マゴグの地のゴグ その素性を暴く

長文 追記含二万七千字超
難易度 ☆×7  特高 (基礎知識なしに読解は困難)
基礎知識:「聖霊と聖徒」 エゼキエル書36章 38章 39章 列王記第二8:7-  黙示録11章以降 ダニエル書7章以降 テサロニケ第二2章 マタイ24-25章
概要:「大患難前に破滅する北の王」に擁立され『北の王』の権力崩壊後に圧倒的に顕現する契約脱落者  / 「イスラエルの山地」は地上の場所ではなく「二度救われる女シオン」を指す /  黙示録の「ゴグとマゴグ」は別物  / 「ロシュ」はロシアでなく「北の果て」は方角ではない / マゴグは脱落聖徒の
集団であり頭目のゴグは『南の王』に偶像化され「666」崇拝を興す /「第三神殿」と共に終末への秘儀である「大衆的宗教解釈」が強制的に世を覆い 裁きの罠となる / 天界のキリストの王国に対しゴグは地上の神の王国を打ち建てハルマゲドンに軍事力を結集し同士討ちで諸国の権力は自壊し世界はカオスに陥る  / キリスト教徒か否かに関わらず誰も影響を免れない  ⇒ 「四騎士



『マゴグの地のゴグ』とは、如何にも暗い響きの名前ながら、旧約聖書の預言書の中に在っては一際異彩を放って格好のオカルト系の題材ともされてきた。そこで『マゴグの地のゴグ』については耳にした人もそう少なくもあるまい。

他方で世の大半の「キリスト教」宗派の解釈と言えば、ゴグについて書かれた言葉の表層から、終末での実際のパレスチナ・イスラエルへの北方からの攻撃を説くばかりである。
また、エゼキエルは黙示録のように「ゴグとマゴグ」とは述べておらず、それと同一視するのは、千年期の後を描くヨハネ黙示録のゴグに関わる名称との混同であり、エゼキエルの『マゴグの地のゴグ』とヨハネの『ゴクとマゴグ』とは役割が相似してはいるのだが、明らかに時代が千年も異なり、別の者らの実体を指している。 黙示録の描くものは、千年支配の後に生じる一般の復活に伴うものであるのに対し、エゼキエルのものはそれに先立つ『神の王国』の到来に抗うもので、今日までの世界体制、『この世』の終わりに位置する事象であることが双方の記述の異なりから分かる。

やはり『マゴグの地のゴグ』とは、確かに「終末」への宗教的空想力を掻き立てる名称ではあるのだが、エゼキエル書の難解さのために、今日までにまともにその実体が知らされたとは言い難く、傾聴に値するほどの解釈を見聞きすることもまず期待できない。だが、以降に見るように、『マゴグの地のゴグ』と呼ばれる者が終末に果たす役割は全世界を巻き込む大災難を起こすことにあり、ただイスラエルの地方での限定的な戦役を意味しないと判断すべき理由がある。


◆背景
さて、この預言者エゼキエル、ザドク系祭司の『ブジの子』と自己紹介する預言者本人については、エホヤキンと共に捕囚となった5年目の前597年からバビロニアのユダ捕囚民の中で預言者また有責の警護者として任命を神から受け、前571年に至る26年間に啓示を飛び飛びに受けていることがその記述から知られる。
その預言する間にエルサレムの陥落が起ってダヴィド王朝が倒され、神殿も滅び去り、律法契約の履行も不可能となった。そうしてモーセ以来の契約は宙に浮いてしまったのであった。

神殿が破壊され、契約の中断した西暦前586年を境にしてエゼキエルの預言の内容もその第33章以降、諸国とユダとイスラエルの罪を糾弾する内容から終末的黙示へと変化しており、『マゴグの地のゴグ』を記す部分から後13年を隔てた前572年に受け、最後の預言となった第40章以降の「神殿の幻」と共に終末への謎が解かれぬまま今日に及んでいる。

このエゼキエルが記した預言には神秘的また抽象的な事象が数多い。
それはほぼ同時代、ユダの地と首都エルサレムの荒廃が近付く中で、神の裁きに直面した王や民の具体的な事柄を預言した同じくザドク系レヴィ族祭司のエレミヤが、同朋の人々との対立的会話を多くし、ユダ王国の荒廃を迎える中で、彼が体制派の不信仰な人々と論争を続けたために預言の対象が人物やユダヤ体制となり、語られる内容が極めて具体的であったのとは対照的で、エゼキエル書は最初から天的な異象を幻視し、エゼキエルが住んでいたカルデアの居留地に神YHWHが天界の戦車(リケーブ)に乗って神殿から遥々と行幸される姿の幻をもって第一章が描かれ始めている。

このようにこの預言書には終始抽象的な内容と幻が満ちており、実際、『幻』[ハズン]という語が多用されることではエゼキエル書とダニエル書とが双璧を成すほどであり、やはり度々に幻に於いて捕囚の身上である彼を、神は瞬間的な移動させ幾つもの情景啓示を目撃させているところで、預言者としてはイザヤやエレミヤよりは幻を見るダニエルやゼカリヤに近く、また黙示録に通じるものが見受けられる。現に『ゴグとマゴグ』と述べて共通するのはヨハネ黙示録なのである。
また、そこには『ケルヴ』と呼ばれる種類の天使らの特異な姿も見たままに描かれているが、そのような描写は聖書中で初出であり、ほかに描いたのは新約聖書の「黙示録」の著者でエーゲ海の孤島で啓示を受けた使徒ヨハネばかりである。

この抽象性がエゼキエル書の特徴であり、彼が見た幻視の数々の象徴が黙示的記述となって二千六百年もの間、旧約聖書の中に今日に至るまで静かに佇んできた。
本書の特に全48章ある内の後ろ三分の一が、前述のように新バビロニアのネブカドネッツァルの攻囲によってエルサレムが陥落してしまった後に与えられた霊感であり、それらの内容は当時を離れて遠く『末の日に起る事柄』とされる通りのものとなっているので、記述の内容は前6世紀の過去から一気に現代の我々をも飛び越してこの世の終りに及んでいる。

その中で『マゴグの地のゴグ』という言葉が唐突に表れるのもこの預言書の第38章からであり、次の章ではこの『ゴグ』の側の惨めな敗北が描かれているところからすると、『ゴグ』の行うところも、刈り取る結末も何一つ善いところがなく、しかも活動できる期間も短いことが分かる。

しかし、エゼキエルの預言で語られている、この『マゴグの地のゴグ』なる何者かは深い謎と匿名性に覆われており、それがますます人々の知る欲求を募らせるものとなってきた。

そこでマゴグとゴグという名で調べてみると、聖書中にはマゴグというヤペテの子にしてノアの孫の名が人類の系譜を記した創世記と歴代誌略第一に民族名のマゴグとして出ているばかりで『ゴグ』との関連は分からない。

ヨセフスによれば、マゴグの民はあの獰猛で知られるスキタイの民となったと云うが、エゼキエルの預言は、スキタイ人にせよが『末の日』に神の土地を侵略するというだけのことを言うよりは、『ゴグ』と呼ばれる個人について多くを語るのであり、これは「特定の民族に注意せよ」というのが神の啓示の目的でないことが預言の内容に明らかである。

だが、マゴグという種族があったこと、それが歴史上、コーカサス山脈の向う、ユーラシア大陸の北側に住んでいたことのほかには、この預言の意味を知らせる情報を聖書は与えていない。エゼキエルの預言が『マゴグの地のゴグ』を述べるのに『メシェクとトバルの君主の長』としているが、これはパレスチナからすれば北方と言えなくもないのだが、これは小アジアの北西側を意味した*とのことである。*(Keith Carley) "The Book of Prophet Ezekiel"1974

それであるから、『マゴグの地のゴグ』と呼ばれる何者かに対する理解は実質的に封印されており、サマリアのタルグムの註解は『ゴグ』をローマ人であるとし、アウグスティヌスはゴート人のことであると、それぞれに自分たちの視点から「解明」してはいるのだが、歴史の遥か下流から眺める我々が納得するわけもない。彼らそれぞれに異民族の侵入を見ては「世も終わりだ」と思えたかも知れないが、終末は遥かに未来のことであったのだ。

そこからの教訓といえば、何時かの情勢を指して類似を指摘する以上のもの、即ち、神と人との重い関わり、「裁き」のようなテーマ有ってこそのエゼキエルの預言なのではあるまいか。これが書かれて以来二千五百年も時を経ており、なお或る決定的な時を待って解き放たれる「時限ファイル」の様相を呈しているからである。
そこで、どこか似た世相の到来を言い立てることは意味がなく、むしろ、成就の時に至れば紛うことなく雄弁に語り始めてこそ神の預言の重みもあろう。それは世の情勢を告げる新聞記事のようなものでは終わるまい。

このマゴグの地のゴグの謎については、ユダヤ教徒やキリスト教徒ばかりでなく、イスラム教徒までもが口伝ハディースに於いて、「ヤージュージュとマージュージュの襲来」という、終末に世界を保護している高大な障壁を突き破り、先駆者マフディやメシアを意味するマシーフに襲いかかり、正義を脅かすユダヤ教の「ゴグとマゴグ」に当たる者らについて多様に解釈を施しているので、エゼキエルの真相を知りたいと願うとしても、探求を試みる者には様々な雑音が絶えず、知の限界も立ちはだかり、諸説が在っても、ほかならぬ神がその真相を知ることを許していないかのようである。

かつてキリストも、民には悟ることが許されていない事、知ることができない事があると言われ、使徒パウロも語ってはならない事柄があると書いている。
そしてやはり、聖書に精通した識者や宗教家であってもこの『ゴグ』が何者のことを指すのかについて誰もが納得できるような統一的見解は無い。

『マゴグの地のゴグ』が語られる第38章から第39章にかけての情報では、その者の土地が『北の果て』であり、また、終りの日には『北から』神の民に攻めかかるというエゼキエルの言葉を頼りに、北方の国家を中心とした連合軍が終末に共和国として実在しているイスラエルの土地に攻め込むという想定を立てる解釈師は多い。

また、終末の『ゴグ』の攻撃目標は正しい宗教を実践している自分たちの宗教団体であるとの主張も見られる。そう信じることが、自分たちこそが神の民であるとの正義感を高める作用もあってのことであろう。そうなると、その団体に反対する者を任意に「ゴグだ」と言えてしまうことにもなる。

それはさておき、我々は『マゴグの地のゴグ』について何を知り得るか?
エゼキエルの預言だけでなく、聖書の中に何か理解するための鍵は置かれていないものか。
また、その理解が、ただ知の欲求を満たして終わるとすれば何と言うこともない。
しかし、それが『必ず成し遂げる』と言われる神YHWHの意図、人との関わりに於ける「裁き」と「救出」について知らせるものであるなら、それが単なる知識欲の充足で終わるようなものとはならない。良くも悪くもその言葉には何らかの意味があるはずであり、最終的には神の意図を尽く成し遂げるものであるに違いない。

