その子羊の犠牲は、荒野でモーセの祭司職を創始させる代価を提供するものとなったように、イエスの犠牲はキリストを大祭司とする天界の祭司職を創始する代価となった。
災いはファラオの家も例外とならず、皇太子を失う衝撃は、九度に及ぶ災厄がエジプトを覆ってさえ頑迷を助長され奴隷イスラエルを手放さなかったファラオをも動かし、この十度目の災いを以って遂にその民の解放を許させるものとなった。
若き日に、自らバプテストの傍らに在ってその声を聞いたであろう使徒ヨハネの著作には「過越しの子羊」を『神の子羊』と重ねる記述が多く、ナザレの人イエスが神の子羊であるとの言葉だけでなく、また双方の子羊共に骨が折られなかったことが予型と対型として示されている。(出埃12:46/ヨハネ19:33.36/) また、黙示録に於ては、勝利を得たメシア、またキリスト教の象徴として子羊が多出する。(黙示5:6-14/6:16/7:9.14/12:11/14:1-5/17:14/19:7/21:9-13/22:3)
こうして律法契約はその『聖なる民』を生み出すことに至らなかったが、預言者エレミヤを通して神は『新しい契約』を締結する日が来ることを知らせ、その『契約の使者』である『メシア』を指し示したのであった。(エレミヤ31:31-33/マラキ3:1/ダニエル9:27)
一方で、ペテロも言うように律法契約は『負い切れぬ頸木』であり、それをパウロは『律法は違反を明らかにするために付け加えられたもので、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの』と述べ、また、『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』とも言っている。(出埃19:5-6/ヘブライ8:7)
即ち、『神の王国』の成し遂げるところは「神と人の和解」であって、そうして創造の業の完成し、創造されたすべてが創造者の御許に集うことであり、そのためには人は『罪』を去らねばならない。しかし、人類の宿痾であるアダム由来の『罪』を捨てることは人間の努力の及ばないことである。
もし、人間が自らを浄められるものであれば、キリストの犠牲は要らず、人類はこの世を改善できたであろうが、今日見る通りにこの世は悪や不義で一向変わらずに住み難く、人の寿命は苦しみの内に尽きてゆく定めを免れず、その生涯はまことに虚しいものとなっている。
即ち、動物の肉が祭壇で焼かれる一方、血は祭壇の下に注ぎ出されて*その魂がイスラエルの罪を贖うために彼らに一度与えられたが、それでも『魂』の所有権は終始神のものである。(エゼキエル18:4)ゆえに、神のものを贖罪に用いたとしても、その用法を誤るべきではない。*(血も肉と共に焼かれる規定もあったが、これは滅ぼされる魂があることを示すのであろう)
レヴィ族の祭司たちが動物の血を扱ったのも、彼らが抽象物としての『魂』(ネフェシュ)を直接に手で扱うことが出来なかったからに相違なく、そこで血という具象物を儀式に於いて取り扱うよう命じられたというべきであろう。人が魂という抽象物の神の所有権を尊重するためには具象物の儀式的扱いを行う以外にない。これが血の禁令の意義を成している。
然るに、魂とは血液だと神が語っていたのではなく、血液の成分の中に『魂』に相当する部分があるということにもけっしてならない。血は魂の表象であるに違いなく、そうなれば、神はこの禁令を通して何かを教えようとしていたに違いない。
