。
こうしてみると、五旬節以降のエルサレムでの共同生活は、イエス派揺籃のゆりかごであったのであろう。

だが、聖霊の働きはその後も絶えることがなかった。むしろ、それは新たな展開を迎える。散らされた弟子たちと共に聖霊の賜物も拡げられていったからである。
福音宣明者のフィリッポスの活躍が使徒言行録に採録されているが、彼の伝道はまさに聖霊との二人三脚のようであった。福音を携えて向かう方向を指示され、それを果たすと聖霊は彼を取り去り、肉の脚に拠らずに移動までさせている。

フィリッポスの宣教によってサマリアが信仰を持つようになり、ペテロが訪れるとサマリア人からも聖霊を受ける弟子が現れた。これはヘレニストのユダヤ人にとってはまだしも、純粋なヘブライストから見れば相当な衝撃であったことであろう。⇒ 似て非なるサマリアへのキリストの想い

これは「アブラハムの裔」に含まれるのが純然たるユダヤ人ばかりでないことを知らせる先駆けとなった。つまり、イエスがペテロに与えた「王国の鍵」の使用であり、神の「祭司の王国、聖なる国民」にサマリア人も加わってきたのである。

そしてペテロはその鍵を用いて「神の王国」を無割礼のまったくの異邦人に対して開く時を迎えることになる。
それが、カエサレアに居たローマ士官コルネリウスとその一党へのペテロの派遣の挿話である。
この人々への聖霊の降下は、ユダヤ人にとってまことに信じ難いことであったので、エルサレムではこの件でペテロを譴責する者も出た。

だが、ペテロにしても、イエスをメシアとして受け入れ、既に聖霊が降っている異邦人を認めないことが出来ただろうか。まして、あのヨッパでの幻を見ていながら、その明示されたイエスの意向に反することなど到底無理である。(使徒11:17)

こうしてユダヤ人からディアスポラの民へ、更にサマリア人も含んで諸国民へと聖霊は世界に向かって広がっていったが、これはイエスの指導に属するものであったことを使徒たちはやがて思い出していったことであろう。(使徒1:8)

例えれば、使徒ヨハネが最晩年に記した福音書の中には「羊の囲い」の例えがある。
その中の『この囲い(律法契約)にいない羊もわたしは連れて来なければならない』と語っていたイエスの真意をヨハネは悟っていたに違いない。(ヨハネ10:16)

ヨハネがこれを記す40年以上も前に、使徒パウロはイスラエルの血統に異邦人が『接木』されることを明らかにしており、それがユダヤ人の無感覚な不信仰の結果であることも暴露していたのである。
つまり、ユダヤ体制は遂にイエスを受け容れず、聖霊の奇跡を見てさえ信仰を働かせることなく、パリサイ派のユダヤ教の殻に閉じこもる道を選び取ったのであり、それは今日に及んでいる次第である。

他方、パウロに臨んだ聖霊の強力さは相当なものであったことを、ルカはその使徒言行録のエフェソスの場面で医師の目を通しても『尋常ならざるものであった』と記している。(使徒19:11)

したがって、パウロが『わたしの言葉もわたしの宣教も、巧妙な知恵の言葉によらず、霊と力の証明によるものであった』と述べたとき、人々はそこで大いに納得ができたに違いない。即ち、初期キリスト教とは「教理の宗教」ではなく「聖霊の宗教」であったと言ってよいであろう。それは人間の言葉や思惑を遥かに超える神の証しであって、上からのものである。(コリント第一2:4)

それでも、パウロの並外れた真理の知識は、イエスが世に対して例えを以って隠した「奥義」に関するものであり、パウロはその奥義が『それは今、天上にあるもろもろの支配や権威も、エクレシアを通して、神の多種多様な知恵を知るに至るようになった』と記した時、神の目的に関わる様々な知識が天上ではなく、聖霊が臨んでいる地上のエクレシアから知らされていることを述べていたのであり、こうした知識についてはペテロが『それを御使たちも、窺い見たいと願っている事である。』と記しているのである(エフェソス3:10/ペテロ第一1:20)

天地に知らされるほどの神の知恵を地上のエクレシアの人々を介して知らせたのは間違いなく聖霊ということができる。
それは世が受けることができないだけでなく、天使であってもその知恵をエクレシアから得るほどであるというのである。

では、天使に勝るほどの立場を聖霊を通してエクレシアの人々に得させたものはなんであろうか。

これを考慮するに当たり、まず思い浮かぶのは、ここで言う『聖霊』というものが、格別のものであることを念頭に置く必要がある。

つまり、聖霊は聖書中で天地創造のときから存在していたものであり、霊といえば人の鼻孔に吹き込まれて以来、我々の身体を生きたものにするべく働いているであろう。(創世記1:2/2:7/ヨブ34:14-15/伝道12:7)

新約聖書の記述の初めの方にも、後の弟子たちに与えられる格別な『約束の聖霊』とは異なる「聖霊」も働いていた姿を見かける。
それらは神の力ではあるが、他方で『約束の聖霊』とは、イエスを介して人に注がれた神の力であり、それを人が管制できるようになったのである。それこそは、聖霊を受けた者らが、イエスと同じく『神の子』であり、犠牲の適用を受けて『罪』を赦されたからにほかならない。それゆえ、彼らだけは『アッバ』と神に呼びかけることができるようになったのである。(ルカ2:25/ローマ8:15)

したがって、使徒や弟子らが受けた聖霊、つまり最後の晩餐の席で約束された霊は、主イエスの受ける栄光、つまり御子を『数々の苦しみを通して完全な者とされ』神の右に座すことに関わっていることが知らされており、それは『わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け手は来ないであろう。もし行けば、それをあなたがたに遣わそう。』とのイエス自身の言葉とも合致する。(ヘブライ2:10/ヨハネ16:7)

またパウロは『もし彼(イエス)が地上に居るとすれば、祭司にはならない。なぜなら、律法の務めによって犠牲が(当時神殿で)捧げられているからだ。』と書いている。(ヘブル8:4)
そうであれば、イエスが大祭司となって祭司たちの贖罪を始めたのは、明らかに地上を去って後のことであるに違いない。 

そして加えて考慮の対象となるものが、パウロの次の発言に要約される。
『あなたがたもまた、キリストにあって真理の言葉、すなわち、あなたがたの救い福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国を受け継ぐことの約束手形であり、やがて神に結びつく者が全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至るためである。』(エフェソス1:13-14)

彼らこそイザヤが『わたしの賛美を語らせるためにわたしが形造った民』と預言した真実のイスラエル、『YHWHの証人』である。(イザヤ43:24)