それを神が黙示的にエゼキエルに伝えたのであれば、記された内容が終末が近付くころに神意として人に伝えられる必要があろう。良くも悪くもではあるが

というのも、以下に見るように、『マゴグの地のゴグ』についての黙示の意味を悟らない事の損失ばかりか、むしろそれらの記述を知って居るがために神意を顧みず、自分の解釈に固執してゴグの側についてしまうというトリックが起きかねない危険が考えられるからである。



◆恐るべき神の言葉
そのような言葉の罠には既に何人もがはまっており、聖書中にもその例が少なくもない。即ち、聖書に記されたその通りに理解しようと熱意を傾け文面に精通していながら、神の意図から遠く離れてゆくという恐るべき逆行が起った例であり、思いでは著しい正義感を懐きつつも、却って巨悪に染まっていった者らの記録であり、それが聖書に刻まれている。
まさしく聖書の文面が度々にそれを誤解した人々を使役して、善ではなく悪を行わせて来たという事実は重く受け止めなくてはなるまい。しかもその悪行は神の経綸を推し進めるに必須の働きであったのである。

例えれば、メシアがベツレヘム・エフラタから来るという分かり易い知識を持ったユダヤの宗教家らは、ナザレから来たイエスを退ける行動に駆り立てられている。
預言者エリシャがシリア王の使いに向かって「お前が王になる」と言わなければ、バアル崇拝を罰する器となるこの使者ハザエルがシリア王位を簒奪しただろうか。
イエス自身、敢えて『わたしの血を飲み、肉を食す』ように語っては群衆を落胆させて解散させ、『神殿を三日で建て直す』と宣言しては祭司長派の怒りに油を注ぎ、『神の子羊』であるご自分を屠るように誘導されてはいなかったろうか。

このように聖書には人の内面にあるものが何であるのかを暴いてしまう言葉も仕組まれている。そのことはけっして忘れてならないことであり、実際、ほかならぬ聖書にその例の数々が記されてもいるのである。
イエス自身が、群衆に例えを用いて語られ、群衆には『天の王国の奥義を知ることが許されていない』と言われ、イザヤの『聞くには聞くが、決して悟らない』との厳しい預言の言葉を用いて例証されている。聖書とはこのように単なる書物という範疇を超えたものである。

まして人間というものが、アダムの子孫として裁かれる前の罪人であれば、神がどうして何もかも教えるだろうか。聖書とは、裁きに関わる厳粛な内容が込められており、人の裁き主たる神が、誰にでも善意の内にすべてを知らせるわけもない。
黙示録での復讐に燃えるイエスの厳貌を見れば聖なるヨハネさえ倒れ伏したほどであり、地上では誰をも裁かなかった磔刑上の柔弱な肉のままのキリストの再臨を教えられて喜ぶ教会員は却って気の毒なことである。むしろ、終末にはキリストの口から出ている諸刃の長剣、即ち神の言葉によって許多の人々が裁かれるとある通り、我々は聖書を字面のままに信じ込むことに注意するべきではないだろうか。

それは心の傲慢なままに硬直的な従順を神に示して取り入ろうとする下心への神からの決然たる拒絶であって、却って、神の経綸や裁きのために悪を以って用いられてしまうという恐るべき仕掛けが細工されており、まさに神の言葉は『人の想いと心の意向とを刺し分けるほどに鋭い諸刃の剣』というべきものである。(ヨハネ12:48/黙示録1:16-17)

やはり、ユダヤの宗教家の聖書への精通と確信が益となったか否かは、その人がどのような人柄であるかに依存していたこともまた聖書の明かすところなのである。憎しみの内にナザレ人イエスを屠った大祭司カイヤファのようにも、あるいは擁護した議員ニコデモスのようにも当時の人々がそれぞれに振る舞ったのは共通する知識ではなく、それぞれの人格の違いというべきであろう。
しかも、誰かが『憤りの器』となって、イエスという『神の子羊』を屠らねばならなかったのである。そこで適任者であったのは、聖書に通暁し神殿崇拝の中心の職に就いていた大層な地位にある宗教家らであった。これは恐るべき逆転ではないか。その宗教家らに追従しナザレ人イエスを処刑しろを叫びたてたのも、まさしくイスラエルの神を崇拝している者らではなかったか。イエス・キリストの死そのものが大いなる宗教パラドックスであったのだ。

その点で、ただ教理を学び信じることを「信仰」としているなら、それはイエスを処刑したユダヤの宗教家らに変わるところがないことになる。やはり「信仰」とはその人の内面に何があるかを示すものである。

それであるから、聖書の言葉に対して個人がどのように内面を刺激され振る舞うかによって、その結果は大きく異なるのであろうし、そこに誰でも同じく判で押したような「従順さ」は意味が無い。定まった知識でも行動様式でもなく、個人の真実な内心の意向を試すのが聖書の理解の難しい内容、即ち「裁き」の秘儀である。

そこで、エゼキエルに記された『マゴグの地のゴグ』もやはり「秘儀」の範疇に在ることはまず間違いないであろう。初臨のキリストを迎えたユダヤ人がそうであったように、それらの言葉に秘められた神の奥深さによって、人は裁かれ、善と悪とは大きく枝分かれすることになろう。そこで人々は「何をすれば良いのか」の愚問を利己心の内に懐き、自分を「義の安全圏」に立ったことにして何とか救われようと多くの宗教上の従うべき規則を渇望してきた。
だが、秘儀をどう解釈するかは自由ながら、その解釈を得てなお人はその内面を露呈することになるであろう。それが人々を分かつ『諸刃の長剣』による神の裁きである。

加えて、不思議を解く事への魔術的関心、また功名心、これらは容易にオカルトを操る悪霊に接近し兼ねない危険が潜む。そこには「当てる」か「外すか」というギャンブル的嗜好があり、尽く外してきていても「シモン・マグス」を継承するようなオカルト好きは絶えることがない。
使徒ペテロが彼を叱責したように、その輩は秘儀の外面を解く事に執心しても、神の意図を人格的、精神的に知覚することには関心もなく、不思議を愛しているばかりで悪霊的に心は捻じ曲げられているにも関わらず、聖典の周りに群がる蝿のように去ってゆくことがない。例えれば聖書の「終末」にばかり異様に執着する輩がそれである。
心の欠けた彼らは謂わば異教の祭司「ペルシアのマゴイ族の末裔」であり、自身がマゴグを構成し兼ねない存在であるのに、その断末魔に至るまで自らを省みて注意を払わないであろう。『憤りの器』は望んで自らをそう形作るのであって、そこに神の責はない。⇒ 「指名されたメシア

また「自己義認のクリスチャンたち」が自分の宗派の救いを確信するための材料としてこうした秘儀を活用しようという前提から解釈を進めようとすれば、それは利己心の伸張となりキリスト教からは逸脱する以外にない。自分たちだけは害を受けないと思えば、その利己性によって終末に当てが外れて精神崩壊に陥ることが避けられないであろう。それならばよほど不信者に希望は大きいことになる。却って聖書に精通した敬虔な者が内心の利己心を暴かれて悪に落ちるというキリスト初臨のときのような逆転は終末にも起り得るに違いない。
いずれも、真に聖である神から決然と拒否を言い渡されるのも当然である以上に、神の意図を知るという目的とは裏腹な行動に駆り立てられるようなことにはならないだろうか。

実に、エゼキエル書の後半は様々な謎に満ちており、この『マゴグの地のゴグ』にしても、第40章以降の「神殿」にしても、まず「分からない」という点で恐るべきものと成り得る理由がある。その謎を解こうとして却って罠に嵌まるという恐れである。
『マゴグの地のゴグ』が何者であるかは、人類に隠された秘儀であるに違いなく、まず解けるような謎ではない上、その本人が実際に現れてすら終末の世はそれを否定する、いや、まさにそのゴグ当人ではないとして別の解釈を広めようとし、世の大半の人々を騙し、人々もそれを望むのであろう。だが、それも終局までのごく短い期間に過ぎないと言える理由もある。

そこで『マゴグの地のゴグ』が何者かを知ったからと言って、人が益を受けるかどうかは別問題である。
即ち、終末は未到来であるうえ、本稿を含めて、その解釈がその通りであるかは分からない。神が秘めたものを人は決して知り得ないからである。その不明性こそが神意であろう。神が終末に謬説を用い、人々を篩い分けて裁くためである。人は、その内心の欲に引き出されてそれぞれ謬説を信じ込む。これが神の裁きではなかろうか。「神の言葉」は終わりの日に諸刃の長剣となって人の心と想いを刺し分け、そこでこの世は分けられることであろう。
そこで、様々な解釈を聞いておくということでは、信仰者各人の知識となるのを超えて、あるいはその人の内面が神の是認に向かう可能性を助けることになることはあるように思う次第である。

また、これらの預言が記された以上、いずれは解かれ全容が明らかになる日が来るのであろう。しかし、どのようにそれを知るのかは人ぞれぞれの結末になるのであろう。

では、心づもりを整えた上で、表題の『マゴグの地のゴグ』を追ってゆくことにしよう。



◆知らされていること
エゼキエルの預言の言葉を通して『マゴグの地のゴグ』について直接に知らされている事の中で、何者かを示す記述は、やはり『終わりの日』に「神の民」に対して諸国の大軍を集めて攻めかかるという行動が最も特徴的である。その結果が、神に敵することによる大敗北であるというところは、ネヴィイームに繰り返されて来たところの終末に於ける神と人との戦いのフレーズを想起させるものとなっている。

実際にエゼキエルのゴグに向けた記述の中に『わたしが昔、我が僕イスラエルの預言者たちによって語ったのは、あなたのことではないか』とある。(38:17)
確かに預言者たちはエゼキエルがこの啓示を書いた前586年の以前、つまり新バビロニアによるエルサレムと神殿の破壊の年以前にも、既に預言者らは神と人との世界的で徹底的な争いが起ることを繰り返し語っていたのである。

例えれば、エレミヤはこのゴグの記述の21年前のエホヤキム王の第三年にこのように預言している。
『YHWHは高い所から呼ばわり、その聖なる住いから声を出され、ご自分の住む処に向かって大いに呼ばわり、地に住むすべての者に向かってぶどうを踏む者のように叫ばれる。叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであると、YHWHは言われる。

万軍のYHWHはこう仰せられる、見よ、国から国へと災いが出て行く。大きな嵐が地の果から起る。その日YHWHに殺される人々は、地のこの果からかの果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、地の表に糞土となる。』(エレミヤ25:30-33)


エゼキエルより二世紀ほど以前の預言者イザヤもこう語っていた。
『もろもろの国よ、近づいて聞け。もろもろの民よ、耳を傾けよ。
地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。