したがって、飲血がまったくの罪を犯すか否か、もちろん輸血が良いか悪いかを含めて、その禁令の外面をひたすらに守ろうとすることは、そこに込められた象徴的意義を学ばないばかりか、まるで的外れなことになる。それはキリストの当時のパリサイ人が申命記の「シェマ、イスラエル」にある『その言葉を目の間に置き、手に結え』との命令を言葉のままに経札を額に括り付け、手に巻いた行動が表わしたように、自己義認のために事の本質を悟れなかったことの繰り返しである。
逸脱を加えて、禁令に含まれるのは血の全成分か、血清は対象外かなどと論じ始めるなら、それはまったく即物的にだけこの禁令を捉えることに於いて、ユダヤ教に増して律法的であり、肉的な蒙昧というほかない。象徴的意義に目が開かれず、専ら具体的禁令に注意が向くからである。そこにキリスト教での次元上昇は起こっておらず、律法が意味した事柄を悟り、それを完成するに至らないばかりか、ユダヤ教よりも後退しているのである。
エホバの証人のように、輸血を含めて血を飲まない潔癖さばかりに神の御旨があると考えるなら、その人は血の禁令に込められた真意を見出すことなく、自己義認への関心に終始することであろう。その関心の対象は神の御旨でなく自分の義による救いの達成であって、それこそは律法的服従の恐怖の宗教というべきである。
では、血そのものが象徴する意味は何であろうか。
これは神の観点から見る必要があろう。
殺人に込められた精紳は、身勝手に創造物を消去する願望であり、これには人ばかりか他ならぬ創造者であらせられる神が代償を求めると言われる。神は『全ての魂はわたしのものである』として、命を以って動くあらゆる創造物の所有権を明確にしているのである。殊に人は神の象りである。(エゼキエル18:4)
また、最初の殺人となったカインとアベルの事例をも彷彿とさせる。
この最初の殺人により、農耕者であったカインは弟の血で土地を汚して放浪者に身を窶すこととなった。象徴的にアベルの血は代償を求めていたが、その意味するところを言えば、神の創造物、それも『神の象り』に創られたひとりの失われた『魂』アベルという存在に対する神の所有権が荒らされていることの言い開きが『血の叫び』によってカインに求められていたと言える。
イエスは『体を殺しても魂を滅ぼせない者を恐れるな』と言われる。聖書中に『死んだ魂』なる語はあるが、死んでも『魂』は神の内には滅んではいない。そうでなければ、キリストの魂はどのようにして『墓に捨て置かれず』復活に達したのか。
やはり『魂』は抽象物であって、 本来、人がこれが『魂』であると示せるものでない。
ゆえにアドヴェンティスト派が主張するような「その人そのものが魂である」ということもまず成り立たない。そうでなければ、動物なりの身体が死んで後に、その『血は魂であるゆえに』地に注ぎ出すようにと神が命じた意味もないことになる。何故なら、その動物にせよ人にせよ、そのものが死を迎えたときに魂も滅んでしまっていることになるからである。
したがって、肉は焼かれ食されても、飲まれない血の処置は、肉の滅びを超える「魂」という抽象存在を人に明らかにしている。創造神の記憶の中で、死んだ人々さえ魂によって『神にあっては生きている』と自らの死を目前にしたイエスが言われている。。(ルカ20:38)
したがって、血の処置をしようとしまいと、魂は常に神のものであり、『魂』の存在を人に明示することが血の処置の目的というべきであり、重要なことは血の扱い方ではなく、創造物に対する神の所有権への畏敬であることになる。
それであるから、魂が肉体の死をも乗り越えるとはいえ、死に面しても医療上の理由からではなく、輸血を謝絶することで神への忠節を全うできると思うなら、その決死の自己義認も、自ら死を早め、また早めさせる事によって、むしろ神の所有権への正反対の行動をとっていることになるがそれで良いのだろうか?