このように『約束された聖霊』を注がれた弟子らは、それ以前のどんな時代にも存在したこともない格別の立場を得たことを聖書は知らせるのである。
したがって、「神」、「子」に続く地位にあるのは、地に由来するどんな人間の教祖でも宗派でも組織でもない。それは『聖霊』そのものでもなく、イエスに与えられた者ら、『新しい契約』に属する『聖なる者』ということができる。

なぜ『聖霊』が第三の地位を占めないか?
そのものは「神の威力」であって、人格を持たないからである。それは存在ではあっても存在者ではない。
信仰するべき対象としての『聖霊』とは、それが働くときに、人がそこに神の証しを見るからである。 

一方で、聖霊の注がれる『聖なる者』について、パウロはこう教えている。
『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである』(ローマ8:33)
この『選ばれた者』とは聖霊を受けた者のことを言うのだろうか。

『聖なる者』についての義なる立場を考慮しつつ主イエスの次の言葉を聞くときに、納得できるものがある。
『おおよそ女から生まれた者で、ヨハネ(バプテスト)より偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。』 (ルカ7:28)
なぜなら、『聖なる者』は『水と霊から新たに生まれ』『新たな創造物』となるからである。(ヨハネ3:5/コリント第二5:17) 

そこで使徒ペテロの手紙の冒頭のあいさつも意味も持ってくる。
『イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところに従って選ばれ、御霊の浄めに預かっている人たちへ。』(ペテロ第一1:2)

以上の新約聖書中の情報を総合するときに何が言えるだろうか。
即ち、キリストが自らの血の犠牲を携えて神の右の位に就く以前には「約束の聖霊」は存在していなかったのであり、イエスが天に去ることによって、その犠牲は神の御前に受け入れられ、その結果として選ばれた者たちに格別な聖霊が注ぎ出され、それはイエスが地上で行っていた『父の業』を弟子らにも可能ならしめたということである。

その選ばれた者たちの天使に勝る立場は、まず「義」を必要とする。
何故なら、神の前に「罪人」には死が求められるからである。従って、天界に生きて存在し、イエスを見ることが出来るのは『義』を得たものでなくてはならない。
 
では、選ばれた者らの「義」はどこからきたかと言えば、ペテロも言うようにキリストの『血の注ぎを受ける』以外に無く、それゆえにもヨハネはキリストの天に去る以前には『霊は無かった』と書いたのである。

ならば、その者たちは既にキリストの血によって贖罪されたのだろうか。
然り。それゆえパウロは天の大祭司キリストを語ったのであり、ヨム・キプルの日の贖罪の手順のように、大祭司はまず祭司たちの贖罪を民よりも先に行ったという模式をパウロは指摘する。

また、『神聖にしている者』イエス、そして『神聖にされている者』である選ばれた弟子らが存在するのであり、これをもたらしたのが真の『祭司の王国、聖なる祭司』を生み出した『新しい契約』に他ならない。それは『より優った血の降り振り注ぎ』によりあの五旬節を以って効力をもったのである。(ヘブル2:11)



◆今日聖霊は在るのか
 
このように聖霊の観点から俯瞰して観ると、正しくイエスを信ずる者たちと聖霊の関わりが非常に密接で、最後の晩餐の席でのイエスの言葉が予告したように、それは『助け手』であり、真理をあまねく知らせ、師の語ったことを思い起こさせ、奇跡によって人々の信仰を呼び起こし、宣教を様々に導いて、更に聖霊を受ける者を招いた姿を確認するのである。

だが今日、このように聖霊という神の御力と密接な関係を持つ人々が存在しないのは何故か?
最後にこれを考えることにしよう。 

宗派によっては、「聖霊の賜物はキリスト教の揺籃期を助ける目的を果たすと廃された」とパウロの言葉を挙げて納得し、専ら人間による肉の業を強調しつつ、その一方で、聖霊は今も自分たちの上に働いていると言っては、多くの「クリスチャン」が不明瞭な思い込みを上記のような聖霊と同一視しようとしているかのようである。
 

或いは、今も異言の賜物を行って見せる宗派も存在してはいる。
では、その人々に働く聖霊は初期の弟子たちのような特徴を備えているかといえば、どうやら、異言という奇跡と思える憑依状態に個人のエクスタシーを得るところがその目的となっており、聖霊の賜物を各人が制御でき、新な教えの領域へと導かれた初期の弟子たちとは様相を異にする。

加えて、パウロが何度も指摘したように、聖霊の賜物が存在するという不思議を喜んでいるだけでは進歩なく、意味を理解し学ぶところが無ければ聖霊の益に与っているとは言い難い。それでは『真理をあまねく案内する』聖霊の役割が欠けており、神に関わる天的な知識なく『奥義』からは隔たって、例えばかりを聴いていたところの、イエスを囲んだ群衆と変わるところがないであろう。

このように『聖霊』は今日まったく誤解されている。
その原因は何であろうか。
それは、初期の弟子たちの後に、それが地上から消失したため、それがどんなものかを見ることも接する機会も千八百年近くも絶えて無くなったからではないのだろうか。

マタイの福音の最後にあるように、確かにイエスは『世の終末までいつの日もあなたがたと共に居る』と発言したのであろう。
だが、その『あなたがた』というのは誰なのだろうか。

これが「約束の聖霊」に預かる「新しい契約」に参与する者に向けて語ったのであれば、「聖霊」が存在して初めて『あなたがた』もそこに居るに違いない。
だが、「聖霊」が今日、地上に無いとなれば、どこにイエスの呼び掛けた『あなたがた』が居るのだろうか。

あるいはもし、使徒の時代から連綿と「約束の聖霊」の持ち主が現れて来たとするなら、『その業』をずっと見ていないのは何故だろう。

この点で、パウロが「異言も、預言も廃される」と言ったとコリント第一を持ち出すことは、単に言質を取ったような都合の良い思い込みに過ぎない。
何故なら、コリント第一13章で、パウロは何時廃されるかを述べているのではなく、アガペーの永続性を強調しているのであり、確かに「聖霊の賜物」が天に召された後の弟子らに必要がないことは明白である。

加えてパウロは、別の箇所で『異言は不信者のための(しるし)』と書いているからには、それが地上の人々に信仰を惹起させる役割を担っていたことは明らかな事ではないか。(コリント第一13:8/14:22)

いずれにせよ、これらの論議にまったく終止符を打つものがある。
それが聖書に予告された終末の聖霊の姿なのである。
それを人々が眼前にするとき、もはやこの点で何の疑問も残らず、只々神の威力に圧倒されることであろう。

そればかりか、聖霊は真理を教えるので、今日許多の宗派に分裂し、それぞれが人間の思惑を教えるキリスト教の全体が浄化され、初期のように真実にひとつのキリスト教が現れるに違いない。そこで『聖霊の声を聴く』ことをせず、人間由来の宗派の正義に拘るなら、黙示録の記すように、そこに暗闇が漂うことであろうし、『悪霊の住処』とも成り果てることであろう。



