キリストの最後の晩餐の席は、モーセに規定された『過越し』であり、ユダヤ人のセデルの食事であったことは福音書の記述の明らかにするところである。一行はユダヤ教徒として相応しく毎年にセデルを行っていたであろう。

だが、主が十二人と最後に行った過越しの食事において『主の晩餐』が新たに始められる。
それはユダヤ教の儀式をキリスト教の儀式へと更新させるものであり、双方をつなぐものは『子羊』の犠牲であった。それが実際の肉に代えて無酵母パンと、その血を象徴する赤葡萄酒によって、契約に入る者らによって摂られる新たな食事儀礼へとその夜に替えられた。

その子羊の犠牲は、荒野でモーセの祭司職を創始させる代価を提供するものとなったように、イエスの犠牲はキリストを大祭司とする天界の祭司職を創始する代価となった。

元来の出エジプトの故事においては、各家庭で屠られた一歳の雄の羊で、その肉はエジプトを発つ用意を整えた旅装のイスラエルの民とそれに付き添う人々によって食された。(出埃12:1-13・44)
屠られた羊の血は家々の門口の柱と鴨井に塗られ、それが印となってエジプト全土を襲った第十の災いである初子の急死からその家を守ったのであった。

それは春先の陰暦アビブの月の十四日に入った晩のことであった。
羊の血の印の無いエジプトの家々を初子の急死が襲い、これ以上の災難を望まぬエジプト人は厄介払いに彼らが旅立つことを願って、イスラエルが望む物をせっせと与えても良いと思えるほどであった。(出埃11:3/12:33-36)

災いはファラオの家も例外とならず、皇太子を失う衝撃は、九度に及ぶ災厄がエジプトを覆ってさえ頑迷を助長され奴隷イスラエルを手放さなかったファラオをも動かし、この十度目の災いを以って遂にその民の解放を許させるものとなった。

したがって、神の指示によりアビブの十四日に屠られた一歳の雄の子羊は、イスラエルの旅立ちに際して、その初子、過越しを行った諸家族の長男を守る身代わりとなったと捉えることができる。


さて、ナザレのイエスがバプテストのヨハネを介してイスラエルに紹介されたとき、彼はイエスを指して『見よ!神の子羊』と宣したことをヨハネ福音書は記す。(ヨハネ1:36)

若き日に、自らバプテストの傍らに在ってその声を聞いたであろう使徒ヨハネの著作には「過越しの子羊」を『神の子羊』と重ねる記述が多く、ナザレの人イエスが神の子羊であるとの言葉だけでなく、また双方の子羊共に骨が折られなかったことが予型と対型として示されている。(出埃12:46/ヨハネ19:33.36/) また、黙示録に於ては、勝利を得たメシア、またキリスト教の象徴として子羊が多出する。(黙示5:6-14/6:16/7:9.14/12:11/14:1-5/17:14/19:7/21:9-13/22:3)
 
使徒ヨハネが示すように、この子羊がエジプト出発に際して屠られた子羊を敷衍するものであれば、やはりキリスト・イエスも『初子』に相当する人々の救いとなったであろう。

というのも、イスラエルがエジプトを発って二年目に神YHWHはモーセを介し民にこう言われているのである。
『すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしはイスラエルの初子を人間から家畜に至るまでことごとく聖別してわたしのものとした。彼らはわたしのものとなるであろう。』(民数記3:13)

この言葉からすれば、死んだはずのその初子らの神の買い取りの代価が、子羊の魂(命)であったことになり、その支払が為されたことを家々の戸口に塗られたその血が証しとなったということができる。『肉の魂は血にあり』『血が魂によって贖罪を為す』からである。(レヴィ17:11)

したがって、出エジプトの子羊たちは、その血の犠牲によってイスラエルの初子らの身代わりとなった。
そして、その身代わりを得て生きているイスラエルの初子は、イスラエル民族の中から祭司の部族を登場させることとなる。
『レヴィ人をイスラエルの人々のすべての長子の代わりに、またレヴィ人の家畜をイスラエルの家畜の代わりに取るように。レヴィ人はわたしのものとなる。わたしはYHWHである。』(民数記3:45)

こうして大祭司に任命されたアロンを補佐する一部族が取分けられた。それが預言者モーセやその兄アロンの属するレヴィの部族で登録された男子の総数は当時二万二千人であった。(民数記3:6-7)

さて、後代の『神の子羊』であるキリストにあっては、やはりその犠牲の血で人類の『初子』を買い取っている。(ヤコブ1:18)
その血によって買い取られた『初子』とは、『天に登録されている初子たちのエクレシア』とパウロが述べた初期キリスト教徒の集まりに召し出された『聖なる者ら』を意味している。(ヘブライ12:23)