キリストの魂をしてサタンの魂を求めることが意味するものは、『死の権力を持つ者、即ち悪魔をご自身の死によって無に帰せしめ』たというパウロの言葉に表れているというべきであろう。即ち『魂には魂』であり、『魂』が常に神の所有するところであったにせよ、生きている魂を死に至らしめたその悪意ある魂に対する咎は、神の所有を勝手に侵すものである。故に、神は必ずやキリストの血という一度肉体により死を経た『魂』への報復をサタンに為すことであろう。(申命記19:21/ヘブライ2:14/レヴィ24:17-18)
そしてキリストの魂は墓に捨て置かれず、イエスが霊に復したときには、 その魂は再び生きるものとなった。
『「最初の人アダムは生きた魂*となった」・・・・しかし最後のアダムは命を与える霊となった。』ともパウロ言う。(コリント第一15:45)*(アダムの魂はこのときに生じた)
キリストの魂が保存され復活を遂げたことは、その殺害を為したサタンの魂への報復が将来に求められることを必須とする。加えてイエスの体はアダムの失った肉体に代替されるがゆえに、アダムの子孫はイエスという『とこしえの父』を得ることになるのである。
したがってキリストの肉体が永久に消滅したと言い得る理由もあることになる。イエスは魂と共なる肉体を犠牲として捧げ、復活を受け霊者としての命に入ったからであり、化肉はあったとしても、復活後は人間ではないからである。(使徒2:31/ローマ5:12/イザヤ9:5/ヨハネ20:15/出埃12:10/ヨハネ第二7)
イスラエルの中で為された旧約の預言の数々に加え、律法契約そのものも後代にもたらされることになっていた真正に価値あるキリストの犠牲の血があってこそ意義をもったであろう。それは動物を二つに切り裂いたアブラハムとの契約にしても同様であろう。(コリント第二1:20/創世記15:19-20)
それはモーセの律法がどの街に於いても『安息日ごとに会堂で読まれているから』というユダヤ人イエス派信徒を躓かせないというヤコブ自身の配慮以上の働きをすることになったと言えるであろう。
また、これを以って律法のこの条項が継続したとは言えない。これらの規定はヤコブが独自に考えたものでもなく、コルネリウスのような無割礼の異邦人がシュナゴーグでユダヤ教の会衆に交わるに際しての、当時の会堂の最低条件であったものを列挙したのであった。ヘレニズム世界では各地で、神殿での偶像礼拝や会食また売春や同性愛、さらには血を飲むばかりか、祭礼として全身に浴びるなどの慣行が当時広く存在していたからである。(使徒15:21) ⇒ 「エルサレム会議に見るキリストの弟ヤコブの寛容」
そこで、血の禁令を続けるユダヤ教イエス派の者らと、無割礼の異邦人らとの間にも一定の規定を残す必要が生じていた。双方の常識は余りにも異なっていたからである。ヤコブは依然として会堂でモーセの朗読を聴くであろう両者が分裂しないための方策として、血の禁令を含むユダヤ人が躓かずに異邦人と集まれるよう、無割礼を許しつつ幾つかの条件を残したのであり、ヤコブ率いるユダヤ教イエス派は依然として『律法に熱心』であって、パウロにはナジル人の習慣行事に参加するように促しているところからも、ヘブライストの信者らがどれほど後のキリスト教と異なっていたかを顕している。(使徒21:20-26)
だが、これがキリスト教の根幹を成す規定ではないことは、新約聖書にヤコブの発言として出るのみで終わっていることからも明らかである。ヤコブの裁定により、初期異邦人キリスト教徒に中にも血の禁令を守る習慣がしばらく残っていたにせよ、今日のように、ユダヤ教イエス派が消滅している現状に在っては、大きく意識の異なる『二つの民』へのヤコブの配慮も過ぎ去ったものとなっている。(エフェソス2:15)
律法に従うユダヤ人にとっては『血が魂』であったにせよ、キリストの血の犠牲の価値を知ったキリスト教徒にとっての実際の血は、儀式において『魂』を象徴するべきものであったが、それはやはり赤葡萄酒という代替物に代えられており、血のそのものが神聖なのではなく、『魂』こそが創造神の所有に帰するものとして神聖視されるべきなのである。創造神に於いて『魂』とは、肉体や命に優るその人の真の存在だからである。⇒「命に優る魂」
主の帰天後のユダヤ人イエス派は、年毎の『主の晩餐』に於いて象徴的ながら血を飲むことになる。それも神の最も愛される御子の魂を自らのものとする儀式を行うのであるから、固い血の禁令にあったればこそ、そこにある種の躊躇さえ感じられるほどに、その犠牲を尊んだことであろう。