YHWHはすべての国にむかって怒り、そのすべての軍勢にむかって憤り、彼らを尽く滅ぼし、彼らをわたして屠らせられた。
彼らは殺されて投げ捨てられ、その死体の悪臭は立ちのぼり、山々はその血で溶けて流れる。』(イザヤ34:1-3)

このように激烈な神との戦いで惨めな敗北に至る諸国の連合軍の描写について、ほかにゼファニアやヨエルやミカやハバククなどのエゼキエル以前の預言者らを挙げることは容易なことで、更に古代のダヴィド王のような詩篇の歌い手ら、またエルサレムへの諸国の攻撃を予告する後のゼカリヤや、新約の黙示録で『ハルマゲドン』の語を伝えた使徒ヨハネ、イエス・キリスト自身の予告を含めてゆけば、聖書という書がどれほど終末に焦点を合わせているかに異論の余地はない。

そこでエゼキエルが明かす、諸国の軍勢を従える者として語る『マゴグの地のゴグ』なる者が、それ以前に預言されていたところの、神に抗って人類の連合的軍事力を束ねるほどに巨大な権威を持つ者を指していることは既に明らかである。

この点では、黙示録での該当する『ハルマゲドンと呼ばれる場所』に諸国の軍を集める箇所である第16章に『ゴグ』の名称は出ていないのだが、そこでは悪霊の印による慫慂が『龍』『野獣』『偽預言者』の三者から出るとされている。しかし、それらの印に呼応して決定を下す者がいるはずであり、黙示録ではその名を存分に語るエゼキエル書に委ねているのであろう。この世の裁きのためにこそ、神にはゴグが誰であるかを伏せる理由があるからであろう。

一方、使徒ヨハネが語るゴグは、千年期の後に起るところの一般の人々の「遅い復活」によって現れて来る諸世紀の無数の人々の間から興り立つ別の『ゴグとマゴグ』であり、その新たな存在について黙示録第20章の描かれるその結末も異なっている。しかし、現状で人類はエゼキエルの語る『マゴグの地のゴグ』について、その素性を知るのなら、更にできることなら対処しなくてはならない。

そこで攻撃を受ける側はただ「神の民」、あるいはイスラエルというだけでない情報がエゼキエルの預言そのものに加えられている。
それは『多くの日の後』即ち「終末」のことであり、そこは『剣から回復された地、すなわち多くの民の中から人々が集められた地』であり、また『久しく荒れすたれたイスラエルの山々』でもある。

即ち、剣の危険と捕囚から解かれた地、それまで人が住まずに荒れ廃れていたユダの地を直接には指している。(イザヤ6:11/エレミヤ9:11)
だが、捕囚が解かれてユダヤ人が実際に約束の地に戻ったのは西暦前6世紀のことであるし、例え1882年以降のユダヤ人のパレスチナ帰還や1948年のイスラエル建国を考えに入れても、もはや前世紀の歴史となっており、終末と呼べる特異な時代区分にあるとも言い難い。

したがって、ゴグの攻撃を受ける『多くの民の中から人々が集められた地』が意味するものはそれら以前の事柄とは異なる終末の事象を指すに違いない。それは単に血統上のイスラエルが実際上のパレスチナという約束の地に帰還したことを指すと単純に判断させないところがある。本件に関する解釈師の多くは現実のイスラエル民族と国家がゴグの攻撃を受けるものとし、「エゼキエル戦争」とも称しているのだが、もし、血統のイスラエルがそうであると言い張るなら、表面的にも内面的にも、いくつか合致しようがない点が出て来るのである。



◆攻撃を受ける『イスラエルの山々』とは
また、ゴグが攻撃の対象とするものは『イスラエルの山々』、『無防備の村々の地』、また神を指して『わたしの民』とも呼ばれている。
ここで注目するべきは、聖書中でエゼキエル書だけに『イスラエルの山々』の語があることが挙げられる。

つまり、その攻撃の対象が『聖徒』であるなら、確かに神から『わたしの民』と呼ばれる通りなのだが、聖徒を滅ぼす役割を担うのが『北の王から起る腕』であることをダニエル書が知らせ、黙示録ではそれと同じくする『七つの頭のある野獣』を聖徒を攻撃し勝利するものをとしているので、ここで論じている『ゴグ』とは、それらの表象と見かけ上では同じものになるとは言える。つまり、『わたしの民』という語が『聖徒』を指すならばである。

だがしかし、このエゼキエル書に描かれる『マゴグの地のゴグ』の行動の結末はまったき敗北であり勝利ではない。ゴグに召集された大軍勢が屍を地に曝すとされている結末は、『聖徒』を滅ぼすことを許された者『七つの頭を持つ野獣』の輝かしい勝利とは明らかに異なっている。野獣はむしろ聖徒の集団を壊滅させ、その世に対して語る「聖霊の言葉」共々滅ぼしたことを誇るからである。黙示録第十一章では、『二人の預言者』で表される聖なる者たちが屍となったことで俗なる世は大いに喜んで埋葬も許さずに侮蔑している。従って、敗北するゴグは、『聖徒』に勝利する「七つ頭の野獣」でも、後発の「小角」とは別物である。(黙示11:7-10)

ゆえに、ゴグの攻撃の標的となるのは『聖徒』ではないことになる。即ち、エゼキエル第38章からのこの『ゴグ』の場面は、迫害によって聖徒らが去った後を語っていることが明らかになっているのであり、『北の王』も『腕』また『野獣』はもちろん『聖徒ら』も既に活躍の舞台から退いており、いずれもこの『ゴグ』の場面に出演する役者ではないのである。

そうであれば、攻撃を受ける『イスラエルの山々』、『無防備(城壁の無い)の村々の地』、また『わたしの民』とは、既に天に召集されている聖徒の12部族を意味せず、別の人々を語っていることになる。(黙示録7:9)
それはもちろん、現状のイスラエル民族でも国家でもない。どうして核兵器も持つとされる中東の軍事強国の彼らが『無防備』だろうか。

攻撃を受ける『イスラエルの山々』とは、『聖徒』たちの言葉に信仰を働かせていた「信徒」の集団、即ち『シオン』である理由は、イザヤとミカが『流れのように向かう』その目的地であることを証しているところにも見られる。彼らはキリストの追随者であるゆえに『剣を執る者』では有り得ないことに於いて『無防備』であるに違いない。もちろん核兵器はおろか何の武力も持たないのであろう。

この点ではイザヤ第40章も理解の鍵を与えている。
『高山の道をとれ、シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声を上げよ、エルサレムに良い知らせを伝える者よ。声を上げよ、恐れるな。ユダの各地の街々に言え。「見よ、あなたがたの神を」と』。
この知らせを伝える『女』は、ユダの山地の街々に神の到来、YHWHが彼らの神となったことを『良い知らせ』として伝えている。これは本来、神との関わりを持つ聖徒だけが成し得ることに違いない。
聖徒らが『シオン』にもたらすその知らせとは、彼らが『神の民』とされることであり、聖徒らは蝗害のように去ってゆくとしても、彼らが残す信仰ある人々に神の顧慮が臨むことを言うのであろう。

キリスト・イエスはゲッセマネの祈りの中で、この人々についてこう願い出ている。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。
 父よ、それは、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、皆の者が一つとなるためです。』(ヨハネ17:20-21)

即ち、キリストが神と共にあるように、聖徒らと信徒らが共に一つとなることであり、終末に聖徒が地上を去った後の「信徒ら」も、やがて『神の民』と呼ばれる所以がここにあると言える。即ち、聖徒の去った後には、信徒で成る「女シオン」もイスラエルの聖なるYHWHを『神として迎える』喜びに浴すのであろう。

そのうえ、エゼキエルの預言が『イスラエルの山々』について、それ以前の章に詳しく語っているので、特にその第36章に注目すると、まずエゼキエルに語りかける神は『イスラエルの山々』に対して預言せよと命じている。

イスラエルが捕囚となって去ったその土地は、エドムのようなバビロンに諂って残った諸国民が自分のものになったと喜ぶのだが、それはぬか喜びでしかない。神はイスラエルの人々のその土地への帰還を謀っているのであり、そのためにイスラエルの土地についてはこう呼び掛けている。
『しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。
見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。
わたしはあなたがたの上に人を増やす。これはイスラエルの全ての家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される。』(36:8-10)

その『山々』の所有者は異国人らとはならないのであり、明確にこうも記されている。

『わたしはわが民イスラエルの人々をあなたがたの上に歩ませる。彼らはあなたがたを所有し、あなたがたはその嗣業となり、あなたがたは重ねて彼らに子のない嘆きをさせない。』(36:12)

これらの言葉に共通しているものは、ゴグが攻撃目標とする『イスラエルの山々』とは、聖徒たちそのものではなく、彼らを載せる岡や小山、またエルサレムを戴くシオンであり、そこには街がかつて建っていたが、イスラエルの民が捕囚に去っていた間に打ち捨てられ、荒廃していたその場所を指しているのである。

しかも、『荒れ果てていた地はエデンの園のようになった』とも述べられ、帰還のイスラエルによって耕されるともある。この『イスラエルの山々』を同じ章の中で『捨てられた街々』とも呼び替えているからには、都市や城市を載せていた神の民の故地を指すことは疑いようがない。

更に、イスラエルの民についてはこう書かれている。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わが掟を守ってこれを行わせる。』(36:26-27)

これらの言葉は、エレミヤ第31章33節以降に予告されたメシアによる『新しい契約』を証しする点では、エレミヤに続くエゼキエルという二人目の預言の証人とも言え、以上の文言が、聖霊に預かり油を注がれる『聖なる者たち』、そして、彼らが所有するという地上の信徒たちとを言い表していると言う以外に何と言うべきか。

また、『シオン』に集うという諸国民からの流れのような人々の集団は、エゼキエルの語るように『多くの民の中から人々が集められた地』であると確かに言え、ゴグの襲撃を受ける以前に、『北の王』が操る『腕』また『角』の脅威に一度面して、キリストの予告した『戦争の噂』という一触即発の武力行使の寸前から『北の王』の突然の権力崩壊が起って女シオンが逃れてもいるところは『剣から回復された地』とも言えるので、やはり『イスラエルの山々』が信徒の集団であるとの論議は補強されている。『北の王』による『戦争の噂』はあっても、その権力が過ぎ去ってしまうので、本格的な最終戦争が行われる『終わりはまだ』と言えるのだ。(38:8/マタイ24:6/ダニエル11:45)