当時の『聖なる者ら』について使徒ペテロは、『イエス・キリストに従い、且つ、その血の注ぎを受けるべく、父なる神の予知されたところによって、選ばれ霊の浄めに預かっている人たち』と呼びかけたうえで、『あなたがたは選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民』と呼んでいる。(ペテロ第一1:2・2:9)
 
それこそは、かつてモーセがシナイ山麓で律法契約によってイスラエルが到達すべき目標として示した事柄であったが、イスラエルの律法の不履行は覆うべくもないバビロン捕囚の結末を招いていた。
こうして律法契約はその『聖なる民』を生み出すことに至らなかったが、預言者エレミヤを通して神は『新しい契約』を締結する日が来ることを知らせ、その『契約の使者』である『メシア』を指し示したのであった。(エレミヤ31:31-33/マラキ3:1/ダニエル9:27)

一方で、ペテロも言うように律法契約は『負い切れぬ頸木』であり、それをパウロは『律法は違反を明らかにするために付け加えられたもので、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの』と述べ、また、『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』とも言っている。(出埃19:5-6/ヘブライ8:7)

即ち、『新しい契約』によってキリストが血を以って買い取ったのは、遂に神の正当な選民とされて現れた、より偉大な「対型的なレヴィ族」であり、彼らがキリストと共に行う贖罪が全人類に及び、その用いられる器となるものがキリストと聖なる者らで構成される『神の王国』である。

キリストの『聖なる者ら』はレヴィ族が水の浄めを受けたように(レヴィ8:6)『霊の浄めに預かって』おり、レヴィの祭司職が民全体の贖罪の儀式に関わったように、『聖なる者ら』は大祭司キリストの下で人類の贖罪に関わることになる。(ヘブライ10:22)
 
それゆえペテロは彼らを『祭司』また『聖なる国民』と呼んだのであり、それこそは遠い過去にアブラハムに約された『地のあらゆる部族はあなたの子孫によって自らを祝福する』(創世記22:18)の言葉の実現がいよいよ近付いたことを知らせるものであった。

全人類を祝福するこの偉大な贖罪制度『神の王国』をもたらすために、キリスト・イエスが如何に主要な務めを果たすかについてパウロは『神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた』と書いている。それが、この王国のもたらす最終的な目的であり、エデンに入り込んだ天地の無秩序を取り除く経綸である。(エフェソス1:10/フィリピ2:10)

即ち、『神の王国』の成し遂げるところは「神と人の和解」であって、そうして創造の業の完成し、創造されたすべてが創造者の御許に集うことであり、そのためには人は『罪』を去らねばならない。しかし、人類の宿痾であるアダム由来の『罪』を捨てることは人間の努力の及ばないことである。

もし、人間が自らを浄められるものであれば、キリストの犠牲は要らず、人類はこの世を改善できたであろうが、今日見る通りにこの世は悪や不義で一向変わらずに住み難く、人の寿命は苦しみの内に尽きてゆく定めを免れず、その生涯はまことに虚しいものとなっている。

そこで『罪』は人間以上のものが行う「浄め」を必要とする。それを成し遂げるのがキリストの犠牲を介する『贖罪』であり、その祭祀を執り行うのが、天界のイエスとそれに寄り添う『聖なる者ら』による『神の王国』であり、彼らこそが真実の『アブラハムの子孫』であり、パウロは彼らを血統上の肉のイスラエルと対照して『神のイスラエル』と呼んでいるのである。(ガラテア6:16)

本来の過越しの翌々日から数え始めて五十日目はシャヴオート(五旬節)であるが、その日には過越しの無酵母パンに代って酵母の入った二つのパンが捧げられる。(レヴィ23:15-17)*数得る「安息日」はユダヤ教の解釈に従う
それは小麦の収穫の始まりでもあり、畑から最初に収穫された小麦から作られていた。

その四十九日前のキリストが復活を果たしたニサン16日は、ハグ ハ マツォート(無酵母パンの祭り)の二日目であり、小麦より早く実る大麦の初穂の束が神の御前に捧げられるよう律法に規定されていた。イスラエルはこの行事より以前に初物を食すことが許されていなかった。従って過越のパンは大麦ではない。またそれは肉体を持ったキリストがこのニサン16日に人類の初穂として始めて霊体への永生の復活を果たす予型であったとみることができる。小麦の無酵母パンは『罪』の無いキリストの御体を表していたことであろう。

一方で、シャヴオートでは酵母を含ませたパンが焼かれて御前に捧げられるが、それは相変わらずアダムの罪を宿してはいるものの、『新しい契約』によりキリストの犠牲の仮の適用を受けて『義』を承認され、キリストの復活後四十九日を経た後『聖霊の油注ぎ』を受けて再生して現れ出でた『聖なる者たち』を予表していたと見るのが自然な捉え方であろう。(ローマ8:1・ヨハネ3:5)