◆三者の名によるバプテスマ

さて、ここで初めに取り上げたマタイ福音書末尾の言葉
『それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ』

これを改めて見直すと、神、子、聖霊の共通項が見えてくる。
即ち、三つが揃ってこそ、キリストの去って後、また終末において必要不可欠な「信仰の対象」であるということになる。この一つも欠けてはならないのであり、バプテスマを受ける者は、これらに信仰を持っているべきであるに違いない。

これが三位一体を証ししているなどと云うのではない。
三位一体説という文言も概念も、聖書に存在しないばかりか、キリスト教の優れたところを投げ捨て、密教の教えるアバター(化身)の混沌に置き換えてしまい、最初から聖なる書の理解することを投げ捨てる暴挙にしかなるまい。

パウロは、モーセに率いられたイスラエルは紅海において『雲と海によってモーセへのバプテスマを受けた』としている。この民はこの大きな奇跡を経験することを通して『YHWHとモーセに信仰を懐くようになった』と出エジプト記は述べている。(出埃14:29)

一方で、終末においては、聖霊を受ける弟子には、為政者の前に引き出されたときに論駁の余地の無い言葉を語らせ、それは彼らと諸国民への証しとなるとも福音書が述べている。

マタイにはこう記されている
『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと諸国民とに対して証しをするためである。』 (マタイ10:18)
この『あなたがた』とは、この福音書末尾の『あなたがた』と同じく、十二使徒に語られている。
 
では、その『あなたがた』が ステファノスのように聖霊で『反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを』際立った仕方で為政者と民衆とに語った様子を聖書中に見るだろうか。あるいは歴史上の誰かにその実例を見出すことができるだろうか。ルカはそれを終末の預言の中で主イエスの言葉として記してはいないだろうか。(ルカ21:15)

もし、そのように為政者と対峙する奇跡の発言をする者の例を挙げることができないのであれば、このイエスの言葉がその身の上に成就する『あなたがた』とはいったい誰を指すことになるのか。
むしろ、この『あなたがた』とは終末に聖霊を受けるであろう『聖なる者たち』に敷衍されているのではないか。 

臨在のイエスは『天に昇って行った様で』『雲と共にあって来られ』『世はもはや彼を見ない』以上、地上で信仰を惹き起こす要素が『聖霊』であるという以外ないではないか。

筆者の視点から云うならば、筆者のように悟ることに鈍く遅い者も含めて誰であっても、これは聖書に幾らか通じてさえいれば、もうそこに見えていることではないかと思えるところなのであるが、読者諸氏はどう思われるのだろうか。

実際の歴史でこのような「聖霊」理解は存在しなかったのだろうか。或いは、キリスト教世界の闇が深くて、これほど明瞭なことさえ今まで気付かなかったということなのだろうか。ならば、その闇は余りにも酷い。

しかし、我々は幾らか聖書を見直すことでも「聖霊」の意義の大きさを窺い知ることが確かにでき、キリストが世を去るに当たって、なぜ使徒らに『神と子と聖霊の名においてバプテスマを施す』よう命じたかの意味をも推し測ることができるであろう。

真実に神を崇拝し信仰しようとするなら、キリストがイエスであることを信仰する必要があり、その御子が天で神の右に座した後は、聖霊の業に神の証しを見出すことで、人々はキリストにも神にも信仰を働かせることができる。

つまり、キリストが天に去って後は、この三者に対する信仰が揃わずしては、真に帰依したことにはならないであろう。 

バプテストが荒野に現れ『悔い改めのバプテスマ』 をイスラエルに授けたように、神と子と聖霊の名によるバプテスマは、その名の三者に関わるはずであり、それらに対して心が整えられていなくてはならない。
だが、キリスト教界では特に聖霊を誤解している以上、このバプテスマを施していることにはなるまい。まして三位一体を教えていれば、まるで盲目の闇に居るというべきであろう。 

そして「聖霊」に信仰を働かせる終末の無数の人々にバプテスマを施すのが、使徒らによって表された聖霊を受ける『聖なる者たち』の本来の務めなのであろう。それは終末においていよいよ重要なものとなるに違いない。即ちマタイに記された如く『神と子と聖霊の名においてバプテスマを施す』という使命である。 

それゆえイエスは最後の晩餐の後の祈りの中で、使徒らについて祈り
『これらの者たちばかりでなく、彼等の言葉を聴いてわたしに信仰を持つ者たちについても求めます。』 として、聖霊ある者たちとそれを信じる者たちをひとつに結びつけるようにと願い出てもいるのであろう。(ヨハネ17:20-21)

キリストが臨在するときに、聖霊を持つ「キリストの兄弟ら」に親切を示して支持を表す多くの人々について、イエスは、その両者が結ばれることを祈り求めたのである。(マタイ25:31-40) 
即ち、聖霊を受ける『聖徒』とそれを信じることになる『信徒』の結びつきであり、これは「対型的シオン」であるエクレシアにおいて実現するのであろう。 

あの五旬節の「約束の聖霊」が降下した日に、使徒ペテロはそれがヨエルの預言の成就であると宣したが、その預言は『その日、わたしは下僕にも、下女にも、わたしの霊を注ぐ。
わたしは天と地に、不思議な徴を現す。即ち血と火と煙の柱である。
YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇となり、月は血に変わるであろう』 と言っている。
これが終末に更なる成就を見ないと言えるだろうか。(ヨエル2:28-)

そしてイザヤも言う。
『わが僕ヤコブよ、わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。
わたしは、乾いた地に水を注ぎ、干からびた地に流れを尽くし出し、我が霊をあなたの子らに注ぎ、我が恵みをあなたの末孫に与えるからである。』 (44:2-)

黙示録を見よ!『二人の証人』に『天を閉じて雨を降らせず、水を操り血に変え、何度でも地を打つ』権限を与えると予告している。彼らにはモーセとアロン、エリヤとエリシャ、ゼルバベルとエシュアの二人組が包摂されている。

即ち三重の権威ともいえるが、単にエジプト、またバアル崇拝者、モアブやサマリアに対して神がこれらのことを行われたのであれば、終末に際してこの世のすべてに対する徴がそれに数倍するとしても何の不思議があるだろうか。 そのときに「聖霊の賜物は廃された」などと的外れな事を云うべきだろうか。(ミカ7:15)


では『神と子と』並び称される『聖霊』とは何であると言えるだろうか?
それはキリストの犠牲が捧げられて初めて地に下賜されたものであり、その人々に奇跡の賜物をもたらし、奥義の知識を与え、『アブラハムの裔』を集めるというキリストの業を続行させるものであった。

聖霊を注がれた人々は、『新しい契約』に招じ入れられ、肉の状態でありながら仮の贖罪を受けて『神の子』と見做され、『キリストと共なる相続人』、『キリストの兄弟』と認められた状態に入った。