他方で、その人々は『北の王』や『小角』つまり『七つ頭の獣』の脅威が去って、引き続き『安らかに住んでおり』、何の防備も城壁もなく『田園のような土地』である。
それは聖徒らが『野獣』から圧迫を受け続けた『42カ月』の間も、この『信徒』の人々については『荒野の場所』で安全に守られていたのであり、『北の王』に恫喝されたものの、一度として実際の攻撃を受けたことがなかったのである。
それゆえイエスも言われるように、聖霊の言葉を語って世と対峙し捕縛される聖徒らを信徒らは獄に尋ねて親切も施せる道理がある。そこがマゴグとゴグの嫉むところであるのはもはや避け難い。信徒らは聖霊への信仰に於いて聖徒らに忠節であり、マゴグには靡かないからである。(38:11/黙示12:14/マタイ25:37-40)

まして、神と人との最終決戦の以前に聖徒たちが天に召されていることによって、ゼカリヤが言うように世界連合軍と戦う大王イエスの下に聖徒の全員が伴うのであれば、『ハルマゲドン』で救われるのが聖徒たちイスラエルであろうわけもない。それは明らかに地上の信徒、即ち、聖徒らの語る聖霊の言葉に信仰を働かせた人々が救われる民であり、やはり、その人々を指してエゼキエルは『イスラエルの山々』と呼んでいるであろう。(ゼカリヤ14:5/テサロニケ第一3:13/コロサイ3:4)

加えて、それらの山々の中心たるシオンの峰は、人々で賑わえどもゴグの攻撃の時点では未だ荒れた状態にあり、定礎はされても栄光の聖都エルサレムを戴いてはいない。それはゴグの総攻撃の後になってから新たにシオンに『天から降る』からであろう。(黙示録21:10)

この認識の異なりは、人類を正反対の二極に分離するものとなる。
何故なら、地上のエルサレムは神の是認に関係なく第三神殿と共に終末がある程度進んだ時点で終末のユダヤ主義者らを中心に建設されて姿を現し、ほとんどの一神教徒らがそれを歓呼して迎えてしまうだろうからである。
その点でエゼキエルは、第四十章以降に第三神殿の寸法を克明なまでに記して建設するよう誘っており、そこに座す傲慢な者の現れの機会を設けてもいるのである。(テサロニケ第二2:4)
エゼキエルにこのように神殿が描かれた以上やはり建てられるのであろう。だが、もはやキリストによって動物の犠牲の必要は消えていて、その崇拝は無用の長物となっている。
まして、迫害によって天に召された聖徒らはキリストを定礎として天界の神殿が築かれようとしているのであれば、この地上の神殿は、人類の目を逸らすためのまやかしと言うほかなない。

そこで実際エゼキエルの四十章以降の神の預言の言葉には、善意ばかりではない文言が散見される。しかもエゼキエルはその預言の全編で『シオン』という単語を一切用いていない。その幻の神殿の建つ場所は地理的にも象徴的にも『シオン』ではないらしいのだ。
それに誤導される人々らは、倫理の観点から神を捉えず、目に見えるメシアを望み、表層だけの感動と偽りを愛することであろう。



◆偽預言者と『蛙』の印
こうしてゴグの攻撃目標が、本来、天に去った聖徒らの聖霊の言葉に信仰を懐き、なお地に居る信徒らの集団に対してのものであることが分かる。それは強力な軍備を持つイスラエルという国家でも、核兵器さえ持つものとされるその民族に対するものとは言えたものではない。

ではそこで、次にゴグについて探ってみよう。
というのも、その人物は何故にこうも神に反対する行動を起こすのか?
また、この21世紀前半に無いほどの、世界の公権力を集めるほどの猛烈に強い権威を持つのは何故なのか?
では、以下に解明を進めてゆきたい。それがいよいよゴグの素性を暴き出すからである。

さて、ゴグのように諸国家の軍事力を召集している場面は他のネヴィイームの文言にもあるが、その召集者について言及しているのは新約の黙示録の方である。
その第16章の場面ではこのようにある。
『龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
これらは、しるしを行う悪霊の霊示であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは全能なる神の大いなる日に戦いをするためであった』とある。(黙示16:13-14)

『龍』とは悪魔であることは黙示録の文面から明らかだが、『獣』とは聖徒を滅ぼした七つの頭を持つ野獣、即ち世界の公権力の集合体であろうかと思われるかも知れないが、これは後から現れる『子羊のような二本の角を持つ野獣』の方であろう。なぜなら七つの頭を持つ野獣の行動期間が『四十二ヶ月』と制限されており、それは聖徒らが預言する期間と変わらないからである。
従って、終末もこの辺りまで進み、いよいよハルマゲドンへと諸国の権力が集められる頃には、七つの頭を持つ野獣は既になく、それを記念した偶像である『野獣の像』に取って代わっている。即ち、七つの頭を持つ野獣は一度崩壊し、十本の角だけが残され、それらは再び集められるのであろう。

そしてこの場面では、世界を神への戦いに引き込むよう使嗾する者らの中に『偽預言者』と呼ばれる要素もある。
この者らが、世の為政者らに対して預言者として権力をどう用いるかにつき、悪霊の指図が伝えられるからには、この『偽預言者』のことを世の人々が『偽』と思っているわけもない。
神の側を正しく代表し、不思議な奇跡を行うことが出来、その発言は重んじられるに違いない。以前の聖徒から離れ落ち、聖なる身分を失っても彼らには悪霊からの一定の霊力があり、奇跡の『印』を幾らかは行えるからである。イエスに向かって『わたしたちはあなたの名によって預言し、悪霊を追い出し、数々の奇跡を行わなかったでしょうか』と言う者らを退けることを予告されたが、これらの業こそは、本来なら聖霊注がれた聖徒だけの成し得ることである。(マタイ7:22-23)

だが、ここで注目したいのは『蛙のような』とされる『霊』である。
なぜ『蛙』かと言えば、聖書には確かに前例が存在している。

それは出エジプト記の中にあり、モーセとアロンが次々に奇跡を行ってはエジプトの地に災いを下す中、ファラオの前で同じような奇跡を二回目までは真似することのできたエジプトの神々の祭司らのことであり、一度目は水を血に変えること、そして二度目は、彼らが出来た悪霊の奇跡の限界、蛙を異常繁殖させることであり、それを見たファラオはヘブライ人の神の奇跡と託宣を平凡な事と侮り、イスラエルを奴隷として留め置く決意を強めた。しかし、エジプトの祭司らにはそれ以上の奇跡はモーセらのようにはできず、次から次へと奇跡を行うヘブライ人について『あれは神の指です』と嘆きつつ見ているほかなかったのであった。(出埃8:1-15)

そこで、出エジプト記の『蛙』を黙示録が再度描いていると捉えるのことは、共に神の民に不利益をもたらそうとする権力者を慫慂する宗教家という概念で新旧の聖書に整合性がある。

では、この『偽預言者』というのがキリスト教ではない異教のもの、あるいはキリスト教でも異端的とされる今日のどこかのカルト宗派に属するものかと言えば、どちらも違う。

何故なら、黙示録の世界の軍事力を糾合している段階で、実は旧来の宗教組織の集合体を表す『大いなるバビロン』という娼婦の姿をした黙示録の宗教の表象が既に危機にあるからである。いま論じている黙示録第16章の直前の聖句はこうなっている。
『第六の者が、その鉢を大河ユーフラテスに傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために枯れてしまった』。
これこそは、大河ユーフラテスを防備に栄えた大都市バビロンが、前539年の初秋の一夜にして攻め取られた原因であったのだ。黙示録では大河の水を『人々』であるとしている。

従って、聖書は神の民を捕囚にしていたバビロンが鉄壁の防御を誇ったにも関わらず、夜間に市内を貫流する川の水を別の水路に流され、川床を歩いて攻め入ったメディアとペルシアの軍隊の前にあっけなく陥落した故事を用いて、終末での旧来の宗教組織の信者の急激な心離れが起り、しかもそれに十分には気付けない宗教団体にとって、それが既存の諸宗教の破滅への道を拓くという、現在では信じ難いことを例示しているのである。

その時点での大娼婦バビロンは古代にシドンからイスラエルに嫁いで来たカナン系フェニキア人の王妃イゼベルのように『わたしは女王として座す、寡婦なのではない』と空威張りしているそのときに、宮殿の階上から石畳に落とされるかのように失墜し、その財は犬どものような権力の手先によって収奪されてしまうのであろう。その滅びはエフーが操る戦車のように狂ったように疾駆して到来する。

従って、世界の軍事力を糾合する『偽預言者』とは、我々が現在に見ているような宗教に属する宗教関係者とは言えない別物と結論できる。それは霊感によって預言と奇跡を行うことでは聖徒らのようであり、『北の王』が興す『腕』からの迫害と甘言に屈し、キリストとの契約から脱落してなお不思議な力を持ってはいるが、それは聖徒らと同じ聖なる源からのものではなく、邪悪な霊力に支えられるゆえに『偽預言者』なのであるが、その不思議を行う霊力によってさえ、今や一般的宗教家に勝る立場を得ており、それゆえにもかつての信者の多くが旧来の宗教に価値を認められずにそこを去っていることであろう。しかし、それは人々が信仰信条までもを失うということではないらしい。

既存の宗教には不思議を行う力量について見るべきものがない反面、大衆的信仰者など、人気や流行に流れるものに過ぎない。スピリチャルが流行るのであれば、幾らかの霊力を悪魔が見せるだけで大衆誘導など容易なことであろう。アダムの子孫で構成される『この世』の大衆とは、そこまで軽はずみに宗教好きで背徳的なものであり、それはカナンの神々を奉った預言者エリヤの時代のイスラエルと些かも変わらない。


◆脱落聖徒を用いる悪魔
他方で『偽預言者』とは、実は「契約から脱落した元聖徒ら」であり、天界のキリストの許に集められることもなく『一人は(地に)おいてゆかれる』とイエスに予告されたところの、地に残された『一人』に相当する者たちを言うのであろう。彼らが最終的に『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか』と弁明するにしても、当然ながらキリストの答えは明白であり『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』というものであることを福音書が明かしている。(マタイ7:22-23)

これらの者らは、聖霊が注がれ始めて聖徒らに交じって現れると、その初期から早速に脱落し始める者として現れることをダニエル書が示唆している。それは恰もイエスの語った「小麦と毒麦の例え」のようであり、どちらも共に生育し収穫を待つことになる。

脱落聖徒らは、終末の二大覇権国家の一方である『北の王』による圧力と誘惑の罠に陥る聖なる者として描かれる。その北の王は『聖なる契約に逆らってほしいままに振る舞う』ことでは古代のセレウコス朝の王エピファネスの対型であり、『聖なる契約を離れる者を甘言によって棄教させる』ともある。(ダニエル11:32)
即ち、聖徒らの前には迫害と甘言の罠が置かれることになり、それらによって彼らが真にキリストに従う者であるか『練り清められる』ことになるのであろう。(ダニエル11:35)