◆キリストの血の意義

もちろん、キリストの血の犠牲はやがて全人類を益するものとなるにしても、神はまず大祭司キリスト(ヘブライ3:1)とそれに従う祭司たちを事前に召し出すことを企図されたが、それはモーセの律法の祭祀制度によって予告されていたのであり、モーセの崇拝制度に於いても、イエスのそれに於いても、双方共に祭司らを任命せしめたものは『子羊の血』の犠牲であった。

やはりイエスは、使徒らに差し出した葡萄酒の盃について、『これは、多くの(偉大な)人のために流すわたしの契約の血である』と述べて、それを使徒らに飲むようにとも言われる。それは象徴とはいえ律法が飲血を強く避けるように命じている掟を踏み越えることである。ユダヤ教徒はこのセデルの食事に四杯の葡萄酒を儀礼に飲むようになっていたが、それを血と意識することはなく、むしろそのような意味なら嫌気すべきものになり、飲めたものではない。

最後の晩餐のおよそ一年前、イエスが自宅を持たれたカペルナウムにおいて、群衆に『わたしの肉はまさしく食物であり、わたしの血はまさしく飲物である』また、それらを取り入れる者は『わたしと結びついて、わたしもその者と結びつく』と言われたときに、律法に教育されてきたユダヤ人の群衆は『いったい誰がこんな話を聴いていられよう』と言ってはイエスと使徒らから離れていったことがあった。(ヨハネ6:53-66)

古来、律法では、飲血をする者は重罪を負うのであり、血抜きされていない肉を食することも同罪であった。(レヴィ17:10-12)
それゆえ今日のユダヤ教徒もこの禁令を守って食事に注意するのであり、ユダヤ教から更に後退した「エホバの証人」に至っては輸血も拒否することが知られている。だが、律法にも明記された血の禁令の意義は、何が何でも血を体内に取入れないことを固守するところにあるのだろうか。具体的な飲血への禁令が指し示す、より高度な意義は存在しないものだろうか。

血の禁令は律法から更に遡って、大洪水後のノアへの指示にも見られるものであったが、人類の再出発に当たり、神はこのように言われている。
『すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その生ける魂である血のままで、食べてはならない。』(創世記 9:3-4 )

確かに律法も飲血も血抜きされない肉を食することも禁じている。
『イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者の誰であっても、血を食べるなら、わたしはその血を食べる者に敵してわたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。』(レヴィ17:10)

これは今日のユダヤ教に至るまでの律法に従う場合に強い禁止条項である。だが、異神崇拝や御名の侮蔑、また著しい悪行のように民がこれを処刑するように命じてはいない。侵す者は断たれるべきであったにせよ、神自らが処置を下すと述べられた。そこで、イスラエルの歴史では血を食してしまったものの、命を長らえている例を見出す。しかし、それで赦されたということにならないであろう。(サムエル第一14:31-35)

しかし、律法中の飲血の禁令が目指した対型的な意味は、物質的な血液をただ体内に取入れてはならないというところにあるわけではない。
レヴィ記には神の語るところとしてこのように記されている。
『 肉の魂は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、贖いをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は魂であるゆえに、贖うことができるからである。』(レヴィ17:11)

この言葉のゆえに、動物の血が贖罪のためにイスラエルに与えられたと捉えることもできるであろう。
即ち、動物の肉が祭壇で焼かれる一方、血は祭壇の下に注ぎ出されて*その魂がイスラエルの罪を贖うために彼らに一度与えられたが、それでも『魂』の所有権は終始神のものである。(エゼキエル18:4)ゆえに、神のものを贖罪に用いたとしても、その用法を誤るべきではない。*(血も肉と共に焼かれる規定もあったが、これは滅ぼされる魂があることを示すのであろう)

レヴィ族の祭司たちが動物の血を扱ったのも、彼らが抽象物としての『魂』(ネフェシュ)を直接に手で扱うことが出来なかったからに相違なく、そこで血という具象物を儀式に於いて取り扱うよう命じられたというべきであろう。人が魂という抽象物の神の所有権を尊重するためには具象物の儀式的扱いを行う以外にない。これが血の禁令の意義を成している。

然るに、魂とは血液だと神が語っていたのではなく、血液の成分の中に『魂』に相当する部分があるということにもけっしてならない。血は魂の表象であるに違いなく、そうなれば、神はこの禁令を通して何かを教えようとしていたに違いない。

したがって、飲血がまったくの罪を犯すか否か、もちろん輸血が良いか悪いかを含めて、その禁令の外面をひたすらに守ろうとすることは、そこに込められた象徴的意義を学ばないばかりか、まるで的外れなことになる。それはキリストの当時のパリサイ人が申命記の「シェマ、イスラエル」にある『その言葉を目の間に置き、手に結え』との命令を言葉のままに経札を額に括り付け、手に巻いた行動が表わしたように、自己義認のために事の本質を悟れなかったことの繰り返しである。