彼らには地上で試みがあり、殊に終末においては、『王や高官の前に引き出され』『誰も論駁のできない』聖霊の言葉を語らせるものとなる。
聖霊の言葉はこの世を断罪し、人々をキリストの前に『右と左に分ける』裁きに関わるものとなる。

聖霊の言葉を語る彼らその試みを経て後に『王また祭司』として天に召され、キリストと共に『神の王国』を構成することになる。そうしてエデン以来の『神の奥義』は終了するのである。
聖霊は『この相続財産を受ける約束手形』であり、 神の経綸の全体を推し進めるうえで必要不可欠なものである。

さて、終末に於いて人に求められるのは、神と子への信仰に加え、これほどの働きを為す聖霊の働きへの信仰が必須であるに違いなく、それは聖霊を注がれる『聖なる者ら』を見分け、彼らにも信仰を持って支持を表すことである。 

それであるから、これら聖霊に関わる事柄は単なる教理の知識に終わるものではない。まして好奇心の対象となるだけなら、その後果はそれに准じるものになろう。それは神の威力の顕現であり、『畏怖すべきもの』である。
 
殊に『聖霊への冒涜』が如何に重い罪であるかは、聖書を知る者らの共通の理解であり、誰にせよ、聖霊の件は聖書から精密に辿り出すべきものであり、ご利益や思い込みなどを以って軽々に扱うことは厳に慎むべきことであることはまず間違いはない。

そこにはキリストの血の犠牲、また神の御前での義のような、罪深い我々人間に由来せず、また誰であろうとけっして支払うことのできない程に高価な贖罪が関わっているからである。

それであるから、初期キリスト教徒に聖霊が注がれて以来、今日まで聖霊を受けた人を見ない理由は、この貴重さによっても明解に説明ができる。
即ち、「終末」でもなく、人間の裁きに関わらない「他の時代」について、神は「無駄な事」をなさらないのである。

その時が来たなら、聖霊は自動的に誰にでも下賜されるものとは到底思えない、やはり、聖霊は願い求めるもので『求め続け、敲き続ける』ところに与えられるとキリストが言われる。

いよいよ聖霊の降下がキリストの臨在の開始を示し、終末と裁きはわずか数年の内に成し遂げられることを聖書は告げている。

だが、現在のところ、誰が聖なる霊を願い求めているだろうか?
キリスト教界は一向に、聖霊を持っていると思い込み、満足しているのであるから、そこに聖霊の下賜はあるまい。




              © 林 義平
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「聖霊の賜物」 パルーシアの標識



「聖霊」がどのようなものであるかをイメージすることは我ら日本人には少々難しいことである。
まず、「霊」という漢字の意味からすれば「英霊」や「怨霊」など、死んだ人間の肉体から離れる精神的部分、またはその作用のように見做されるだろう。

日本人にとって「霊魂」という言葉のほうが「聖霊」よりは余程理解し易い。
そもそも、訳すに際してヘブライ語やギリシア語から様々な言語、また漢字などに相当する語を捜し当てて翻訳しているのであるから、それぞれの訳語が本来持っている原語の「霊」との意味の違いが生じて、幾らか「衝突」が起こっているのを覚悟の上で「聖霊」という言葉に当たらねばならない。

さて、聖書でいうところの「聖霊」は、神の聖なる霊であり、日本語で「霊魂」というときの概念とは相当に異なるものである。
聖書中、ヘブライ語では「ルーアハ」*1、ギリシア語では「プネウマ」*1という単語に漢字の「霊」が当てられてはいるが、これらの本来の意味を幾らか思い描いておくことで理解の準備をせねばならない。

それらは人間の精神というよりは、人間の外から影響を及ぼすものであり、元来ヘブライの教えでは、死んだ人間を装う「霊」の存在者「悪霊」はあっても、死者の「霊」という概念は皆無である。つまり、「亡霊」という発想はなく、それは人間ではない異様な存在者が見せている偽の幻視ということになる。⇒誤解されてきたバベルの塔

さて「神の霊」については、創世記をみると、天地創造の地球の原初には、形ない水の表を神の霊が行き巡っており、創造にも関わったことは明らかである。また、アダムの鼻孔に吹き入れられ、彼を『生きたもの(魂)』にしたのがやはり「ルーアハ」(霊)であり、それが我々人間に息吹を与えて身体を生かしている一要素であるようだ。

そのほか、預言者たちに語る内容を伝える霊感をもたらし、幻や夢を与えて人を導き、また人の行いを譴責する、そうして神の意思を伝達するそれらも「霊」の働きであり、かつて伝えられた神の意思の多くが聖書に納められている。

新約で『聖霊』は、イエスを通して驚嘆すべき数々の奇跡を行い、イエスはそれを『父の業』また『神の指』とも呼んだ。その後、大風のような音と共に120人ほどの弟子たちは天からの「聖なる霊」(プネウマトゥス ハギオー)で満たされたのであった。(使徒2:2-4)
共に、「風」のような実体のはっきりしないものであるがゆえにもそれは「霊」なのであろう。(ヨハネ3章)

それは、ときに鳩の形や火の舌のような形を以って可視化されることもあったが、多くの場合に聖霊そのものは不可視で、キリストに奇跡の業を行わせて神のキリストであることを証しし、弟子を導いたり、声を聞かせたりもする。(使徒2:43/18:10)
ペテロは自分が尋ねるべき異邦人を示され、迫害者のパウロは回心させられ、また使徒に召されて宣教旅行において進むべき方向を教えられたが、ルカはそれを「イエスの霊」とも呼んでいる。(使徒16:7)

イエスの弟ヤコブはエルサレム会議の議事を通達する手紙において『聖霊と我々は・・』と書いて、聖霊の働きが議決に影響したことを明らかにしている。(使徒15:28)


-◆イエス後の『聖霊の賜物』の特殊性------

こうして様々な仕方で働いた聖霊であるが、イエス後の聖霊の働きには一定の型があるようだ。

例えれば、バプテストのヨハネは、イエスが聖霊でバプテスマを施すことを予告していたのだが、イエスは、その公生涯の終わりに、弟子たちには「助け手」(パラクレートス)が与えられると予告していた。それは『真理の霊』であり、『世が決して受けることのできないものである』とも言われた。(ヨハネ14:17)

そして、イエスが帰天して十日後の五旬節の日に、その『約束の聖霊』が神から初めて下賜されたのであった。これが一般に「聖霊の賜物」と称される外国語を話すという特殊な『聖霊』の働きである。(使徒2:33)

これについては、イエスは以前から度々に弟子らが特別な聖霊を受けることを語り、実際、幾らかの奇跡を行うことが徐々に弟子らにも可能となっていた。しかし、これが明確な形をとるのはイエスの死後50日目の五旬節(シャブオート)の日以降のことである。その後の使徒たちは、周囲を恐れさせるほどの奇跡の業を行うようになり、イエスのように病を癒し、死者をも蘇生させるのであった。(使徒9:40/20:9-12)