脱落してしまった元聖徒らには何の将来も残されていない。『ただ、裁きと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを恐れつつ待つだけである』(ヘブライ10:27)
その点では悪魔と悪霊たちの境遇と変わりなく、滅びが確定してしてしまった運命共同体とも言える。そこで悪魔と悪霊は、この元聖徒らに霊力を与え、『この世』への影響力を付与することになろう。『この世の権威はわたしに与えられている』という悪魔の地上の代弁者となり、世界的権威を帯びるようになるこれら元聖徒らの行うところは、イエスが指弾するように『不法を働く』ことが残された唯一の道である。(ルカ4:5-7)

その『不法』とは、元来は神の業を行うべきところを歪曲し、神と敵対するはずの『この世』の仲間となるところにあろう。それは『滅びの子』ユダ・イスカリオテの道でもあり、仲間の聖徒を裏切って渡すので、予告されているように聖徒の間では憎しみが交差する。
だが、聖徒であって一度脱落したなら、もはや神の側に立つことは叶わない。『悔い改めに戻すことは不可能』であり、『裁かれることへの恐ろしい予感』に怯えるだけであれば、やはり悪魔の道を共に歩もうとする以外に行えることがない。(ヘブライ10:26-27)

そこで、地上を統べ治めるべきメシアの預言を、この世の希望的憶測に置き換えることは以前から広く行われてきたことであり、バル・コホバのような愛国的偽メシアの顛末がそれを物語っている。地上の王国の建設であり、いずれも成就することなく悲劇的終りを迎えている。
現代でも、イザヤの平和の君メシアによる世界平和の聖句は国連の理念であるかのように飾られている。だが、それは本来無関係なものであり、『神の王国』と『この世』とは元々折り合えるものではないのである。(イザヤ2:4/ヨハネ第一5:19)

そして宗教というものを極端なまで嫌い、キリストの『新しい契約』にあった聖なる者らから脱落するよう謀ったエピファネス的『北の王』が、配下の『腕』また『七つ頭の野獣』を用いて聖徒全体を亡き者とした後、何等かの理由で権力崩壊を起こしてしまって後、世界は二つの覇権の間で敵対し合う緊張関係を脱するのであろう。人々は平和の到来を喜ばないはずもない。だが、それは人間が不倫理性を脱したので訪れる平和ではなく、覇権の競合がなくなっただけのことであり、キリストのもたらすものではけっしてない。(テサロニケ第一5:3)

もう一方の残った覇権国家は、聖徒を滅ぼした七つの頭を持つ野獣をまさしく「生ける偶像」に仕立て上げ『荒らす憎むべきもの』とし、『野獣』としての公権力の集合ばかりでなく『偶像』としての宗教集合をも併せ持たせ、政祭の象徴的頂点の強権の座を設けてしまうというように黙示録の第13章11節以降は読める。そこに現れるのは『息を吹き込まれ、ものを言うようになる偶像』である。

単なる人間に過ぎない自分自身を、諸宗教の神々以上に高めるという性癖は既に『北の王』が見せていたものではあるが、その非宗教性は万人が受け入れるものではなかったに違いない。しかし、この度の生ける偶像となる『不法の人』はキリスト教を基本とする信仰となり、宗教、特に一神教への是認度は高いことにはなるが、実はそれは自分を崇拝対象とする究極の一神教を認めさせることに於いての是認であり、一神教同士の野合はあっても寛容性はない。

それこそは太古の蛮王ニムロデによる世界支配の野望の再現であるので、残った世界覇権国家が主導して『剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた』との黙示録の記述も、あの七つの頭の内の一つを剣で打ち倒されていた野獣について、歴史上の七大覇権の象徴の第一、シュメール期のニムロデの覇権であったと見ることができよう。歴史上の世界覇権を表すその頭の一つは、言語分割という神の一撃によって世界制覇を打ち砕かれ、かつて姿を消していった。だが、黙示録は七つの頭を付けた不格好で異形の獣物が『底知れぬ深みから上ってくる』と警告しているのである。(黙示録17:8)

ともあれ、終末では最終的に世界は複数の国家が覇権を荷うのを止め、一つの覇権を世界が戴き、宗教的にも、特に一神教に於いて一つにまとまる機会を得ることになるらしい。
これは突飛な謬説とも言えない道理がある。
何故なら、世界を治めるメシアを教える預言は三つの一神教に共通しており、それぞれ終末にメシアが現れるところもそうである。そこに自称メシアが現れ、幾らかの奇跡を見せるならどういうことになるだろうか。しかも、イエスの長髪に白く長い服のイメージは欧米キリスト教によって十分過ぎるほどに世界に定着されてしまっている。その外見を装うのが難しくもないことはハリウッドが証明しているところではないだろうか。
そして大衆とは判断に安直なものであり、重要な判断ほど他人に委ねてしまう傾向が強い。カルト宗教の蔓延の原因も、人間自身のこの弱点に由来するので、傲慢に自分を過大評価する者は却ってもてはやされるのである。

そのうえ、『北の王』が過ぎ去った世界が『南の王』また『子羊のような獣』という一つの覇権を戴くために、世界の争い合う大半の人々が共通して納得のゆくであろうものと言えば、メシアの支配を置いてほかにない。それは宗教であるゆえに民衆をして広く、どんな政治理念をも超越すると看做され得るものだからである。
こうして世界は「アンチ・クリスト」を自ら呼び出してしまうことになる。それは世界を巻き込む最大にして最強のカルト宗教と言えよう。



◆アンチ・クリストの影響
既に、脱落聖徒には悪魔の側の霊力が働いており、『蛙』程度の奇跡は行える。
そうなれば、脱落聖徒の中でも、特に野心的で不思議を行う力を持つ者が居れば、悪魔が古来用意してきた世界の頂点を成す玉座への道の数々が直ちに開かれるであろうことは既に見えている。
それがキリスト教に於いては、「キリストの地上再臨説」であり「三位一体の教理」であり、イスラムに於いては「終末に現れるマシーフ(メシア)たるイーサー(イエス)」であり、世界に平和を与える者である。ユダヤ教徒にとってはもちろん「偉大なダヴィドのような統治者」また「モーセのような預言者」の到来である。これに仏教の阿弥陀如来も加わらないとも限らない。
そこに偽メシア、「アンチ・クリスト」が人間でありながら奇跡の印を持って現れるとすればどういうことになるであろうか。

それゆえにも、イエス・キリストは何度も警告を繰り返されたのであろう。
『そのとき、誰かがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
偽キリストたちや、偽預言者たちが起って、大いなる印と奇跡とを行い、できれば選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイ24:23-24)

三つの一神教が共通する聖地にエルサレムがある。
それらの宗教の源はユダヤ教にあり、ユダヤ教徒はエルサレムに今日まで神殿を再建していない。
ユダヤ教正統派のその理由といえば、神殿を再建してよいのはメシアただ一人であり、今日までユダヤ教徒が西壁で悔いるばかりで神殿跡地に入らないのも、不浄な人間が聖所や至聖所の場所を足で踏んでしまわないためであるとされる。
そのため、神殿域にはイスラムのドームが残されているままではあるが、ユダヤ教徒の中では、既に神殿祭祀で用いる什器類を再現しており、その中には契約の箱までをも含んでいる。もし、誰かがメシアを名乗って現れ、それが証明されたかのように幾らかの印を行うとすれば、熱心なユダヤ教徒らが神殿再建に動かされないでいられようか。(エレミヤ3:16)

現在のところ、神殿再建に熱心なユダヤ教徒らは、岩のモスクの建つエルサレムの神殿の岡に新しい神殿を建てることに拘っているのだが、もし、それをその場に再建するならイスラム諸国との軋轢が避けられず、エゼキエルの幻に描かれる諸国家がイスラエルの地に攻撃を仕掛けるのがイスラム諸国であり、それを統帥するのがロシアであるように予想している向きもあるようで、エゼキエルへの啓示にはゴグに率いられる諸国民の中にはペルシアもあって、その予想に現実味を添えているかにも見えるのであろう。

だが、終末預言は『人々が平和だ、安全だ、と言っているそのときに、突然の滅びが臨む』としている。(テサロニケ第一5:3)
多くの解釈師らが言うようにイスラエルとイスラム諸国がいよいよ大きな戦火に巻き込まれるのであれば、終末のゴグのすることと言えば、敵意も武器も兵員も満たされた手強い相手との熾烈で泥沼の戦いに手を染める以外にあるまい。それは『平和だ安全だ』と言える状況ではない。
従って、ゴグの起こす戦役とはやはり現実の共和国イスラエルとは関わりがなく、むしろ世を挙げて『平和だ、安全だ』と歓喜する中で、それに同調しない者に対する制圧の闘いがゴグの役割となろう。ましてイスラムの教えハディースに於いては、岩のドームが存続している状態になければ終末に入れないのである。
それであるから、エゼキエル書の幻の神殿がシオンでもエルサレムでもなく『高い山の南方』と呼ばれる場所に建てられている理由も意味のないものではなく、聖書とユダヤ教オーソドックスがエルサレム以外のユダの地に神殿再建の用地を見出すよう誘ってくるのであろう。

それに加えて、今日の二大覇権国の一方は親イスラエルであり、加えて憲法上はともかくもキリスト教国家という以外にないほどキリスト教的である。そのためイスラム教圏とは度々対立もしてきたのではあるが、イスラムの「マシーフ」即ちユダヤ教の「マシアッハ」そしてキリスト教の「メシア=キリスト」が人の様を取って現れたとなれば、政治的対立も、その源泉となってきた宗教理念に於いて和合の根拠を持つ大義を得ることになり、三位一体のキリスト教徒らが、その者をキリストだと認めるなら、それは即ち神ともすることに躊躇しないであろう。

無神論の『北の王』が去り、残された世界覇権の『南の王』が競合を排した後に強力な後押しをする「新たな崇拝」を形作り、その『野獣の像』を生ける偶像ゴグ、また代替の地上に現れたキリストとし、いよいよ世に荒廃を招くという図は今でさえ有り得ないものとも言えない。

そうであれば、第四世紀にヘレニズム宗教文化の坩堝であったエジプトのアレクサンドレイアから錬金術のように忽然と現れた「三位一体説」の真の活躍の場、それは中世でも現代でもなく、恐るべき「終末」ではないのだろうか。ならば、それも終末の『不法の人』、『自分を神として示す』という人物、即ち『アンチクリスト』を召喚するため用意周到に古代から撒かれた悪魔の種であり、非理性的アニミズムの誤謬であるにも関わらず、キリスト教の金科玉条とされ今日まで廃れることもなく見事にキリスト教界の中で充分な成長を遂げている。 [イスラームの終末]