逸脱を加えて、禁令に含まれるのは血の全成分か、血清は対象外かなどと論じ始めるなら、それはまったく即物的にだけこの禁令を捉えることに於いて、ユダヤ教に増して律法的であり、肉的な蒙昧というほかない。象徴的意義に目が開かれず、専ら具体的禁令に注意が向くからである。そこにキリスト教での次元上昇は起こっておらず、律法が意味した事柄を悟り、それを完成するに至らないばかりか、ユダヤ教よりも後退しているのである。

エホバの証人のように、輸血を含めて血を飲まない潔癖さばかりに神の御旨があると考えるなら、その人は血の禁令に込められた真意を見出すことなく、自己義認への関心に終始することであろう。その関心の対象は神の御旨でなく自分の義による救いの達成であって、それこそは律法的服従の恐怖の宗教というべきである。


では、血そのものが象徴する意味は何であろうか。 
これは神の観点から見る必要があろう。 

先に見た創世記のノアへの血の禁令に、神自らが次のように補足している。
『あなたがたの魂の血を流す者には、わたしが必ず代償を求めるであろう。いかなる獣の手からも代償を求める。兄弟(同士)である人にも、わたしは人の魂のために代償を求めるであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自らの象りに人を造られたのであるから。』(創世記 9:5-6)

ここでは、キリストのペテロへの戒めの言葉である『剣を執る者は剣によって滅ぶ』の句が思い起こされる。
殺人に込められた精紳は、身勝手に創造物を消去する願望であり、これには人ばかりか他ならぬ創造者であらせられる神が代償を求めると言われる。神は『全ての魂はわたしのものである』として、命を以って動くあらゆる創造物の所有権を明確にしているのである。殊に人は神の象りである。(エゼキエル18:4)

また、最初の殺人となったカインとアベルの事例をも彷彿とさせる。
カインがアベルを憎んで自分の耕地に連れ出して謀殺した後、『お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる』と神はカインに言われている。(創世記4:10)

この最初の殺人により、農耕者であったカインは弟の血で土地を汚して放浪者に身を窶すこととなった。象徴的にアベルの血は代償を求めていたが、その意味するところを言えば、神の創造物、それも『神の象り』に創られたひとりの失われた『魂』アベルという存在に対する神の所有権が荒らされていることの言い開きが『血の叫び』によってカインに求められていたと言える。

そしてこの最初の殺人に於ける神の求める血の代償を引き合いに、後代の使徒パウロはキリストの血を敷衍して『アベルに勝って声を発する注ぎかけの血』と記しているのである。(ヘブライ12:24)

やはり、血の禁令が教えるものは、創造物に対する創造者の所有権であることが示唆されている。⇒「命に優る魂」
人々に動物の肉を食するのを神が許すにせよ、それらの創造物の所有権を人に許したことにはならない。創造者は創造者なのであり、そこには何者も侵すべきでない所有権が存在するのはまったく理に適ったことである。

イエスは『体を殺しても魂を滅ぼせない者を恐れるな』と言われる。聖書中に『死んだ魂』なる語はあるが、死んでも『魂』は神の内には滅んではいない。そうでなければ、キリストの魂はどのようにして『墓に捨て置かれず』復活に達したのか。

やはり『魂』は抽象物であって、 本来、人がこれが『魂』であると示せるものでない。
ゆえにアドヴェンティスト派が主張するような「その人そのものが魂である」ということもまず成り立たない。そうでなければ、動物なりの身体が死んで後に、その『血は魂であるゆえに』地に注ぎ出すようにと神が命じた意味もないことになる。何故なら、その動物にせよ人にせよ、そのものが死を迎えたときに魂も滅んでしまっていることになるからである。

したがって、肉は焼かれ食されても、飲まれない血の処置は、肉の滅びを超える「魂」という抽象存在を人に明らかにしている。創造神の記憶の中で、死んだ人々さえ魂によって『神にあっては生きている』と自らの死を目前にしたイエスが言われている。。(ルカ20:38)

したがって、血の処置をしようとしまいと、魂は常に神のものであり、『魂』の存在を人に明示することが血の処置の目的というべきであり、重要なことは血の扱い方ではなく、創造物に対する神の所有権への畏敬であることになる。

それであるから、魂が肉体の死をも乗り越えるとはいえ、死に面しても医療上の理由からではなく、輸血を謝絶することで神への忠節を全うできると思うなら、その決死の自己義認も、自ら死を早め、また早めさせる事によって、むしろ神の所有権への正反対の行動をとっていることになるがそれで良いのだろうか?