なぜ、「聖霊の賜物」という恩賜の始まりがイエスの帰天後であるかといえば、それは彼がキリストとして自らの犠牲を捧げ、神に受け入れられてから、その犠牲の最初の適用を与えたのが、地上に残った弟子たちからとなる理由によるのである。やはりキリストはこう語っている。『もし、わたしが去って行かなければ助け手は来ない』(ヨハネ16:7)

その霊は自動的に与えられるものではなく、旧約の時代に働いていた聖霊とも異なるものであるから、ヨハネは福音書の中でイエスの死、つまりその栄光を受ける以前について『彼らが受けるはずの霊はまだ無かった』と書いている。(ヨハネ7:39)

そこでキリストの犠牲のゆえに、パウロは再三に聖霊を受ける『聖なる者ら』について『罪』が許されていることを知らせているのであり、それゆえペテロも口を揃えて、彼らに聖なる行状が求められることを諭したのである。(ローマ8:28-30/コリント第一6:19-20/ペテロ第一1:15/ペテロ第二3:11-12)

「聖霊の賜物」は、彼らが真のイスラエルとして天に迎えられる「新しい契約」の発効に則したものであり、それが、彼らがキリストの犠牲の上に立って初めて下賜を認められた格別のものであることを教える。
つまり、彼らは義認を得て初めてキリストと奇蹟の業を共にしたのである。(ローマ8:1-2)

それでイエスは言っているのである。『わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに「助け手」(パラクレートス)は来ないであろう。もし去れば、それをあなたがたに遣わそう。』(ヨハネ16:7)

『聖霊』を受ける彼らはキリストの犠牲の贖いに第一に預かるので、原罪ある肉体で居ながらも(ローマ8:10)、神の前には『義とされ』『有罪宣告はない』状態に入ることになる。ペテロはこれを『霊の浄め』を受けたともしている。(ペテロ第一1:2)

このように、仮の状態ではあっても神の前での「義認」が、彼らの『助け手』つまり「聖霊の賜物」を受ける条件となっていたのであったことは、パウロばかりでなく新約聖書全体の示すところである。(ローマ8:32-33/ヨハネ第一3:2-3)

それは、以前の様々な聖霊の働きとの違いにおいて、その意義がある。
つまり、イエスの行っていた癒しなどの奇跡を継承することにおいて、彼らもキリストのような扱いを神から受けるのである。(ヨハネ15:26-27/16:26-28)

彼らは『キリストと共に神殿となる石』であり、それゆえ聖なる者でなくてはならない。
しかし、原罪ある者への義認を赦す聖霊の注ぎは異例中の異例であって、彼らも道を踏み外す危険がなくはない。(ペテロ第一1:15-16/2:4)

つまり、原罪は依然彼らの肉に宿るので、罪を犯さないわけではない。
それゆえ、使徒ヨハネは『許されない罪』のほかは『互いに許しあう』よう勧告していたのである。
その許されない罪とは、自分たちが持つ『聖霊を冒涜する』罪であり、ヘブル書の著者はそれを『主をあらためて磔にする』という故意の罪であるという。(ヨハネ第一2:2・5:16/ヘブル6:6)


-◆イエスの弟子たちに働いた賜物-------

初めに与えられた賜物はグロソラリアと呼ばれる「異言」であり、弟子たちは様々な言語で「神の壮大なことがら」を口々に話し始めたのであった。(使徒2:11)

その後、「聖霊の賜物」は「異言」のみならず多様な働きを見せるようになる。
「異言」そのものを「翻訳」する霊。将来起こることを知らせたり、人の隠された過去を告げたりする「預言」の霊。教義を伝える「知識」の霊など、パウロはコリント人への第一の手紙の第12章中で、賜物は様々にあるが働く「霊」は同じであると語りつつ、幾つかの賜物の種類を挙げている。

パウロの手紙からは、イスラエル初期の先見者(ローエー)の型である没我のトランス状態に入るものではなく、聖霊が臨んでいるときにも自らの意識を保つことができ、個人が制御できるものであったことがはっきりと読み取れる。(コリント第一14:27-33)

といって、その人のうちにあるのかないのか曖昧なものではないようだ。パウロは聖霊の奇跡的な働きが発現することを「ファネローシス」と呼んでおり、それは「マニュフェスト」とも英訳されるギリシア語であって、不明瞭なものを指すことはない。それは外部の人々から観察され得るものであったことは彼の文章から見て取れる。(コリント第一12:7)

パウロは、それらの賜物がエクレシア全体に対して「益することを目的」に与えられていると指摘したが、それは当時の集まる人々全体の信仰を助けて鼓舞し、また指導するものであった。(コリント第一14:7.12)
特に異言は、キリストの教えがユダヤに留まらず世界に向けて広げられるべきことを促したが、聖霊のほかの現れは宣教に向かう方向を示し、異邦人にも門戸を開かせ、癒しを行い、教義の知識を与え続けた。実に多様で有意義な活動を行う霊であり、これなくしてイエス派は弱小であった間に、ユダヤ教や諸国の教えに押しつぶされていたであろう。

聖霊の絆は、まさにイエスの指導の継続でもあり、主が去っていったことで、恰も死んだようにエルサレムの片隅で戸口に閂を下ろし、迫害を恐れて為す術もなくひっそりとしていた「小さな群れ」の弟子たちが、五旬節の日の出来事を境に再び立ち上がり、消えかけたキリストの業は回復し、しかも世界という広野に向かって力強い第一歩を踏み出したのである。(ヨハネ20:19/使徒2:14)

そのはじめの一日のうちに何千もの人々が加えられたが、その後も続く圧倒的な勢いについてはこの「聖霊」の働きなくしては考えようもない。(使徒第二章/イザヤ60:22)
ユダヤ人からの強い迫害に面して、イエスの弟子らが更なる印となる業と奇跡が起こるように祈り求めると、その場が揺れ動き、『皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。』という。それはキリストに与えられていた神の証しがいまや弟子らに移ったこと、また、彼らも神から証しされる立場に就いたことを知らせるものであった。(使徒4:30-31)

それゆえイエスは『わたしを信じる者は、またわたしの行っている業をするであろう。そればかりか、より大きい業を行うだろう。わたしが父のみもとに行くからである』。と励ました理由はここにある。
彼らの業には何と大きな助けが随伴したことか。(ヨハネ14:12)

それゆえ、キリスト教とは元来は「教義の宗教」ではなかったと言い得る理由がある。
ヘゲシッポスのような初代のユダヤ系のキリスト教徒は、異邦人がキリスト教に入ってきて、それが趨勢となるとエクレシアは哲学の理屈に満ちるようになってしまったと述べている*2