加えてキリスト教徒の多くは、終末に現れるメシアをユダヤ教徒らが目撃して大量改宗を起こすと信じ込んでもいるのであり、その趨勢は今でさえ揺るぎないほどである。そこに元から偽物である「契約の箱」の上に、臨在光を装った不思議をサタンの霊力が真似をしないとも限らず、そうなればユダヤ教徒も納得してしまうことになるであろう。
おおよそUFOくらいで人々は騒ぎ、宇宙人なぞを想定している体たらくだが、むしろ悪霊という一層恐るべき敵意ある者らについての心構えなど何もしていない。あの『獄の霊者ら』にはまともに相手をする価値すらないのであり、好奇心以外に何の建設的な事柄も得ないはずである。であるから、悪霊の現れは見えていても無視するに以外に賢い方策もない。

だが、好奇心という悲しい人間の性のために、大衆は終末での悪霊の積極的な現れ、脱落聖徒らの行う不思議な技に大騒ぎし、溢れる水が低い土地を押し流すように低俗な大衆信仰の洪水は、一度流れ出せば止める者がいないほどにこの世を押し流すほどになるのであろう。

その「信仰」には人類の宿痾であるアダムからの『罪』への認識もなく、まして『悔い』などない。それを指摘した「イナゴの大発生」に良心を責めさいなまれても、それが過ぎ去ればケロりと忘れ、むしろ自分たちは科学的であると勘違いして悪霊の友となり、輝かしい将来のテクニカル・ユートピアへの人類の希望、或いは「偽の千年王国」さえ唱え兼ねないであろう。そこに倫理性などはなく、人間の『罪』を負っている実情を当たり前と見做し、これまでの地的政治の延長を『神の国』などと言うとなれば、それは天界の王キリストとの正面衝突を招く以外にない。

だが、それらを政治家たちがそれを妨害する理由があるだろうか。却ってその崇拝に助力するであろうし、『その像を崇拝しようとしない者には売り買いさせない』ような処置さえあり得ないとも言えない。つまりは、あの覇権国家が得意とする経済制裁や口座凍結であろう。

こうして世界は、悪魔の霊力の印の下に、一人の「生ける偶像」を祀り上げることが可能となる。
それが使徒パウロの予告した『すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する』という『不法の人』であろう。
こうして「アンチ・クリスト」また「偽メシア」そして『不法の人』が同一の対象を指していると見做す蓋然性があることになる。それに加えて、神殿に座し自らを神と称する偶像性に於いては、やはり偶像(シックース)を含意する『荒らす憎むべきもの』であるとも言える。

そうであれば、その者が世界支配の政祭の玉座に就いているのを見るなら、真のキリストに信仰を働かせる人々は、イエスの終末預言に従ってエルサレムを一目散に離れ『山に逃れる』必要がある。つまり、その「新たな偶像崇拝」を逃れてこの世の流れに従ってはならず、この世の外れであるような『山に逃れる』必要が生じるのであろう。それは実際の地上のものではない象徴の「シオンの山」ということなのであろう。後に真実のエルサレムが降る場所、つまり、その支配を受け入れる人々の集団のことであろう。(マタイ24:15-21)


◆マゴグの地のゴグの素性
聖書中の様々な終末に登場する表象を辿り出してゆくと、それぞれは多面的であっても、実は同一の事象を指し示しているということが、こうして結論できることになる。

世界の公権力をまとめて使嗾できるだけの権威というものがあるとすれば、それ以前にあった二大世界覇権に勝るほどのものである必要があるに違いない。
まさしく、その権限を終末に行使するのが『マゴグの地のゴグ』であることをエゼキエルが預言していたのである。

以上に推論してきたように、それほどの権限は世界支配権ほどのものでなければ難しいのであり、残されたキリスト教的世界覇権国家が後押しをするにしても、その権威のすべてをゴグに与えられるのは霊力を駆使する悪魔以外にない。

エゼキエルのゴグが率いる諸国の軍が、他のネヴィイームが予告していたように、終末の神との戦いに召集された人類軍であると見做すべきであることも見えている。やはり、同士討ちによって滅びるという予告の共通点をも有しているからである。

それであれば、ゴグの故地とされる『マゴグの地』とは『偽預言者』、即ち「脱落聖徒」の集団と見做すことが妥当であり、ゴグ本人は『反キリスト』また『不法の人』にほかならず、脱落聖徒の中でも特に傑出した一人か、そうでなければ小グループであろう。
いずれにせよ、ゴグはキリストを装う地の人であるに違いない。イエス自身が再三警告されたように、真のキリストは終始『雲』という不可視性の中に在って、人々をその内面から裁くためにも、地上に見える仕方では再臨しないからである。(マタイ24:26)

そこで、彼が『北の果てから来る』と預言されていても、これは方角としての「北」を指してはいないし、『メシェクとトバルの総首長(ロシュ[ראש])』とあるから「ロシア」を指すという短絡的な解釈は荒唐無稽なばかりである。⇒「文語訳に現れる「ロシ」
『北の果て』という言葉は詩篇に於いてはエルサレムについて用いられており、それはイザヤ書が悪魔の望む至高の位として追認している。
『わたしは天に上り、わたしの王座を高く神の星の上に据え、北の果なる集りの中の山に座し、雲の頂点に上り、いと高き者のようになろう』と、まさしくその野望の究極的に高い座、至高の座の象徴とされているのである。(イザヤ14:13-14)

これは古代人が天空のすべての星辰が極北を中心に回転する姿に畏敬の念を懐いたところに例証されている。宇宙や地球の姿も世界地理も充分には知られていなかった頃の北半球の古代文明にとって、全天が従うべき中心こそが『北の果て』なのである。
その「北辰」を中国では「天皇大帝」として崇めてもいた。詩篇も『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』と詠うように、明らかに極北は至上の座を占めるものを意味しているのである。そうでなければ、北緯が32度にも満たないエルサレムがどうして『北の果て』と呼ばれるのだろうか。確かに詩篇は神の神殿を戴く聖都についてこう語っている。『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』(詩篇48:2-3)

その点でエゼキエルの預言も、偽りの神殿に座すゴグが『北の最果て』という権力の至高の座から行動を起こして『来る』という意味で、神を自称する『不法の人』であり、天のキリストに抗う『反キリスト』であり、偽メシアであることを明らかにしていると言えるのである。パウロの語るように『神殿に座し、自分を神とする』彼の占める座が至高者の位であるからこそ、それを通して悪魔はニムロデ以来の宿願を遂げるのであろう。言語と共に七つに分割された覇権も、終末には一匹の野獣によって具現化するのであろう。しかも、偶像化され崇拝されるというのである。(テサロニケ第二2:3-4/黙示録13:4)

ゆえに、『マゴグの地のゴグ』という表象には、悪魔の望む支配の絶頂としての著しい権力を使嗾する者として『アンチ・クリスト』の意味があり、宗教的頂点に神を自称して座し『野獣の像』を司ることに於いては『不法の人』であり、悪魔の代理者の偶像となって崇められるところは『荒らす憎むべきもの』であり、西暦七十年に神殿を占拠してエルサレムの滅びを招いた野盗や熱心党のような無法者、この世に滅びを呼び込む者でもある。また裏切りという『違背』(ペシャ)によって聖徒らを処刑者に渡すところはユダ・イスカリオテに同じく『滅びの子』でもあり、悪魔の代理人がその正体である。(ダニエル8:12/ヨハネ17:12)

したがって、エゼキエルの預言にある実際の北方を示唆する幾つかの地方の名称が登場するのはゴグの正体を突き止めさせないための神のカムフラージュであろう、加えて、プト(リビア)やエチオピアの軍がわざわざ北から来るだろうか。これもまた実際に言葉に拘る者らへの疑問ともなるのであろう。なぜならエゼキエルの預言によってゴグを崇める者らが呼び出されるためではあるが、根拠の聖句はどことなくしっくりしない。だが、人々はそれを強引に押し通し、ゴグの預言がゴグを登場されるということになる。

そもそも聖書の原著者にすべてを誰にでも明かす意図があったなら、敢えて一つの物事の情報をわざわざ多くの断片に切り分けて、パズルのピースのように聖書中に散らしてしまう必要がない。それは然るべき時に然るべき相手に誤謬を開示されることが意図されている。真意ではなく誤謬であり、それがゴグをもたらす原動力となるということである。
また、誤解するものにその思うままの行動を取らせて神への反対を起こさせるための難解さでもあろう。やはり、聖書には裁くための罠も仕組まれている。

というのも、当然ながら『ゴグ』が自分を「ゴグ」だと認めるわけもない。むしろ『メシア』という聖書の概念に自らを立脚させ、攻められるのは自分たちの方であり、虚勢の神殿に座する自分たちに攻撃を仕掛ける何者かを「ゴグら」に仕立て上げる必要がある。

ゴグの軍勢が正義のための防御の戦いに向かうとされるなら、『ゴグ』自身である偽キリストには、自分にとっての「邪悪な」別の「ゴグ」を必要とさせる。即ち、聖書を一辺通り逆に解釈するのである。そのためには聖書が書かれたままに理解できるようであってはならず、『ゴグ』には別の「ゴグ」を求める余地がなくてはならない。彼に従う勢力は、彼らにとっての「ゴグ」を他ならぬ天界の真実のキリストに設定してしまい兼ねない。
つまり、「神なるキリストは我々と共に地上に居る」とすれば、「ほかにキリストを唱える者はアンチ・クリストでありゴグだ」と言わざるを得ないことになる。これがたいへんな事態を招かずに済むだろうか。『闇を光とし、光を闇とする』とはこのことである。そうして終末の人々はゴグというアンチ・クリスト崇拝によって天界のキリストの敵となるのであろう。

即ち、「ゴグ」の攻撃を受ける被害者は地上の虚像のイスラエルに座する自分たちであり、その立場を危うくさせる者らがゴグとマゴグであると主張し、その防御のために諸国の軍を集めて抽象のイスラエルの民を攻撃させる。為政者の前に聖霊の言葉を以って対峙すべき身分であったのに、迫害を恐れて世に妥協して『新しい契約』から離れ落ち、地上に残された脱落聖徒には神の御前には何の望みも残っておらず、もはや毒食わば皿までという以外ない。悪魔に乗せられる道をまっしぐらであり、本人の内奥では罪の意識もあるはずである。
ゆえにそこでは聖書を逆に解釈させる強い誘因がある。その破滅の選択肢のほかに何も無いのであるから。

そうして人間の正義で仕立て上げたその別の「ゴグ」の襲来から自らを守る正義の戦いに本物の『ゴグ』が立ち上り、そうして聖書の『ゴグ』が却って実体を明かすことになろう。
だが、この『ゴグ』の襲来の概念はユダヤ教とキリスト教ばかりでなく、イスラム教徒も既に共有しているものであるから、そうなると聖書、それも新約聖書の詳細は無視される危険があり、三つの一神教の合同の流れは最高善とも見られ、大同団結のために聖書の多少の詳細は無視され、もはや止めようも無い潮流となることも考えられよう。