この点では、神の『魂』への権利を侵す者、それはまずサタンである。サタンは『そのはじまりに於いて殺人者であり』、そのうえキリストの殺害を望んでいたユダヤの体制派の者らは『その裔』であった。(ヨハネ8:44)

その祭司長派らがどれほど血の禁令を守っていたとしても、それはまったく無駄である。なぜなら、血を飲まず食さない外面を守って、実にその教えに真っ向から逆らい、キリストというこれ以上ない創造物の魂に対して殺意を懐き、その神の所有権を奪おうと目論んでいたからである。(民数記35:33)

キリストの流された血には、当然にその魂の代償が求められる。そこで求められるのは奪った者の血である魂となるであろう。律法では、殺された者の身内が『その血の復讐をする者』(ゴーエール ハ ダーム)となって殺人者に正当に殺害することが許されていた。(民数記35:27)

そうなると、遂に罪を犯さなかったキリストが磔刑で死亡したそのときに、イエスの血の表す魂の報復としてサタンの魂(血ではなく)が求められる道理が生じたと言い得ることになる。まして、神ご自身がキリストの近親者ではないか。ここでも血は魂の表象であり、実体ではない。

キリストの魂をしてサタンの魂を求めることが意味するものは、『死の権力を持つ者、即ち悪魔をご自身の死によって無に帰せしめ』たというパウロの言葉に表れているというべきであろう。即ち『魂には魂』であり、『魂』が常に神の所有するところであったにせよ、生きている魂を死に至らしめたその悪意ある魂に対する咎は、神の所有を勝手に侵すものである。故に、神は必ずやキリストの血という一度肉体により死を経た『魂』への報復をサタンに為すことであろう。(申命記19:21/ヘブライ2:14/レヴィ24:17-18)

そしてキリストの魂は墓に捨て置かれず、イエスが霊に復したときには、 その魂は再び生きるものとなった。
『「最初の人アダムは生きた魂*となった」・・・・しかし最後のアダムは命を与える霊となった。』ともパウロ言う。(コリント第一15:45)*(アダムの魂はこのときに生じた)

キリストの魂が保存され復活を遂げたことは、その殺害を為したサタンの魂への報復が将来に求められることを必須とする。加えてイエスの体はアダムの失った肉体に代替されるがゆえに、アダムの子孫はイエスという『とこしえの父』を得ることになるのである。
したがってキリストの肉体が永久に消滅したと言い得る理由もあることになる。イエスは魂と共なる肉体を犠牲として捧げ、復活を受け霊者としての命に入ったからであり、化肉はあったとしても、復活後は人間ではないからである。(使徒2:31/ローマ5:12/イザヤ9:5/ヨハネ20:15/出埃12:10/ヨハネ第二7) 

加えて、キリストの流された血の意義は、以上の魂の贖いに留まらず、更に成し遂げるものがあった。
それが契約の発効である。


◆血の浄め

律法の規定する祭祀の施設と什器には、『罪の捧げ物』とされた雄牛の血が付けれ、そうしてはじめてそれらが正式に使用された。それが浄めの儀式となったからである。(ヘブライ9:20-21)
また、その以前の律法契約の締結の日には、モーセがやはり雄牛の血をヒソプの小枝を用いて民に振り掛け『これは神があなた方に求めた契約の血である』と言っている。(出埃24:8)

この儀式では、聖なる神の関わる事柄に罪の汚れがあってはならないことが知らされている。
聖なる神が罪ある人間と契約を結ぶことには、初めから無理があったので、そこで罪という障碍をどうするかの問題は避けられない。

そこで神と人との間には罪の相殺が必要となるのだが、それを果たすものが「犠牲」であり、人の罪に対する応報を別の罪無き者が受けることによって、罪ある人も初めて聖なる神と交渉でき、契約を結ぶことも可能となり得るということになる。その手順のなかで血が犠牲を表す象徴物として用いられていたのであり、血というそのものが実体であったのでもないので、キリストも液体の血のそのものを携えて天に行ったわけではない。(ヘブライ9:12)

例えれば、律法契約においては、雄牛が犠牲となっていたのだが、贖罪のために24組の祭司らが全員で民が捧げる無数の犠牲に血まみれになって一斉に祭礼を行っていても、パウロも言うようにそれが真に人の罪を赦すには至ってはいない。あるいはモーセが血の犠牲となったとしても、もとよりアダムからの命に生きたモーセに有効な犠牲を捧げることはできないし、神もそれを求めていない。(ヘブライ10:4)

それであるから、シナイ山麓でイスラエルの民に注がれた雄牛の血も、祭祀の設備に塗り付けられた血も、それらはすべて仮のもの、即ち血の使用は儀式であり、まさしく完全なキリストの魂の象徴としての使用であったことになる。