それについては使徒ペテロも『キリストの力と臨御とは、巧みな作り話などではない』(ペテロ第二2:16)といい、パウロは自分の宣教は『説得のための(巧妙な)知恵の言葉ではなく、霊の力の証明を持つもの』であったと書いている。(コリント第一2:4)

おおよそ使徒たちは言葉において朴訥であり、パウロですら手紙はともかく話の仕方においては然して良い評判を得ていないようである。(コリント第二10:10)
しかし、彼らの行う奇跡は彼らの宗教の最大の特徴であり、使徒らの訥弁を補って余りあるものとなったに違いない。そこにあっては、教義の知識も「聖霊の賜物」のひとつの側面であり従属の地位にあったことが覗える。(コリント第一12:8/ヨハネ14:26)

しかし、「聖霊の賜物」が次第に引き上げられ、聖徒が減少してゆき、遂に絶えると、残されたキリスト教界は『霊と力の証明』を失い、呪術的要素と神秘的ギリシア哲学で構成される「教義の宗教」へと向かったのである。そこでは『言葉を巡る争い』に終始し、『精神的に病んで』『敵意と闘争』の傾向を強くした。(テモテ第一6:3-5)
それらの「腐った果実」は、聖霊を失った症状を呈するかのようである。

今日のキリスト教には依然この自己義認と相克の傾向がみられ、教理上に「真理」を持ったと誤認して不確かな人間の知恵を誇り、かつて明らかに存在した「聖霊」という神の側からの働きかけを軽視するか、聖霊に代わる何かの別の霊の作用での忘我の喜びに浸るかしているようである。つまり、聖霊を失ったキリスト教界は、今日まで聖霊の無いことに喘いで来たといえる。(ヘブル2:1-4/ヤコブ1:26-27/ヨハネ第一4:1)

しかし「聖霊の賜物」こそが、イエスが弟子たちを動かして導いた経路であり、イエスの指導の証拠でもあった。(ヨハネ14:26)

しかし、それだけではない。この「聖霊の賜物」には格別の意味があるとパウロは言う。


-◆「証し」としての「賜物」--------

すなわち『約束の霊』を受ける事は、肉体を離れてキリストと共に霊の体に新しくされることの事前の仮承認であり、聖霊の賜物を受けた当人が「新しい契約」に入ったことの事前の証しであるとパウロが記しているのである。(コリント第二5:5)

それは律法契約の下でイスラエル民族に約束されていながら、彼らが遂に得損なった『祭司の王国、聖なる国民』となる誉れ、真のイスラエルの一員と内定したことを意味した。(エフェソス1:13-14)

それは、新しい契約に参与する者らこそが、『神の王国』を構成する『王なる祭司』となって生ける人類を「罪」から贖い、その間人類社会を統治することを意味する。(黙示録20:6)

元来、その選びの器はイスラエル民族であったのだが、この民族は律法契約に反するばかりか、キリストを退けて刑死に追いやっただけでなく、その弟子らまでもを迫害して退けたことを通し、アブラハムの子孫らしからぬ者、選ばれた種族に価しないことを自ら明白にした。その結果、『王なる祭司』となる『選ばれた種族』にはイスラエル以外の、アブラハムのような信仰を表す異邦人が含まれることになっていった。(使徒13:46/ローマ11:25-26)

イエスは霊を介してペテロに命じ、まったくの異邦人ながら信仰厚いコルネリウスとその仲間たちに聖霊が注がれる道を備えさせたが、これが『神のイスラエル』への無割礼の異邦人受容の嚆矢となった。つまり『肉のイスラエルが真のイスラエルではない』ということは、イスラエル民族の律法への結果的不受容を通して証明されてしまったのである。(使徒10章)

使徒ペテロは、諸国の聖らに向かって「あなたがたはサラの子となった」と語り掛け、聖霊を注がれた『聖なる者たち』が、霊によって生み出されたアブラハムの真の末裔であることを示しつつ、『それも、どんな恐ろしいことも恐れずにいるならばのことではある』と付け加えており、それは契約を守るべき、彼らの置かれた立場をよくよく表している。(ペテロ第一3:6)

そこでやはり「聖霊」こそが、契約を捉えた真のイスラエルを指し示すべく、初代キリスト教徒の中で縦横に働き、イエスの企図を弟子らに行わせ導き続けたのであって、それはまさに『世が受けることができないもの』であったといえよう。(ヨハネ14:17)

また、その意味するところには別の側面もある。
それは、「聖なる箱」が神の崇拝の中心地に置かれ、そこに奇跡の臨御(シェキーナー)の光が宿って神とイスラエルの律法契約の証しとなっていたように、聖霊の賜物は、それを与えられた人々が「生ける神殿」となってそこに「新しい契約」の印として存在していたということがいえる。(出埃31:21/レヴィ16:2/コリント第二1:22)

このことは、今日この賜物が地上にない理由も窺わせるものとなっている。
ひとつには、キリストの臨御(再臨)がなされていないことの証拠であり、もうひとつが、「新しい契約」の当事者が地上にいないということである。

それゆえ契約の一方の当事者である聖なる神の御名の発音も知られなくなって地上から絶えている。相手の名を知るべき契約のもう一方の当事者が居ないからである。(十歩譲っても「臨御」も「聖徒」の存在も現在のところ不明である)

今日のキリスト教徒の中には、聖霊が注がれるというこの類稀な希望を我が物としたい人々があって、自分の中にイエスが聖霊と共に居ると信じているようだが、それを断じまい。そう信じる人々は、イエスとの親密さを自己の内に感じることで幸福感を得てもいるのであろう。また、こうした人々の中には実際、何か怪異な超自然の力を発出するケースもあると聞く。

それを望むのなら、この人々をそっとしておいて良いようであるし、態々イエスの弟子らしからぬ敵意を買う必要もあるまい。
それでも、聖霊の声を聞くときには事の真相が彼らにも知らされるであろう。

人は不思議なものや現象を崇めてしまう癖があるのだが、初代キリスト教徒の時代にも『すべての霊感を信じてはいけない』という使徒らの警告があって、神からのものでない別の何者かの霊に憑かれていながら、自分に聖霊があると唱える人々がいたという。(ヨハネ第一4:1)

だが、実は聖霊によるのではない不思議を行うそれらの者が、真正の「聖霊の賜物」をもつ人々の中に入ると、聖なる者らと一致して語ることはおろか、その人に在った霊は出ていってしまい、何も話せなくなる様子が「ヘルマスの牧者」に見える。*3

そうであれば、明確な賜物の発現のない今の時代には、そのような霊が大手を振ってまかり通ろうとしないものだろうか。(テサロニケ第二2:6)