例えれば『その日には、もろもろの国語の民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣の裾をつかまえて、「あなたがたと一緒に行こう」』などの句をどう解釈するだろうか?
このユダヤ人を文字通りに捉えて「見えるキリスト」が存在する地上の都市エルサレムと、血統のユダヤ民族にその成就を見てしまわないだろうか。(ゼカリヤ8:23)

だが、この句の『ユダヤ人』とは血統のユダヤ人を意味しない。それは『アブラハムの裔』、また律法が目指した『諸国民の光』、『聖なる国民、王なる祭司』、即ち『聖なる者』であり『賛美のために形造られた民』、聖霊注がれる真実のイスラエルのことであり、そこに「正しいクリスチャン」も「間違ったクリスチャン」もない。そのように幼稚な見方をしていれば低次元の「人間の正義」に捕われてハモナの結末を受けるばかりになろう。
この『不法』に染まってしまう人々についてパウロはこう言う。
『彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである』。

キリスト・イエスが『神の王国は目立った様では来ない』と言われ『見よ!そこをとか、ここをというものではない』と言われた背景がここにもあることになる。なぜなら、続けて『しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな』と言い添えられているからである。やはり臨在のキリストは不可視であるに違いない、これら警告の言葉は、終局に於いて生死をも分ける結果を人それぞれにもたらすものとなるのであろう。(ルカ17章)

今現状で啓示されて言葉の中から分かることは、ゴグの最大の敵が『イスラエルの山々』で表される信仰の人々であり、真のキリストを聖徒を信じる信徒の集団がゴグの権威の土台を揺るがす最大の敵と見做されるのであろう。しかし、真のゴグらの敵とは天界のイエスと聖徒であり、『善を悪であると言い、悪を善であると言う』『自分の目に賢い』彼らは征服すべき自分たちの敵を地上の人々に据えるのだが、軍事力の圧倒的優勢にも関わらず、実は勝ち目はない。それゆえ黙示録がその無謀な戦役への集合場所を『ハルマゲドン』と呼んでいる。(イザヤ5:20)

では、エゼキエル書のゴグの記述に何の意味があるだろうか。
そこにはゴグによる終末の軍事行動と惨めな敗北、また、累々たる屍の処置について書かれてはいるが、建設的な意味合いはない。
『ゴグ』に伴ってハモナ([הֲמֹונָ֖ה]群衆)の一人となりさがり、神に敵対する俗世の潮流に押し流されない側に付くことが総じた教訓と言えるほどである。かと言って、それが易しいことにはならないのであろうが。(39:16)

『ハモナ』が『都市の名』というのは、『都市』との言葉に含みがあり、その『群衆』が大衆的で世的であり、聖性を持たないためにどうしても聖なる安息の『7』に達しない俗世のしがらみの中に埋没し続ける、シナル平原のシュメールの諸都市のように神に逆らい、その結果として言語を乱され七つに完全に分割され言語的にも思想的にも一致することのない複数の頭を持つ野獣への崇拝と、ご利益信仰の惰性によって人間中心主義の大渦に容易に巻き込まれる大半の人類を指しているのであろう。

しかし、ハモナに埋葬される者らがすべてとは言えないようである。
『死海の東』には、千メートルも岩石の削られた壮大な谷が幾つかあるのだが、そこはアンチレバノン山脈から死海の低地に落ち込むグランドキャニオンのような巨大な落差の大いなる景観を呈し、そこには高地と低地とを結ぶ交易の道も細々とある。
そこでエゼキエルが言うように、『(死)海の東を通って行く者らの谷がゴグに与えられ』そこが埋葬場となって『堰き止められる』ほどになり、そこが『ゴグの群衆の谷』と呼ばれるとは、その死骸がどれほど膨大かを比喩している。即ち、マゴクの地とゴグの巨大な影響力の空疎な世界の墓標であり、世に流されるままになることがどれほど空しいかを事前に教えている。

そして『イスラエルの山地』に攻め込んだ軍勢の結末も悲惨であり、これはゼカリヤなど他の預言者も語るところであり『それぞれの剣が仲間に向かって』同士討ちを繰り広げるこれは黙示録も変わらない。
終末の赤馬の乗り手には『互いを攻撃するための大剣が与えられ、地から平和が除かれる』のである。そのヨハネが黙示録に記すように『神の大いなる晩餐』に空の鳥たちが群がるのであり、諸国の軍の将兵の肉を食らうが、エゼキエルは更にそれらの鳥の群れが『酔うほどに血を飲む』とも記す。

この警告のためか、エゼキエル書中には再三「安息日を神聖なものとせよ」との訓戒が繰り返されている。聖と俗とを明確に分かたないなら、人は容易に俗化し流されるからであろう。聖なることが要求されるのは祭司の対型である聖徒らばかりではなく、安息日に忙しい彼らを別にして、真に安息日の聖を保つべきなのは、むしろシオンに集う信徒の方であろう。逆に俗世に飲まれれば、その人は容易にゴグの追随者となり、『666』の印と『額』(思考)と『手』(行為)とに押され奴隷化することであろう。
これがキリストの契約からの脱落者による『背教』から進む「究極の偶像礼拝」となり、この世を神の裁きの滅びへと巻き込む悪魔の教えとなるのであろう。

それに組みする人々は『安息』を示唆する「7」、即ち『神の第七日』の聖日に達することは決してない。即ち『666』、俗に塗れ俗のまま生きることで「聖なる千年王国」には入れない。もちろん永遠の命は彼らとは無縁となってしまうであろう。真の信仰を退ける結果として語られる通り『神の怒りがその者の上に留まる』からであり、「不信者は地獄行きだ」などと言っている教会の教えはまるで的外れなことである。

では、これらの崇拝者らはキリスト教に関わりのない者たちだろうか。
そうではなさそうである。かつて神の多くの奇跡によってエジプトの隷属から逃れることが出来たにも関わらず、その後の荒野の彷徨によって約束の地を踏むことのなかった者らに相当することをパウロが示唆しているのである。(ヘブライ3:16-19)

これら聖書中の終末の事柄をエゼキエルが預言した後、彼はその12年後に再び預言の啓示を受けて語ったので、我々は第40章以降に摩訶不思議な神殿の幻を延々と読むことになる。
これらは共に善なる人々のために書かれたものというよりは、むしろ、この世が広く流されてしまう終末の偶像崇拝者、つまりは真のキリストの反対者らへの啓示となっているのであろう。そうでなければ、どうして建設可能なまでに設計の詳細が次々に語られるのだろうか。

だが、キリストが律法を全うして完全な犠牲を捧げて『犠牲と供物を絶えさせた』のであれば、今更どうして動物の犠牲を捧げる神殿を建立する必要があるのか。しかも第二神殿はこの設計で造られていなかった。これは大きな罠ではないか。未完の第三神殿の詳細な描写は、まずユダヤ教徒を動かさずに置くまい。既に熱心なユダヤ教徒より神殿祭祀の器具と什器が準備されてはいることを考えるなら、まことに恐るべき神の言葉也。
即ち、エゼキエルの預言は、ゴグという究極の支配者にして崇敬される生ける偶像となる者について語るばかりか、その座すべき場所まで提供しているという驚嘆すべき書なのである。
その神殿が起工するときには『麗しき哉』との歓声が上がるのだろうか。ゼカリヤのこの言葉も捻じ曲げて適用されることになろう。

終末で許多の人々がこの神の言葉の罠に嵌まることは既に見えている。
特に一神教徒、この『ゴグ』が地上に存在するエルサレムを目指して攻めて来ると現に妄想している多くのキリスト教徒、またそう捉えるようになる更に多くの数になるのであろう諸宗教の人々が、聖書本来の意図を曲解し、アンチ・クリストを擁護するための証拠とするために、エゼキエル書の中に前6世紀の古代から刻まれていた『マゴグの地のゴグ』の文言が、終末の世への罠となる危険性が有り得ると言え、現にその用意も出来ている。
その者『ゴグ』は「獣崇拝」の偶像であり、俗物を示す『666』は決して完全なるもの、「安息の聖」と成り得ないことをも目に見えているであろう。即ち、対型的安息日の千年王国にはどうあっても達しない宗教を世界に強制するのであるから、これは『荒廃をもたらす憎むべき(偶像)』というほかない。
この実態を新旧の聖書は繰り返し警告し、多面的に語っているのであって、それらは終末という短い時期について焦点を合わせ、様々な呼び名を用い、幾つもの方向からスポットライトを当てている。それだけの警告に価するほど、終末には危険が潜むということである。

情勢に流され『不法の人』による世界平和の達成をただ喜んでいれば、その脆弱な対症療法の惨憺たる結末を味わうことになるに違いなく、人は『神の王国』という根本治療を望むべきことは道理として見えている。(テサロニケ第一5:3)

総じて言うならば、地上のキリストは偽者であり、その者は『マゴグの地のゴグ』である。
そのマゴグとは脱落聖徒の集団であり、ゴグはその総帥として偶像化されるに至る。
彼らの敵は『天の王国』であり、ゴグを中心として築かれた「地上の王国」を盤石なものとするためには『666』の崇拝を強要するだけでなく、さらに二つのものを除去しなければならない。一つは『神の王国』の信奉者らであり、もう一つは旧来の宗教組織である。
そこで『ゴグ』は『マゴグ』を構成する『偽預言者』の宗教的慫慂、そしてキリスト教的な覇権国家の多大なる後援を受け、遂に世界の公権力を糾合して行動を起こすのであろう。もちろん、これらの全体を背後で導くのは七つの頭を持つ赤龍、即ち悪魔であり『神の王国』への渾身の力を込めた反対行動への指嗾である。

ここまでの理解ができるなら、二度目に語られる黙示録の方の『ゴグとマゴグ』の素性にも見えて来るものがある。
これはここで語られる『マゴグの地のゴグ』の千年後に現れるもの。即ち、一般の復活に混じって再登場してくるであろう天への復活を拒まれた元聖徒らの集団が考えられ、それに従ってしまう海の砂粒のような無数の者らの背景には、生前に信仰していたそれぞれの宗教への固執がある。

千年期の後に復活する彼らについては、パウロが言うように『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』のだが、死の状態が『何の意識もない』以上、千年期後に復活して来る人々は生前の宗教を引きずっていると見做すべきに違いなく、それはエデンの誘惑のようにその人々に作用して、眼前にどれほどの麗しい世界が打ち建てれていようと、何等かの欲に誘われる危険は有り得る。

そこに千年の幽閉から古来の蛇が龍として解かれる謂れがある。エデンの誘惑をすべての人に仕掛けて、最後の試みを行わせるためである。復活する諸世紀の人々は、かつて生きたときの俗を捨てられるだろうか。(コヘレト9:5-6/ヘブライ9:27)