イスラエルの中で為された旧約の預言の数々に加え、律法契約そのものも後代にもたらされることになっていた真正に価値あるキリストの犠牲の血があってこそ意義をもったであろう。それは動物を二つに切り裂いたアブラハムとの契約にしても同様であろう。(コリント第二1:20/創世記15:19-20)

それゆえヘブライ人への手紙は、その第九章十五節で『契約*のあるところには、契約*した者についての死が求められる』としているのも、この神と人との罪の隔ての溝を埋めるものを指摘していると言えるのである。*(この”ディアスェーケー”をわざわざ「遺言」と訳すのは容易に理解させるためであろうが逆効果ではないか)

そしてキリストの死がもたらしたものは、これらの契約すべてに関わる犠牲の血であったゆえにパウロはこう言うのであろう。
『神の約束は、この方において何事であれ「然り」となった』(コリント第二1:20)

キリストの血の働きのひとつに、アブラハムの裔となる人々と『新しい契約』を締結され、彼らに早い贖罪をもたらして『初穂』とし、聖霊を与えてその証しを印すという重要な意義も含まれていた。


こうして幾らか見渡すだけでも、キリストの死とその流された「血」の意義の大きさ多様さに驚かされる。古代からの神の人との関わり、そして契約や約束を過去に遡って真実なものとし、創造界に悪と死をもたらした元凶であるサタンとその裔を無に帰せしめ、神の経綸を揺るぎなく推し進めるものとなったのがキリストの血の犠牲であった。

しかし、キリストの「血」の働きもこれらは前段であり、その後により壮大な神の経綸を成し遂げ、遂に創造の意図を完結させることになる。
その「血」が、滅びゆくアダムの子孫すべてに命をもたらすという、言語に絶する偉業の原資となるのであり、イエス・キリストはまさしく『命』であられ、またその意味に於いて『命の創始者』であり、まず聖なる者らが『復活したキリストの命にあって共に生きる』ことを可能ならしめたが、やがて人類にその命が広げられることになる。(ヘブライ2:9/ヨハネ14:6)

そこでイエスが自らの血を象徴する杯を取って『この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である』と言われたことをルカがその福音書に記すが、マルコやマタイが『多くの(偉大な)人々のために』とされているからと言って、主の晩餐に於けるこの杯がアダムの子孫全体に罪の赦しをもたらすものと捉えることを阻むのは、共観福音書が揃ってこの杯について『契約の血である』と明言していることである。(ルカ22:20/マルコ14:24/マタイ26:28)

即ち、その血は『新しい契約』に罪ある人々が入るために必要なキリストの死の犠牲が捧げられたことを示す具象物であり、飲血の禁令を乗り越えてその杯から葡萄酒を飲むということは、契約のための犠牲に預かることを象徴しているのである。それが異例な価値を持っていることを血の禁令が指し示してもいたことになる。

もし、飲血が日常習慣になっていたとするなら、その人々にとって血を飲むということに特に意味の無く、創造物の命の由来者である創造の神に対する畏れも、創られた方への魂の所有権に対する敬意も感じさせはしないに違いない。(詩篇36:9/エゼキエル18:4)

エルサレムの使徒会議で主の弟ヤコブの出した議決に、諸国民からの転向者に偶像や淫行と共に『血と絞殺された物を避けるよう』にとあるのは、『新しい契約』に預かる『聖なる者ら』で満ちるエクレシアイにとって極めて適切な指示であったということができる。(使徒15:29) 

それはモーセの律法がどの街に於いても『安息日ごとに会堂で読まれているから』というユダヤ人イエス派信徒を躓かせないというヤコブ自身の配慮以上の働きをすることになったと言えるであろう。

また、これを以って律法のこの条項が継続したとは言えない。これらの規定はヤコブが独自に考えたものでもなく、コルネリウスのような無割礼の異邦人がシュナゴーグでユダヤ教の会衆に交わるに際しての、当時の会堂の最低条件であったものを列挙したのであった。ヘレニズム世界では各地で、神殿での偶像礼拝や会食また売春や同性愛、さらには血を飲むばかりか、祭礼として全身に浴びるなどの慣行が当時広く存在していたからである。(使徒15:21) ⇒ 「エルサレム会議に見るキリストの弟ヤコブの寛容」

そこで、血の禁令を続けるユダヤ教イエス派の者らと、無割礼の異邦人らとの間にも一定の規定を残す必要が生じていた。双方の常識は余りにも異なっていたからである。ヤコブは依然として会堂でモーセの朗読を聴くであろう両者が分裂しないための方策として、血の禁令を含むユダヤ人が躓かずに異邦人と集まれるよう、無割礼を許しつつ幾つかの条件を残したのであり、ヤコブ率いるユダヤ教イエス派は依然として『律法に熱心』であって、パウロにはナジル人の習慣行事に参加するように促しているところからも、ヘブライストの信者らがどれほど後のキリスト教と異なっていたかを顕している。(使徒21:20-26)