この種の霊が、キリスト教に限らずある程度の支持を受けるのは現状で許されたことであり、終末に至って更に重要な悪役を演じる大切な役者でもある以上、どうすることもできない。それでなくても、霊者の力は人間の能力を超えている。(黙示録16:14)

ともあれ、今日あの五旬節のような衆目の注視を奪うような仕方で発現する「聖霊の賜物」を人類は未だ見ていない。(マタイ10:18)
では、「聖霊の賜物」の発現が人類に隠されることなく、際立った様で現れると言える理由があるだろうか。


-◆為政者と対峙する聖霊--------

イエスの終末預言は一度西暦70年にユダヤと神殿を含むエルサレムの上に成就したが、その預言の言葉の中にはいくつか当時には当てはまらなかったものがある。

その中に、『あなたがた(弟子)は王や総督の前に引き出される』というものがある。(ルカ21:12-15)

たしかに初期の使徒やパウロの生涯にはこれに似たことが幾らかあったのを使徒言行録は伝えてはいるのだが、いずれも小規模な上、画期的なものにはならずしっくり整合するものがない。ステファノスの決死の弁明も為政者に対するものというよりはサンヘドリン、つまり宗教家に対するものであったというべきだろう。

イエスは、終末について告げるにあたり『ノアのとき以来なかったような大変災』『森羅万象震い動く』と述べるなど、ユダヤだけのことを語っているのではなく、将来の世界にまたがる成就をオーヴァーラップさせて語っている。(マタイ24:37.29)

さて、弟子らが為政者の面前に引き出されるときには『何を語ろうかと思い悩』まなくてよいとイエスは言った。つまり、その時になれば『聖霊があなたがたによって語る』というのである。この成就は歴史上に見ていないと言ってよいであろう。とすれば、これらの言葉の成就は「終末」というべきであり、実際マルコとルカはイエスの終末の預言の中にこれを含めているのである。(マルコ13:11/ルカ21:12-15)

更に黙示録を見れば、彼らは語るだけでなく、モーセやエリヤのように「地を何度も打つ」権威を持つという。ならば、霊の対決は言葉だけではなく、奇跡の力の表明が考えられるのである。(黙示録11:6)
古代のような奇跡は今後は起こらないというなら、それは神の力を知らぬ「教理の宗教」に堕した、実質的に不信仰なキリスト教とはならないものだろうか。(マルコ12:24)

将来キリストの臨御は『王の王』となるための帰還となる。この大王登壇への権利保持者が支配や覇権の争いに関わる仕方で再び地(人類)に臨むことになる以上、おおよそ聖霊の関わる事柄でこれ以上に重要な発現(ファネローシス)があり得るだろうか。(コリント第一12:7)

イエスが一度目の到来で、死を経験すべき弱い肉の様で地に現れたようにではなく、将来の二度目の到来は変貌を遂げた強力な霊者となっての帰還、真っ赤に輝く両眼と、その口から鋭利な諸刃の長剣の突き出したと描写される御稜厳の大王と変じての復讐を込めた恐るべき臨御である。(黙示録1:14-17/ヨハネ12:48/ヘブライ9:28)

そこで諸国民と支配について関わらないわけもない。ダニエルによれば、神の王国の到来は世界覇権を打ち砕く時を招くのである。
終末において、聖霊を受ける弟子らはこの主の大使のように彼らの主要な王となるべき方の宣告を伝えるであろう。
それはまた、為政者たちの抗いによって聖徒らには苦難と試みの時期ともなる。(ルカ21:12-)

神の権威者の臨御(パルーシア)の標識としてはこれ以上のものはあるまい。かつてユダヤに示された聖霊の強力な「徴」が世界規模で示される必要があるだろう。
そして実際に、聖霊の言葉が語られ始めれば、どうみても世に対してキリストが臨御しているとしか言いようもない。これこそがまさしく「パルーシア」(再臨)の指標となるのであろう。(ヘブル2:1-4)


聖霊を受ける弟子たちが、その迫害を受ける時を以って初めて聖霊の言葉を受けるのか否かは聖書からは明確とはいえないが、彼らの母体となる集合体が形成されているように聖書は読める。(イザヤ49:21-22)

それはおそらく旧約中で繰り返し『シオン』と呼ばれる彼ら『聖なる者』の母親のようなものであり、初代でいうところの召出された人々との集まりである『エクレシア』(招会)、つまりは信者の集合体であろう。(イザヤ52:1-2)

現時点で筆者は、彼らが為政者と対峙する以前から聖霊を受けるように思えるが、そうなれば、将来再度『エクレシア』が存在することになるのであろう。(ローマ11:29/ペテロ第一1:2)
その中から聖霊を受ける人々が現れ、再び『聖徒』たちと呼ばれるのだろうか。(ローマ15:16)

彼らは政治家と対決することにおいて「新しい契約」の当事者として出現するので、当然ながら契約相手である神の名を知り、その名において為政者に語るべきであり、そのようにして『神の名はシオンで知らされる』といえる理由がある。こうして彼ら『聖なる者』らは神名の証人となり、神の御名は人々を救うものとなると聖書は再三告げている。(詩篇102:21/ヨエル2:32/使徒2:21)


-◆諸国民の信仰を巻き起こす聖霊-------

さて、聖霊の働きが為政者に語らせることは『何者も反駁のできない』ものであるという。(ルカ21:15)
そのように完全な言葉を前に為政者は自己の非を悟るであろう。
但し、それは必ずしも『王の王』に対して服する態度をもたらすわけではない。(黙示録17:14)

その状態を、第一世紀にヘロデ王家の息子たちが、自らの王権を得る前にローマに旅し、そこでカエサルの認可を得て帰還するという習わしに即して言えば、キリストの帰還は領土に入る前に大使を遣わして、カエサルの信任状を見せ、支配権を渡すよう求める段階に例えられよう。

未だ、信任状を持ってはいても、支配権は得ていない。
王として即位するに際し、抵抗勢力があるなら、あらゆるものを打ち砕く必要がある。古代の王権獲得に同じく、その戦いに勝利してのちに王権は実質的なものとなるのである。

同様に、キリストの帰還において、王権保持者の到着と支配権の移行を求める大使らは、聖霊を注がれた『聖なる者たち』となり、彼らは為政者に『聖霊の言葉』を伝える必要がある。
そのときについてイザヤはこう書いている。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

だが、キリストは雲の内に「臨御」を始めても未だ「顕現」はしておらず、為政者の前には人間である聖徒らがいるだけである。(ルカ21:27)
そうなれば、自分こそが「現実の」支配者であり、聖徒たちは単に理想のようなものを語っているなどと主張して、『王の王』の頚木を払い捨てることはいかにも容易に見えるだろう。(詩篇2篇)
しかし、こうした「抵抗勢力」は排除されねば『神の王国』は一向に実現しない。そこで神とこの世との『ハルマゲドン』の戦いが不可避となってくる。(ゼパニヤ3:8/黙示録16:16)