これらの事柄を現時点で指摘しても、ほとんどの読者の関心も引くまい。
だが、終末に入り、いよいよ究極の偶像崇拝がその輪郭を顕わしてくるならその限りではないのであろう。だが、そのような人の関心も同調するためではなく、たいていは反対するためのものとなるのだろう。

人というものは、自分の都合や欲に生き、倫理上の決定を下すのだが、終末にも「俗」なる人々は圧倒的に優勢であり、他方で終末にキリストの道を行くことになる『聖なる者ら』はこの世では不遇で過ごし、人々から「常識的正義」によって退けられるのも、かつてキリストが初臨で辿った道であるから『(十字架の)木を荷ってわたしの後に続け』とイエスは弟子らに言われたのである

終末の多く人々もまた、聖霊によって語る聖なる者らを前にしてもイエスにしたように「処刑しろ!」と叫ぶのだろうか。おそらくそうすることだろう。それが『背教』また『違背』の役割である。(テサロニケ第二2:3/ダニエル11:32)

俗なる人は、自分個人への見返りが有るならどこかの宗派を信仰してやっても良いとは思うだろうが、「誰もが神の裁きを前にした罪人だ」とは認めたくはないであろう。「信者になれば良い事がある」との主張、これがどこの「宗教」でも本質になっている。宗教信者のほとんどは自分可愛さのご利益信仰の徒であり、特に神を知ろうという気概があるでもない。

つまりは、人間とはその程度の存在に過ぎず、熱心な信仰者に常識外れで単純に人を善悪判断する自己義認者が多いのも、つまるところは利己的強欲に絆された挙句のことではないか。それが『この世』というものなのでどうにも止めようがない。それはキリスト初臨の時のパリサイ派に例証されている。
そこで、終末にはマゴグの地のゴグがその偽善の上辺の下にハモナという俗で欲に塗れた大衆を一つに集める働きを為し、それが世を覆う「常識的正義」の大渦となり神と人との闘争を呼ぶのであろう。
人の多くは「自分が第一」であり、信仰に篤く敬虔であってさえ神を下僕扱いし、その意志を尊重しない。その拝むところは自分の欲であり、神に頼み事はしてもその意図を探る気概があるわけではない。
他方で、ガリラヤの漁師らのように、謙虚に己の利得を傍らに置き、神の意志に協働する者がこの世にどれだけ居るものか? 

だが、イエスの王としてのエルサレム入城を歓呼して迎えた人々、その聖霊の奇跡に信仰を働かせた群衆もまた存在したのであれば、終末はただ聖徒の敗北で終わりはしない。
キリストがそうであったように、聖徒らの活動と死も、また多くの人々を奮い起こすことになるに違いない。即ちヨエルの蝗であり、黙示録の騎兵隊であり、共に世から退けられた油そそがれた者の死を無駄にはしない。

聖徒と信徒とは一つに結ばれ、『天にある者と地にある者とがキリストによって一つに集められ』、新たな「神の民」がそこに生み出されると聖書は告げている。
シオンの山に向かって『さあ、あなたがたの神だ!』との声を聴かせる者の足は、軽やかで『ユダの山々に在って麗しい』との賛辞に価する。






  新十四日派    ©2020 林 義平







追記:

マゴグ[הַמָּגֹ֔וג]というヘブライ語が、もしもアヴェスター語より古くからのメディア系言語の発音に由来しているのであれば、メディアの宗教種族のmagu,またはmayuを指している可能性が出て来る。古来、クセノフォンなどの著述でのギリシア語ではその種族を「マゴイ」[μγοι](pl)と確かに呼んでおり、元の発音がmとgに由来することが示唆されている。(現「創世記」の編纂が前十世紀以降とするなら尚更に)
そしてマシアッハのエシュアを除き去るようにと結果的にヘロデ大王に働きかけたのが『東方からの博士ら』であり福音書は確かに彼らを「マゴイ」[μγοι]と記している。

そうなると、イザヤでマシアッハとして指名されたクルシュ、即ちキュロス大王の生まれたところを殺害するようにメディア王アステュアゲスに王位の危機を語って嬰児の殺害を促したのも、また、後に現れたもう一人のマシアッハであるエシュアにしても、ヘロデ大王を介してその嬰児の時期に殺害に関わったのが二回ともメディア=イラン系宗教種族の専門家(魔術師「マギ」)を指していることになる。⇒「指名されたメシア」

それは単なる類似に終わらない。三度目が黙示録に示唆されている。
なぜなら、黙示録の第12章で終末の入り口に於いて、同じ策略が弄されることが示されているからであり、そうなるとゴグまたはマゴグに相当する者が聖徒の再出現の以前から活動していることになり、ゴグが脱落聖徒ばかりとは言えない可能性もあることになる。(聖徒とされる以前から悪魔的であれば)

だが、それでも諸国の公権力を糾合させるというゴグの役割はエゼキエルに明らかであるので、その論理は十分ではない。やはり幾分次元の低い奇跡は行える。
或いは、終末に聖徒の誕生時を狙う、「三度目のマゴイ」(μαγος/sg)とは聖徒に装う悪霊の顕現を持つ者であるのかも知れない。この危険は十分な注意を要するものとなろうが、終末の聖徒以前に在る今からもその脅威は実際に見えてきた。
終末のマゴイは、サマリアのシモン・マグスのように、草創期に聖なる契約に紛れ込んで来るのかも知れない。おそらくそうであろう。自分が神秘的な力を持つことに異様な関心を持つ人々は必ずのように常に存在してきたし、現に世間での名声を得てもいて、それをもてはやす愚昧な者らも世に多過ぎるほど多い。だが、あれらは悪霊の力によるのであって、彼ら自身にその力量があるのではない。

その例でゆけば、聖書やキリスト教に触れる時間が短いにも関わらず(モンタノスのように)、霊の顕現には強い関心を持つスピリチュアル的な人々の様子に注意が向く。聖徒にしては価値観が異なるのである。その人にとっては神の経綸への大志よりは、自分の霊力と栄誉に関心があるのだろう。やはり聖書によって培われる価値観、また聖徒たり得る程のキリストに続く自己犠牲の精神を懐くには、想いの熟成のための時間を要すると見てよいと思われる。それは契約を全うする聖徒には必須と言って良いのであろう。

しかし、本文の執筆人は、現状で黙示録の女の生む嬰児を龍がどのように襲おうとするのか、また、その策謀に「対型のマグ族」がどう関わるかは十分には推論できていない。だが、マゴイが聖霊降下の時期に聖徒として紛れ込むことの危険性は高いと言わないわけにもゆかない。シモン・マグスは『神の王国の鍵』の権威を持つ使徒ペテロが締め出したが、終末に使徒は居ないので、この点の防備はかなり弱いと言わざるを得ない。聖霊の不思議を吟味するとなれば、同じ立場にある聖徒以外に適任者が現れるだろうか?それは恐ろしく僭越なことになってしまう。「諸国の王が懐に聖徒らを担って運んでくる」のであれば、誰がそれらを吟味する権威を持つだろうか。天界のメシアと十二使徒以外に有り得ない。それが二度目の晩餐の趣旨であろう。(だが、敢えてそうする者が出ないとも限らない。対型の「エドムの罪」を犯す者のことであろう)

この権威について聖書は沈黙しているようであり、その不明性が終末のマグとマゴイの現れを誘っているかのようでさえある。それはキリストを裏切る者や、屠る者らについての情報を聖書が事前に詳細には語っていなかったことに類似する。即ち、それが、邪悪な者をさえその自発心によって『器』として用いるところの、全ての者を創造された神の秘儀なのであろう。(ローマ9章)

やはり言えることは、どうしても霊的な不思議に関心が向く人々が一定数存在することは確かであり、その神の経綸への捉え方は、ペテロが戒めたように『まっすぐでない』。倫理の価値観が働かないからであり、それは単なる憑依でもなく、その想いの性向を替えることはかなり難しいらしい。それはシモン・マグスの生涯についての伝聞が語るところも示していると言うべきであろう。
ある人々はしたり顔で「ゴグほどの不思議はカバラーを使わないと分からない」と言ってのけるのだが、あれは聖書の言葉からの逃避であり、実は自分では皆目判らない事を神の聖霊ではない霊の勢力に問い尋ねてはいないものか?では、それでいったい何が分かったのか?それが聖書を貫く理解に至ったのか?

加えて、エゼキエルの「第三神殿」の立地については、建物の周囲の中庭はともかくも、外周を巡る垣の長さがシオンにもモリヤにも入らないほど広い。それでエルサレムでどのように神殿を再建できるのか。
また、エゼキエル書中の部族の割当て地の面積に現実には不足が生じるのだが、この点を記述に当てはめようとすると第三神殿の所在地は実際のエルサレムの位置では無理がある。この点で幻の神殿の位置をエゼキエルは『イスラエル』とは言うのだが『極めて高い山』とは言うだけで、そこがシオンやモリヤともけっして言わないのであり、これは異様でさえある。そのうえ、神殿に関する記述の中には、神の発言として現実のエルサレムの場を忌避しているところ散見されるし、そこでのレヴィ族はカナン人のような下僕にされている。
だが、これらの意味するところは、また改めて記述しようと思う。
ともあれ、メシアの再来が目に見えると信じれば、第三神殿の誘惑も避けられない。なぜなら見える姿の偽キリストは明確に予告されているのだから。

そこで論点はこれである。即ち「キリストの再臨は可視か否か」そして「聖霊とは何か」
それが「ご利益信仰」との異なり、「666崇拝」との分かれ目になるに違いない。
もう時代は聖書の文言が蒙昧であった過去には戻らないだろう。それは剣の刃のように僅かにみえる聖書の文言の捉え方の異なりが、人の結末を左右する鮮烈な解釈の時代に間違いなく入ってくる。

(筆者はユダヤ人にせよアラブ系を含むイスラエル人にせよ人種差別の意図はまるで無い。だがこれから書くであろう内容は極めて深刻となり、強烈な反応を呼び起こしかけないものにもなろう。ユダヤ教ばかりかキリスト教までもが血統的選民優越思想に強く憑りつかれているからである。そのためにむしろこちらがそれを否定しなければならないのであり、それはイスラエル民族を卑しめる意図からのものではけっしてないのである。現状のイスラエルがもはやモーセの体制を正しく再現できないのは明白な事実ではないか。真に神を敬うなら律法的選民思想の先に目を向けるべきなのであり、それがパウロの言う『神のイスラエル』なのである。
だがパウロとユダヤ教教師らとの論争は終末に繰り返すことになろう。肉のイスラエルはパリサイ派のまま今日まで存続しており、それはキリスト教への昇華をいまだ受け入れていない。そのうえキリスト教徒を自認する人々までがそれに同調する傾向を見せていることはどうしたことか。これは知識の遊びでは到底終わらないし、そのような関心の方にはご理解頂きたくもない。






新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)

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