だが、これがキリスト教の根幹を成す規定ではないことは、新約聖書にヤコブの発言として出るのみで終わっていることからも明らかである。ヤコブの裁定により、初期異邦人キリスト教徒に中にも血の禁令を守る習慣がしばらく残っていたにせよ、今日のように、ユダヤ教イエス派が消滅している現状に在っては、大きく意識の異なる『二つの民』へのヤコブの配慮も過ぎ去ったものとなっている。(エフェソス2:15)

律法に従うユダヤ人にとっては『血が魂』であったにせよ、キリストの血の犠牲の価値を知ったキリスト教徒にとっての実際の血は、儀式において『魂』を象徴するべきものであったが、それはやはり赤葡萄酒という代替物に代えられており、血のそのものが神聖なのではなく、『魂』こそが創造神の所有に帰するものとして神聖視されるべきなのである。創造神に於いて『魂』とは、肉体や命に優るその人の真の存在だからである。⇒「命に優る魂」

他方、一途に血の禁令を守って来たユダヤ教徒やイスラームからすれば、神が律法を通して強く戒めていたゆえに、依然として飲血は考えられない悪行である。そこでは神の創造物に関する権利という概念をわきに置いて、とにかく血を飲まないということに意識が集中していたであろうことは、『人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』との主の言葉を聞いたときの失望と群衆の霧散によく表されている。その言葉を聞いても残ったのは、一年後に『主の晩餐』に預かることになる十二使徒だけであった。(ヨハネ6:66-70)
 
主の帰天後のユダヤ人イエス派は、年毎の『主の晩餐』に於いて象徴的ながら血を飲むことになる。それも神の最も愛される御子の魂を自らのものとする儀式を行うのであるから、固い血の禁令にあったればこそ、そこにある種の躊躇さえ感じられるほどに、その犠牲を尊んだことであろう。

この『主の晩餐』にユダヤ教徒はイエス派を攻撃する口実を見つけさえしたようである。
というのも、ユダヤ教徒が異邦人の間にイエス派は子供の肉を食し、血を飲んでいるとの噂を流されていた為、その誤解からキリスト教徒はしばしば迫害を被っている姿が資料に残されているからである。

ユダヤ教徒からすれば、ただただ飲血の儀式は忌まわしい行為であり、他方で異邦人はその犠牲者が子供だと聞けば不気味さと義憤とを禁じ得なかったに違いない。
ゆえに、ユダヤ人イエス派は『主の晩餐』に於ける象徴的飲血によってもユダヤ教徒と袂を分かつことになったと言えるほどである。それはもはやセデルの祝杯ではなく、決然と杯をあおって飲むべき主の血を表した。ここに於いてキリスト教の葡萄酒の表象は、既にユダヤ教の血の表象を成就し、且つ超えていたのである。そこでユダヤ教の肉と血による崇拝方式が過去のものとなり、キリスト教に於いては、実際の肉と血を扱う機会は皆無となった(コリント第一10:16)
 
それでも弟子らは、血を飲まずに注ぎ出すユダヤの祭祀を超越し、年毎に主の血の杯から象徴的に飲み、他の聖霊を受けた人々と共に『新しい契約』に入ったことに感謝を捧げていった。
ゆえにディダケーも『主の晩餐』を「エウカリスティア」(感謝)と呼んでいる。

彼らにとって主の死によって得られたものは、罪からの浄めであり、ほかの何者からもけっして得られることのない異例に高い価値ある立場、キリストの兄弟、共なる相続者、神の子であった。(ローマ8章)
殊に、異邦人信徒の場合、キリストの血に飲むことは『キリストの血によって近い者とされる』ことを意味し、血統の『隔ての壁を取り除いた』のであり、そうして『神のイスラエル』へと導かれることになったことをパウロが書いている。 (エフェソス2:13-14)

それゆえ、聖霊の降下のない今日、キリストの魂に関わる神の所有権を尊重し、誰も血を表す葡萄酒にも、またキリストの肉体を表象する無酵母パンにも与らない『主の晩餐』ではあるが、そこに込められている意義には極めて深いものがある。
 
象徴にせよ、血の禁令を超えてキリストの血を飲むことを神に許された聖霊を受ける者が現れるなら、その者こそはキリストの魂の価値を自らのものとする。象徴的飲血を経て初めて彼らはキリストに近しい者、「キリストの兄弟たち」となるのである。(エフェソス2:13/マタイ25:40)
異邦人であっても彼らは、象徴的飲血によって『聖なる者らと同じ市民であり、神の家族である』ともパウロは言う。(エフェソス2:19)