この『主の晩餐』にユダヤ教徒はイエス派を攻撃する口実を見つけさえしたようである。
というのも、ユダヤ教徒が異邦人の間にイエス派は子供の肉を食し、血を飲んでいるとの噂を流されていた為、その誤解からキリスト教徒はしばしば迫害を被っている姿が資料に残されているからである。
ユダヤ教徒からすれば、ただただ飲血の儀式は忌まわしい行為であり、他方で異邦人はその犠牲者が子供だと聞けば不気味さと義憤とを禁じ得なかったに違いない。
ゆえに、ユダヤ人イエス派は『主の晩餐』に於ける象徴的飲血によってもユダヤ教徒と袂を分かつことになったと言えるほどである。それはもはやセデルの祝杯ではなく、決然と杯をあおって飲むべき主の血を表した。ここに於いてキリスト教の葡萄酒の表象は、既にユダヤ教の血の表象を成就し、且つ超えていたのである。そこでユダヤ教の肉と血による崇拝方式が過去のものとなり、キリスト教に於いては、実際の肉と血を扱う機会は皆無となった(コリント第一10:16)
彼らにとって主の死によって得られたものは、罪からの浄めであり、ほかの何者からもけっして得られることのない異例に高い価値ある立場、キリストの兄弟、共なる相続者、神の子であった。(ローマ8章)
殊に、異邦人信徒の場合、キリストの血に飲むことは『キリストの血によって近い者とされる』ことを意味し、血統の『隔ての壁を取り除いた』のであり、そうして『神のイスラエル』へと導かれることになったことをパウロが書いている。 (エフェソス2:13-14)
異邦人であっても彼らは、象徴的飲血によって『聖なる者らと同じ市民であり、神の家族である』ともパウロは言う。(エフェソス2:19)
以上の論理からすれば、これは即ち、神の所有に帰するべき、それも飲血を介して独り子の魂を自らのものとすることを神に許されるということになろう。もちろん、それでもキリストの魂は依然神のものであるが、聖なる者らには共有が許され、最終的に『キリストに預かる*者となる』のである。(ヘブライ3:14)*[ギノーマイ]「渡される」
(エホバの証人の輸血謝絶は、自己義認のための他宗教との差別化がその目的となっており*、タルムードのような多くの規定の細目を作るばかりで、その決然たる意志も神の前に然したる意味も無く、却って魂への畏敬からすれば、命の軽視につながることに於いて有害である)
*以前には種痘を拒絶していた。迫害下の地域では教団を摘発から保護するため信者であることを隠し輸血を習慣的に拒否しない。
全国的に雨がちの天候ではあったが、それぞれに挙行の連絡を頂いている。
本年の把握しているところは以下の通り
東京、埼玉、北海道(道南)、北海道(道央)、富山
ユダヤ人はペサハの後、シャヴオートまでの四十九日の間は恰も服喪のように慶事を避けるとのことである。(33日目だけは例外とするが)
それは無酵母パンの祭りの持つ厳粛さの影響とも言われる。
主はニサン十四日の晩を、明らかに特別な仕方で過ごされた。
それは出立を前に、十二使徒と彼らを通して聖なる者らに契約と訓戒とを教えるという「キリストの過越し」となった。
それから使徒らガリラヤ人の集団はエルサレムで服喪の如くひっそりと過ごし、遂にシャヴオートの朝を迎えた。それはキリストの犠牲が神の御前に受け容れられたことの証しとなり、キリストの業は弟子らに受け継がれ、異言を語る彼らには世界へ向けた業の拡大が託されたのである。その日に聖霊を受けた百二十人は、ペテロを先頭に諸国へ向けた宣教の第一歩を踏み出していった。
彼らを自らの血によって贖った主イエスの自己犠牲を鑑みるに、罪深い人類と、悟りの遅い弟子らへの慈愛、また、父である神ヤハへの忠節な愛の偉大さに感じ入り、また自らの矮小な有様を恥じ入る次第である。
その死と復活が成し遂げられてから50日後の初穂に相当する聖なる者らの現れは、何と言う価値ある酬いであったことか。
象徴的サラが史上初めてアブラハムに真の子らを生み始めたのである。(ペテロ第一3:6)
終末のパルーシアに於いて、再び彼らが現れ、その全体が揃うときに、その深い意義を悟る者がひとりでも多く在り、『人の子が来る時、地に信仰を見い出すだろうか』の主の懸念に対して、ご利益信仰でなく、聖霊に信を置ける人々が聖徒らの主の臨御に答えられる日を是非とも見たいものである。いや、そうなるのであろう。
御同志の諸氏の見識の高さに敬意を表しつつ、共にその日を見ることを念願する次第である。
林 義平
「ネフェシュ 命に優る魂」
「エルサレム会議に見るキリストの弟ヤコブの寛容さ」
「後の者が先になる 二つの民」