他方、ある人々にとって、聖霊の言葉の音信は心から願い信ずるものとなるであろう。
聖霊の音信を聴いたときに『心を頑なにしない』からである。(ヘブル4章)
反駁しようもない言葉に同意できるなら、聖霊を受け入れるのであり、その人の以前のあらゆる罪が許されるというのである。(マタイ12:31)

しかし、聖霊の言葉に従わないのであれば、そこに故意の悪が生じ、「聖霊への冒涜」の罪が犯されよう。キリストの業を『ベエルゼブブが行っている』と言い張ったような、すなわち『許されることのない罪』である。(マタイ12:32)
こうして、「聖霊」は終末に於ける人類の裁きを行う上で欠くことのできない重要なマターとなるのに違いない。(ヨハネ16:8)

黙示録を見ると、開示、宣告、災いが起こる様が、封印、ラッパ、鉢に描き出されているが、将来の具体的な発生の詳細は分からないが、そこに出エジプトの十の災いが敷衍されている。

終末においても災いの降るにしたがい、イスラエルのみならずエジプトの神々を崇拝していた当地の人の中からもその神への信仰が引き出され、イスラエルの荒野への旅に同行までしたように、キリストの臨御のときにも聖徒たちの発する言葉に信仰を起される許多の諸国民がいるであろう。((出埃12:38/ハガイ2:7)

ゼカリヤの預言はそのことを『末の日に、十人の諸国民がひとりのイスラエル人の裾を掴んで、「我々もあなたと共に行く。神があなたと共にあることを聞いた」という』様を描き出している。(ゼカリヤ8:23)

かつて、エジプトの人々がそれまでのエジプトの諸々の神々を捨ててまで、イスラエルに同行したのはよほどのことであろう。
その、よほどのことを神は再び、しかも世界に対して見せる。(マタイ10:18)
つまり、「神の指」のように人間を遥かに超えた物事を生じさせるのである。(ルカ11:20)

なぜなら、神もイエスも眼前に顕現「エピファネイア」している状態であれば見ての通りであって、今更信仰の生じるいわれもない。人々は御厳の大王に恐れ、竦み上がってしまうであろう。そこでキリストの不可視を示す『雲と共にある』臨御(パルーシア)の、そして「聖徒」という代弁者の存在意義があろう。(マルコ14:62/コリント第二5:20)

こうして「聖霊」の存在の極めて重要な意味が見えてくる。
「聖霊」がイエス自身でも神自身でもないゆえに、「聖霊」こそが人類の神に対する自発心を保護し、「聖霊」こそが「信仰」という神の目にも願わしく貴重な宝を人々の内に起こす触媒として作用するのである。(ヨハネ10:37-38)

ここに「父」と「子」と共に「聖霊」の欠かせぬ信仰への働きがある。もし聖霊の働きを過小評価したり、悪霊のものと混同して見誤るとすれば、終末においてその教えは意味を成さないだろう。(ヨハネ16:8-11)



-◆賜物は何時廃されるか--------

このように優れたエレメントたる「聖霊の賜物」について、キリスト教徒は随分と曖昧な理解の中にいたものである。

太古から聖霊の働きはあったのだが、時代と共に、神の経綸の進むに応じてそれは多様に働くようになり、神の意志に従ってそれぞれに作用してきたが、特にキリストの帰天後の弟子らの中で「聖霊の賜物」という最上級の形態をとった。

確かにパウロは、「聖霊の賜物」の廃されることを述べているが、その時期については明示していない。(コリント第一13:8)
将来を展望すれば、確かに聖徒が天に召集されたなら「賜物」の存在し続ける意味もないに違いない。

しかし、『助け手』となる霊は弟子らに『永久に存するものとなる』ともイエスは語っているのである。(ヨハネ14:16)
つまり聖霊は聖徒たちの証しとしての役割を終えても、その後も彼らが用いることのできる力となるのであろう。

それもあって、パウロがアガペーを強調する文脈で「能力」(賜物)の『廃される(廃れる)』と述べたのは、時間的要素の強調ではなく、いずれは印としての賜物も無くなることを意味したのであり、必ずしも初代聖徒と共に賜物が引き上げられた時期を指すと考えねばならぬ理由はあるまい。

福音書も明示するように、賜物が聖徒と共に地を去ったにせよ、それが「廃された」にしては、未だ聖徒に任せられた聖霊を要する業が残されていることが告げられていることは確かである。(ルカ21:12-15)

筆者には、「聖霊の賜物」以外の神の聖霊が現下にどうなっているかは分からないが、我々が生きてゆくにも神の霊は必須であるとされている。(ヨブ34:14)いずれにせよ、霊にどのような作用があるとしても、この聖徒らに働くであろう「賜物」「約束の聖霊」に優る重要な働きを為すものは他にない貴重なものなのであろう。(ヨハネ14:17/7:39)

それは初代弟子たちの時代から、我らの時代の頭上を越えて不定の将来に、イエスの臨御と共に再び現れるものであると言い得る理由は以上のように少なくないのである。

これほど意味ある聖霊が、個人の意識中だけの「証し」や幸福な「救われた」心理状態のもので終わってはなるまい。いや、まったく次元が異なるだろう。それは恐るべき「神の御力」であって、はっきりと全人類にキリストの臨御を宣告するものでなければ意味を成さない。

それゆえもし、「聖霊」の声を聖徒らから聞くならば、紛うことなくイエスは臨御しており、現今の非情な『この世』の終わりという喜ばしい門口に立つことを意味するのである。(ヘブル3:15)

キリストの来たるを待ち焦がれる信徒にとって、聖霊の発言を聴くに勝ることがあろうか。(黙示録22:20)


                                  
              新十四日派   © 林 義平
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*1.ヘブライ語「ルーアハ」もギリシア語「プネウマ」も、「風」また「息」の意を含むことでは共通している。
「ルーアハ」は特に、砂漠に吹く激しい風の音写から来ているという。

*2.エウセビオスはヘゲシッポスの言として次のように伝える
『使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。 彼らは、使徒たちが一人も生き残っていないことを知ると、それからは素顔のまま真実の教えに対抗し偽って知識(グノーシス)と呼ばれたものを宣べ伝えようと企てた』。
(教会史Ⅲ32)

*3.ローマのヘルマスは自著の中で当時の偽聖徒について以下のように言う。
『偽の預言者は自分を実際以上に見せかけようとする。最上の席に座ろうとし、自分の預言に対して報酬を要求する。・・神の霊に満たされた者らの中に彼が足を踏み入れ、人々が祈り始めると、たちまち彼はからっぽになってしまう。この世の霊は恐怖にとらわれて彼から逃げ去り、この男は黙して一言も発することができなくなってしまう』。
(牧者XI,13)

 

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