以上の論理からすれば、これは即ち、神の所有に帰するべき、それも飲血を介して独り子の魂を自らのものとすることを神に許されるということになろう。もちろん、それでもキリストの魂は依然神のものであるが、聖なる者らには共有が許され、最終的に『キリストに預かる*者となる』のである。(ヘブライ3:14)*[ギノーマイ]「渡される」

従って、葡萄酒の杯から飲む者はその契約に入るゆえに驚異的なまでに恵まれているというべきである。


◆儀式の価値

しかし、『主の晩餐』で葡萄酒をただ飲もうとするなら、それは簡単なことであり、その儀式がその人に何らの変化をもたらすこともない。また、キリスト教が実際の飲血を勧めているわけでもなく、むしろ逆である。だが、医療としての輸血や血液製剤、果ては人工透析の是非を、旧契約である律法の規定から捉える意味もない。尤も医療手法の選択としてであれば別であるが。
(エホバの証人の輸血謝絶は、自己義認のための他宗教との差別化がその目的となっており*、タルムードのような多くの規定の細目を作るばかりで、その決然たる意志も神の前に然したる意味も無く、却って魂への畏敬からすれば、命の軽視につながることに於いて有害である)
*以前には種痘を拒絶していた。迫害下の地域では教団を摘発から保護するため信者であることを隠し輸血を習慣的に拒否しない。
 
一方で、キリスト教に於けるパンも葡萄酒も、なおキリストの肉と血の実体には成り得ないし、たとえその実体がそこにあったとしてもなお、それらが象徴するもの、即ち、キリストの霊体と魂こそがパンと葡萄酒の実体なのであり、それらは共に神の許に納められている。出エジプトの子羊が残さずに焼却されたように、キリストの肉体もニサン16日には『エルサレムの城外』即ち『宿営の外』で捧げられて消滅しており、神による魂の保存によってキリストは霊体に復活を遂げられている。

そこで重要なことは、ふたつのエレメントを実際に飲み食いするか否かではなく、パウロが言うように『自分を吟味し』それに預かるか否かという認識の方であり、その認識をもたらすものはその人に聖霊の顕在がなくてはならないに違いない。(コリント第一11:27-29/ローマ8:9)

まるで知識なく『主の体を弁えない』で飲食するならまだしも、知識を持ちつつ敢えて誤った仕方でそうするなら、それに咎めが臨むことをパウロは『裁きを飲み食することになる』と警告する。

この会食儀式であっても実体ではなく、彼らとの主の会食は、天界で十二使徒と共に再び行われるときに成就するのではあるが、その王国の設立の時となる『新しい契約』が成果を収めるとき、それが如何ほどの重さを持つのかに列席する者の認識を培う機会とすることは誰にもできることであり、また、そうするべきであろう。




本年2016年のニサン14日は、4月21日(木)の晩から始まった。
全国的に雨がちの天候ではあったが、それぞれに挙行の連絡を頂いている。

本年の把握しているところは以下の通り
東京、埼玉、北海道(道南)、北海道(道央)、富山



ユダヤ人はペサハの後、シャヴオートまでの四十九日の間は恰も服喪のように慶事を避けるとのことである。(33日目だけは例外とするが)
それは無酵母パンの祭りの持つ厳粛さの影響とも言われる。

主はニサン十四日の晩を、明らかに特別な仕方で過ごされた。
それは出立を前に、十二使徒と彼らを通して聖なる者らに契約と訓戒とを教えるという「キリストの過越し」となった。

それから使徒らガリラヤ人の集団はエルサレムで服喪の如くひっそりと過ごし、遂にシャヴオートの朝を迎えた。それはキリストの犠牲が神の御前に受け容れられたことの証しとなり、キリストの業は弟子らに受け継がれ、異言を語る彼らには世界へ向けた業の拡大が託されたのである。その日に聖霊を受けた百二十人は、ペテロを先頭に諸国へ向けた宣教の第一歩を踏み出していった。

彼らを自らの血によって贖った主イエスの自己犠牲を鑑みるに、罪深い人類と、悟りの遅い弟子らへの慈愛、また、父である神ヤハへの忠節な愛の偉大さに感じ入り、また自らの矮小な有様を恥じ入る次第である。

その死と復活が成し遂げられてから50日後の初穂に相当する聖なる者らの現れは、何と言う価値ある酬いであったことか。
象徴的サラが史上初めてアブラハムに真の子らを生み始めたのである。(ペテロ第一3:6)

終末のパルーシアに於いて、再び彼らが現れ、その全体が揃うときに、その深い意義を悟る者がひとりでも多く在り、『人の子が来る時、地に信仰を見い出すだろうか』の主の懸念に対して、ご利益信仰でなく、聖霊に信を置ける人々が聖徒らの主の臨御に答えられる日を是非とも見たいものである。いや、そうなるのであろう。

御同志の諸氏の見識の高さに敬意を表しつつ、共にその日を見ることを念願する次第である。



 林 義平



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